雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 9 )

2017-12-31 08:44:14 | 歴史散策
          歴史散策
             古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 9 )

古代大伴氏の全盛期

第十五代清寧天皇が即位した時(西暦480年)、大伴室屋を大連に、平群真鳥を大臣に任命しているが、これまでの経歴からして、大伴室屋が政権の頂点にあったと推定できる。
しかし、室屋は、この後ほどなくして亡くなったと推定できる。相当の高齢であり、おそらく病死であったと思われる。
この後しばらく、日本書紀には大伴氏の記録が残されていない。つまり、政権の中枢からは遠ざかっていたと思われ、その間は平群真鳥大臣が頂点に立ち、顕宗・仁賢と比較的在位期間の短い天皇が続く中で、その権力は強大となり、横暴も見えていたらしい。
そうした時に、室屋の孫にあたる大伴金村は仁賢天皇の皇太子(武烈天皇)と結んで真鳥大臣を討伐して、再び政権の中枢に登ったのである。

武烈天皇の在位期間はおよそ八年間であるが、日本書紀の記事をみる限り、国内政治でこれという事跡は残していない。日本書紀が伝えようとしているのは、ただただ暴虐な君主であったことを書き残そうとしているように思われる。
この間、大伴金村大連は政権の中枢、それもおそらく首座にあったと考えられるが、「水派邑(ミナマタノムラ・宮殿の一種か?)を作れ」と命じられたことがあるだけで、(日本書紀には大伴室屋大連と記されているが、時代が合わず誤記と思われる。)大伴氏の活動も他には記されていない。それは、天皇の横暴を金村では御しきれなかったということか、金村もその先棒を担いでいたということも完全否定はできない。
ただ、王権は、次の継体天皇を経て大きく変化することから、その前の天皇を実態以上に悪しくしているということも十分考えられることである。

武烈天皇八年(506)十二月、武烈天皇は崩御した。
天皇には男子も女子もなく後継者は絶える形となった。そこで、大伴金村大連は「まさに今、天皇の後継は絶えた。天下の民はどこに心を繋げばよいのか。古より今に至るまで、禍いはこれによって起こっている。今、仲哀天皇の五世の御孫倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)が丹波国の桑田郡にいらっしゃいます。試みに、軍兵を整え、乗輿を護衛して、謂って倭彦王をお迎えして、君主にお立てしたいと思う」と、重臣たちに計った。
大臣・大連など重臣たちは皆賛成し、計画通り迎えることになった。
ところが、倭彦王は、迎えの軍兵を遠くから見て、恐れて顔色を失い、山谷に逃げて行方が分からなくなってしまった。

そこで、大伴金村大連はまた重臣たちに諮って、「男大迹王(オオドノオオキミ)は、性格が慈悲深く、孝行の念に厚い。皇位を継承されるべき人である。願わくば、丁重にお勧めして、帝業を興隆させたい」と言った。
物部麁鹿火大連(モノノベノアラカヒノオオムラジ)・許勢男人大臣(コセノオヒトノオオオミ)等はみな、「枝孫(ミアナスエノミコタチ・皇孫たち、といった意味か?)を詳しく選ぶと、賢者は男大迹王のみである」と賛同した。
そこで、臣・連たちを遣わして、節(シルシ・君命を受けた使者が持つしるしの旗や刀など。)を持って、御車を準備して、三国(ミクニ・福井県内か? 諸説ある。)に迎えに行った。軍兵を整え、威儀を粛然とただし、先駆けを立てて往来の人を止め、突然に到着した。
その時、男大迹王は、落ち着き払って、胡床(コショウ・一人用の腰掛け)に座っていた。陪臣を整然と従えて、すでに帝王のようであった。
この後、男大迹王は簡単に使者を信用せず、何度かの交渉の後、遂に三国を発って樟葉宮(クスハノミヤ・大阪府枚方市内)に到着した。

樟葉宮到着から十日ばかりあとの、継体天皇元年(507)二月四日、大伴金村大連は、跪いて天子の鏡・剣の璽符(ミシルシ)を奉って再拝した。
男大迹王は辞退して、「民を子として治めることは、重大な事である。私は、才能がなくふさわしくない。願わくば、考え直して賢者を選んでほしい。私は適任でない」と仰せられた。
ここでも決まりごとのように即位の依頼と辞退が繰り返されるが、結局、男大迹王は璽符を受け取った。
そして、この日のうちに天皇の位に就いた。継体天皇の誕生である。
大伴金村大連を大連として、許勢男人大臣を大臣として、物部麁鹿火大連を大連と以前の通りに任命した。そして、大臣・大連等はそれぞれの職位に任じられた。

その六日後、金村は、清寧天皇に後継の皇子がなかったことを例に挙げ、仁賢天皇の皇女である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后に迎えることを勧めている。後継者がいないことを申し上げるのであれば、何も清寧天皇まで遡らなくても、現に武烈天皇がそうであったのを思うと、何か納得できない面がある。
しかし、それはともかく、手白香皇女を皇后とすることは、応神天皇の五世の孫とはいえ、いわゆるヤマト王朝とは遠すぎる血縁である継体天皇をヤマト王朝を支えている群臣たちを納得させる名案であったことは確かであろう。

継体天皇六年の記事に、百済に任那四県を割譲したという大きな出来事が載せられている。この交渉に金村は深く関与していたようであるが、反対意見も根強かったらしく、大兄皇子(オオエノミコ・後の安閑天皇)は事前に知らされておらず、その対処に不満であったようである。また、この件に関して、「大伴金村大連と穂積臣押山が百済から賄賂を受け取っている」という縷言(ルゲン・こまごまと述べること。)を載せている。何かを予言しているもののようにも取れる。

しかし、継体天皇二十一年に起きた筑紫の磐井の反乱においては、鎮圧に向かわせる将軍の選定にあたって、重臣筆頭の立場で天皇の詔を受けている。この反乱を鎮圧した功労者は物部大連麁鹿火のようであるが、金村の地位は全く揺らいでいないように見える。
また、朝鮮半島諸国との交渉事に関しては、金村が実質的な責任者としての立場に変わりはなかったようである。

継体天皇は、在位二十五年(諸説ある)にして波乱の生涯を閉じた。
その後を継いだのは継体天皇の長子である安閑天皇である。安閑天皇の母は、継体の最初の妃で尾張連草香の娘とされる目子媛(メノコヒメ)である。この時、六十六歳とされる。
この政権においても、大伴金村大連・物部麁鹿火大連を大連としており、大きな変化は見られない。嫡子のいない天皇の相談に応じて、「皇后と次の妃のために屯倉(ミヤケ・直轄領)を設けて後世に名を残されませ」と答えて実施している。信頼が厚かったと考えられる記事である。

安閑天皇は在位五年弱で崩御し、その後は、安閑天皇と同父母の弟である宣化天皇が即位する。六十九歳とされる。
この政権においても、大伴金村大連と物部麁鹿火大連を大連とすること、変わりがないと記されている。しかし、注目すべきは、その次に、「又、蘇我稲目宿禰を以ちて大臣とし、阿倍大麻呂臣を大夫(マエツキミ)とす」と記されていることである。蘇我氏が政権中枢に登場してきたのである。

このように、大伴金村大連は、武烈天皇と継体天皇の誕生に大きな役割を果たしているのである。その後も、少なくとも宣化天皇即位の頃までは政権の頂点に立ち続けていたと考えられる。おそらく、このあたりが古代大伴氏の絶頂期であったと考えられる。
その期間は、武烈天皇即位の頃から宣下天皇即位の頃までのおよそ四十年ほどだったのではないだろうか。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 10 )

2017-12-31 08:43:34 | 歴史散策
          歴史散策
             古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 10 )

没落への道

神代の時代、それも天孫降臨の時から大王家(天皇家)の側近の武力集団として朝廷に仕えてきた大伴氏は、室屋(ムロヤ)の時代に大連となりヤマト政権の中枢に加わった。そして、室屋の死後一時衰えを見せたが、金村(カナムラ)によって再び大連として、今度はヤマト政権の頂点に立って活躍した。
しかし、栄枯盛衰は浮世の常とはいえ、それは、古代大伴氏衰退への起点でもあった。

大伴金村大連は、宣化天皇の御代においても大連の地位にあり、子の磐(イワ)と狭手彦(サデヒコ)を朝鮮半島に派遣して任那を助けたという日本書紀の記事があるように、軍事・外交面で強い影響力を握っていたと思われる。
やがて、宣化天皇は崩御し、第二十九代欽明天皇が即位する。西暦539年の事とされる。
欽明天皇は、継体天皇の皇子で、安閑・宣化両天皇の異母弟であるが、先の二天皇は、継体天皇がヤマト入りする以前にすでに誕生していたのに対して、欽明天皇は、継体天皇のヤマト入りをスムーズにするために皇后として迎えた仁賢天皇の皇女手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を母としている。つまり、この天皇の誕生には、大伴金村大連が少なからず関係しているのである。
そして、この天皇は王朝の安定に大きな役割を果たすことになる。

