goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

知能はAIに任せます

2024-09-13 | わたし
わたしは偏差値教育の渦に放り込まれ、鳴門の渦でぐるぐる回るかのごとく、、、嘘です。
鳴門の渦で深海に潜んでおりました。
(ちなみに、出身地は鳴門ではありません)
頭上をぐるぐる回る船を仰ぎながら。
上はぐるぐる回って目まぐるしく忙しないが、深海、底は静かだった。
みんな苦労しているなあ、、、。
自分だって、ぐるぐる回って揉まれなければならないのに。

高校時代、ある日、先生に職員室に呼び出された。
わたしが苦手な(だいたいどれも苦手だが)地理の先生。
テストはひどい、通知表も赤点?(表現方法は、よく知らないが)
わたしは身に覚えがあるので、はいはいと、軽薄そのもの、まったく聞いてないくせにする返事をしていた。
反省の色は全くなく、太々しい生徒である。
受験科目に選んでいない教科は、わたしには全くどうでもよかった。
ああ、あの時、もっと真面目に地学を勉強していれば良かった、、、と、思ったことは一度たりともない。
物理の先生には、時代が今なら完全アウト、許されないハラスメント、兄や姉と比較された人格否定発言を直接受けた。
物理は中学の時に既に捨てていたから無感動。ではあったものの、先生、ヒドイ!

わたしの知識と理解力、思考力は小学校5.6年の時に完了していた。
そのレベルで十分、世間を生きていけた。
それより、その小学高学年のレベルをクリアしていない人が世の中には結構いて、普通に生きている。
じつは、そっちのほうに驚いたが。

ある程度の基本力さえあれば、その上に積み重ねていくことはいくらでも出来る。
後年、へんに実感した。

仕事関係の、結構年上のある人。
中学?時代に丸暗記したという憲法第なん条かの条文をスラスラ早口で暗唱してくれた。
その人はなぜかその、なん条かを丸暗記したようだが、、、どうだ!すごいだろう?という色味を感じた。
プライドなんだろう。
英語は、からきし全くダメ。
教養はほぼ皆無。知的好奇心はまるでない。
あるのは本能のみ。
新しい機能を理解して使いこなすのもダメ。
とは言え、歳がいくと皆んな、だいたいそんな感じになるが、わたしはその人が若い時から知性のカケラも感じたことがない。
図体、ガタイのでかい、脳の小さい、あまり運動神経のよくない印象を持ち続けている。
が、長所は、タフで優しくて力持ち。
(ただし、間違っている知識を自信満々に平気で言い張る)
それぞれ適材適所、力になってくれる。
小型で性能が良い、ズル賢いネズミより、ずっと人間味がある。
知性は使い方によって、色合いが違ってくる。
人間性は要だ。
知能はAIで補うこともできるし、AIに職を奪われることもある。
しかし、AIが人間性を持ち、考えることが出来るようになると恐ろしい。
もう技術的には可能で水面下では行われていると想像できなくはないが、倫理上、ストップがかかっているかも知れない。

脳の働きには色々ある。
キレるキレない、優劣以外に、直感や第六感もある。
科学と超科学があるが、境界線を見極めるのが難しい。

世の中には、驚くほど知性と教養がない人がいる。
が、それがどうした?
わたしは決して非難しているわけではない。
人間性が大事だと思う。
全身全霊、全力で自分の持っている全能力を駆使して私利私欲に走り、大成功しても、人の不幸の上に築いた幸せなら?
人に対する思い遣りなどミジンもないのならどうか?

思考力があったとしても、変な方向に考えを煮詰めてマイナスになって、自分も人も不幸になっていくのなら、いっそ無い方がマシ。
自分にも人にも痛みを感じないなら、それはそれである意味、幸せかも知れない。
だが、想像力は必要不可欠だと思う。



自分で考えろ

2024-09-12 | わたし
ブロ友のブログ記事の中に、こんなのがあった。

「頭が悪い。
脳力の出力が小さい、軽自動車のような人」

この表現にシビレました。
なんと的確な説明。
「『わたし、バカです』と開き直り自慢する人がキライ」
これには、ドキリ。
わたしは、嫌われる。
正直に率直に素直に自分のことを自分が感じるままに言っているのに、嫌われる、、、
仕方ない。 
世の中には色んな人がいて、どんなスゴイ偉人も、欠点はあるし、嫌われる箇所はある。
欠点が知られていないだけのこともある。
なので、実のところはあまり気にしていない。
明るいバカです、わたし。へへ。へ。

