キャットスマイル
⑩ チビ頑張る
次の日も、チビは帰って来なかった。
ボクは、朝から落ち着かず、部屋の中をうろうろしたり、ガラス戸に顔を押し付けて、テラスにチビがいないか何度も何度も見に行った。入院しているのだから、テラスにいるはずがないことは分かっているつもりだったが、気がつくと、ガラス戸に顔を押し付けているのです。
*
トラは、いつもと変わらぬ威厳で、堂々と寝そべっている風に見えたが、いつもなら少々の物音などではピクリともしないのに、今日は朝から、何か音が聞こえたりすると、顔を持ち上げ、耳をぴくぴく動かしている。
トラもやっぱりチビのことが心配なのだ。いくら威厳があっても、心配なものは心配なんですよ、きっと。
朝の仕事が一段落したらしいお母さんが、
「チビの様子を見てくるから、しっかりお留守番していてね」
といって出掛けて行った。
ボクは何だか心細くなり、お母さんの足にまとわりつくと、お母さんはボクを抱き上げて、
「大丈夫よ。チビは頑張り屋さんだから、あのくらいの怪我には負けないわよ。様子を見てくるから、おとなしく待っていてね」
と、ボクをトラの横に降ろした。
トラは、分かったとばかりにボクの頭を舐めてくれたが、その視線はやはりお母さんの方を見ていた。
「トラ君も、あまり心配しないで。チビは、きっと大丈夫だから」
と、お母さんはトラの頭を撫でてから、部屋を出て行った。
お母さんは、ボクやトラを心配させないために、「大丈夫よ」と何度も言ってくれていたが、きっとあれは、お母さんは自分自身に言って聞かせているように思えて、お母さんが出て行くと、何だかとても心細くなってしまったのです。
トラはお母さんの言いつけを守ろうとしているかのように、やたらボクの体を舐め回り、優しい表情を見せてくれる。
いつもは、チビのようにボクの食べ物を狙ったり、ボクの寝床に押し入ってきたりしない代わりに、ボクにはあまり関心のないような顔をしていることが多いのに、今日はやたらに優しい。
そのことが余計にボクを不安にさせるのだ。
それしても、ボクにとって、トラやチビはいったい何なんだろう。
どういう理由からか分からないけれど、生まれた所を離れることになってしまい、今では母親の顔さえ思い出すことが出来ない。
いたずら坊主たちに追い回されて、怪我をしてこの家に飛び込んできたことからトラやチビと一緒に暮らすことになってしまった。別にボクが望んだわけではないが、トラやチビの方がもっと望んでいなかったことのはずだ。
それに、あの時のボクは医者に連れて行ってもらったとはいえ、傷ついていたし、泥だらけだったし、第一自分が思っていたよりはるかに小さかった。お母さんやお姉さんは、やたらボクを可愛がってくれたので、トラやチビは面白くなかったはずだ。
しかし、トラもチビも、ボクをいじめることなど一度もなかった。そりゃあ、チビは、しょっちゅうボクの寝床を狙っているけれど、いじめているわけでないことはよく分かっている。
今では、三匹が一緒にいることが当然のようになってしまっている。今まであまり考えたことなどなかったが、こうしてチビが大怪我をして入院してしまうと、三匹が揃っていないことが大変なことだということがひしひしと感じられる。
お母さんはなかなか帰って来なかった。
病院だけではなく、お買い物などにも行っているのだと思うけれど、それにしても帰ってくるのが遅すぎるような気がする。何だか悪いことが起こっているみたいな気がしてならない。
トラも同じようなことを考えているのか、何度かガラス戸越しにテラスやその先の庭の方を見渡し、戻ってきてはボクを舐めてくれる。そしてしばらくすると、またガラス戸に近づいて行く。
ようやくお母さんが帰ってきた。
お母さんはまとわりつくボクたちの横に座り、交互に頭を撫でてくれた。