欽明天皇元年九月、天皇は難波祝津宮(ナニワノハフリツノミヤ・現在の大阪府あるいは兵庫県の港。正確には未詳。)に行幸した。大伴大連金村・許勢臣稲持(コセノオミイナモチ)・物部大連尾輿(モノノベノオオムラジオコシ)等が従っていた。
天皇は諸臣に、「どれほどの軍勢があれば、新羅を討つことが出来ようか」と尋ねた。物部大連尾輿たちは、「少しばかりの軍勢では、容易く討つことは出来ません。昔、継体天皇の六年に、百済が使者を派遣して四つの県の譲渡を願い出ましたが、大伴大連金村は要請通りに、容易く求めてきた所を与えました。そのため、新羅は久しく恨んでいます。軽々しく討つべきではありません」と申し上げた。

このことがあって、大伴金村は住吉(スミノエ・大阪市住吉区あたりの港町)の屋敷に居て、病気を理由に出仕しなくなった。
天皇は、青海夫人勾子(アオミノオオトジマガリコ・未詳。夫人は後宮における妃の次の地位。天皇のいわゆる妻の一人か?)を派遣して懇ろに見舞った。金村は恐縮して、「私が気に病んでいることは、他の事ではありません。今、諸臣たちは、私が任那を滅ぼしたと言っております。それゆえ、畏まって出仕しないのです」と申し上げた。そして、鞍馬(カザリウマ・贅沢な飾りつけをした馬らしい。)を使者の青海夫人勾子に贈り、厚く敬意を表した。
青海夫人はありのままを天皇に報告した。天皇は詔(ミコトノリ)して、「長く忠誠を尽くしたのだ。諸臣の噂など気にすることはない」と仰せになり、金村を罰するようなことはなく、ますます厚く遇した。欽明天皇元年のことである。

日本書紀に載せられている欽明天皇の詔に関わらず、多くの研究者たちは、この時をもって、大伴金村大連の失脚と見ている。
実際に、欽明天皇の御代は三十二年間に及ぶが、これ以後、金村の記事はまったく姿を消している。
また、この間に大伴氏が登場する記事は、欽明天皇二十三年八月の記事に、『 大将軍大伴連狭手彦を遣わして、軍兵数万を率いて、高麗(コマ)を征討させられた。狭手彦は百済の計略を用いて、高麗を打ち破った。・・・』という記事のみである。
狭手彦(サデヒコ)は金村の子であるから、この間に金村は没したものと推定されるが、大伴氏がなお大将軍として重用されており、また、朝鮮半島とも関わりが強いことから、金村が朝廷の最高権力から去ったことは推定されるも、大伴氏そのものが失脚したという考えは正しくないと思われる。

同時に、狭手彦は「大連」の地位を得ておらず、上の記事の続きの部分には、多くの戦利品を天皇に献上したとある後に、『 甲(ヨロイ)二領・金飾刀(コガネヅクリノタチ)二口・銅鏤鐘(アカガネノエリタルカネ)三口・五色幡二竿・美女媛(オミナヒメ・媛という名前の美女)と、その従女吾田子(アタコ)を、蘇我稲目宿禰大臣(ソガノイナメノスクネノオオオミ)に贈った。大臣は、二人の女を召し入れて妻とし、軽の曲殿に住まわせた。 』とある。
つまり、この時点では、大伴氏は依然軍事氏族としての力は保っていたが、政治的には、蘇我稲目が頂点にあり、大伴氏は戦利品を献上する立場になっていたの思われる。

それにしても、大伴金村大連は、急激に歴史の表舞台から姿を消したのであろうか。事実はどうであったかどうかは分からないが、日本書紀の記事から推定する限り、突然失脚した感がある。
失脚の原因については、日本書紀に記録されているように、朝鮮半島諸国をめぐる失政が考えられるが、そのことに関して、諸臣から非難の声があがっていたとしても、記録されているように天皇の信頼が厚い限り、そうそう簡単に失脚しないように思われる。他にもっと大きな原因があったのではないだろうか。

他に原因があるとすれば、まず第一に考えられることは、金村の年齢である。金村は、武烈天皇の即位に関連して華々しく日本書紀に登場している。その時から、失脚とされる時までは五十年に及ぶ。ほぼこの期間、金村は政権のトップに立ち続けていたと思われる。金村の正確な年齢は断定できないが、すでに相当高齢であったことは間違いあるまい。住吉の屋敷に籠ってほどなく没した可能性は十分考えられる。
最も大きな原因と思われるのは、蘇我稲目宿禰の台頭である。稲目は、宣化天皇が即位した時に、大臣(オオオミ)に就任して、金村らとともに政権トップに就任したが、この時代における第一人者といえる人物であったと考えられる。人間の器としては金村とて劣ることはないと思われるが、金村はあくまでも軍事集団の長であり、天皇の親衛隊的立場であり続けた。一方の稲目は、政略面に優れ、天皇家との血縁を求めることで政権基盤を固めていったのである。時代の流れもあって、名目的にはともかく、実質的には宣化天皇の御代のうちに稲目が最高権力者になっていたのではないだろうか。
そしてもう一つは、日本書紀からだけでは想像できないことであるが、継体天皇崩御の頃から、安閑天皇・宣化天皇を経て欽明天皇が誕生するまでの間、日本書紀によればおよそ八年余りであるが、この間に、相当大きな覇権闘争があったのではないかと、筆者個人としては考えている。十分な根拠を示すことが出来ないのが残念であるが、この闘争の中で大伴金村大連は政権基盤を弱めたような気がするのである。

     ☆   ☆   ☆





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 11 )

2017-12-31 08:42:54 | 歴史散策
          歴史散策
              古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 11 )

軍事力は衰えず

古代大伴氏の朝廷内での権力という観点に立てば、その全盛期はおそらく大伴金村大連の時代であったと思われる。
しかし、同時に、一般的に言われているように、欽明天皇元年の末頃に、朝鮮半島政策を失敗と非難されて金村が自宅に籠居し、やがて失脚したとするのが真実だとしても、それが大伴氏そのものの没落と考えるのは正しくないと思われる。
金村の籠居に対して天皇の懇切な慰労があったと記録されているし、二十二年後ではあるが、同じ天皇の御代で大伴連狭手彦(サデヒコ)が大将軍として高麗征伐で活躍したことが記録されている。狭手彦は金村の子である。

朝廷内の権力構造ということを推定すれば、先代の宣化天皇の御代の間に、大臣となった蘇我稲目宿禰が台頭してきていて、金村の失脚云々に関しても陰で動いていた可能性が考えられる。
もしそうであったとすれば、金村の失脚は大伴氏を没落させる好機と考えられるが、朝廷内の勢力は減じられたとしても大伴氏一族が健在だったのは、一つは、蘇我氏の力がまだ圧倒的な域に達していなかったと考えられることと、もう一つは、圧倒的な軍事力を要する一族であったためと考えられる。
本来、大伴氏は天皇家の親衛隊的な軍事集団であって、政権の中枢を担う政治的策謀には未熟な一族ともいえる。そう考えれば、金村の時代が終わり、本来の軍事集団に戻ったともいえるのである。

欽明天皇の御代は三十二年に及ぶが、日本書紀には、前記の大伴連狭手彦の記事以後には、大伴氏の名前は登場していない。次に登場するのは、次代の敏達天皇十二年のことで、二十年余りの空白がある。この時の記事から推定する限り、大伴氏が没落しているわけではないが、金村の時代のような政権中枢からは外れていたと思われる。
この敏達天皇十二年の記事は、任那の復興計画にからんで、百済国王が日羅(ニチラ)などを奉り、訪朝し吉備の児島に到着した一行を、朝廷は、大伴糠手子連(ヌカデコノムラジ)を派遣して慰労させた、というものである。
糠手子も金村の子とされているが、日羅という人物も、金村が国家のために海外に移住させた人物の子だというから、金村から糠手子あるいは狭手彦らと朝廷の関係は、地位としては低下していたとしても重臣としての立場に変化はなかったと考えられる。
また、この記事には、『 日羅に朝鮮半島政策について意見を求めたりしているうちに、日羅が亡くなった。そこで、朝廷は妻子や従者を石川(河内国内)に住まわせたが、大伴糠手子連が「一ヶ所に住まわせると、将来異変を起こす可能性があります」と進言して、石川内の百済村と大伴村に分けて住まわせた。 』とある。つまり、大伴氏には朝廷に進言するだけの力があり、朝鮮半島政策には影響力を保っていたことが分かる記事でもある。

日本書紀の大伴氏に関する次の記事は、用明天皇の後継をめぐる物部守屋大連と蘇我馬子宿禰大臣(ソガノウマコノスクネノオオオミ)とが対立する中で、『 馬子大臣は、土師八島連(ハジノヤシマノムラジ)を大伴毘羅夫連(オオトモノビラブノムラジ)の許に遣わせて、状況を伝えさせた。この為、毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を持って、大臣の家へ行き、昼夜離れることなく守護した。 』とある。
用明天皇は敏達天皇の次の天皇で、やはり欽明天皇の子である。この用明天皇の御代は二年足らずと短く、その後を継いだ異母弟の崇峻天皇の御代も五年ばかりと短いが、古代歴史上では重要な時期にあり、物部氏と蘇我氏の覇権争いは仏教受け入れ可否も絡んで激しくなり、大伴氏と並ぶ古代有力氏族である物部氏が滅亡し、蘇我氏が政権を独占する時代となっていった時なのである。