ある東大卒、頭脳優秀の銀行マンがいたが、仕事はからきしダメだった。
入社わずかで、大手をどかっと頭脳優秀社員たちが退職する。
(それを見込んで2割増し?多めに採用しているところもあるとか)
企業風土とかもあるし。人間関係とかも。
頭脳の活かし方を変えると、また檜舞台。
塾の先生とかは、あまり天才型は向いてない。学業に苦労した人でないと。
ただし、お勉強分野の頭脳に限る。

※脱線、蛇足、関係ないが、「・・・など」の代わりに「・・・とか」という表現が大嫌いな人が(ある時期)身近にいて、いつも、他人さんが使う「・・・とか」表現に接する度に「嫌いだ嫌いだ」とわたしに直接言っていて、鬱陶しく煩わしかった。

話は戻る。
わたしの義姉はわたしと同じ年で、超優秀、頭脳明晰、学業優秀だった。
眉目秀麗、美人さんでもあった。
そのピカピカ頭脳に、息子の嫁がそんな人、、、父がゾッコン。
わたしも、ゾッコンだった。
同じ年、同じ地域、時代背景も教育背景も同じ。
まるで話にならないわたしだったが、全く卑屈にはならなかった。
なぜか?
相手にならない。 
引っかかりもしないからだ。
ドングリの背比べなら、熾烈な争いも生じるだろうけれど。
まるで違う分野、性質のものは、競争しようがない。
なので、ほほう〜、スゴイなあ、、、と、目を丸くして賞賛するのみ。
飛び抜け突き抜けている遺伝的なものは、競争できない。
オリンピック選手と100メートル走を競うようなことはしない。
やはりDNAの影響は絶大だと感じる。

で、バカはバカなりに、明るく楽しく生きるわけではあるが、、、
しかしながら、朗らかなバカを信条に生きていると、バカを見ることがある。
したたかな人に、自分がバカであることに気付かされず、やり込められる。操られる。
自分は、平等に扱われていないことにも気付かない。
一生、気付かないままが、平和で幸せだ。
中途半端なバカは、煮ても焼いても食えない。
いっそバカなら、まるっきり真っ白けの混じり気のないバカでありたい。
良い目をしている人に対して、何も感じないような、鈍感さを培いたい。
仏門に入るか、修行をするか。

でも宗教は、いろんな宗派があるにせよ、「人は皆、平等」という教えに貫かれているはず。
今は不平等でも、熱心に一心不乱にお経を唱えれば、あの世で幸せになりますよ、、、
そう囁かれても、目先の不平等さに囚われ、お経を唱える気になれない。
勝手にレースから落伍して、したたかな相手が喜ぶだけではないか、と。

死ぬ間際に病床で入信する人もいる。
ずーっと前から、幸せな時から信心している人が、それにもかかわらず不幸な状況に陥っているのを側から見て、
客観的にはなんのメリットもなく、救われていないと感じる人もいる。
生死観、宗教観、人それぞれ。
不幸な目に遭って、それがキッカケで入信することが多い。
現況、幸せな人は、さらに満足度を上げるために信仰するのだろうか。
迷いや煩悩、欲を断ち切ったり、祈願達成のために滝に打たれたり、お百度を踏んだりすることがある。
120%頑張って、後は祈るのみ、なんていうのもある。
自分のこころと向き合い、奮い立たせる。
これは、上昇に役立つ。

不幸な人も幸福な人も、自分のこころに打ち克つために、なにかをしないと自分を鎮めることが出来ないのか。
居ても立っても居られない。

ちなみに、わたし。
悶々とする、今日この頃。
昨日、元々アップする気のない未公開記事に、わたしの強く深い悩み、嘆きに対する問いにぜひお答えください、と、文末に、特定相手名を追加した。
名指ししたのは故人ばかり。
わたしの父と祖父母。
だが、誰一人と、アドバイスはなかった。
夢に少しでも出て、お告げでもあるかと思いきや、甘かった。
怖い顔や悲しい顔、あるいは無表情の顔が無言で現れるだけでも良かったのに。
自分で考えろ、ということだろう。
突き放された。