「安心して、チビは大丈夫よ。ただね、頭を強く打っていて、食事を食べないみたいなの。体の傷は大丈夫だし、口の中も切っているけど、すぐ良くなるらしいわ。あとは、頭を打った後遺症が治まることと、片目がどうなるか少し心配なの」
と、お母さんはボクとトラに、一言一言かみしめるように、丁寧に話してくれた。
「夕方もう一度様子を見に行くつもりなので、それまでに少しでも食べられるようになるといいんだけれどね。あなた方もあまり心配しないでね。チビは一生懸命頑張っているから、二、三日できっと元気になるわよ。そう、絶対大丈夫だからね」
と、お母さんは、涙声になっているのに気がついたのか、ボクたちから離れて行った。
お母さんが離れて行くと、トラはいつもの位置である食卓の下に戻り、ゆっくりと寝そべった。その姿には、いつもの威厳が戻っていて、さすがだと思った。
しかしボクは、お母さんの言っていることがどういうことなのか今一つ分からず、トラについて行って、寝そべっているトラに体を寄せた。トラは嫌がりもせず、ボクの体を舐めてくれた。
ボクはお母さんが説明してくれていたことを思い返していた。
お母さんが、大丈夫、大丈夫と繰り返していることが、気になって仕方がなかった。あの食いしん坊のチビが食欲がないということも心配だった。
お母さんは、夕方遅くにお姉さんと一緒にチビを見に行ったようだ。
少し元気を取り戻しているらしいが、食事が出来ないらしく、今夜も帰ることが出来なかったようだ。
「でも、大丈夫よ」
と、お母さんは、お父さんに説明しているのを聞いていたボクやトラに、語りかけた。
「でもね、頭を打っているから、帰ってきて万が一のことがあると大変だから、もう一日入院していることになったのよ。だから、あまり心配しないでね」
しかし、トラは次の日も帰ってくることが出来なかった。
少し食事が出来るようになったらしいので、最悪期は過ぎたらしいけれど、まだ、頭や目が心配らしい。
結局トラが帰ってきたのは、四日目の夕方だった。
心配していたほど体は痩せていなかったが、左目の様子がおかしく、顔の形が少し変わっているように見えた。毛を少し切り取っていることが原因らしいけれど、大分険しい顔つきになっているように見えた。
「しばらくはおとなしくしている必要があるので、トラもチロもいたずらをしては駄目よ」
とお母さんはボクに言い、チビ専用の寝床を用意していた。
ボクは恐る恐るチビに近づいた。病院のあのいやな匂いがチビの体に染みついているようで、どうも気味が悪い。それでも勇気を出して近付くと、チビは低い声で唸り、どうやら近づくのを嫌っているみたいだ。
トラは少し離れた所からみているだけで、チビに近付こうとはしなかった。やはり、何か違うものをチビに感じているのかもしれない。
その夜、チビはお母さんが用意した寝床用の箱の中で眠り、トイレに二度ばかり行ったほかは、うろつくようなことはしなかった。
トイレに行く時も、少しひょろついているみたいで、まだまだ良くなっていないみたいだ。
明け方になって、ボクは勇気を振り絞って、チビの寝床に近付いた。やはりチビは眠っていなかったらしく、すぐに目を開けてボクを見た。確かに左目がおかしい。
チビは、ボクに向かって小さく声を出したが、それは唸り声ではなく、警戒している声ではなかった。でも、近付くのは歓迎していない様子が伝わってくる。
ボクは、箱のすぐ近くに寝そべって、小さく鳴いた。
チビは、その声に特に反応することはなかったが、嫌がっている様子でもなく、目を閉じた。
*
ボクは、いつの間にか、そのまま眠ってしまった。
いつもは、ボクの寝床を狙いに来るチビがうっとうしくて仕方がなかったが、今こうして近くにいるだけで何だか安心して、ぐっすりと眠れるような気がしていた。
「お母さん、見て。チロがチビの横で寝ているわよ。ほら、あんなに嬉しそうな顔をして」
「ほんと・・・。きっといい夢を見ているのでしょうね、笑っているもの」