用明天皇二年(587)の四月、天皇崩御と共に物部氏と蘇我氏の対立は頂点となり、七月にはついに全面対決となり、物部氏はここに滅亡する。
この合戦では、大伴連嚙(オオトモノムラジクイ・咋あるいは咋子とも)が蘇我軍に加わっている。
また、翌年の崇峻天皇元年の三月に、大伴糠手(糠手子)連の娘が崇峻天皇の妃となったことが記されている。大伴氏の娘が後宮入りすることが記されているの初めてのことである。もしかすると、論功行賞だったのかもしれない。
なお、この頃の大伴氏の本家は咋子(クイコ)であったと推定されるが、この記事以外では動静が分からない毘羅夫や糠手子など、相当有力な軍勢を要する家が幾つかあったらしい。
この他に、崇峻天皇の御代の日本書紀の記事としては、三年に、『 大伴狭手彦連の娘善徳・大伴狛夫人(オオトモノコマノイロエ・大伴氏の高句麗人の妻を指す)・その他に九人、が出家した。 』とある。また、四年の十一月には、大伴嚙連が、他の三人と共に大将軍として二万余の軍勢を率いて筑紫に出陣している。

やがて、推古天皇の御代となる。
欽明天皇の後、敏達・用明・崇峻そして推古と欽明天皇の御子が皇位を受け継いでおり、推古天皇の御代は欽明王朝の絶頂期に見える。しかし、その母系を見ると、用明・崇峻・推古は蘇我氏の娘を母としており、推古天皇の即位は、むしろ蘇我王朝と表現すべき時代の始まりのようにも思われる。
こうした激しい時代の変遷は、古代大伴氏の立つべき位置を揺るがせ続けたことは間違いあるまい。

推古天皇の御代の大伴氏の動向を、日本書紀の記事で追ってみよう。
九年三月、『 大伴連噛を高麗に遣わし、坂本臣糠手を百済に遣わして、詔して曰く「すみやかに任那を救え」とのたまう。』とある。この作戦は成功を見ていない。
十六年八月、唐からの使者を迎えた行事で、皇帝からの書を取り次ぐ役に阿倍臣と共に大伴噛連が名を連ねている。
十八年十月、新羅・任那の使者を迎えた記事に、『 時に、大伴咋連(クイノムラジ・クイは様々な文字が使われている)・蘇我豊浦蝦夷臣(ソガノトユラノエミシノオミ)・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣が席を立ち、進み出て庭に伏した。ここに、両国の客たちは、それぞれ再拝して、使者の趣旨を奏上した。すると、四人の大夫(マエツキミ・ここでは役職ではなく単なる尊称か?)は、立ち上がって進み、大臣(オオオミ・蘇我馬子)に謹んで申し上げた。・・・ 』とある。この記事で見る限り、蘇我蝦夷より前に書かれており、朝廷の権力を掴みつつある蘇我馬子に重用されていると考えられる。
三十一年には、新羅征伐にあたっては、大徳 境部臣雄摩呂(ダイトク サカイベノオミノオマロ・蘇我氏の一族らしい)・小徳 中臣連国(ショウトク ナカトミノムラジクニ・鎌足の叔父らしい)を大将軍として、副将軍に小徳の位の七人が列記されてるが、その中に大伴連の名もある。記事には、大伴連とだけで名前が書かれていないが、「噛」という説が多いらしい。もし、そうだとすれば、副将軍七人のうちの七番目であることが少々気になる。別の人物のような気もする。
なお、大徳というのは、推古十二階冠位の第一位であり、小徳は第二位である。

このように、日本書紀の記事をみる限り、大伴氏はなお軍事集団としての力を保持しており、朝鮮半島諸国との関係にも影響力を保っていたと思われるのである。

     ☆   ☆   ☆
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 12 )

2017-12-31 08:42:14 | 歴史散策
          歴史散策
              古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 12 )  

名門を貫く 

「古代」とは、どの期間を指すのか。明確に示すことは簡単な事ではあるまい。
世界史的な歴史の流れの区分とすれば、「原始時代・古代・中世・近代」の中の一時期ということになるが、今少し具体的な年度で示すとなれば、政治面を重視するか文化面を重視するかなどによっても変わってくるであろうし、地域や国家によっても時間差がある。
例えば、西洋史の説明によれば、古代とは、古代ギリシアにおけるエーゲ文明の成立から、ローマ帝国の崩壊(476)を指すようである。ただ、エーゲ文明の成立とはいつなのかと調べてみると、素人にはなかなか分かりにくいが、ざっと紀元前1000年以上遡るようである。
中国史では、秦王朝の成立(紀元前 221)とするのが一般的で、後漢王朝の崩壊(220)、あるいは唐王朝の崩壊(907)までとするようである。西洋史と中国史との間の乖離が大き過ぎるような気はする。

一方で、わが国の歴史においてどうかとなると、もちろん諸説あるが、聖徳太子が政権を担っていたとされる頃(590前後)から平安時代の平清盛が政権を握る頃(1160)というのが一つの考え方としてある。始まりにしろ終わりにしろ、西洋の文明とそれほどの差があるのかという不満はあるが、本稿のテーマとは外れるので深追いは避けたい。
そこで、本稿のテーマである「古代大伴氏」というのはどの時代のことを指すのかということであるが、筆者が考えているのは、歴史区分上の古代とは遥かに古い時代を始まりと考えており、天孫降臨に際してニニギノミコトに従ったとされるアメノオシヒノミコト(天忍日命)を始祖として、栄光と悲哀に満ちた波乱の一族の幕を閉じたのは大伴家持とした作品と考えていただきたいのである。従って、この「古代」という意味は、歴史区分上の古代というよりは、遥かに古い時代という方が適切と言える。

ところで、特別に研究している人などを除いた場合、大伴氏と言えば、まず大伴家持を連想するのではないだろうか。そして、その人物に対するイメージは、著名な歌人、あるいは万葉集の成立に深く関わった人物、というものではないだろうか。そして、強大な軍事力を擁する古代名門氏族の棟梁としてのイメージは薄いのではないだろうか。
しかし、彼こそが、古代名門氏族の最後の長として、その悲哀の部分を受け持った人物であったと思われるのである。

古代大伴氏の始祖をアメノオシヒノミコトまで遡るのは、あまりにも神代の時代に入り込んでしまうとしても、おそらく、後世にまで続く大王家(天皇家)の歴史と寄り添うような過去に遡ることは間違いあるまい。
そして、王朝内での権力が最大であった時期は、大伴金村が大連として活躍した武烈天皇・継体天皇の御代と考えられ、安閑天皇・宣化天皇の御代もその勢力は保っていたと推定されるが、その金村は欽明天皇即位直後に隠棲したようである。日本書紀に従えば、西暦540年のことである。
この絶頂期を終えた時から前回の推古天皇崩御(628)までの八十余年を、なお軍事集団としての勢力を保持していたと考えられるが、大伴家持が登場するまでにはなお百年という年月を要するのである。この間の大伴氏の消息を、日本書紀により辿ってみる。

さて、推古天皇の治世は三十六年に及ぶ。わが国古代史上に大きな足跡を残した女帝は七十五歳で崩御したが、後継者を決めていなかった。その結果は、激しい後継者争いがあったであろうことは容易に推定できる。
推古天皇は後継者を明確にしていなかったが、日本書紀によれば、有力候補者と考えられる田村皇子と山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)に遺言らしい言葉を残していたという。
敏達天皇の孫にあたる田村皇子には、「天下の統治を委任されることは大事である。軽々しく口にすることではない。田村皇子よ、慎重に考えよ。それを怠ってはならない」と言い残した。一方の用明天皇の孫である山背大兄王には、「お前は、一人で騒ぎ立ててはならない。必ず群臣の言葉に従って、慎重に違わないようにふるまえ」と言い残した。
この二人に残した言葉の推古天皇の真意はどういう事であったのか、なかなか断定するのは難しい。後世の研究者の意見も分かれる。