今週はボロボロ

2024-09-11 | 日々のこと
またまた睡眠障害に陥りそうだ。
嫌なマイナスの思考、感情が渦巻いて、ほとほと嫌になる。
どうにかならないものか。

またまた未公開の記事を書いた。
これまた5000文字ぐらい。 
文中の登場人物(故人: 28年前に他界)に問いかけ、答えを求めている。 
気が狂ったと思われるかも知れない。
自分でもどうすることもできない、暗黒の気持ち、いくら書いても書いても出口はない。
ただ、涙がポロポロ溢れる。
小説やドラマのネタになりそうだ。
が、あまりにも平凡で、世の中によくある、氾濫している話なので、読者や視聴者には全く面白くないだろう。

つい先週まで読んでいた小説(桐野夏生作品)があるのだが、ピタリと読むのをやめている。
事件は小説の中だけで十分、実際には何も発生せず、未経験であることが、幸せである。

さて。
どっと疲れ、ひと様のブログから、チョロチョロ元気を頂いている。
チョロチョロではなく、がんがん、たっぷり、元気を頂いている。
森の中にどんどん入って行く、自然と合流する、逞しい皆さん。
眩しい。

ブログはライトに

2024-09-10 | ブログ
「弱い者が吠えても弱い」というタイトルで、5000文字弱、本日、一日がかりで、魂を込めてブログ記事を書いた。
が、非公開にします。
気持ちを込め過ぎたものは、自分自身、重すぎて、わたしのお遊び蝶ブログの範疇を越える。
自分を救わない。

やはり、わたしは、いい加減な内容で、毎日、あまり気合いを入れず(文字数ばかり多い)へらへらとブログを綴っているのが良さげだ。
ヘビーなものは、自分自身がその重さに持ち堪えられない。
やはり、ブログは読みに行くのが責任もなく、お気楽で良い。
ぼーっと何も考えなくても、何もしなくても、わたしのスマホまで、楽しさを運んでくれる。
こんな手軽で便利な宝物はない。
わたしのお気に入りブロガーさん、どうぞ、頑張って、毎日、記事アップしてください。

とは言え、ひとつ、気になることがある。
いつも読みに行くブログのコメント返信を読んで。
一人目の人にも、二人目の人にも、部分的に全く同じ文章がコピペされていた。
そう短くないコピペ返信コメントだったので、少し驚いた。
こういうスタンスのブロガーさんではないと思っていた。
(けれど、本文から推測すると、コピペはあり得るが)
変化の一つか、あるいは、単に返信コメントはそういうスタンスなのか?
長くブログを愛読していると、小さな変化にも、おや?あれ?と気づくことがある。
たんに、わたしが毎回、独自に書き下ろし、コピペしない主義なだけであり、人にはそれぞれ、おのおの方針があり、どれも正しい。







怒りと絶望

2024-09-09 | 日々のこと
昨夜、神経が昂って眠れなかった。
怒りと絶望で。
99%は怒り。残りの1%は自分の不甲斐なさ、力の無さで。

昨夜、気持ちを鎮めるために、自分の胸中、沸々とした思いを一気に綴った。
当然、没にした。
書いた時から公開するつもりはなかった。
わたしの文章は優しすぎる。
攻撃性や暴力の匂いが皆無。
冷静すぎる。
今朝、読み直してみたが、これでは、何の感情も伝わって来ない、ふわふわしたものだった。

はやくもう、あちらの世界に行きたくなった。
これを書いた途端に涙が溢れる。

原因はある。
だが、書けない。
だからよけいに悶々とし、自分の内側に怒りが向く。
腹立たしいのは、対処できない自分。
処理能力のない自分。
弱い自分。
弱肉強食の世界なのだから、弱きは去れ、である。
淘汰され、強い者が残る。
それをヒシヒシ感じる。
淘汰される側の人間。
どうしようもない。
抵抗する術もない。

