歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 9 )
古代大伴氏の全盛期
第十五代清寧天皇が即位した時(西暦480年)、大伴室屋を大連に、平群真鳥を大臣に任命しているが、これまでの経歴からして、大伴室屋が政権の頂点にあったと推定できる。
しかし、室屋は、この後ほどなくして亡くなったと推定できる。相当の高齢であり、おそらく病死であったと思われる。
この後しばらく、日本書紀には大伴氏の記録が残されていない。つまり、政権の中枢からは遠ざかっていたと思われ、その間は平群真鳥大臣が頂点に立ち、顕宗・仁賢と比較的在位期間の短い天皇が続く中で、その権力は強大となり、横暴も見えていたらしい。
そうした時に、室屋の孫にあたる大伴金村は仁賢天皇の皇太子(武烈天皇)と結んで真鳥大臣を討伐して、再び政権の中枢に登ったのである。
武烈天皇の在位期間はおよそ八年間であるが、日本書紀の記事をみる限り、国内政治でこれという事跡は残していない。日本書紀が伝えようとしているのは、ただただ暴虐な君主であったことを書き残そうとしているように思われる。
この間、大伴金村大連は政権の中枢、それもおそらく首座にあったと考えられるが、「水派邑(ミナマタノムラ・宮殿の一種か?)を作れ」と命じられたことがあるだけで、(日本書紀には大伴室屋大連と記されているが、時代が合わず誤記と思われる。)大伴氏の活動も他には記されていない。それは、天皇の横暴を金村では御しきれなかったということか、金村もその先棒を担いでいたということも完全否定はできない。
ただ、王権は、次の継体天皇を経て大きく変化することから、その前の天皇を実態以上に悪しくしているということも十分考えられることである。
武烈天皇八年(506)十二月、武烈天皇は崩御した。
天皇には男子も女子もなく後継者は絶える形となった。そこで、大伴金村大連は「まさに今、天皇の後継は絶えた。天下の民はどこに心を繋げばよいのか。古より今に至るまで、禍いはこれによって起こっている。今、仲哀天皇の五世の御孫倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)が丹波国の桑田郡にいらっしゃいます。試みに、軍兵を整え、乗輿を護衛して、謂って倭彦王をお迎えして、君主にお立てしたいと思う」と、重臣たちに計った。
大臣・大連など重臣たちは皆賛成し、計画通り迎えることになった。
ところが、倭彦王は、迎えの軍兵を遠くから見て、恐れて顔色を失い、山谷に逃げて行方が分からなくなってしまった。
そこで、大伴金村大連はまた重臣たちに諮って、「男大迹王(オオドノオオキミ)は、性格が慈悲深く、孝行の念に厚い。皇位を継承されるべき人である。願わくば、丁重にお勧めして、帝業を興隆させたい」と言った。
物部麁鹿火大連(モノノベノアラカヒノオオムラジ)・許勢男人大臣(コセノオヒトノオオオミ)等はみな、「枝孫(ミアナスエノミコタチ・皇孫たち、といった意味か?)を詳しく選ぶと、賢者は男大迹王のみである」と賛同した。
そこで、臣・連たちを遣わして、節(シルシ・君命を受けた使者が持つしるしの旗や刀など。)を持って、御車を準備して、三国(ミクニ・福井県内か? 諸説ある。)に迎えに行った。軍兵を整え、威儀を粛然とただし、先駆けを立てて往来の人を止め、突然に到着した。
その時、男大迹王は、落ち着き払って、胡床(コショウ・一人用の腰掛け)に座っていた。陪臣を整然と従えて、すでに帝王のようであった。
この後、男大迹王は簡単に使者を信用せず、何度かの交渉の後、遂に三国を発って樟葉宮(クスハノミヤ・大阪府枚方市内)に到着した。
樟葉宮到着から十日ばかりあとの、継体天皇元年(507)二月四日、大伴金村大連は、跪いて天子の鏡・剣の璽符(ミシルシ)を奉って再拝した。
男大迹王は辞退して、「民を子として治めることは、重大な事である。私は、才能がなくふさわしくない。願わくば、考え直して賢者を選んでほしい。私は適任でない」と仰せられた。
ここでも決まりごとのように即位の依頼と辞退が繰り返されるが、結局、男大迹王は璽符を受け取った。
そして、この日のうちに天皇の位に就いた。継体天皇の誕生である。
大伴金村大連を大連として、許勢男人大臣を大臣として、物部麁鹿火大連を大連と以前の通りに任命した。そして、大臣・大連等はそれぞれの職位に任じられた。
その六日後、金村は、清寧天皇に後継の皇子がなかったことを例に挙げ、仁賢天皇の皇女である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后に迎えることを勧めている。後継者がいないことを申し上げるのであれば、何も清寧天皇まで遡らなくても、現に武烈天皇がそうであったのを思うと、何か納得できない面がある。
しかし、それはともかく、手白香皇女を皇后とすることは、応神天皇の五世の孫とはいえ、いわゆるヤマト王朝とは遠すぎる血縁である継体天皇をヤマト王朝を支えている群臣たちを納得させる名案であったことは確かであろう。