群臣たちによる後継者選びが討議されようとした時、「天皇の遺命に従うのみである。群臣の意見を聞くまでもない」と意見を述べたのが、大伴鯨連であった。何人かの重臣は大伴鯨連の意見には賛成したが、推古天皇の真意がいずれを指しているのか決めることは出来ず、両陣営による激しいせめぎ合いがあったようである。
結局田村皇子が舒明天皇として即位することになるが、破れた山背大兄王は滅亡に至る。
当時の政権の最大の実力者は蘇我蝦夷であったが、山背大兄王は厩戸皇子(聖徳太子)の御子であり、蘇我氏とは極めて近しい関係にあったはずである。また、厩戸皇子が推古天皇の摂政として多大な業績を残したのが事実だとすれば、山背大兄王こそ後継者として最有力であったと思われるが、逆に一族が滅びてしまうという流れは、歴史の不思議としか表現できない。
ただ、本稿の主題は大伴氏の動向なので本筋に戻ると、推古天皇後継者を選ぶ重要な場面に重臣の一人として存在していたということに注目したい。
ただ、この「大伴鯨連」という人物が、どうもよく分からないのである。日本書紀において、同一人物を違う名前で記録していることは他見されるが、この鯨連というのもその類なのか(例えば「長徳」)、実際にこういう人物がいたのか、誤記なのか、故意に加えられたのか、よく分からないのである。
因みに、他の文献で「太部鯨子連」と記されているようであり、日本書紀においても、本件記事の中で二度登場しているが、いずれも「大伴連」となっているのも少し気になる。
ただ、この三年後の舒明天皇三年の記事には、大伴連馬養を唐国からの使者を江口(難波津辺りか?)に迎えに派遣したことが記されている。この人物は「長徳(ナガトコ)」が本名で、大伴氏の棟梁足る人物であり、後に右大臣まで上っているので、政権中枢とまでは行かないまでも有力豪族としての地位は保っていたと考えられるのである。

この長徳(馬養・馬飼と同一人物)が登場するのは、皇極天皇元年(642)のことで、舒明前天皇の喪葬の場で、大臣に代わって誅(シノビゴト・故人を偲んで述べる言葉。)を奉ったと記されている。この時の冠位が小徳となっている。これは、推古天皇の御代に定められた冠位で、十二階位中の二番目であるが、具体的にどの程度なのかよく分からない。個人的な推測であるが、大臣より下位で、後の参議程度の地位と推定してる。
なお、皇極天皇は舒明天皇の皇后であるが、舒明天皇の皇太子は後の天智天皇であるが、このとき十六歳であった。この当時は、この年齢は即位するには若過ぎる年齢であったようである。
長徳は、大伴馬飼連として皇極三年六月にも登場していて、「茎の長さが八尺あり、本(モト)は別で末は連なっている」という百合の華を献上したと記されている。何とものどかな記事であるが、瑞祥とされたらしい。
皇極天皇は在位四年にして譲位する。次期天皇については、候補者たちが共に譲り合ったように日本書紀には書かれているが、実際は激しいせめぎ合いがあったのだろう。結局、皇極天皇の同母弟が孝徳天皇として即位するが、その時、「大伴長徳連(「あざなは馬飼」との説明書きがある。)、金の靫(ユキ・矢を入れる武具)を帯びて壇(タカミクラ)の右に立つ」とあり、相当有力な地位と考えられる。

この次の大伴氏の記事は大化五年三月のことで、「倉山田大臣が皇太子を暗殺しようとしている」という密告が皇太子に伝えられた。その真偽を質すために天皇は、大伴狛連(オオトモノコマノムラジ)・三国麻呂公・穂積噛臣を蘇我倉山田麻呂大臣の所に遣わして・・・」と登場している。
この事件は、蘇我入鹿暗殺という乙巳の変において、倉山田大臣は蘇我氏でありながら暗殺計画に加わっていたが、これによって謀殺されることになる。この皇太子というのは中大兄皇子(天智天皇)のことであるが、何かと謀略を繰り返した人物のように見える。
それはともかく、この大伴狛連という人物は、この事件にのみ登場しており、本家筋である長徳との関係は未詳である。
その長徳は、同じ年の四月に右大臣になったとの記事があり、健在であり、政権中枢に近い位置にあったと考えられる。

ただ、この後は、日本書紀の記事には登場していない。
この九年後の斉明天皇四年の項に、大伴君稲積という人物が登場しているが、陸奥の人物と思われ、いわゆる古代大伴氏とは別の家系と思われる。
つまり、大伴長徳連が右大臣に就任したという晴れがましい記事の後は、斉明天皇・天智天皇の御代には日本書紀から姿を消しているのである。

     ☆   ☆   ☆










        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 13 )

2017-12-31 08:41:21 | 歴史散策
          歴史散策
              古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 13 )

再び軍事の大伴として

大化五年四月、孝徳天皇の御代であるが、大伴長徳連(オオトモノナガトコムラジ)が小紫(ショウシ)から大紫に昇進して、右大臣に任じられた。この大紫という冠位であるが、平安時代の頃のものと単純に比較できないが、おそらく正三位程度と考えられ、政権中枢に極めて近い位置にあったと考えられる。
しかし、この後、大伴氏に関する記録は、日本書紀からしばらくの間絶える。

孝徳天皇はこの五年後に在位十年にして崩御する。
孝徳天皇は、父母を同じくする姉である皇極天皇から譲位されたが、即位にあたっては歴代天皇の継承にみられるように、少なからぬ軋轢があったようである。そのことが関係していたのかどうかは断言できないが、先帝と皇太子(中大兄皇子。両親は舒明天皇と皇極天皇。)に、苛め抜かれるような中で崩御しているのである。
この後は、皇極天皇が重祚して斉明天皇の御代となる。斉明天皇は在位六年余で崩御する。
この後は、皇太子であった中大兄皇子が即位するのが自然と思われるが、「皇太子、素服して称制したまふ。」と記録されている。「称制」というのは、「天子の後継者が即位の式を挙げずに政務を執ること」であるが、おそらく、斉明天皇の頃から政務の実権者であったと推定されるので、その形を継承したらしい。
ただ、称制の期間が七年近くに及んでいるのは、他にも原因があったのではないかと疑念が浮かぶ。即位の前年には、多くの反対を押し切って近江に都を移しており、いわゆるヤマト王権の地では即位の式典を挙げることが出来なかったのではないだろうか。まったく筆者個人の推測であるが。
一般的には、この期間は朝鮮半島との軋轢が激しいことから、それを原因とするようであるが、中大兄皇子という人物には、「山背大兄王一族の謀殺」「蘇我入鹿の暗殺」「有間皇子の悲劇」等に代表されるような、残酷な謀略が多すぎるように思われる。とても、飛鳥・大和の地で即位など困難だったのではないだろうか。

それはさておき、斉明天皇・称制期間も含めた天智天皇の御代には、大伴氏は、少なくとも日本書紀には全く登場していない。朝鮮半島諸国との緊張している時に、これら諸国との交渉や戦いに最も優れていると考えられる大伴氏の記録がないのは不思議ともいえる。
これも全く個人的な推定であるが、一つには、天皇家の親衛隊的な軍事集団である大伴氏は、苦境にある孝徳天皇の支援をしたために、斉明天皇・天智天皇の時代には遠ざけられたのではないかということである。もう一つは、律令国家を目指す形態の一つとして、軍事力の国家管理が進められていたのかもしれない。そのことが、大伴氏に代表されるような軍事集団が軽視された可能性もある。さらに言えば、半島諸国との戦いの苦戦の原因にわが国の軍事体制の変化もあったのかもしれないと、これも個人的な憶測であるが。

六年半に及ぶ称制の後に、中大兄皇子は天智天皇として即位する。その正式な在位期間は僅か四年で、崩御する。その晩年は、当時の常識としては、生母の出自からしてとても皇位など望めないはずの我が子大友皇子を後継者にすることであった。最後の策謀であったのかもしれない。
かねて後継者と目されていた皇太子的な立場にあった同母弟とされる大海人皇子(オオシアマノミコ/オオアマノミコ)は、身の危険を察して吉野に脱出する。
そして、天智天皇が没すると、近江朝廷と吉野の大海人皇子陣営との動きは激しくなる。日本書紀では、近江朝廷の重臣たちが大海人皇子を殺そうとしているとの情報を得て、吉野を脱出したことになっているが、その後の戦況や両陣営の動きを見ると、大海人皇子陣営の対処の適確さが際立っている。両者の実力差というより、準備の差と思われる。

いずれにしても、吉野に脱出していた大海人皇子と天智天皇の後継者大友皇子との間で戦闘が勃発する。壬申の乱と呼ばれる古代最大の内乱である。
壬申の乱については、多くの研究書があり様々な意見が紹介されている。この時代を語る上で重要な出来事であるが、本稿では割愛する。
なお、大友皇子については、現在は第三十九代弘文天皇として公認されている形であるが、弘文天皇という名前が登場するのは明治時代に入ってからのことで、筆者個人としては、正式な即位はなかったと考えている。

さて、本稿の主題である大伴氏の動向であるが、壬申の乱の前後にどのような立場にあったのか、日本書紀の記録を追ってみよう。
天武天皇元年(672)六月、大海人皇子は慌ただしく東国に向かった。御輿の用意が間に合わず、徒歩であったという。この時最初から従っていた者として、草壁皇子・忍壁皇子と舎人など二十人余り、女官など十余人であった。そして、その中に大伴連友国(オオトモノムラジトモクニ)の名前がある。
大海人皇子一行は、その日のうちに菟田(ウダ・宇陀郡)に着いたが、そこへ遅れて吉野から追って来た者の中に大伴連馬来田(マクタ)がいる。さらに、進軍途中では猟師二十余人が兵士として加わったが、その首領は大伴朴本連大国(オオトモノエノモトノムラジオオクニ)といった。
大海人皇子の動きを知った近江朝廷側も、各国の諸王や豪族たちへの働き掛けを強めた。
当然吉野や飛鳥の地においても同様の動きがあったが、大伴連馬来田と弟の吹負(フケイ)は飛鳥の地に在ったが、次の天子は大海人皇子であるべきと思って、病と称して倭の家(大和盆地の南部らしい)に退出した。そして、まず馬来田は大海人皇子一行の後を追って加わり、吹負はその地に留まって、一族や豪の者たちを集めた。その数は数十人程度であった。