もっと弱り切るのを待つのみ。
本当に自分は、バカで弱い。 
敗北宣言。
開き直る元気もない。

これが進行すると、こころの病気になると思う。
病気に向かわせたのは、自分の弱さ。
どうしようもない。
心臓は動き、息はしているものの、これからどうなるのだろう。
睡眠不足でもある。
こんな年齢になって、こんな局面を迎えるとは夢にも思わなかった。
半分、アタマが麻痺している。
アタマの芯が、ぼーっとしている。
それである意味、救われるのだろう。

自分の声を聴く

2024-09-08 | 人生
毎日訪れるブログに、人気女性ブロガー「ちきりんさん」のブログ記事が紹介されていた。
こうなった(成功した、あるいは失敗した)理由は、最初から意図していたわけではなく、結果的にそうなった、だが、考察してみると後付け理由が多い、と。
なるほど。そうかも知れない。
数々の偶然が重なっただけかも知れない。

運、不運に見舞われた結果、成功した、失敗した可能性はある。
ほぼほぼ筋書き通りに事が進んでいたのに、この一つで、どんでん返し(好転、暗転)になった、、、というものもある。
なかなか思い通りには行かないのが人生。
結果を見て推測するしかない。

わたしも、あの時のあのピンチ、よくぞクリア出来たなあと、冷や汗、脂汗が出る。
一歩間違えば大惨事となっていた。
普通に平々凡々に生きていても、そんなことは日常生活を送る中にも潜み、多々あることだろう。
たまたま、そうならなかった。

わたしの場合は、逆はほぼない。
あの幸運を掴み損ねた残念、無念さはあまりない。
大して多くを望まなかった。
身分不相応な願いはなかった。
第一希望を掴み損ねたとしても、第二希望で手を打つ。手堅い。
足るを知る、等身大スタンス。
どんどん転がり落ちることはない。
とは言え、不屈の精神で這い上がることもない。
ハングリー精神の不足。現代っ子のハシリ。
向上するとしても、少ししかしない。

だが、一歩間違えていたら、、、という不慮パターンは、誰にでもあり得るだろう。
道を歩いていても、鉄骨が落ちて来る確率や、乗っていた飛行機が落ちる確率と、宝くじに当たる確率はどちらが高い?
アンラッキー事故は誰にでも見舞われる可能性はゼロではない。
その確率を計算するなら、生まれてくる前によくぞ母親の体内で受精卵になり、無事、成長したなあ、、、ということになる。
母親の月々の月経となって排出されていたかも知れない。
キリがない。

たまたま運が良くて、、、といっても、宝くじ以外は、そうラッキーチャンスは頭上から降ってこない。
目標に向かっている途中に女神が微笑んだならわかるが。
不幸のどん底で、藁をもすがる気持ちならわかるが、何も考えず、何もしない段階で、ウマイ話は降って湧いてこない。
多少なりとも動いてこそ、それに関連するものが引っかかってくる。
棚ぼた式は、現実味が薄い。

ちきりんさんほどの多くの人が納得する実績や考察力があるならいざ知らず、わたしごとき吹けば飛ぶような一個人の書くことなど、風にひらひら舞う葉っぱの如く。
なんの説得力もなく、あるのは、自分に対する言い聞かせのみ。
それを自己満足というのだろう。
世界中の誰を説得、納得させるよりも、自分を納得させるのが先。重要だ。

失敗も成功も、今、幸せに感じているかどうか、かも知れない。
夢があるかどうか。
時代の流れもある。
あの時代は良かった、、、なんて言い出したら、今の幸せが指の間からするりと溢れ出そうだ。
若い頃は、良かった、、、当たり前。
老いた今と比較する意味があるのか。

だが、古き良き時代にノスタルジックな想いを馳せるのも悪くない。
自分の幸せは自分で作る。

あさイチで元気モリモリ

2024-09-07 | 日々のこと
昨日の「あさイチ」。
な、なんと、「虎に翼」の後に、トラが出て来た。
寅子役、伊藤沙莉さんの出演に、びっくり。
彼女の頑張り、演技力は卓越したものがあるが、やはり、役を離れても、どこかにその片鱗はある。
集中力が半端ないため、時折、魂が宇宙に行ってしまうようだ。
強制オフでもしない限り、過熱ショートしてしまう。
能力の優劣、スケール、分野こそ違えど、わたしもそうだ、、、と、恥ずかしながら思った。
難しいことを詰めて考えると、眠くなる。
(難しくないことも理解力悪く、理解しないままとりあえずスタート)
主婦なので(一人でも)、お腹が空くと食事の支度に台所に立つ。
スイッチ切り替えになる。