* * *
⑩ チビ頑張る
次の日も、チビは帰って来なかった。
ボクは、朝から落ち着かず、部屋の中をうろうろしたり、ガラス戸に顔を押し付けて、テラスにチビがいないか何度も何度も見に行った。入院しているのだから、テラスにいるはずがないことは分かっているつもりだったが、気がつくと、ガラス戸に顔を押し付けているのです。
*
トラは、いつもと変わらぬ威厳で、堂々と寝そべっている風に見えたが、いつもなら少々の物音などではピクリともしないのに、今日は朝から、何か音が聞こえたりすると、顔を持ち上げ、耳をぴくぴく動かしている。
トラもやっぱりチビのことが心配なのだ。いくら威厳があっても、心配なものは心配なんですよ、きっと。
朝の仕事が一段落したらしいお母さんが、
「チビの様子を見てくるから、しっかりお留守番していてね」
といって出掛けて行った。
ボクは何だか心細くなり、お母さんの足にまとわりつくと、お母さんはボクを抱き上げて、
「大丈夫よ。チビは頑張り屋さんだから、あのくらいの怪我には負けないわよ。様子を見てくるから、おとなしく待っていてね」
と、ボクをトラの横に降ろした。
トラは、分かったとばかりにボクの頭を舐めてくれたが、その視線はやはりお母さんの方を見ていた。
「トラ君も、あまり心配しないで。チビは、きっと大丈夫だから」
と、お母さんはトラの頭を撫でてから、部屋を出て行った。
お母さんは、ボクやトラを心配させないために、「大丈夫よ」と何度も言ってくれていたが、きっとあれは、お母さんは自分自身に言って聞かせているように思えて、お母さんが出て行くと、何だかとても心細くなってしまったのです。
トラはお母さんの言いつけを守ろうとしているかのように、やたらボクの体を舐め回り、優しい表情を見せてくれる。
いつもは、チビのようにボクの食べ物を狙ったり、ボクの寝床に押し入ってきたりしない代わりに、ボクにはあまり関心のないような顔をしていることが多いのに、今日はやたらに優しい。
そのことが余計にボクを不安にさせるのだ。
それしても、ボクにとって、トラやチビはいったい何なんだろう。
どういう理由からか分からないけれど、生まれた所を離れることになってしまい、今では母親の顔さえ思い出すことが出来ない。
いたずら坊主たちに追い回されて、怪我をしてこの家に飛び込んできたことからトラやチビと一緒に暮らすことになってしまった。別にボクが望んだわけではないが、トラやチビの方がもっと望んでいなかったことのはずだ。
それに、あの時のボクは医者に連れて行ってもらったとはいえ、傷ついていたし、泥だらけだったし、第一自分が思っていたよりはるかに小さかった。お母さんやお姉さんは、やたらボクを可愛がってくれたので、トラやチビは面白くなかったはずだ。
しかし、トラもチビも、ボクをいじめることなど一度もなかった。そりゃあ、チビは、しょっちゅうボクの寝床を狙っているけれど、いじめているわけでないことはよく分かっている。
今では、三匹が一緒にいることが当然のようになってしまっている。今まであまり考えたことなどなかったが、こうしてチビが大怪我をして入院してしまうと、三匹が揃っていないことが大変なことだということがひしひしと感じられる。
お母さんはなかなか帰って来なかった。
病院だけではなく、お買い物などにも行っているのだと思うけれど、それにしても帰ってくるのが遅すぎるような気がする。何だか悪いことが起こっているみたいな気がしてならない。
トラも同じようなことを考えているのか、何度かガラス戸越しにテラスやその先の庭の方を見渡し、戻ってきてはボクを舐めてくれる。そしてしばらくすると、またガラス戸に近づいて行く。
ようやくお母さんが帰ってきた。
お母さんはまとわりつくボクたちの横に座り、交互に頭を撫でてくれた。