伊勢国の北端にあたる桑名郡家(クワナノコオリノミヤケ・桑名郡の官庁)に入っていた大海人皇子の元に高市皇子(タケチノミコ・大海人皇子の子。全軍の大将格。)の進言を受けて、不破に向かった。この時、妃(後の皇后。持統天皇。)はこの地に残った。
大海人皇子が不破の郡家に着く頃には、尾張の国司が二万の軍兵を率いて帰順してきた。
東国での募兵は順調に進み、近江侵攻が始まる。
一方、飛鳥においては、大海人皇子の東国に向かった後、近江朝廷方はこの地の掌握、武器の獲得を図っていた。都は近江に移ったとはいえ、飛鳥の地は重要な地であった。
この近江朝廷方の動きに立ちはだかったのが大伴連吹負であった。倭京の留守官である坂上直熊毛(サカノウエノクマケ)と密かに相談し、数人の漢直を味方にするなどして奮闘している。高市皇子が大軍を率いてきたなどの風評を流すなど際どい戦いにより勝利する。その結果を、大伴連安麻呂らを不破宮に派遣して報告させた。大海人皇子は大変喜び、吹負を将軍に任命した。
吹負は、飛鳥をほぼ掌握する活躍を見せたが、その後攻勢に出て来た近江朝廷軍に乃楽山(ナラヤマ・大和国と山城国の国境にある)において大敗してしまう。吹負は伊賀あたりまでも敗走するが、幸運にも大海人皇子方からの増援軍が到着し、反転攻勢し、飛鳥の地を押さえることに成功するのである。吹負の軍勢は、当初は数十騎と記されていることから、その後勢力を拡大したとしても、近江にまで進軍するほどの力はなかったと考えられる。それでも、援軍を受けた上だとしても飛鳥掌握の殊勲者と言えよう。

一方、主戦場である近江での戦いは、兵力に大きな差もあって大海人皇子軍の大勝利で終わる。
壬申の乱の萌芽は、大海人皇子が近江宮を去った時にあったと考えられるが、実際の戦いは、大海人皇子が吉野を脱出したのが六月二十四日、大友皇子が自決に追い込まれたのが七月二十三日のことである。古代最大の戦いと言われるが、その戦いの期間は一か月に過ぎないのである。
また、戦後の処理についても、日本書紀には、八月二十五日に重罪八人を極刑に処したと記されているが、実際に斬罪となったのは、右大臣中臣連金だけのようで、左大臣蘇我臣赤兄は流罪とされている。その他にも流罪となったものは多くあったようだが、大納言であった紀臣大人(きのおみうし)などは天武王朝においても大納言に就いているようである。
その一方で、二万の軍兵を率いて参陣したとされる尾張国司は最高の武勲者と考えられるが、山に隠れて自殺している。本当は近江朝廷方だったのかもしれない。
壬申の乱に関する新資料が今後発見される可能性は極めて低いと考えられ、様々展開されるこの争乱の解釈は、ごく限られた資料の解釈の仕方の違いだけだと思われる。筆者としては、この争乱が、この時代に大きな転機をもたらしたことは確かであろうが、全国土を二分しての覇権争いといったものなどではなかったと考えている。

そうした争乱の中で、あちらこちらで大伴氏の名前が出てくる。いずれも政権の中枢ではなかったが、有力武者としての存在感は示されていたことが窺える。
そして、日本書紀の記録から知ることが出来ることは、古来、天皇の親衛的な軍事一族であるはずの大伴氏は、壬申の乱においては、近江朝廷方には属しておらず、そのほとんどが飛鳥周辺にいたらしく、争乱勃発後は大海人皇子陣営に加わっていることである。
そしてもう一つは、日本書紀の記事には大伴氏の名前が再三出てきているが、大伴朴本連大国などは猟師の首領として紹介されているが、やはり大伴氏の一族らしい。また、大伴氏の嫡流は、「金村ー(阿被比古)ー咋子ー長徳ー安摩呂ー旅人ー家持」というのがほぼ定説と考えられるが、壬申の乱に登場してくる人物は多彩である。記事の中には、吹負が本家筋である安麻呂に命令しているような記述もある。つまり、この頃の大伴氏は、嫡流家を統領とした一枚岩の軍団ではなかったらしい。
おそらくそれが、古代大伴氏が没落に向かう一因と考えられるが、避けることの出来ない歴史の流れというものなのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 14 )

2017-12-31 08:40:44 | 歴史散策
          歴史散策
            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 14 )

大乱の後

壬申の乱は、大海人皇子陣営の圧倒的な勝利で終わる。
大海人皇子は、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)において即位する。そして、正妃である鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ・天智天皇皇女。後の持統天皇。)を皇后とした。
この時からおよそ二十五年間は、天武・持統王朝とでもいえる安定した繁栄の時代を迎える。表面的には、であるが。
そして、この王朝は、壬申の乱に勝利した天武天皇によるものであるが、皇后はじめ天智天皇の皇女を多く妃としており、血統をみる限り、敗者側と考えられる天智天皇の影響が色濃く感じられるのである。そして何より、天武天皇の後を継ぐことになる持統天皇こそが、この王朝の真の主人公だったとも思われるのである。ただ、この事は本稿の主題から離れてしまう。

大伴氏は、壬申の乱において各所で複数の人物が活躍を見せている。いずれも、大伴氏の本分ともいえる武者としての活躍である。政権中枢とは縁が薄かったようであるが、有力一族としての存在感は十分うかがえる。
それともう一つ、前回でも述べたことであるが、古代大伴氏は神代の時代から一貫して大王(天皇)の親衛隊を通してきている。壬申の乱では、時の天皇である天智天皇側には従っておらず、一族のほとんどが飛鳥周辺に残っており、乱が勃発するとその多くが大海人皇子陣営に加わっているのである。
誇り高い古代大伴氏が、単に一族の利害だけで大海人皇子陣営に加わったとは考えづらく、天智天皇あるいは近江王朝からよほど粗略にされたか、大伴氏側が飛鳥に居残った多くの豪族たちと共に、中大兄皇子(天智天皇)を天子として認めていなかった可能性も考えられる。

いずれにしても、時代は天武朝となり落ち着きを見せる。
日本書紀の天武天皇の御代の大伴氏に関する記事も様変わりする。
天武天皇四年三月、大伴連御行(ミユキ)が小錦上・大輔(ショウキンジョウ・タイフ)に任命されている。正五位程度らしい。この人物は、嫡流と考えられる安麻呂の兄であり、大伴氏の「氏上」であったともされるので、この頃の大伴氏の統領的立場であったらしい。
同年七月、小錦上大伴連国麻呂が大使として新羅に派遣されている。
八年六月、大錦上大伴杜屋連が亡くなったと記されている。この人物は他に登場しておらず出自がよく分からないが、やはり中流の貴族程度の立場にあったらしい。
十二年六月、大伴連望多(マクタ・馬来田と同一人物)が亡くなった。「天皇は大いに驚いて、すぐさま泊瀬王(ハツセノオオキミ・出自未詳)を派遣して弔わせ、壬申の年の功績と、先祖たちのその時々の功績を挙げて顕彰して、褒賞が与えられた。そして、大紫位を贈り、鼓を打ち笛を吹いて葬った。」と続けられている。この人物は、吹負(フケイ)の兄で、大海人皇子が吉野脱出と共に従った功臣である。大紫位は正三位にあたり、天皇は最大の弔意を示したと思われる。同時に、生前は四位程度と考えられ、公卿にまでは昇っていなかったようだ。
同年八月には、弟の吹負も亡くなっている。この記事にも、「壬申の年の功績により、大錦中位を贈った」とある。この地位は従四位程度で、生前は五位程度と考えられ、壬申の乱の時、飛鳥の地での活躍を考えると、その評価はあまり高いものではなかったようだ。
十三年二月、「浄広肆(ジョウコウシ・五位程度か?)広瀬王(ヒロセノオオキミ・敏達天皇の孫)・小錦中大伴連安麻呂と判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣わして、都をつくるべき地を視占しめたまふ。」とある。この安麻呂は長徳の子であり旅人の父であるが、大伴氏の嫡流と考えられる人物である。小錦中は正五位下程度にあたると思われるので、中流貴族といった位置にあったようである。
同年十二月、大伴連・佐伯連・・・等々、五十氏に宿禰の姓(カバネ)が与えられた。新しい氏姓制度に移していくためのもので、「連」の多くに「宿禰」が与えられた。五十氏を列記する先頭に大伴氏があるのは、それだけの由緒があると認められていたのかもしれない。
十四年九月に、天皇が博戯(ハクギ・ばくちの一種らしい)をされ、そのメンバーだったらしい十人に御衣袴が下賜された。そのメンバーの中に、宮処王・難波王・武田王などと共に大伴宿禰御行の名前がある。天皇の側近くに伺候していたらしい。
朱鳥元年(天武十五年にあたる)正月、新羅の使者を饗応するために筑紫に遣わされたメンバーの中に大伴宿禰安麻呂の名前がある。冠位は直広参となっているが、制度変更のためのようで、あまり昇進していないようである。

