歴史散策
平安の都へ ( 2 )
継体天皇
神武天皇を初代とした皇統は、二千六百数十年に渡って脈々と伝えられてきた。諸々の伝承や神話の世界も受容してのことであるが。
しかし、歴代天皇の継承の状況などを考えた場合、私などでも簡単に入手できる資料からだけでも、断絶とまで決めつけないまでも、統治権に大きな変化があったものと推定できる時期が幾つかある。
第十五代応神天皇の登場も、先帝である仲哀天皇崩御から七十年の空白を経ての即位であり、その間を応神天皇の母であり仲哀天皇の皇后である神功皇后(ジングウコウゴウ)という傑出した女性が大王家(天皇家)を担っていたとされるが、やはり、この間に大きな権力の移動があったと考えるのが自然ではないだろうか。
そうして誕生した応神・仁徳王朝も、二百三十余年を経て崩壊し、血統の継承云々はともかく、権力者の座は大きく移動したと考えられ、その後継統治者として登場するのが継体天皇というのが、一般に考えられている歴史であろう。
そして、この応神・仁徳王朝ともいえる時代の幕を引いたのが武烈天皇ということが出来よう。
いつの世も、洋の東西を問わず一つの王朝なり政権なりの幕を引いた人物は、為政者として劣っていたのは事実としても、次の時代の為政者から指弾され悪様に記録されるのが常識ともいえる。そう考えれば、武烈天皇に関する日本書紀の記事は、真実を伝えていないように思われてならない。
もっとも、私などが目にすることが出来る資料などはごく限られているので、その貴重な情報を頭から否定するのは避けなければならないが、日本書紀の武烈天皇に関する記事は下劣すぎるように思われるし、記事の真否どころか武烈天皇の存在そのものを疑問視する説もある。
ともあれ、後世に悪行を伝えられながら武烈天皇は資料によれば僅か十八歳で崩御している。後継者を残していなかったことから、おそらく大王家は混乱し、応仁・仁徳に始まった王朝は崩壊するのである。
伝えられている武烈天皇のどの部分が実像であり、どの部分が虚像なのかは想像力を働かせるしかないような気もするが、この天皇の崩御により一つの王朝の幕が引かれたことは確かであろう。
武烈天皇の崩御により、大王家を支えてきた豪族たちは後継者選びに奔走することになった。
その時の最有力者は、大連(オオムラジ)の地位にあった大伴金村であったが、金村を中心に群臣たちは協議し、応神天皇以降の血脈を引く適任者を探したもの思われるが、どういうわけか最初に後継者に迎えようとしたのは、応神天皇の父とされる第十四代仲哀天皇の五世孫にあたる倭彦王(ヤマトヒコオウ)であった。
普通に考えれば、武烈天皇に後継者がいないとなれば、一代前の仁賢天皇の皇子あるいは孫、そこにも適任者がないとなれば、顕宗天皇あるいは雄略天皇の子孫といった具合に遡っていくと思われるのだが、武烈天皇から十一代前の天皇であ仲哀天皇の子孫となれば、血統以外の思惑が働いているとしか考えようがない。しかも、仲哀天皇と応神天皇の間には王朝の断絶があったのではないかという疑念は、当時の指導層の間では現在以上に濃厚であったと仮定すれば、さらにその思いが強くなる。
しかし、大伴金村らが擁立することを決めて、丹波国にあった倭彦王を迎えに行ったが、迎えの人々の行列を遠望した倭彦王は恐れをなして逃亡、行方不明になってしまったという。
そのため大伴金村らは、次の候補として越前国にあったヲホド王を選び使者を遣わした。その際にも若干の経緯はあったが、武烈天皇崩御の翌年二月に樟葉宮(クスハノミヤ・大阪府枚方市)で即位し、継体天皇が誕生したのである。
継体天皇は、応神天皇の五世孫とされる。五世孫というのは、律令法では、天皇の子(皇子および皇女)を一世孫とし、天皇の孫を二世孫、曽孫を三世孫としていて、五世孫までを王あるいは王女と称して皇親としている。従って、ヲホド王は皇親として王を名乗っていたのであろうし、倭彦王より遥かに武烈天皇に近い血筋といえないこともないが、本当にそれが擁立の大きな要因であったのだろうか。
応神・仁徳王朝という体系があったとすれば、応神天皇の五世孫であれば立派なものといえるが、歴代天皇にも子孫はおり、五世孫まで数えれば、大和に近い辺りにも大勢の候補者がいたのではないだろうか。そう考えれば、継体天皇の即位には、もっと武力的な圧力が働いていたと考える方が自然のように思われる。
そう推定する一つに、継体天皇は大和の地ではない樟葉宮で即位した後、筒城宮(ツツキノミヤ・京都府京田辺市)、弟国宮(オトクニノミヤ・京都府長岡市)と転々とし、大和の磐余玉穂宮(イワレノタマホノミヤ・奈良県桜井市)に入ったのは、即位後二十年後のことなのである。(七年という説もある。)
つまり、継体天皇の即位は、大和の旧王朝勢力に無条件に受け入れられたものではないのであろう。