母子家庭で頑張って子供たちを育てた、沙莉さんのお母さんに、沙莉さんが大人になってから聞いた話し。
「おかあさん、そんなに忙しい、キツイ毎日をどうやって乗り越えたの?」
「そんなこと考えているヒマなんかなかったわよ」
なるほど。それはある。
人間は、暇になると、しょうもないことを考えたりする。
余裕なくガムシャラというのは、心身ともに張り詰めていて出力がMAXになる。
後から疲れが出たり、突然、壊れたりすることもあるが。
走り続けていたら、振り返る暇もない。
ある意味、幸せだ。
わたしの母なんかは、全力でやりたいことをして、今は赤ちゃんになってニコニコ。
振り替えるにも、笑顔しかない。

その点、わたしは、全力でサボる。
全力で、何もしない。
なんでこんなに、何もしないで平気でいられるのか、神様に聞きたいところだ。
が、まあ本人が満足ならそれでよい。

一生のうち、動いたのは一瞬だ。
自分で考え、自分で決めた。
自分の生きる意義を自分なりに追求した。
それは、若い頃であって、今ではない。
今は余生。

令和の時代から見ると、なんと価値観が移り変わったことだろうと思う。
が、自分が生きていた時代、昭和は昭和の価値観だった。
自分を最大限、活かす道を選択した。
それは、自分の能力(ポテンシャルも含め)を自分でジャッジした。
だから、それで良いのだ。
結果的に、無駄をカットした最短コース、省エネになっている。
判断は100点満点とは言えなくても、及第点はクリア。
だから時間が余る。
「余る」は「余裕」「ゆとり」とも捉えられる。
とは言え、余り過ぎは病気のもと。

もし、子供が生まれていなければ、また道は変わっていただろう。
その時点ではまだ若いし、道を切り替える選択もある。
わたしの人生の最大重要マストアイテムが子供だ、とは書きたくない。
誤解を招く。
子供を溺愛し、子供べったり、自立しない一卵性親子のようなイメージを抱かれそうだが、全く違う。
かといってネグレクトでもない。
個々の違いはあっても、普通の常識ラインだ。
子供に対して持つことが出来なかった愛情や時間を今は、孫に向けている。
が、これまたベタベタではない。
孫が好き勝手言ったりして、ある程度の限界が来ると、爆発する。
「いい加減にして!!
バアチャンは知らん!勝手にしろ!」と、ぶちキレる。
いずれ、孫も成長する。
老いたバアチャンのすることなど、役にも立たず、ありがたくも嬉しくもないだろう。
子供でまだ一人ではあまり自由に何も出来ない、今が大事。
今しかない。
これは、あくまでも自己満足のため。
そのうち、疎まれるだろうけれど、こちらも自分のことで精一杯で余力がなくて、孫どころではなくなるに違いない。

もし、子供や孫がいないコース、あるいは、近くに子供や孫がいないコースを歩んでいたとしても、、、
今しか出来ないことを自問して、それなりに力を入れているだろう。
家族を介護したり、されたりするまでの貴重な時間だ。