継体天皇六年の記事に、百済に任那四県を割譲したという大きな出来事が載せられている。この交渉に金村は深く関与していたようであるが、反対意見も根強かったらしく、大兄皇子(オオエノミコ・後の安閑天皇)は事前に知らされておらず、その対処に不満であったようである。また、この件に関して、「大伴金村大連と穂積臣押山が百済から賄賂を受け取っている」という縷言(ルゲン・こまごまと述べること。)を載せている。何かを予言しているもののようにも取れる。
しかし、継体天皇二十一年に起きた筑紫の磐井の反乱においては、鎮圧に向かわせる将軍の選定にあたって、重臣筆頭の立場で天皇の詔を受けている。この反乱を鎮圧した功労者は物部大連麁鹿火のようであるが、金村の地位は全く揺らいでいないように見える。
また、朝鮮半島諸国との交渉事に関しては、金村が実質的な責任者としての立場に変わりはなかったようである。
継体天皇は、在位二十五年(諸説ある)にして波乱の生涯を閉じた。
その後を継いだのは継体天皇の長子である安閑天皇である。安閑天皇の母は、継体の最初の妃で尾張連草香の娘とされる目子媛(メノコヒメ)である。この時、六十六歳とされる。
この政権においても、大伴金村大連・物部麁鹿火大連を大連としており、大きな変化は見られない。嫡子のいない天皇の相談に応じて、「皇后と次の妃のために屯倉(ミヤケ・直轄領)を設けて後世に名を残されませ」と答えて実施している。信頼が厚かったと考えられる記事である。
安閑天皇は在位五年弱で崩御し、その後は、安閑天皇と同父母の弟である宣化天皇が即位する。六十九歳とされる。
この政権においても、大伴金村大連と物部麁鹿火大連を大連とすること、変わりがないと記されている。しかし、注目すべきは、その次に、「又、蘇我稲目宿禰を以ちて大臣とし、阿倍大麻呂臣を大夫(マエツキミ)とす」と記されていることである。蘇我氏が政権中枢に登場してきたのである。
このように、大伴金村大連は、武烈天皇と継体天皇の誕生に大きな役割を果たしているのである。その後も、少なくとも宣化天皇即位の頃までは政権の頂点に立ち続けていたと考えられる。おそらく、このあたりが古代大伴氏の絶頂期であったと考えられる。
その期間は、武烈天皇即位の頃から宣下天皇即位の頃までのおよそ四十年ほどだったのではないだろうか。
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古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 9 )
古代大伴氏の全盛期
第十五代清寧天皇が即位した時(西暦480年)、大伴室屋を大連に、平群真鳥を大臣に任命しているが、これまでの経歴からして、大伴室屋が政権の頂点にあったと推定できる。
しかし、室屋は、この後ほどなくして亡くなったと推定できる。相当の高齢であり、おそらく病死であったと思われる。
この後しばらく、日本書紀には大伴氏の記録が残されていない。つまり、政権の中枢からは遠ざかっていたと思われ、その間は平群真鳥大臣が頂点に立ち、顕宗・仁賢と比較的在位期間の短い天皇が続く中で、その権力は強大となり、横暴も見えていたらしい。
そうした時に、室屋の孫にあたる大伴金村は仁賢天皇の皇太子(武烈天皇)と結んで真鳥大臣を討伐して、再び政権の中枢に登ったのである。
武烈天皇の在位期間はおよそ八年間であるが、日本書紀の記事をみる限り、国内政治でこれという事跡は残していない。日本書紀が伝えようとしているのは、ただただ暴虐な君主であったことを書き残そうとしているように思われる。
この間、大伴金村大連は政権の中枢、それもおそらく首座にあったと考えられるが、「水派邑(ミナマタノムラ・宮殿の一種か?)を作れ」と命じられたことがあるだけで、(日本書紀には大伴室屋大連と記されているが、時代が合わず誤記と思われる。)大伴氏の活動も他には記されていない。それは、天皇の横暴を金村では御しきれなかったということか、金村もその先棒を担いでいたということも完全否定はできない。
ただ、王権は、次の継体天皇を経て大きく変化することから、その前の天皇を実態以上に悪しくしているということも十分考えられることである。
武烈天皇八年(506)十二月、武烈天皇は崩御した。
天皇には男子も女子もなく後継者は絶える形となった。そこで、大伴金村大連は「まさに今、天皇の後継は絶えた。天下の民はどこに心を繋げばよいのか。古より今に至るまで、禍いはこれによって起こっている。今、仲哀天皇の五世の御孫倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)が丹波国の桑田郡にいらっしゃいます。試みに、軍兵を整え、乗輿を護衛して、謂って倭彦王をお迎えして、君主にお立てしたいと思う」と、重臣たちに計った。
大臣・大連など重臣たちは皆賛成し、計画通り迎えることになった。