天武天皇は、朱鳥元年(686)九月、波乱の生涯を終える。
殯(モガリ)の庭で各部署の代表者が誄(シノビゴト)を申し述べているが、安麻呂が大蔵の事を誄たてまつっている。
このように、天武天皇の御代においても、大伴氏は、公卿の地位には及ばなかったようであるが、天皇にかなり近い位置に仕えており、朝鮮半島の事にも関係していたようである。しかし、日本書紀に見る限り、軍事部族としての華々しい活躍は見られなかったようである。

天武天皇が崩御すると、すぐに皇后は、「臨朝称制(リンチョウショゥセイ)」された。臨時に政務を執ると宣言されたのであろう。
その機敏な行動を推察するとすれば、第一には、歴代天皇の代替わりの混乱を避けようと考えたと思われる。この時も、壬申の乱で活躍した有力な皇子たちが多くいた。現に、葬送に大津皇子が謀反の疑いで死に追い込まれている。実子の草壁皇子を溺愛する皇后にとって、大津皇子はあまりにも実力が抜きん出ていたのであろう。
しかし、称制を急いだもっと大きな理由は、この王朝の主人公は自分であるべきだと考えていたのではないか、というのが筆者の個人的見解である。そして、実際に強固な王朝が築かれて行ったのである。

持統王朝における日本書紀に記録されている大伴氏の動向を見ると、存在感の変化は天武王朝以上にはっきりとしている。
持統天皇二年八月、「殯宮に嘗(ミケ・新穀)をたてまつり、大伴宿禰安麻呂が誄をたてまつる。」
同年十一月にも、大伴宿禰御行が誄たてまつった、とある。
三年六月、施基以下数人が撰善言司(ヨキコトエラブツカサ・天皇が孫の軽皇子等のための教科書のような物を作る役目か?)に任命されているが、その中に、務大参大伴宿禰手拍(タウチ)の名がある。手拍の出自は不詳であるが、務大参(ムダイサン)というのは、七位程度にあたるので、後世の殿上人には程遠く、重要そうな職務の割には身分は高くなかったようだ。ただこの人物は、後には従四位下まで昇進している。

四年九月と十月に大伴部博麻(オオトモベノハカマ)という人物についてかなりの紙面が割かれている。大伴部というのは、大伴氏の部民という意味であると思われ、古代大伴氏の一族とは別と思われる。ただこの人物は、ある時期愛国心の持ち主として高く評価されたことがあるので、日本書紀の記事を略記しておく。
『 斉明天皇の七年(661)の百済救援の戦役で博麻は捕虜となった。三年後の天智天皇三年、土師連富杼(ハジノムラジホド)ら四人が唐人の計略を報告しようと考えたが、衣服も食料もなく伝えられないことを嘆いていた。その時博麻は、「自分も共に帰国したいが、衣食がなく付いていけない。それゆえ、どうか私の身を売って皆様の衣食の費用にしてください」と富杼等に申し出た。それによって四人は朝廷に報告することが出来た。その後、博麻は奴隷の身となって異国の地で三十年を過ごした。
持統四年九月、博麻は新羅の使者に従って帰国を果たした。
持統天皇は大伴部博麻に詔して、その朝廷を尊び国を愛する心と、身を売ってまで行った忠誠心を誉めて、たいそうな褒賞を与えている。因みに記してみると、「務大肆(七位下程度)を与え、さらに、絁(アシギヌ・粗製の絹布)五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町を下賜。その水田は曽孫まで伝えよ。三族(ミツノヤカラ・父子孫を指すか?)の課役を免じ、その功績を顕彰する」というものである。それぞれの単位がどの程度なのかなど分からないが、相当例外的なものであったらしい。

五年の正月に、大伴御行宿禰が八十戸の増封があり三百戸となった、という記事がある。
同年八月、十八氏に墓紀の提出が詔されている。祖先の事跡を報告させたもののようで、大伴氏もその中に入っている。
六年四月、大伴宿禰友国に直大弐(ジキダイニ・従四位程度)を追贈し、賻物(フモツ・供え物)を贈った、とある。この人物は、長徳の子らしいが、生前は五位格であったらしい。
七年三月、勤大弐大伴宿禰子君が新羅に派遣される使者の一人として布などを下賜されたとある。この人物の出自は未詳であるが、勤大弐は六位程度である。
同年四月には、大伴男人(オオトモノオヒト)が盗みを働いたという記事がある。位を二階下げて、官職を解任されている。この人物は、大納言にまで昇った大伴馬来田の子らしいが、後に四位まで昇っている人物と同人らしい。そうだとすれば、盗みの罪が晴らされたのか、あるいは父の威光がまだ及んでいたのかもしれない。
八年正月、大伴宿禰御行に正広肆(ショウコウシ)が授けられた。二百戸が増封されて合計で五百戸となる。また、「氏上(ウジノカミ)」に任命されている。正広肆は従三位程度であり、いわゆる公卿にあたる。また、当時の「氏上」がどの程度の権限を有したものかよく分からないが、この頃は御行が大伴氏の統領的な立場であったらしい。十年十月には、資人(ツカイビト・高級官人に与えられる従者。以前の舎人にあたる。)八十人が与えられた。

日本書紀の持統記にある大伴氏の記録は以上である。
持統天皇は、十一年八月に、まだ十五歳の皇太子、軽皇子(カルノミコ・文武天皇)に譲位する。
天武・持統と続く御代は、白鳳時代とも称されるように繁栄を築いていったが、豪族たちの動向から見れば、藤原氏が台頭が著しい時期でもあった。
そうした中で、大伴氏は、御行は大納言まで上っており、また複数の人物が貴族階級として存在感を示していたようである。しかし、日本書紀の記録を見る限り、大陸との交渉には若干の関わりは持っていたようであるが、軍事集団としての活躍はほとんど見えない。
古代大伴氏の活躍の場は変わりつつあったと思われるのである。

     ☆   ☆   ☆






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 15 )

2017-12-31 08:39:52 | 歴史散策
          歴史散策
            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 15 )

再び栄光の道

本稿の中心資料である日本書紀は、持統天皇が皇太子軽皇子(カルノミコ・文武天皇)に譲位したという記事で終わる。持統十一年(697)のことである。
日本書紀が編纂され上奏されたのは養老四年(720)のことで、元正天皇の御代のことである。元正天皇から見れば、持統天皇は祖母にあたり、数代前までは血族を実感できるような天皇なのである。日本書紀の記事の内容については、その辺りのことは考慮すべきであることは当然といえよう。

さて、持統天皇が愛してやまなかった草壁皇子の忘れ形見である軽皇子に譲位した頃、大伴氏の統領的立場にあったのは、大伴御行(オオトモノミユキ)であった。
御行は大伴氏の嫡流と考えられる長徳(ナガトコ)の子であるが、持統天皇の御代で昇進を続け、高市皇子、多治比嶋などに次ぐ地位にあった。壬申の乱では馬来田・吹負ら一族と共に大海人皇子(天武天皇)方として戦ったらしく、昇進も武人としての器量を認められたものと推定できる。しかし、この人物には、「竹取物語」のモデルになっているという一面もある。
「竹取物語」は、ご存知のように、かぐや姫が登場する物語であるが、平安時代初期に成立したとされる古典文学上重要な位置を占めている作品であるが、その中に、「かぐや姫に想いを寄せる男たちは数知れずいたが、やがて五人の公達が残った。かぐや姫は、その五人に難問を突き付けて果たした人の妻になると申し出た・・・」。ざっと、このような部分がありますが、この五人の中の一人に、「大納言大伴のみゆき」として登場しているのである。
因みに、かぐや姫が大納言大伴みゆきに出した課題は、「龍の首の珠」を持ってくることであったが、残念ながら果たすことは出来なかった。もし、求めることが出来ていて、かぐや姫を妻に迎えることが出来ていれば、大伴氏の歴史は大きく変わっていたのではないかなどと考えてしまうのである。
少々余談が過ぎたが、つまり、この頃の大伴氏の統領は、世間的には、軍事一族というよりも、華やかな高級貴族としての地位にあったということかもしれない。

