雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  女帝輝く世紀 (3)

2017-02-22 11:22:50 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 (3) 』

我が国の女性天皇

我が国の天皇は、神武天皇から今上天皇まで百二十五代を数える。
この中に女性天皇は十代であり、あとの百十五代は男性天皇であるから、わが国の皇位は男性中心に引き継がれてきたことは否定できない。女性天皇のうち二人は重祚(チョゥソ・一度退位したのち再び即位すること)しているので、人数では八人となり、男女差はさらに広がる。
しかし、我が国の歴史を天皇の在位から見てみると、ほぼ実在が確実視されている千数百年のほとんどが男性天皇であることは確かであるが、すべての期間が男性天皇中心であったかということになると、少し違う。明らかに女性天皇が中心であったと考えられる時代がある。
それが、飛鳥時代から奈良時代の期間であり、本稿の表題とした、『女帝輝く世紀』であったと考えられるのである。

因みに、歴代の女性天皇の在位期間を列記してみよう。(西暦年)
33代  推古天皇  ( 592~628 ) 
35代  皇極天皇  ( 642~645 )
37代  斉明天皇  ( 655~661 )
41代  持統天皇 ( 690~697 )
43代  元明天皇 ( 707~715 )
44代  元正天皇 ( 715~724 )
46代  孝謙天皇 ( 749~758 )
48代  称徳天皇 ( 764~770 )
109代 明正天皇 (1629~1643)
117代 後桜町天皇 (1762~1770)

このうち、明正天皇と後桜町天皇は江戸時代になってからの天皇である。明正天皇は後水尾天皇の皇女であるが、母は徳川二代将軍秀忠の娘和子であることから分かるように、朝廷と徳川幕府との軋轢の中での即位と推定される。後桜町天皇は、摂関家をはじめとした朝廷内の混乱を避けるためであったといわれている。
いずれにしても、本稿においては、この二天皇は対象外の時代となる。

本稿のテーマである「女帝輝く世紀」とは、推古天皇が即位した時から称徳天皇が崩御するまでのおよそ百七十八年間を指す。
その期間の女性天皇の在位期間はおよそ九十五年間であり、この期間の男性天皇七代の在位期間はおよそ八十三年間ということになる。
我が国の起源をどこに置くかということについては安易に確定できないが、継体天皇の即位からだけでも千五百年に及ぶ天皇の在位期間があり、そのうちの百七十八年間だけを切り取って「女帝輝く世紀」と特別扱いすることに異論もあろうが、百七十八年間は決して短い期間でもない。
そして、この期間は、現在の私たちが認識している時代区分からいえば、飛鳥時代と奈良時代のほとんどを占めており、その後の我が国の政治・文化などに大きな影響を与える出来事が包含されている時代なのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 4 )

2017-02-22 11:21:53 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 4 ) 』

女帝の先駆け

我が国における最初の女性天皇は推古天皇とされる。
もっとも、推古天皇即位の頃には、我が国にはまだ「天皇」という称号は使われていなかったので、おそらく「大王」という称号であったと推察されるが、本稿では、便宜上天皇の称号で書き進める。
さて、推古天皇誕生の背景については後に検討するとして、存在の正否はともかくとして、神武天皇以来三十二代にわたって男性天皇によって引き継がれてきた地位に、突然推古天皇が登場してきたのかといえば、そうではないらしい。推古天皇即位の個別の要因もさることながら、女性天皇を誕生させることを容認するような土壌が、すでに当時のわが国にあったように思われるのである。
つまり、推古天皇に先だった女帝が存在し、少なくとも皇族や有力豪族たちの間では知られていたと考えられるのである。

そもそも、神武天皇を初代天皇とすれば、さらに遡る我が国の初代大王となれば、天照大神(アマテラスオオミカミ)であろう。もちろんここまで遡れば神話の世界であることは承知の上でのことであるが、指導者層は天照大神の存在は知られていたはずである。「古事記」が太安万侶によって撰上されるのは西暦712年のことであるが、「古事記」や「日本書紀」に記されているような故事や登場人物については、断片的であれ指導者層は承知していたと考える方が自然であると思う。
つまり、我が国誕生に関わる重要人物(あるいは神)としては天照大神はよく知られており、この大神は女性神なのである。天照大神については、男性であったとか、あるいは中性であるといった説もあるようだが、女性と考える方が定説と思われる。