ところが、倭彦王は、迎えの軍兵を遠くから見て、恐れて顔色を失い、山谷に逃げて行方が分からなくなってしまった。
そこで、大伴金村大連はまた重臣たちに諮って、「男大迹王(オオドノオオキミ)は、性格が慈悲深く、孝行の念に厚い。皇位を継承されるべき人である。願わくば、丁重にお勧めして、帝業を興隆させたい」と言った。
物部麁鹿火大連(モノノベノアラカヒノオオムラジ)・許勢男人大臣(コセノオヒトノオオオミ)等はみな、「枝孫(ミアナスエノミコタチ・皇孫たち、といった意味か?)を詳しく選ぶと、賢者は男大迹王のみである」と賛同した。
そこで、臣・連たちを遣わして、節(シルシ・君命を受けた使者が持つしるしの旗や刀など。)を持って、御車を準備して、三国(ミクニ・福井県内か? 諸説ある。)に迎えに行った。軍兵を整え、威儀を粛然とただし、先駆けを立てて往来の人を止め、突然に到着した。
その時、男大迹王は、落ち着き払って、胡床(コショウ・一人用の腰掛け)に座っていた。陪臣を整然と従えて、すでに帝王のようであった。
この後、男大迹王は簡単に使者を信用せず、何度かの交渉の後、遂に三国を発って樟葉宮(クスハノミヤ・大阪府枚方市内)に到着した。
樟葉宮到着から十日ばかりあとの、継体天皇元年(507)二月四日、大伴金村大連は、跪いて天子の鏡・剣の璽符(ミシルシ)を奉って再拝した。
男大迹王は辞退して、「民を子として治めることは、重大な事である。私は、才能がなくふさわしくない。願わくば、考え直して賢者を選んでほしい。私は適任でない」と仰せられた。
ここでも決まりごとのように即位の依頼と辞退が繰り返されるが、結局、男大迹王は璽符を受け取った。
そして、この日のうちに天皇の位に就いた。継体天皇の誕生である。
大伴金村大連を大連として、許勢男人大臣を大臣として、物部麁鹿火大連を大連と以前の通りに任命した。そして、大臣・大連等はそれぞれの職位に任じられた。
その六日後、金村は、清寧天皇に後継の皇子がなかったことを例に挙げ、仁賢天皇の皇女である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后に迎えることを勧めている。後継者がいないことを申し上げるのであれば、何も清寧天皇まで遡らなくても、現に武烈天皇がそうであったのを思うと、何か納得できない面がある。
しかし、それはともかく、手白香皇女を皇后とすることは、応神天皇の五世の孫とはいえ、いわゆるヤマト王朝とは遠すぎる血縁である継体天皇をヤマト王朝を支えている群臣たちを納得させる名案であったことは確かであろう。
継体天皇六年の記事に、百済に任那四県を割譲したという大きな出来事が載せられている。この交渉に金村は深く関与していたようであるが、反対意見も根強かったらしく、大兄皇子(オオエノミコ・後の安閑天皇)は事前に知らされておらず、その対処に不満であったようである。また、この件に関して、「大伴金村大連と穂積臣押山が百済から賄賂を受け取っている」という縷言(ルゲン・こまごまと述べること。)を載せている。何かを予言しているもののようにも取れる。
しかし、継体天皇二十一年に起きた筑紫の磐井の反乱においては、鎮圧に向かわせる将軍の選定にあたって、重臣筆頭の立場で天皇の詔を受けている。この反乱を鎮圧した功労者は物部大連麁鹿火のようであるが、金村の地位は全く揺らいでいないように見える。
また、朝鮮半島諸国との交渉事に関しては、金村が実質的な責任者としての立場に変わりはなかったようである。
継体天皇は、在位二十五年(諸説ある)にして波乱の生涯を閉じた。
その後を継いだのは継体天皇の長子である安閑天皇である。安閑天皇の母は、継体の最初の妃で尾張連草香の娘とされる目子媛(メノコヒメ)である。この時、六十六歳とされる。
この政権においても、大伴金村大連・物部麁鹿火大連を大連としており、大きな変化は見られない。嫡子のいない天皇の相談に応じて、「皇后と次の妃のために屯倉(ミヤケ・直轄領)を設けて後世に名を残されませ」と答えて実施している。信頼が厚かったと考えられる記事である。
安閑天皇は在位五年弱で崩御し、その後は、安閑天皇と同父母の弟である宣化天皇が即位する。六十九歳とされる。
この政権においても、大伴金村大連と物部麁鹿火大連を大連とすること、変わりがないと記されている。しかし、注目すべきは、その次に、「又、蘇我稲目宿禰を以ちて大臣とし、阿倍大麻呂臣を大夫(マエツキミ)とす」と記されていることである。蘇我氏が政権中枢に登場してきたのである。
このように、大伴金村大連は、武烈天皇と継体天皇の誕生に大きな役割を果たしているのである。その後も、少なくとも宣化天皇即位の頃までは政権の頂点に立ち続けていたと考えられる。おそらく、このあたりが古代大伴氏の絶頂期であったと考えられる。
その期間は、武烈天皇即位の頃から宣下天皇即位の頃までのおよそ四十年ほどだったのではないだろうか。
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