御行は、大宝元年(701)一月に死去した。享年は五十六歳位と考えられている。
この時、天皇(文武)は藤原不比等らを御行邸に遣わして右大臣を贈っている。朝廷内で重要な地位を占めていたことと、この頃は、十三歳ほど年下の不比等とは、対等以上の力関係にあったと推定される。
御行が死去した後は、安麻呂(ヤスマロ・長徳の六男らしく、御行の異母弟と考えられる)が大伴氏の統領としての地位を引き継いだ。
安麻呂は、壬申の乱においては、飛鳥の地で活躍した吹負の下で戦っていたようであるが、その後、順調に昇進していたようで、御行の死去間もない三月には従三位に昇り、翌年には参議となり、政権の中枢に加わっている。
その後、大納言兼大将軍となり、三年ばかりの間は太宰帥も兼務している。軍事豪族として、また朝鮮半島諸国との関係でも重きをなしていたらしい。
これらを勘案すると、御行と安麻呂の時代は大伴氏の地位は何の揺るぎもないかに見えるが、歴史の流れを見ると、この時期こそは、藤原不比等が権力基盤を固めた時期に重なるのである。つまり、大伴氏の地位は不動に見えながらも藤原氏という大きな勢力に飲み込まれつつあったのである。そして、それは、呑み込まれるという現象ではなく、なお武人として名高い大伴氏は、藤原氏にとって危険な存在として映っていたのである。

安麻呂は、和銅七年(714)五月、大納言兼大将軍として世を去った。元明天皇はその死を深く悼み、鈴鹿王らを遣わして従二位を贈った。大伴氏の存在感が決して小さいものではなかったことが分かる。
その一方で、藤原不比等はすでに右大臣として政権の頂点にあり、藤原四兄弟として名高いその子息たちは、すでに成人していて、まだ中枢には至っていなかったが、それぞれ五位前後の地位を占めていて、盤石の布陣が出来上がりつつあった。

安麻呂の死後、大伴氏の統領的立場を引き継いだのは、安麻呂の長男・旅人であった。
この時、旅人は五十歳であった。和銅三年(710)正月には元明天皇の朝賀に際して左将軍として騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した、という記録が残されているので、すでに武人としては第一人者であったと考えられるが、冠位は従四位程度と公卿には程遠い地位であった。
しかし、その後は順調に昇進し、養老二年(718)には中納言に昇り、養老四年三月には隼人の反乱に際しては、征隼人持節大将軍に任命されている。
このように九州での戦闘が行われている最中に、藤原不比等が死去した。同年八月のことである。そして、十月に行われた不比等の葬儀には、旅人は使者として遣わされている。このことから、藤原不比等と大伴氏の関係は悪くなく、むしろ旅人などは不比等の支援を受けていたのかもしれない。

旅人は、歴代大伴氏の嫡流がそうであったように天皇に忠誠を誓う人物であったことは確かだと思われる。
元正天皇の忠節な臣下であったが、同時に長屋王は直接的な上司といった関係であったらしい。
「長屋王の変」と呼ばれる政争は、この時代の大事件であり、長屋王邸跡から大量の木簡が発見されたこともあって、長屋王をめぐる思惑は、歴史フアンにとってとても興味深いが、本稿では割愛することになるが、少しばかり触れておこう。
長屋王は、天武天皇の長男である高市皇子の嫡子である。この高市皇子という人物は、天武天皇の後を継いだ持統天皇朝においては、太政大臣として臣下の最高位に立ち絶大な権力を有していたと考えられている。
さらに、長屋王邸から発見された木簡の中には、「長屋親王」と記された物があり、日本霊異記にも同様の表記がある。つまり、もし「長屋親王」という表記が正しいとすれば、それは高市皇子が即位して天皇であったということになるのである。実際に、少数派ではあるが「長屋天皇」節は根強く息づいている。
その真否はともかく、長屋王が莫大な資産と人脈を引き継いでいたことは間違いなく、長屋王を天皇家の有力後継者と考える皇族や豪族たちも少なくなく、旅人もその一人だったのかもしれない。
そして、そのことが、長屋王の悲劇を産み、大伴氏の悲哀を加速させたのかもしれない。

当時の政権の頂点にあった藤原不比等は、天皇家に藤原氏の娘を入内させることに奔走していたが、長屋王にも自分の娘を嫁がせている。長屋王を天皇家の有力後継者と考えていたか否かはともかく、不比等は長屋王の存在を重視していたし、不比等によって、元正天皇を支える勢力と長屋王を担おうとする勢力の間の対立を押さえていたのかもしれない。
そうした状況の中で、稀代の英雄藤原不比等は没する。養老四年(720)八月のことである。
不比等という重石が取れると、権力基盤を強めてきている藤原四兄弟を中心とした聖武天皇を支える勢力にとって、長屋王は目障りな存在に見えたことは想像に難くない。
結局、長屋王一族は、神亀六年(729)二月、舎人親王や藤原宇合らの軍勢に屋敷を包囲され、謀反の罪で自害に追い込まれるのである。
この時、旅人は太宰の帥として九州の地に在った。前年に赴任したらしいが、二度目の拝命であり、九州防備が重要な時期ではあったが、藤原四兄弟らにより左遷に近い人事であったと考えられる。
長屋王は、身の危険が切迫するにつけ旅人の帰京を促したようであるが、九州防備のためか、藤原氏の立ち位置を考慮した面もあってか、動くことはなかった。おそらく藤原四兄弟側からの圧迫も強かったものと想像されるが、大伴氏の軍事力は両陣営から重視されていたようだ。

旅人は、長屋王の変の鎮静を待って、帰京を願ったようだ。頼ったのは、おそらく、長屋王討伐に積極的に加わらなかったらしい藤原房前である可能性が高い。
この時点の太政官の最高位は舎人親王であったが、高官が相次ぎ没しており、旅人はこれに次ぐ地位に押し上げられたようである。翌年十一月には大納言に任じられ、待望の帰京を果たした。
翌年、天平三年(731)正月に従二位に昇進するが、七月に急死する。享年は六十七歳であり、当時としては長命といえ、病死とされているのは自然に思われる。しかし、急死であったともいわれることや、保持する強大な軍事力や、長屋王と極めて近かったなど微妙な立ち位置等を考え合わせると、筆者には不自然な死のようにも感じられるのである。

旅人が死去した天平三年は、聖武天皇が即位して七年が経っており、政権は安定しつつあった。聖武天皇の御代についても、様々な説があるようではあるが、その御代は二十六年間に及び、いわゆる天平文化が花開いた時期である。
武人・大伴旅人の死去は、軍事一族古代大伴氏の終焉を示唆する出来事だったのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 16 )

2017-12-31 08:39:08 | 歴史散策
          歴史散策
            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 16 )

海行かば 水漬く屍

『 海行かば 水漬く屍(ミズクカバネ) 山行かば 草生す屍(クサムスカバネ) 
  大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ かへり見は せじ・・・     』

これは、万葉集の巻十八の中に載せられている大伴家持の長歌の一部である。
この歌には、「陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首また短歌」といった添書があり、長歌一首と短歌三首が載せられている。
陸奥国から初めて黄金が朝廷に献上されたのは、天平二十一年(749)二月の事であるが、大仏建立を進めていた聖武天皇は大変喜び、その恵みを祖先から贈られたものとし、改めて群臣たちに忠誠を誓うよう詔書を発布した。この時、家持は越中守として赴任地にあったが、詔書に応えたのがこれらの歌である。家持三十二歳の頃と考えられるが、この時に従五位上に昇進し、越中守という地位も歴としたものではあるが、名門大伴氏の統領としては忸怩(ジクジ)たる思いを抱いていたのかもしれない。この歌には、遥かな昔から大王(天皇)の側近くで仕えてきた武人としての祖先の誇りを絶唱したように感じられる。

家持は、この二年後、少納言として帰京を果たした。
その後、兵部少輔、山陰道巡察使、兵部大輔、因幡守、薩摩守、そして太宰少弐などを歴任し、ようやく公卿とされる参議に辿り着いたのは、宝亀十一年(780)のことである。家持は六十三歳になっていた。

家持は大伴旅人の嫡男として誕生した。旅人は武勇に優れ、時の有力者長屋王の信頼も大きかった。それだけに、本人の意思にかかわらず政争に巻き込まれたようである。
母は丹比郎女(タジヒノイラツメ)。丹比(多治比とも)氏は、第二十八代宣化天皇の三世孫である多治比古王を始祖とする一族で大納言等を輩出した有力貴族であった。しかし、家持と同じように、幾つかの事変に巻き込まれ一族は没落していった。
家持は、その母と十一歳の頃に死別し、父旅人も十四歳の頃に没している。その後は、大伴坂上郎女(オオトモノサカノウエノイラツメ)に養育され、後見されたようである。

坂上郎女は、大伴安麻呂の娘であるので、旅人の異母妹であり、家持からすれば、叔母であり姑にあたる。
坂上郎女は、十三歳の頃に天武天皇の皇子穂積親王に嫁ぐが死別する。その後は命婦として宮廷に仕えたらしく、その時に首皇子(聖武天皇)と親交があったらしい。その後に藤原麻呂と親密になるも死別と不運が続く。
やがて、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり二人の娘を儲けたが宿奈麻呂にも先立たれた。この娘の一人が家持の妻になっている。それからどのくらい後のことか、任地の大宰府で妻を亡くした旅人のもとに赴き、家事を取り仕切り家持らを養育した。
父を亡くした家持は、旅人が長屋王と親しかったこともあり、朝廷を掌握しつつある藤原氏にとって、好ましい人物ではなかったようだ。その家持が、何とか朝廷で身を立てることが出来るようになった陰には、坂上郎女の人脈が働いていたと想像される。