次の人物は、歴史フアンであれば誰もが一度はのめり込んだと言っても過言ではないと思われる女性、卑弥呼である。
卑弥呼については「古事記」などには登場しておらず、中国の正史に記されていることから古代のヒロインになったと言えよう。「魏志倭人伝」には、「倭国は、もともと男子が王位に就いていたが、国内が乱れ内乱が続いたため、一人の女子を共立して王とした。名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす」といった内容が記されている。つまり、「共立」とあることから、倭は連合国で、幾つかの国の王たちが相談の上、卑弥呼を倭の王としたのである。卑弥呼を邪馬台国の女王と呼ぶのが一般的であるが、邪馬台国は倭国連合の一国であり、卑弥呼が倭国女王であることは確かだとしても、邪馬台国の女王であったかどうかは魏志倭人伝をみる限りはっきりしない。
なお、卑弥呼が没すると男王を立てたが、再び国内は乱れ、そのため卑弥呼の一族の女子を王位に就けることで内乱は治まったという。この女性は壱与(イヨ)あるいは台与(トヨ)とされている。
卑弥呼に関することを追うのは本稿の趣旨ではないので置くとして、倭国には二人の女王が存在していたことを、当時の指導者たちが全く知らなかったとは考えにくい。また、卑弥呼の存在が、後の女性天皇たちに鬼道(キドウ・一般的には巫女あるいはシャーマンなどを指し、呪術のようなものを指すとされている。個人的には、いわゆる超能力のようなものと考えている)という面を強調する傾向を生んでいるように思われる。
 
「日本書紀」に登場している女帝となれば、まず「神功皇后」である。この人物については、当カテゴリーの『空白の時代』に詳述しているので重複は避けるが、「日本書紀」によれば、実に七十年近く天皇と同様の責務を担っていたのである。一部文献には「神功天皇」との表記があり、明治時代頃までは天皇に列せられていたのである。飛鳥時代の頃、神功皇后をどのように認識していたのかを知ることはなかなか困難なようであるが、たとえ伝承としても朝廷を率いた女性として周知されていたのではないだろうか。

今一人、天皇位にあった可能性のある女性がいる。飯豊皇女(イイトヨノヒメミコ)である。
この人物にも多くの伝承や説があり、それらを追い求めるのも興味深いが、ここではごく簡単に触れておく。
飯豊皇女は、第十七代履中天皇の皇女とも孫ともされている。また、よく似た名前の二人の女性がいたという説もある。履中天皇の孫だとすれば、父は市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)である。
第二十代安康天皇が暗殺された後継をめぐって、跡を継ぐことになる後の雄略天皇(第二十一代)に市辺押磐皇子が射殺されるという事件が起こった。二人は共に第十六代仁徳天皇の孫にあたり、皇位をめぐる争いがあったと考えられる。市辺押磐皇子の幼い二人の息子は丹波国から播磨国赤石に逃れ身を隠した。
それから二十七年後、雄略天皇の皇子であった第二十二代清寧天皇が崩御すると、天皇に皇子がいなかったこともあり、後継者をめぐる争いがあったと考えられ、その中で飯豊皇女が朝廷権力を握ったとされるのである。その期間は十ヶ月程度らしいが崩御したためであるが、二人の弟を次代・次々代の天皇に就けている。

以上、女帝の先駆けと思われる女性を四人紹介させていただいたが、これらの女性の伝承が飛鳥時代の幕開けの時に、推古天皇という女帝を選択するのに少なからぬ影響を与えたとはずだと思うのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 5 )

2017-02-22 11:20:49 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 5 )

女性天皇登場の背景

我が国の最初の女性天皇は推古天皇であるとするのが通説である。
すでに述べたように、実際に即位していたか否かはともかく、また日本書紀に記されている内容をそのまま受け入れるとするならば、神功皇后などはその前後の天皇よりはるかに大きな功績と指導力を発揮しているように思われる。少なくとも日本書紀に描かれている神功皇后は、歴代天皇に比べて見劣りする部分など窺えない。

それより時代は下って、第二十六代継体天皇の登場によって、大和政権が大きく変化したことは確かであろう。一説にあるように、継体天皇の登場が朝廷の入れ替わりであったかどうかは結論を避けたいが、大きな変革があったことは間違いない。
しかし、継体政権は紆余曲折しながらも大和の地に入っているので、それ以前の基盤も文化も多くの物を継承していると考えられる。つまり、王権に大きな変化はあったが、それまでの朝廷の歴史が断ち切られたとは考えにくいのである。それはすなわち、女帝権力に対する評価、女性天皇を容認するのに、それほど大きな拒絶反応はなかったのだと推察するのである。