継体天皇が即位したのは日本書紀によれば五十七歳の時とされる。妻も子も大勢いたらしいが、新たに先帝武烈天皇の姉(妹という説もある)である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を后に迎え入れている。手白香皇女の年齢は、武烈天皇と同年とすれば十八歳くらいとなり、継体天皇とは四十近い年の差があった計算になる。
いずれにしてもこの婚姻は、継体天皇の越前・近江辺りの勢力と、大和の旧勢力を結び付けるために絶対に必要な条件であり、大王家(天皇家)の系譜の流れを見るとき、実に意味深いものである。
継体天皇は、西暦531年、在位二十四年にして崩御した。行年は日本書紀で八十歳とされるが、古事記では没年が527年で四十歳とされている。この違いはあまりに大き過ぎて、どちらかに作為があるか、別人物が混同されている気さえする。
さらに言えば、継体天皇崩御後、皇子の安閑天皇が即位し、在位五年で崩御し、弟の宣化天皇に引き継がれるが、三年余りで崩御している。この二人の天皇は、継体天皇が即位する以前からの御子で同母の兄弟である。
詳記は割愛させていただくが、継体天皇の崩御の年度及び状況、安閑・宣化天皇の即位ならびに崩御については、研究者たちが幾つかの推定がされている。つまり、古くからの歴史書を単純に受け取るわけにはいかないようで、大胆に推定すれば、このあたりでも、歴史書にない激しい王権争いがあった可能性が感じられるのである。
そして、宣下天皇の崩御後十か月を経て欽明天皇が即位するのである。
この欽明天皇の生母は手白香皇女であり、この天皇こそが応仁・仁徳王朝の血脈を伝えることになるのである。
欽明天皇の治世は三十年を超え、その後の敏達・用明・崇峻・推古の四代四十数年間は欽明天皇の皇子および皇女が治世を担い、仏教文化をはじめ古代日本の隆盛を築いていったのである。
継体天皇によって、それまでの応仁・仁徳王朝から王権の移動があったという考え方は根強いが、継体天皇の血脈という点から見ればその通りかもしれないが、実は、継体天皇を父としながらも、手白香皇女を母に持つ欽明天皇こそが継体天皇以後の実質的な新王朝の創始者であるように思うのである。そう考えれば、やがて、推古天皇以降の女性天皇たちの活躍も当然のように思えてくるのである。
そして、歴史の流れにおける手白香皇女の存在の大きさをもっと重視すべきであり、さらに多くの研究がなされるべきだと願うのである。
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平安の都へ ( 2 )
継体天皇
神武天皇を初代とした皇統は、二千六百数十年に渡って脈々と伝えられてきた。諸々の伝承や神話の世界も受容してのことであるが。
しかし、歴代天皇の継承の状況などを考えた場合、私などでも簡単に入手できる資料からだけでも、断絶とまで決めつけないまでも、統治権に大きな変化があったものと推定できる時期が幾つかある。
第十五代応神天皇の登場も、先帝である仲哀天皇崩御から七十年の空白を経ての即位であり、その間を応神天皇の母であり仲哀天皇の皇后である神功皇后(ジングウコウゴウ)という傑出した女性が大王家(天皇家)を担っていたとされるが、やはり、この間に大きな権力の移動があったと考えるのが自然ではないだろうか。
そうして誕生した応神・仁徳王朝も、二百三十余年を経て崩壊し、血統の継承云々はともかく、権力者の座は大きく移動したと考えられ、その後継統治者として登場するのが継体天皇というのが、一般に考えられている歴史であろう。
そして、この応神・仁徳王朝ともいえる時代の幕を引いたのが武烈天皇ということが出来よう。
いつの世も、洋の東西を問わず一つの王朝なり政権なりの幕を引いた人物は、為政者として劣っていたのは事実としても、次の時代の為政者から指弾され悪様に記録されるのが常識ともいえる。そう考えれば、武烈天皇に関する日本書紀の記事は、真実を伝えていないように思われてならない。
もっとも、私などが目にすることが出来る資料などはごく限られているので、その貴重な情報を頭から否定するのは避けなければならないが、日本書紀の武烈天皇に関する記事は下劣すぎるように思われるし、記事の真否どころか武烈天皇の存在そのものを疑問視する説もある。
ともあれ、後世に悪行を伝えられながら武烈天皇は資料によれば僅か十八歳で崩御している。後継者を残していなかったことから、おそらく大王家は混乱し、応仁・仁徳に始まった王朝は崩壊するのである。
伝えられている武烈天皇のどの部分が実像であり、どの部分が虚像なのかは想像力を働かせるしかないような気もするが、この天皇の崩御により一つの王朝の幕が引かれたことは確かであろう。
武烈天皇の崩御により、大王家を支えてきた豪族たちは後継者選びに奔走することになった。
その時の最有力者は、大連(オオムラジ)の地位にあった大伴金村であったが、金村を中心に群臣たちは協議し、応神天皇以降の血脈を引く適任者を探したもの思われるが、どういうわけか最初に後継者に迎えようとしたのは、応神天皇の父とされる第十四代仲哀天皇の五世孫にあたる倭彦王(ヤマトヒコオウ)であった。