そして、遅々としながらも貴族としての道を歩み始めた家持であったが、藤原氏の家持を見る目は厳しかったようで、藤原仲麻呂の暗殺を謀った橘奈良麻呂の変では、家持自身の関与はなかったものの一族からは処罰される者があり、因幡守への転出は左遷であった可能性がある。
やがて、遅れながらも参議となり、三年後の延暦二年(783)七月には中納言に昇った。翌年二月には、時節征東将軍に任命されているが、これが散りゆく古代大伴氏の武勇を称えるはなむけだったのかもしれない。
その翌年の延暦四年(785)八月二十八日に家持は逝去する。享年六十八歳であった。

しかし、家持の波乱の生涯は死によって終わらなかった。
死去の翌月の九月二十三日、長岡京造営の責任者である藤原種継が暗殺されるという事件が発生した。平城京からの遷都は桓武天皇の悲願であっただけに大事件となった。
暗殺の実行者は大伴竹良とされ、大伴氏の一族を中心として多くの関与者が逮捕され、十数人が処刑され、連座となった者も大勢流罪となった。そして、首謀者は大伴家持だとなり、死去していたが見逃されることなく、除名となり生前の冠位は剥奪された。
さらに、桓武天皇の皇太弟であった早良親王が関与したとされ廃嫡となり、無実を訴える親王は絶食し、淡路に配流される途中で憤死している。その後早良親王は怨霊となり桓武天皇を悩ませることになる。
この事件のすべてが画策されたものとは思われないが、いくら怨霊に悩まされたとしても、事件から十五年後には早良親王には崇道天皇の追称が与えられ、大伴家持なども二十一年後に名誉が復されている。かなり、政治的な作為が加わった事件であったように思われる。

家持が没して三十八年後の弘仁十四年(823)に、淳和天皇(大伴親王)が即位すると、その諱(イミナ・貴人の実名)を憚って、大伴氏一族は「伴氏」と氏を改めた。氏名の面からも、古代大伴氏は姿を消すことになるのである。
この後も、応天門放火事件の首謀者とされる伴善男が大納言になるなど公卿や貴族を輩出しているが、古代大伴氏の栄光を引き継いだものとは考えづらい。

本稿は、古代大伴氏の軍事一族としての圧倒的な存在と、国家の近代化とともに没落していく悲哀の一端を描こうとしたものであるが、終わるにあたって考えてみれば、私たちが日本書紀などを通して知ることの出来る時代の大伴氏は、武弁のみで生き抜くことの困難な悲哀の連続であったのかもしれないと思うのである。
『 海行かば 水漬く屍 山行けば 草生す屍 ・・・ 』という家持の絶唱にあるように、天孫降臨に始まる、あるいはそれより前の時代も含めた数百年数千年に渡って大王(天皇)の側近くで、身を呈して戦い続けた時代こそが、古代大伴氏の真の栄光の時であったのかも知れないと想いを廻らすのである。

                                        ( 完 )

     ☆   ☆   ☆



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  平安の都へ

2017-06-10 09:41:39 | 歴史散策
          歴史散策
            『 平安の都へ 』

   神武東征以来、天皇家の本拠地であった大和の地を棄てたのは何ゆえか。
   天智天皇などごく限られた期間、逃げ出すように大和を離れた王朝もあるにはあったが、
   桓武天皇の遷都は少し違うように見える。
   平安の都を求めての遷都は、桓武天皇の勇断なのか、とうとうと流れる時代の要請なのか、
   その一端にでも触れてみたいと思う。


     全八回の作品です。ご一読いただきたくご案内いたします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史散策  平安の都へ ( 1 )

2017-06-10 08:38:41 | 歴史散策
          歴史散策
             平安の都へ ( 1 )

手白香皇女

我が国の天皇家は、神武天皇以来男系男子により相伝されているとされる。
その信憑性云々はともかく、また、神話の時代を素直に受け取っての話であるが、多くの記録が伝えられている。それらの記録や伝承は、近代にいたって創作されたり修正されたものもないわけではないが、その多くは、古事記や日本書紀に代表されるように、千数百年の昔から伝えられているものである。
もちろん、古事記にしろ日本書紀にしろ、当時の国家支配者層が政治的な思惑や、祖先を美化させる目的などで意図的に創作されたものも少なくないことは十分に想像できるが、そういう意見をすべて認めるとしても、古事記や日本書紀に描かれている世界は、当時の我が国の姿の一端を伝えてくれていることに変わりはない。

当時、つまり、この物語の最初に登場する手白香皇女(タシラカノヒメミコ)が生きた時代前後を考えてみた場合、どの範囲を我が国と表現すればよいかということじたい多くの説があるが、まことに荒っぽい表現であるが、本州・四国・九州の大半を指すと考えた場合、大王家、すなわち天皇権力がその隅々まで行き渡っていたわけではないようである。
現在に伝えられている記録などをベースに考えると、国家全体が天皇とその周辺勢力を中心として運営されていたかの錯覚を受けるが、それは、伝えられている記録がそうであったというだけで、支配力が及んでいた地域は限定的であり、完全に掌握していた地域となれば、さらに範囲は限られてくると考えられる。

手白香皇女は、古代の歴史、特に皇統について考える時、極めて大きな意味を背負っている皇女といえる。
父は第二十四代仁賢天皇であり、母は第二十一代雄略天皇の皇女である春日大娘皇女(カズガノオオイラツメノヒメミコ)である。
実は、この母も数奇な運命を乗り越えて手白香皇女を世に送り出したという、重要な存在ともいえるのである。因みに手白香皇女の両親の系譜を記すと、
父方は、応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子ー仁賢天皇であり、
母方は、応神天皇ー仁徳天皇ー允恭天皇ー雄略天皇  -春日大娘皇女となる。
つまり、応仁・仁徳天皇の系譜が二系列に分かれかけていたのが、仁賢・春日大娘によって一本化されたことになるが、それ以上に興味深いことは、有力な天皇候補者であった市辺押磐皇子は雄略天皇によって殺害されているのである。春日大娘皇女はともかく、父を殺害された仁賢天皇が親の仇の娘を后に迎えたのは何故なのだろうか。
春日大娘皇女が仁賢天皇のわだかまりを打ち消すほどの魅力にあふれていたとか、相思相愛であったとか、そういうことが皆無とはいえないとしても、この時代の歴史を考える場合にはロマンチックすぎると思われる。やはりそこには、もっと政治的な意味があり、仁賢天皇としてはどうしても先帝の皇女を后に迎える必要があったと考える方が納得性があるように思われる。
天皇の皇子でない仁賢としては、即位のためにはどうしても先帝の皇女を后に迎える必要があったと考えられるのである。

そして、それは、大王家の血統を護るといった意味以上に、当時の大王家を中心とした統治を行うにあたっては、天皇の皇子でない人物にとっては、先帝の皇女を娶ることが権力把握の必要条件であったように思われるのである。
当時の大王(天皇)は、この後多く登場してくる女性天皇も含めて、相当の統率力を有していたと考えられるが、そのためには、個人的な資質に加えて、その地位に就くべき血統、さらには、一族や有力豪族の承認や支援が絶対に必要であることは容易に推定できる。特に、有力豪族、例えば、大伴氏や物部氏、蘇我氏からやがては藤原氏が登場してくるように、大王権力は有力豪族の武力や資力に裏打ちされていたと考えられる。
その有力豪族たちを心酔させるためには、脈々と続くとされる血統の神聖さこそが重要であり、そのことに弱みを持つ人物にとっては、先帝の皇女は、絶対に必要だったのではないだろうか。

手白香皇女は、そのような運命を背負った両親から誕生したが、仁賢天皇と春日大娘皇女の仲は睦まじいものであったらしく、七人の子供が生まれている。六人は皇女で、ただ一人の皇子が後の武烈天皇である。但し、古事記では皇子が二人であったとされており、手白香皇女も武烈天皇の姉とされているが妹という説もあるらしい。
仁賢天皇崩御後に武烈天皇が即位したが、日本書紀にはその暴君ぶりが記されている。「妊婦の腹を裂いた」などといった悪逆非道な具体例は紹介するのさえはばかれるほどであるが、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまわず」と厳しく記されている。
ただ、日本書紀の記事は、継体天皇以後の系統を善良とするための作為のように思われてならない。その理由は、まず、古事記には武烈天皇の悪逆ぶりは全く記録されていないこと。次には、信憑性に欠ける部分はあるが、武烈天皇の誕生は西暦489年とされていて、即位が498年で崩御が506年とされているのを信じるとすれば、在位期間は数え年で10歳から18歳となり、いくらなんでも信じがたいのである。
そして、この天皇は、後継者を残すことなく崩御したため、次期天皇をめぐって大混乱となり、手白香皇女が歴史上の重要人物としてクローズアップされてくるのである。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする