『 花山帝即位 ・望月の宴 ( 20 ) 』
今上の帝は、御年なども大人になっておられて、ご気性もたいそう色好みでおわしまして、早速に、しかるべき方々の御娘たちをご所望の旨を仰せになられる。(花山 ( カザン ) 天皇は、このとき十七歳。)
太政大臣(オオキオトド・藤原頼忠)は、この御代でも関白を続けられていて、中姫君(諟子)が十月に入内なさった。
まず最初に、我が娘を入内なさったのは、ご自分が第一の人であられるので、何としても思いのままに姫君を入内させようとなさるのは、当然のことと見受けられた。
御即位、大嘗会、御禊 ( ダイジョウエ、ゴケイ・・大嘗会は天皇が即位後初めて行われる新嘗祭。御禊は大嘗会の直前に天皇が鴨川に行幸して行う祓。) など、諸行事が過ぎて少し落ち着いた気分になる頃、太政大臣は姫君を入内おさせになる。中姫君のことである。
その女御の御有様は、お仕えしている女房であっても、七、八年以上仕えている者以外にはお顔をお見せになることがないくらいなので、どういうお方であるのかご器量などは申し上げにくい。ただ、芳しいお方でないはずはあるまい。このように高貴なお血筋であり、格別に帝のご寵愛が厚いというふうには見えないものの、父の大臣は、いずれ后にと期待しているに違いない。
そうこうしているうちに、帝は、式部卿宮(為平親王)の姫君が大変美しいお方だということをお聞きになって、毎日のようにお手紙を寄せられるので、式部卿宮は「これほど求められている姫を、家に引き込めているわけには行くまい」と思われて、支度を調えて入内させなさいました。
この式部卿宮と申されるのは、故村上天皇の第四の宮で、姫君(婉子女王)の御母は源高明(醍醐天皇の第十皇子)の御娘であられます。ご両親の御仲は睦まじく、共に高貴なお血筋であり、姫君もとても愛らしいお方でございますが、あらん限りの儀式を整えて入内されましたのは誠にすばらしく、ただ今は、大変なご寵愛とのことでございますから、入内の甲斐があったというものでございましょう。
因みに、この姫君の異母妹の明子姫は、我が殿道長さまと結ばれるお方でございます。
お二人が入内なさったので、目下のところはこの程度でよろしいのではないかと思われるのですが、帝はまだ御満足ではないようで、「朝光の大将の姫君(姫子)を入内させよ」と性急に仰せでございました。
東宮はまだ幼いので、入内させるとすれば今上天皇の御許に入内させるのが最も善いだろうし、この姫君を誰もおろそかにすることなどあるまいとお考えになり、入内させられました。
この大将殿は、堀河殿(兼家の兄兼通)のご三男ですが、ご兄弟の中では格別人望があり、今も世間で評価の高いお方でございます。姫君の母上は、醍醐天皇の皇子の重明親王と、九条殿(藤原師輔・兼家らの父)の御娘の間に生まれたお方です。
そうしたお血筋である上に、たいそう美しいお方との評判の高いお方なので、遅れての入内であっても粗略に扱われることはないと思われて、大将は決意なさったのでございます。そして、十二月に入内なさいました。
故堀河殿の遺産はすべてこの大将が相続なさっていて、故中宮(媓子・円融天皇中宮。朝光の同母姉。)の御道具類も委譲されています。そうしたこともあって、朝光の大将殿はとても裕福で、姫君のお支度もたいそう贅を尽くしたものでございました。
この姫君の母宮から、今は大将殿のお心は離れていて、枇杷の大納言延光(醍醐天皇の皇子の代明親王の子。)の北の方は、故権中納言敦忠(左大臣時平の三男。)の御娘であるが、枇杷の大納言が亡くなられた後はお通いになっていて、この母宮をまるで他人のように接しておられるが、お二人の間には、男君達(公達)二人にこの姫君がいらっしゃるので、何事につけ大切に扱っておられたので、この入内の件でもご一緒にお世話すれば良いものを、別居してしまわれたのである。
この枇杷の大納言の北の方は、たいそう才知に優れているお方である。一方の母宮は、幼さが残っているお方なので、どうなるものかと世間の人は取り沙汰している。
小一条の大将(藤原済時)の北の方も、この枇杷の大納言の御娘でいらっしゃるので、大将殿はまことに年上の御継女(オンママムスメ)を持ったものと、世間の人は陰で噂しているが、大将は人望の高いお方なので、表だって非難するようなことは出来ないようだ。
ただ、この北の方は、まるで大将の母上ぐらいに見える、と噂されているのである。
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