普通に考えれば、武烈天皇に後継者がいないとなれば、一代前の仁賢天皇の皇子あるいは孫、そこにも適任者がないとなれば、顕宗天皇あるいは雄略天皇の子孫といった具合に遡っていくと思われるのだが、武烈天皇から十一代前の天皇であ仲哀天皇の子孫となれば、血統以外の思惑が働いているとしか考えようがない。しかも、仲哀天皇と応神天皇の間には王朝の断絶があったのではないかという疑念は、当時の指導層の間では現在以上に濃厚であったと仮定すれば、さらにその思いが強くなる。
しかし、大伴金村らが擁立することを決めて、丹波国にあった倭彦王を迎えに行ったが、迎えの人々の行列を遠望した倭彦王は恐れをなして逃亡、行方不明になってしまったという。
そのため大伴金村らは、次の候補として越前国にあったヲホド王を選び使者を遣わした。その際にも若干の経緯はあったが、武烈天皇崩御の翌年二月に樟葉宮(クスハノミヤ・大阪府枚方市)で即位し、継体天皇が誕生したのである。
継体天皇は、応神天皇の五世孫とされる。五世孫というのは、律令法では、天皇の子(皇子および皇女)を一世孫とし、天皇の孫を二世孫、曽孫を三世孫としていて、五世孫までを王あるいは王女と称して皇親としている。従って、ヲホド王は皇親として王を名乗っていたのであろうし、倭彦王より遥かに武烈天皇に近い血筋といえないこともないが、本当にそれが擁立の大きな要因であったのだろうか。
応神・仁徳王朝という体系があったとすれば、応神天皇の五世孫であれば立派なものといえるが、歴代天皇にも子孫はおり、五世孫まで数えれば、大和に近い辺りにも大勢の候補者がいたのではないだろうか。そう考えれば、継体天皇の即位には、もっと武力的な圧力が働いていたと考える方が自然のように思われる。
そう推定する一つに、継体天皇は大和の地ではない樟葉宮で即位した後、筒城宮(ツツキノミヤ・京都府京田辺市)、弟国宮(オトクニノミヤ・京都府長岡市)と転々とし、大和の磐余玉穂宮(イワレノタマホノミヤ・奈良県桜井市)に入ったのは、即位後二十年後のことなのである。(七年という説もある。)
つまり、継体天皇の即位は、大和の旧王朝勢力に無条件に受け入れられたものではないのであろう。
継体天皇が即位したのは日本書紀によれば五十七歳の時とされる。妻も子も大勢いたらしいが、新たに先帝武烈天皇の姉(妹という説もある)である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を后に迎え入れている。手白香皇女の年齢は、武烈天皇と同年とすれば十八歳くらいとなり、継体天皇とは四十近い年の差があった計算になる。
いずれにしてもこの婚姻は、継体天皇の越前・近江辺りの勢力と、大和の旧勢力を結び付けるために絶対に必要な条件であり、大王家(天皇家)の系譜の流れを見るとき、実に意味深いものである。
継体天皇は、西暦531年、在位二十四年にして崩御した。行年は日本書紀で八十歳とされるが、古事記では没年が527年で四十歳とされている。この違いはあまりに大き過ぎて、どちらかに作為があるか、別人物が混同されている気さえする。
さらに言えば、継体天皇崩御後、皇子の安閑天皇が即位し、在位五年で崩御し、弟の宣化天皇に引き継がれるが、三年余りで崩御している。この二人の天皇は、継体天皇が即位する以前からの御子で同母の兄弟である。
詳記は割愛させていただくが、継体天皇の崩御の年度及び状況、安閑・宣化天皇の即位ならびに崩御については、研究者たちが幾つかの推定がされている。つまり、古くからの歴史書を単純に受け取るわけにはいかないようで、大胆に推定すれば、このあたりでも、歴史書にない激しい王権争いがあった可能性が感じられるのである。
そして、宣下天皇の崩御後十か月を経て欽明天皇が即位するのである。
この欽明天皇の生母は手白香皇女であり、この天皇こそが応仁・仁徳王朝の血脈を伝えることになるのである。
欽明天皇の治世は三十年を超え、その後の敏達・用明・崇峻・推古の四代四十数年間は欽明天皇の皇子および皇女が治世を担い、仏教文化をはじめ古代日本の隆盛を築いていったのである。
継体天皇によって、それまでの応仁・仁徳王朝から王権の移動があったという考え方は根強いが、継体天皇の血脈という点から見ればその通りかもしれないが、実は、継体天皇を父としながらも、手白香皇女を母に持つ欽明天皇こそが継体天皇以後の実質的な新王朝の創始者であるように思うのである。そう考えれば、やがて、推古天皇以降の女性天皇たちの活躍も当然のように思えてくるのである。
そして、歴史の流れにおける手白香皇女の存在の大きさをもっと重視すべきであり、さらに多くの研究がなされるべきだと願うのである。
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