「安心して、チビは大丈夫よ。ただね、頭を強く打っていて、食事を食べないみたいなの。体の傷は大丈夫だし、口の中も切っているけど、すぐ良くなるらしいわ。あとは、頭を打った後遺症が治まることと、片目がどうなるか少し心配なの」
と、お母さんはボクとトラに、一言一言かみしめるように、丁寧に話してくれた。
「夕方もう一度様子を見に行くつもりなので、それまでに少しでも食べられるようになるといいんだけれどね。あなた方もあまり心配しないでね。チビは一生懸命頑張っているから、二、三日できっと元気になるわよ。そう、絶対大丈夫だからね」
と、お母さんは、涙声になっているのに気がついたのか、ボクたちから離れて行った。
お母さんが離れて行くと、トラはいつもの位置である食卓の下に戻り、ゆっくりと寝そべった。その姿には、いつもの威厳が戻っていて、さすがだと思った。
しかしボクは、お母さんの言っていることがどういうことなのか今一つ分からず、トラについて行って、寝そべっているトラに体を寄せた。トラは嫌がりもせず、ボクの体を舐めてくれた。
ボクはお母さんが説明してくれていたことを思い返していた。
お母さんが、大丈夫、大丈夫と繰り返していることが、気になって仕方がなかった。あの食いしん坊のチビが食欲がないということも心配だった。
お母さんは、夕方遅くにお姉さんと一緒にチビを見に行ったようだ。
少し元気を取り戻しているらしいが、食事が出来ないらしく、今夜も帰ることが出来なかったようだ。
「でも、大丈夫よ」
と、お母さんは、お父さんに説明しているのを聞いていたボクやトラに、語りかけた。
「でもね、頭を打っているから、帰ってきて万が一のことがあると大変だから、もう一日入院していることになったのよ。だから、あまり心配しないでね」
しかし、トラは次の日も帰ってくることが出来なかった。
少し食事が出来るようになったらしいので、最悪期は過ぎたらしいけれど、まだ、頭や目が心配らしい。
結局トラが帰ってきたのは、四日目の夕方だった。
心配していたほど体は痩せていなかったが、左目の様子がおかしく、顔の形が少し変わっているように見えた。毛を少し切り取っていることが原因らしいけれど、大分険しい顔つきになっているように見えた。
「しばらくはおとなしくしている必要があるので、トラもチロもいたずらをしては駄目よ」
とお母さんはボクに言い、チビ専用の寝床を用意していた。
ボクは恐る恐るチビに近づいた。病院のあのいやな匂いがチビの体に染みついているようで、どうも気味が悪い。それでも勇気を出して近付くと、チビは低い声で唸り、どうやら近づくのを嫌っているみたいだ。
トラは少し離れた所からみているだけで、チビに近付こうとはしなかった。やはり、何か違うものをチビに感じているのかもしれない。
その夜、チビはお母さんが用意した寝床用の箱の中で眠り、トイレに二度ばかり行ったほかは、うろつくようなことはしなかった。
トイレに行く時も、少しひょろついているみたいで、まだまだ良くなっていないみたいだ。
明け方になって、ボクは勇気を振り絞って、チビの寝床に近付いた。やはりチビは眠っていなかったらしく、すぐに目を開けてボクを見た。確かに左目がおかしい。
チビは、ボクに向かって小さく声を出したが、それは唸り声ではなく、警戒している声ではなかった。でも、近付くのは歓迎していない様子が伝わってくる。
ボクは、箱のすぐ近くに寝そべって、小さく鳴いた。
チビは、その声に特に反応することはなかったが、嫌がっている様子でもなく、目を閉じた。
*
ボクは、いつの間にか、そのまま眠ってしまった。
いつもは、ボクの寝床を狙いに来るチビがうっとうしくて仕方がなかったが、今こうして近くにいるだけで何だか安心して、ぐっすりと眠れるような気がしていた。
「お母さん、見て。チロがチビの横で寝ているわよ。ほら、あんなに嬉しそうな顔をして」
「ほんと・・・。きっといい夢を見ているのでしょうね、笑っているもの」
* * *