女性天皇が登場する要因に、巫女説がよく語られる。
古代、ここでは、日本書紀に登場する年代や平安前期までを考えた場合、国家あるいは一族を率いる族長、つまり王たる第一条件は武力であったと考えられる。それは、この時代に限らず、古今東西を通じての原理かもしれない。それ故に王という地位には男性が適しており、女性が就くというのには特別の理由があるか、特殊な能力を有していたと考えることになる。卑弥呼の存在が意識されているかどうか分からないが、女性天皇の条件に巫女、つまり呪術的な能力を求める傾向が強いように思われる。
しかし、我が国の女性天皇が、巫女的な能力故に選ばれたとするのは、どうも納得できない。むしろ、女性天皇も武力つまり強力な軍事力を有していたと考える方が自然のように思うのである。というのは、王の武力とは、刀や矛を持って戦う能力だけを指すとは思えないからである。一族や有力部族の軍事力を率いる能力こそが王の持つ武力であって、呪術的な能力を有していたとすれば、軍事力を補完する能力と捉えるべきだと思うのである。

次に、必ずと言っていいほど唱えられるのは、「中継ぎ説」である。つまり、次に皇位に就くべき人物がまだ幼少であったり、複数の候補者の力が均衡していて混乱が予測される時などに、とりあえず女性天皇を即位させて時間を稼ごうとしたというのである。
この説の背景には、天皇は男性であるのが本来の姿であるという考え方が根本にある。
女性天皇の是非については現在も何かと話題になることがあるが、本稿の趣旨はそのことではない。本稿の目的は、飛鳥から奈良の時代に即位した女性天皇が「中継ぎ」のような立場であったか否かを考えることにある。

推古天皇即位から称徳天皇が重祚するまでの間に、七代の男性天皇が皇位に就いている。在位期間と共に記してみると、
舒明天皇(629~641) 孝徳天皇(645~654) 天智天皇(称制661~668 在位668~671)
天武天皇(673~686) 文武天皇(697~707) 聖武天皇(724~749) 淳仁天皇(758~764)
この他に、天智天皇の後に大友皇子が即位したとも言われ、現在では第三十九代弘文天皇として正式に数えられているが、ごく短期間のことで、天武天皇と戦った壬申の乱の一方の大将であった以上には、朝廷統治という点では実績はないと考え、ここでは考慮しないことにする。
そこで、これらの男性天皇と女性天皇を比べてみた場合、果たして、「女帝中継ぎ説」などというものが納得できるものなのかというのが本稿の主題なのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 6 )

2017-02-22 11:20:03 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 6 )

女帝誕生

我が国の最初の女性天皇は推古天皇とされることは再三述べた。これは、神功皇后、飯豊皇女を天皇と数えないことが条件であるが。
継体天皇についても再々述べているが、この前後に朝廷内で大きな変化があったことは確かである。それも皇位に関してである。しかし、旧来からの大和王権の皇女である手白香皇女を娶ることで一体化に成功したように見える。

推古天皇が即位したのは、西暦593年のことであるが、継体天皇が崩御してから六十二年後のことになる。
この六十二年という年月を長いと見るか短いと見るか論ずるのは難しいが、継体崩御の頃の実力者はおそらく世を去っていて代替わりしていると考えられるが、さまざまな事件や出来事はまだ正しく伝えられていたのではないだろうか。そうだとすれば、この間の様々な出来事が推古天皇を誕生させた要因の一つであることは間違いあるまい。

継体天皇没後の後継天皇を列記してみると、安閑(在位期間531~535)、宣化(535~539)、欽明(539~571)、敏達(572~585)、用明(585~587)、崇峻(587~592)となる。
これらの天皇の継承原因はいずれも崩御によるものである。もっとも、我が国で譲位による皇位継承を行ったのは、皇極天皇が最初(継体天皇も譲位を行ったという説もある)であるから、これらの天皇全てが崩御するまで皇位にあったことはごく普通のことである。しかし、それぞれの継承には難事を想像させることも多い。