ちなみに。
「あさイチ」で、おすすめコミックのコーナーがあった。
わたしはコミックはあまり好きではないので、気乗りせず見ていたが、、、
なんと、3つ紹介されていた3つともが、ドンピシャ、ストライク。
その日の紹介コミックが、たまたまか?
65歳以上の女性向けに限定、絞り込まれているかのごとく。
すごく読みたくなった。
マリーアントワネット時代の時代考証も正確に行われているとかで、それもツボ。
女性が自立して生きていけなかった時代、男性の保護にも頼らず自分の力で生きてきた女性プロ洋服職人のストーリーには、かなり惹かれる。
とは言え、読者層として、ダサい、もさっとした、なんとなく生きている女性(わたし)のハートを居抜き、意識しているのではなかろうか、と、まだ読んでもいないのに、勝手に想像する。
今は、まだ、何もすることがない空白の、究極の時間潰し用の本が2種類ある。
そういう、マイナスを埋める消極的&受動的な渋々路線ではなく、、、
積極的に楽しみをゲットしに行く、元気をモリモリ自分から取りに行く、プラス要素の詰まったコミックに違いない。期待!
たまには、TVも琴線に触れるものを紹介してくれると喜んだ。
たんに、その日のわたしの気分によるのかも知れないが。
だが、楽しみを確保できるものを予約出来たような気になって、なんだか明るい。
大好きなスイーツを予約したようなものだろうか。
(が、わたしは、グルメ系は、人からいただくのみの受け身)


余白の美しさ

2024-09-06 | 無題
人からどう見られたいか、は、自分がどんな人が好きか、にもよる。
どんな人になりたいか、である。
理想と現実のギャップは、常に現実を冷静な目で直視しなければ見えない。  

現実と向かい合えない弱さが自分にあるとすると、現実を変える、という方法がある。
だが、それは現実的に無理だとすると、現実を歪めて見る手もある。
客観重視から主観重視へ移る。
それも不十分なら価値観を変える。
これが一番、強力である。
自己肯定して他を否定する。
あるいは、全部否定。
まれに、全部肯定。

へん、なんだい、あんなの。
自分の力でもない親の七光じゃないか。
見掛け倒しに決まってる。
たまたま運が良かっただけ。
いずれダメになるさ。
などなど、、、。
自分側に引き摺り込もうとする。
自分諸共、身投げ。
逆のほうがいい。
全員一緒に幸せに。
だが、一歩間違えるとカルト教団みたいになる。
それもどうかと。

今まで並列(平等)だったのが、縦(不平等)になるのが耐えられない。
最初から不平等も耐えられない。
能力がある人も無い人も平等、、、
能力がある人が能力がない人をサポートする。
理想的な助け合いの社会。
人を助けるために頑張るのか。
先に自分が一人前になるのが先。
皆んな、それぞれに頑張りましょう。
と、政治家も大変だ。

いくら素晴らしい人でも必ず歳を取る。
100歳まで健康に生きられる健康長寿薬を開発するために、世界中の富豪が巨大な資金を投じている。
世界、人類のためと言うより、自分の老後のためかなあと思ってしまうが。
まあ悪いことではないにせよ、人間の欲望には限りがない。
キリの良いところで、ブレイクタイムにする、あるいは未知の未来を残したまま終了するのも一つの美しい終わり方かも知れない。
果ての果てまで追求しすぎても、良いとは限らない。
余韻、余白は、「無い」だけに美しいかも。


ファン・サービス

2024-09-05 | 無題
好きなことを書く楽しさは、何にも代えられない。
おしゃべりで、内気なわたし。
プレ認知症グレーゾーンを行ったり来たり、うろうろしているわたしには、ブログはぴったりの活動だ。

ちなみに、四苦八苦しながらお手紙を出した相手からは、絶対に返事は来ない。
(一昨日、投函したばかりだし)
それを確信しているのに、手紙の末尾に記した、わたしの連絡先であるEメールアドレス、受信箱を覗いている。
1日1回にすべき?
いや、3日に1回覗いて、あとは1週間に1回、1ヶ月に1回チェックしてみよう。
ファンレターに返事を出す人はまずいないので、返事など来るわけもないのに、岸壁の母になり、舞鶴港から海を見る気分。
2通目を出す気持ちはない。
が、ひょっとすると、ファンレターは半年後にまた出すかも知れない。
今は未知。予想できない。

ブログならお互いの繋がりがハッキリわかるのだが。
特にgoo。足跡機能あり。
前にはよくgooブログ・ピーアール記事を出していたが、あまりにも反響が少ないため、やめた。
自虐嗜好があるわたしだが、自虐ならまだしも、たんに自信がなくなり、意気消沈するだけなので、広く知ってもらおうという気はなくなった。
メジャー路線とは程遠いことは、他ならぬ誰よりも自分が知っている。