まず、最初の三天皇であるが、いずれも継体天皇の皇子である。ただ、安閑天皇と宣化天皇は、継体天皇が大和入りする以前からの妃である尾張目子媛を母としており、欽明の母は大和朝廷の血を引く手白香皇女である。継体後継をめぐっては、この二勢力の間に相当激しい争いがあったらしい。
それについて古来いくつかの説があるようで、いずれも何らかの伝承や文献の後押しもあるようだ。例えば、安閑・宣化王朝と欽明王朝がある期間並立していたとか、継体・安閑・宣化の三天皇は同時に殺されたらしいというものもある。
その真偽については追わないが、激しい争いがあったということはほぼ事実らしい。その争いは、単に皇子同士の争いということではなく、有力豪族の主導権争いが絡んでいたことも間違いあるまい。
そしてもう一つの見方は、後継天皇が継体天皇の皇子であることも重要であったのだろうが、その母が誰であるかということも同様の重要さを持っていたようにも思うのである。継体天皇の大和入りに手白香皇女を皇后に迎える必要があったことと同様で、母や妻の存在は軽いものではなかったことが想像されるのである。

激しい争いの後、大和朝廷系の母を持つ欽明天皇が即位し、その在位期間が三十二年に及ぶことから、一応の安定政権であったように考えられる。しかし、この欽明天皇も謎が多い。継体天皇の嫡男でありながら、その生年月日は今一つはっきりしない。即位に至る経緯も、何が真実なのか分かりにくい。その一方で、朝鮮半島の諸国との軋轢の厳しい中を統治し、大伴氏が失脚し蘇我氏と物部氏の対立の激しさが増す時代を乗り切っており、百済の聖明王により仏教の公伝があったのもこの天皇の御代である。難しい時代の治世を担った天皇であったことは確かであろう。

欽明天皇には名前が明らかなだけで六人の妻がいた。その中の内の三人は特に興味深い。
まず、皇后は、宣化天皇の皇女石姫である。後継者となる第三十代敏達天皇は石姫の子である。
次は、妃の一人の蘇我堅塩媛(ソガノキタシヒメ)である。この女性は蘇我稲目の娘である。この妃には、後の用明天皇、推古天皇となる子などがいる。
もう一人は、同じく妃の蘇我小姉君(ソガノオアネノキミ)である。いずれも母親が分からないが蘇我稲目の子で、堅塩媛は姉で蘇我馬子は弟である。もっとも、姉や弟の順ははっきりしない。この妃の子には、穴穂部皇子、用明天皇に嫁ぎ厩戸皇子(ウマヤドノミコ・聖徳太子)を生む穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)、後の崇峻天皇となる子などがいる。

欽明天皇崩御後は、皇后の皇子が敏達天皇として即位する。順調な皇位継承であるが、敏達天皇の母は宣化天皇の皇女であり、絶大な権力を握りつつある蘇我氏の母を持つ皇子たちとは、決して友好的ではなかったとも考えられる。蘇我氏の母を持つ義妹の額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ・後の推古天皇)を娶っているのは、その懐柔策の一つだったのかもしれない。
やがて敏達天皇が崩御すると、次期皇位を廻る軋轢が高まる。敏達天皇には竹田皇子がいたが病弱だったようで、敏達の兄弟が有力候補となる。当時は、即位の条件にある程度の年齢が重視され、子供より兄弟の方が有力視される傾向があったようだ。

そうした中である事件が起きたという。
それは、次期天皇候補の一人と目されている穴穂部皇子が、敏達天皇の喪に服している皇后・額田部皇女を犯そうとしたのである。何とも生々しい表現であるが、記録して残されているのである。額田部皇女は美女であったとも伝えられているので、単なる色恋ということも否定できないが、おそらく、額田部皇女を手に入れることが皇位に就く有力手段と考えられていた節もある。むしろこちらが本筋と考えられる。
それともう一つ、当時は蘇我氏と物部氏の勢力が拮抗しており激しいつばぜり合いが行われていたが、なかなか判断の難しい一つに、同じ蘇我稲目の娘でありながら、堅塩媛は蘇我系であり、小姉君の方は物部系と考えられるのである。もしかすると、小姉君は養女であったような気さえする。
そうした中で、額田部皇女は両勢力の融和の象徴のように思われていた感じもするのである。

結局、次期天皇には額田部皇女の同母兄である用明天皇が即位するが、蘇我馬子の強い後押しがあったことは間違いない。これにより、蘇我氏を母とする天皇が初めて誕生したことになるが、用明天皇は在位一年半ほどで病没する。
ふたたび皇位をめぐる争いとなり、またも穴穂部皇子が物部守屋の支援を受けて皇位を狙ったが、蘇我馬子は額田部皇女を奉じて穴穂部皇子らを誅殺した。さらに、用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子、穴穂部皇子の弟である泊瀬部皇子(ハツセベノミコ・後の崇峻天皇)らを結集して物部守屋を討ち果たした。これにより、いよいよ蘇我氏の勢力は抜きん出ることになる。
この時の戦いでも分かりにくいのは、馬子が奉じたのが額田部皇女であり、用明天皇の皇后であった穴穂部間人皇女ではなかったことである。穴穂部皇子と戦うのであるから当然ともいえるが、穴穂部皇子の弟は味方陣営に入っているのであるから、なかなかに難しい。

さて、皇子たちと豪族たちの思惑も加わった激しい戦いの後、第三十二代崇峻天皇が誕生する。用明天皇の義弟であり、額田部皇女、蘇我馬子らの推戴を受けた順調な即位と考えられる。
崇峻天皇の在位は五年ばかりであるが、目だった事件はなかったようである。馬子を大臣に就け、安定した期間だったのかもしれない。
しかし、やがて、天皇が臣下により白昼殺害されるという事件が起こる。猟の獲物が献上された場で、天皇が馬子を疎んじる発言をしたことを聞き、馬子は天皇暗殺を決意し、東漢駒(ヤマトノアヤノコマ)に命じて天皇を殺害させたのである。
天皇暗殺という出来事は、第二十代安康天皇が子供の頃に父を殺された眉輪王によって殺害されるという事件が起こっているが、臣下に政治の公式の場で殺されるという事件は、この後にも発生していない。

天皇暗殺という異常事態の中で、事件の首謀者である馬子はじめ皇族や豪族たちは、懸命に打開策を模索したことだろう。
この時点で皇位継承の候補者となれば、崇峻天皇と同世代に居らず、次の代である敏達天皇と最初の皇后広姫との皇子である押坂彦人大兄、竹田皇子、厩戸皇子の三人と思われる。このうち押坂彦人大兄は蘇我氏との血縁がなく対象外とされたであろうし、他の二人はまだ十代で、当時の天皇としては若すぎると考えられた。そこで、窮余の一策として額田部皇女が浮上したかのように見える。
しかし、本当にそうであったのだろうか。馬子ほどの大政治家が、次期天皇を予測せずして天皇殺害に動くことなどあるのだろうか。むしろ、敏達天皇崩御からの皇位継承に関わる節々で、額田部皇女は当事者として関わっており、馬子はその能力を高く評価していたのではないのだろうか。
公式には、わが国最初とされる推古天皇の誕生は、決して窮余の一策でも苦肉の策でもなく、その能力を見込まれての誕生のように思えてならないのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 7 )

2017-02-22 11:18:52 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 7 )

推古天皇の御代

「日本書紀」によれば、崇峻天皇の五年(592)十一月、天皇は大臣蘇我馬子の為に殺され、皇位が空しくなってしまった。そこで、群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に即位してくれるよう請うたが、皇后は辞退された。百官は上表文を奉って勧め、三度目に至りついに承諾された。よって天皇の璽印(ミシルシ)を奉った。
十二月八日、皇后は豊浦宮(トユラノミヤ)で即位した、と記されている。
この豊浦宮は明日香の地にあったと考えられている。すなわち、飛鳥時代の幕開けである。

推古天皇が即位に至る経緯については、すでに述べてきているところであるが今一度整理してみよう。
第二十九代欽明天皇が崩御した後、敏達、用明、崇峻、そして推古と欽明の御子が四代続いて即位している。即位に関して様々な事件は起きているが、結果としては順調な王権の移行と言える。さらに言えば、当時は親から子への継承が必ずしも優先されているわけではなく、むしろ兄弟間の継承の方が多く見られるのである。その大きな原因は、皇位に就く条件に年齢が相当重要であったらしく、推古天皇までの歴代天皇の即位時の年齢を見ると、第三代安寧天皇の二十九歳、第二十五代武烈天皇の十歳の二人以外はすべて三十歳以上なのである。もちろん、時代は神代に近い辺りまで遡ることでもあり信憑性に問題がないわけではないが、後の天皇と比べ、明らかに年齢、つまり皇族としての経験が重視されていたと思われる。