その代わりに、好きなブログを応援する側にシフト。
楽しみに、好きなブログを読んでいる。 
だが、好きなブログの数は至って少ない。
あれもこれもにすると、気持ちが分散される。
熱心に訪れていると、ファン・サービスをしてくれるブロガーさんもいる。
直接、メッセージはないものの、ファンを囲い込む、お返しサービスかと受け止めている。

しかし、、、旅はいいなあ、、、。
こころの旅。
実際にあちこちを紹介してくださるブロガーさん、毎日楽しみにしてます。

とかなんとか。
実はわたしも発信側でもある。
インプットとアウトプットを自分の好みの配分で行う。
 

ところで。
関西のTVニュースで終活をまだ目前に迫っていない世代(50代、60代)に勧めるお寺が紹介されていた。
住職さんは、京都の大学教授でもあり、古くから代々継承されているお寺の跡取りでもある人。
一度、人生をリセットすると、また違うものが見えてくるそうな。
今は断捨離ばかりが叫ばれるが、断捨離は宗教的な考え方がベースになっているにもかかわらず、モノを捨てたり、モノを持たないことを推奨したり、物理的な「モノ」に偏っているように感じる。

また、別のメディアで、70代、80代の、自立したお一人様が自立して暮らせる大規模コミュニティを作ったことが紹介されていた。
東京から車で1時間?
廃校になった小学校などを中心に、文化的コミュニティを形成する。
年寄りを閉じ込めるのではなく、他の世代も混えて核となるコミュニティから自由に行き来する。

ではあるが、やはり東京を中心に構想が練られるのだと感じると、少し気が抜ける。
(そこそこの?)企業に勤めた人が、退職金と年金で、一人で最期まで自立して暮らせるコミュニティだそうだ。
だが、そのレベルの人は実際にはどれだけいる??
社会の上層、上澄エッセンスのような話かと感じてしまう。
ではあるものの、絵空事ではなく、実際に今、動いていることであるには違いない。

自分の老後イメージ。
健康を害してからの、介護ヘルパーさんの助けを借りて自宅で暮らす日々。
だが、訪問介護施設がどんどん閉鎖されているらしい。
税金からの出される訪問介護費は下げられ、その分、利用者の負担額は増え、同じ介護費対策税金の割り振り配分から訪問介護費が削られてしまう皺寄せを受ける。
また調整、変動するとは思うが。
最後は介護施設のお世話になるだろう。最期は??

わたしは、お一人様ではない分、計画が甘い。
お一人様の代表でもありそうな上野千鶴子さんが、実際はお一人様ではなく、それ故、詰めの甘さを先輩女性学者に指摘されていた。
とはいうものの、上野千鶴子さんとわたしは、8歳違う。
あちらが歳上。
同世代かというと、微妙。

究極の老いの先のことを考えて能動的に選択、行動している(お一人様を含む)人々の動きが、今、かたちになって見え始めている。
時代の先端を行っていない人はもとより、遅れている人も、後から遅遅、着いて行くことになるのだろうか。






カッコイイひとは、苦手だ

2024-09-04 | 日々のこと
次女Rが孫F(3歳女児)を連れて、夏旅行のお土産を持って来てくれた。
我が家に2時間半ぐらいの滞在。
玄関のドアを開け、わたしは、しゃがみ「こんにちわ〜」と孫Fと挨拶。 
Fは、笑顔ではない複雑な顔をしていた。
色々遊んだりしていたが、やがて、電車のオモチャ、広げられたプラレールの線路に電車を走らせた。
この線路を組み立てた本人、一番上孫(小6男児)に遊んでもらおうと長女宅から早めにウチに来てもらった。
4番目孫(4歳女児)も応援に駆けつけてくれ、遊んでくれた。
だが、Fは、我が家に滞在中、2回「おウチに帰りたい」と言った。
皆んなで盛り上げ協力しているのに。
Fは、次女Rの一人っ子なので、長女の4人きょうだいとは、育成環境が違う。
ではあるが、大人げないバアチャン(わたし)は、少し気を悪くした。
次女Rに、「Fがお家に帰りたいのは、なぜ?」と聞いてみると、
「気分で言ってるだけで意味はない」との答え。
でも援軍ちびっこを投入して、2回も言われると、わたしは気になった。
というか、気分を害した。

子供の言うことをまともに受けてはいけない。
つい最近、喋りははじめたばかりの幼児、言葉の意味を深く理解して言っているわけではないとは思うものの、、、。
訪問先の祖母の気持ちを推しはかる、などという忖度はあり得ないだろうし。
だがしかし、少し傷つくわたしがいた。

いつも一緒に頻繁に過ごす長女一家、その孫たちとは違い、1〜2ヶ月に1度、短時間、接するだけの関係だと、理解や愛着の面から言っても変わってくるのだろうか。
しかも、次女の夫に対して、わたしは少し苦手感がある。
長女一家は長女が親分で家庭を牛耳っているが、次女一家は夫自身も一人っ子でもあり、自由気ままで神経質な面もあり(わたしが勝手にそう感じているだけだろうけれど)、十分に親近感を抱けていない。
まだ家族になってから日が浅く、遠慮もあり、慣れ親しんでいないからとも思われる。
苦手理由の最大ポイントは、、、笑われるかも知れないが、、、このお婿さん、わたしにはカッコよすぎてどうも親しみが湧かない。
わたしは、昔からカッコイイひとは苦手なのだ。

スマホの家族写真共有アプリで、我々は家族写真をアップしているが、中でも、次女の夫はいつもカッコよく写っている。
次女はメンクイなわけでもなんでもないが、たまたま次女の夫はルックスが良かった。
当人たちに言わせると、おそらく、カッコ良くもなんともない、と否定するだろう。
が、わたしにはカッコよく見えるのだから仕方ない。
もちろん、長女の夫もスラリと長身で素敵な人なのであるが、何しろ4人も小さな子供を身を粉にして育てているのを身近に見ていると、わたしから、カッコイイという意識はどこかに飛んでしまった。
その点、次女家は、子供はたった一人なので余裕が違う。
2人の大人に1人の子供。
(子供1人につき、2人の大人)
長女家は、2人の大人に4人の子供。
(子供1人につき、0.5人の大人)
蛇足中の蛇足だが、ちなみにわたしは、子育て中は、1人の大人に3人の子供。
(子供1人につき、3分の1の大人)

子供に振り回されず、好みのライフスタイルを維持する「次女の夫」は、生活密着型、土着タイプのわたしには眩しい。
(補足説明を加えると、次女は長女とは正反対の、相手に合わせる性格)

例えば、わたしが糠味噌の漬け方を教えるには長女の夫。(とか言って、糠味噌の漬け方、わたしは知らないが)
次女の夫は、山手のおボッチャマ風で、敷居も高く近寄りがたい。(食の専門家でもあるし)
あくまでも心象風景であるが。
実際には、別に、親のわたしが卑屈になる要素は何もない。
子供たちは、自分と同じような価値観、キャリアを持つ人と結婚していると感じる。
類は友を呼ぶ。
のではあるものの、、、。


頭脳明晰のひとは、好きだ。
自分の欠けている面を補填してくれそうで頼もしい。
が、カッコイイひとが苦手なのは何故?
これまた自分の無いものを補填してくれるなら結構なことではないか。
カッコイイひとは、どこかに行ってしまいそうなので不安だからだろうか。
他の女性にも人気があるので、気が気でないから、不安定だからか。
カッコ悪くても他の女性のところに行ってしまう人もいる。
それは?
そんな人とは元々縁がない。
というか、興味の対象外だ。
地に足着かず、ふらふらする人は眼中にない。

普段着と、他所行き。
作業着と、礼服。
実用品と、装飾品。
家の中用と、外用。
服にも用途によって着用分けするように、人にも観賞用と実践用を使い分ければよいかも知れないが、
パートナーは同時に複数ではなく一人が良いとわたしは考える。
2マタではなく、1マタ。
友人やビジネスがらみなら、目的別、シーン別なんていう分け方もあるのだろうけれど。

ルックスと人柄、人間性は関係ないとは思うが、人格を形成するプロセスで、ある程度、影響はあると感じる。
が、「ルッキズム」も昨今では注目されている。
多様化容認の一環、流れか。

長い、、、、、話がなかなか着地しない、、、。