崇峻天皇暗殺という事件が発生し、突然のように皇位継承問題が浮上したが、その時点での有力候補者に、欽明天皇の皇子世代はすでに亡く、孫世代の三人の皇子が考えられた。
このうち、推古の夫でもある敏達天皇の最初の皇后広姫との皇子である押坂彦人大兄は、もっとも年長であったと推定されるが、すでに蘇我氏が物部氏を打ち破っており、非蘇我系の皇子としては候補にならなかったと考えられる。また、用明天皇の皇太子であったとも伝えられているが、用明天皇の御代は二年弱であり、蘇我氏の台頭とともに立場は弱体化して行ったと思われる。
次に、用明天皇と崇峻天皇の姉穴穂部間人皇女の皇子である厩戸皇子は、この時十九歳くらいと思われ、若年過ぎると考えられたらしい。
三人目は、敏達天皇と推古天皇との子である竹田皇子がいた。おそらく推古天皇はこの皇子を即位させたかったと考えられるが、年齢は厩戸皇子より年少で、十七歳くらいであったようだ。推古天皇が即位を決意した裏には、やがて竹田皇子に皇位を継承させたいと考えていたと想像できるのである。

このように、三人の候補者に皇位を引き継ぐことが難しいため、天皇暗殺という難局を乗り切るために推古天皇が誕生したと考えられることが多い。確かに、客観情勢はそのように見えるが、この間の推古天皇の周囲を見直してみると、少し違う物が見えてくる。
まず、敏達天皇が崩御して用明天皇が即位する間には、皇位を狙っていた穴穂部皇子が未亡人である額田部皇后(推古天皇)を我がものにしようと襲うという事件が起きている。事件は未遂に終わっているが、これは決して色恋騒動ではなく額田部皇后の存在の大きさを示す事件であり、用明即位にも少なからぬ影響があったと想像できる。
用明天皇崩御後には、再び穴穂部皇子は皇位を狙い物部氏らの支援を受けて戦となった。この時立ち向かったのは蘇我氏を中心とした勢力であるが、蘇我氏が奉じたのは用明天皇の皇后ではなく、その前の皇后である額田部皇后を奉じているのである。つまり、名目的には討伐軍の旗頭ということになる。そして、崇峻天皇擁立には、蘇我氏と共に額田部皇后の推挙は絶対条件であったと思われる。
また、崇峻天皇の暗殺事件は、蘇我馬子が命じて実行されたことは確かだと思われるが、その後に額田部皇后が即位するのに一か月ほどの日時しか要していないのである。馬子と額田部皇后の間には、密約とまではいかなくとも阿吽の呼吸のようなものを感じてしまうのである。
こうした流れを考えた時、推古天皇の登場は、天皇暗殺という危機を乗り切るための苦肉の策でもなければ、次の男性天皇誕生までの繋ぎであるなどとはとても考えられない気がする。

推古天皇の御代は三十六年に及ぶ。短い期間ではなく、政治的あるいは社会的な成果も少なくない。
朝鮮半島の国々とは難しい折衝が続いており、国内的には蘇我氏の権勢がますます高まり、仏教が政治・文化両面で大きな影響を与えている。
歴史書などを見れば、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、憲法十二条の制定、四天王寺や飛鳥寺などの大寺建立などが記されている。
同時に、推古天皇の治世の実権者は、蘇我馬子であり、厩戸皇子(聖徳太子)であったとする書も少なくない。果たして、そうであったのだろうか。
これは全く個人的な意見であるが、わが国の政治権力の中枢は、少なくとも平安時代初期の頃までは天皇であったと考えられるのである。本稿もその考えのもとで書いている点はご承知いただきたい。
確かに、物部氏を打ち果たした蘇我氏の勢力は絶大なものとなり、推古朝を通じて大きな影響力を与えたと考えられる。一説には、馬子が天皇であったというものさえある。しかし、有力豪族は朝廷内で権力は振るうことはこれまでもあり、この後も続いている。しかしその豪族たちは、後で言えば貴族たちは、天皇の外戚などの地位を得ることにより政権を握ろうとしており、少なくともこの時代には政権の中枢は天皇と考えられていたと思われる。

それでは、厩戸皇子の場合はどうであったのか。
この厩戸皇子すなわち聖徳太子という人物については、どう評価すればよいのかなかなか分かりにくい。
推古朝において厩戸皇子が政治文化の中心人物であったとする論調は、今も少なくない。その機会を得たのは、推古天皇即位の翌年四月に皇太子となり、摂政の地位に就いたからである、と考えられる。本来ならば、推古天皇が愛する竹田皇子が皇太子になるはずであるが、おそらくこの頃に亡くなったと考えられる。推古天皇としては、厩戸皇子の立太子は、涙ながらの選択であったはずである。また、厩戸皇子がわが国における最初の摂政と言われることがあるが少し違う気がする。
日本書紀の中に、「仍録摂政、以万機悉委焉」(よりて録(マツリゴト)摂政(フサネツカサド)らしめ、万機をもちて悉(コトゴトク)に委(ユダ)ぬ)という一文がある。つまり、「一切の政務を取らせて、政すべてを委任された」というのである。後世、この一文から、厩戸皇子が摂政に就いた、とされるようになったと言われるようになったと思われるが、「日本書紀」が記述していることは、政務全般に全権を与えて執行させた、と言った意味で、厩戸皇子はあくまでも推古朝における有能なスタッフの一人と考えるべきだと思うのである。第一、摂政という役職は律令の中にはなく、正式職務として登場するのは、平安時代に藤原氏が勢力を高めてからのことなのである。

それにしても、「日本書紀」における厩戸皇子への称賛は大変なものである。後世においても、太子信仰と言われるほど、聖徳太子の逸話は数多く伝えられている。しかし、この聖徳太子という尊命からして、生前に使われたものではなく、没後百年余りしてから登場しており、現在では、聖徳太子の業績とされるものの多くを否定する説もあり、その存在さえ疑問視する研究者もいる。
歴史の事実として、厩戸皇子は存在し、推古天皇の皇太子として極めて有能な人物であったことは確かと考えるが、推古天皇は飾り物のような存在ですべてを厩戸皇子が取り仕切ったという考えには納得できない。第一そうであれば、蘇我馬子という傑物がおとなしくしているとは思えないのである。
さらに加えれば、ここでは詳しく述べないが、厩戸皇子の一族は、その子・山背大兄皇子の時に滅亡してしまっているのである。

推古天皇の御代は、厩戸皇子をはじめとした官僚や蘇我馬子を頂点とした諸豪族の力に支えられて、後に飛鳥文化と呼ばれる繁栄を築き上げたのである。
その御代は三十六年におよび、世に女帝による統治に何の不安もないことを示したのではないだろうか。
推古三十六年(628)春三月の七日、病のため崩御。御年七十五歳であった。翌月、夏の四月でありながら、十日には桃の実ほどの雹が降り、十一日にはすももの実ほどの雹が降った。春から夏にかけて旱魃であった。と、「日本書紀」は記している。
そして、波乱とはいえ栄華を築いた女帝に何とも哀れを感じさせるのは、『竹田皇子の陵に葬りまつる』と「日本書紀」が結んでいることである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 8 )

2017-02-22 11:17:34 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 8 )

推古天皇の後継

推古女帝は七十五歳で身罷った。
推古天皇を支え飛鳥文化の繁栄に貢献したとされる厩戸皇子と蘇我馬子は共に推古に先立って他界していた。厩戸皇子は七年前に没しており、その後継は山背大兄王となり、蘇我氏には、馬子の子の蝦夷(エミシ)、さらには孫の入鹿(イルカ)という逸材を輩出している。しかし、推古天皇の後継者は定められていなかった。
もし、などと言ってしまえば歴史において何事も実現できてしまうことになるが、皇太子であった厩戸皇子が推古天皇に先立つことがなければ、厩戸皇子が即位する可能性は高く、そうであれば、後に聖徳太子と呼ばれる人物の実像が今少し明確になっていたはずである。

それはさておき、推古天皇が崩御した時点での有力な後継者候補は、山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)と田村王(タムラノミコ)の二人にほぼ絞られていた。山背大兄王は厩戸皇子の子であり用明天皇の孫に当たる。田村王は押坂彦人大兄皇子の子であり敏達天皇の孫に当たる。共に二世王であるが、推古天皇が長命であったため、天皇の皇子の世代がいなくなってしまったのである。
推古天皇は後継者を定めていないとされているが、日本書紀には、崩御の前日にこの二人の王に遺言したと記録している。まず田村王には、「天位に昇って天下を治め整え、国政を統御して人民を養うことは、もとより容易く言うことではない。重大なことである。そなたは慎重に考え軽々しく言うべからず」といった言葉を伝え、同じ日に、山背大兄王には、「そなたは未熟である。もし心で望んでいるといえども、あれこれ言ってはならない。必ず群臣の言葉を待って、それに従うように」と伝えた、という。この二人への言葉は、どちらにも後継者だとは言っていない、とも、田村王を推しているようにも取れる。ただ、後継者を決める有力発言にはならなかったようである。

そうであっても、次期天皇の有力候補がこの二人であることは、推古天皇も認識していたようではある。
推古朝廷を支えた有力者は、厩戸皇子と蘇我馬子であったことは定説と言っていいほどである。厩戸皇子は推古天皇より七年ほど先立って亡くなっており、次期天皇継承問題では当然影響力を発揮できないと思われるが、生前の功績が日本書紀などに記されているほど抜群のものであるなら、山背大兄王に多くの期待が集まっていたのではないだろうか。さらに、蘇我馬子も推古天皇に先立っているが、彼には蝦夷・入鹿という優れた後継者がおり、朝廷内の蘇我氏の勢力にかげりなどなかったと思われる。そして、厩戸皇子と山背大兄王は、蘇我氏の血が極めて濃く、ぜひとも皇位につけたい人物だったはずである。
一方の田村王は血族的に蘇我氏と繋がりがなく、父の押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の長子でありながら皇位に就けなかったのは、ひとえに蘇我氏の支援を受けられなかったからである。しかし、推古天皇の後継者となったのはその田村王で、第三十四代舒明天皇が誕生するのである。

当時の人々がどう考えたかは分からないが、舒明天皇の誕生は意外性を感じる。その原因については、様々な説や憶測がなされている。 
一つは、推古天皇の遺言とされる言葉を借りれば、山背大兄王は皇位に就くには若過ぎたという可能性である。当時、皇位に就くためには相応の年齢に達していることが重要視されていたようで、おそらくその年齢は三十歳前後のような気がする。勝手な想像であるが。では、山背大兄王が何歳であったかとなると、なかなか推定することさえ難しいのである。
今一つは、蘇我一族内で次期天皇をめぐる争いがあったようで、蝦夷・入鹿の蘇我氏本宗家といえども大きくなりすぎた一族を取りまとめるためには山背大兄王は不適だったのかもしれない。
あるいは、用明天皇以後蘇我氏色の強い天皇が続いているため、反蘇我豪族の不満を抑えるためであったという見方もある。
どの考え方もそれなりの説得力はあるが、同時に今一つ納得しきれない感じもする。むしろ、蘇我氏ばかりでなく、当時の朝廷及び朝廷周辺は、厩戸皇子・山背大兄王、つまり上宮王家の即位は望んでいなかったのではないかという気がしてならない。

その原因は何なのか? 
この事に関する仮説も幾つか提示されている。興味深いものもあるが、史実となれば何とも評しきれない。もしかすると、現在の私たちが承知していない、決定的な理由があるのかもしれないような気もするが、それこそ単なる想像の域を越えない。
そうした中で、歴史は舒明天皇という絶妙の天子を選んだように思われる。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 9 )

2017-02-22 11:16:38 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 9 )

つなぎの天皇

三十有余年に渡って天下を治めて来た推古天皇が崩御した後の後継者の選択は、決して容易なことではなかったと想像される。
推古天皇は後継者を定めていなかったとされるが、当時、後継者は群臣により擁立されるのが常のようであった。もちろん、有力皇族や有力豪族などの意見が強く反映されたことであろうが、形式としては群臣の推挙を必要としていたようである。
推古朝は、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三人が中心として運営されていたとされるが、おそらく、真実に近いと考えられている。しかし、厩戸皇子は六年、蘇我馬子は二年ばかり推古天皇に先立って没している。つまり、推古天皇が崩御した段階では、推古朝を支えてきた有力者は皆無になったということである。

そうした時代の流れがあってこそ、舒明天皇は後継者として即位できたように思われる。推古朝を支えた三人のうち二人が残っている間であれば、血族的に推古天皇からも蘇我氏からも遠い関係にあり、いわんや厩戸皇子には山背大兄王という後継者がいるのであるから、田村王(舒明天皇)の出番はなかったはずである。
しかし、推古天皇崩御の十か月後には舒明天皇が即位している。後継者をめぐっては、蘇我一族内、あるいはその他の豪族も複雑に絡み合った主導権争いがあり、戦乱も起こっている。それでも、表面的には豪族間の争いに止まって、新天皇は無事即位に至っている。推挙された要因としては、もちろん田村王の人望があったという面もあるとしても、一番の理由は、皇族や豪族たちに対して特別の色が少なかったからだと思われるのである。つまり、積極的な推挙というよりは、有力者たちの多くが容認できる最大公約数として浮上したのではないだろうか。
女性天皇を語る時、「つなぎの天皇」と言われることがままあるが、むしろ、舒明天皇にこそその表現が当たるように見えるのである。

舒明天皇とい人物は、その即位に当たっては、妥協の産物のように見える部分がある天皇だと思われるが、その後の歴史を見ると、実に重要な鍵を握っていた天皇なのである。
舒明天皇の父は、何度も登場している押坂彦人大兄皇子であり、敏達天皇の第一皇子に当たるが、圧倒的な勢力を誇っていた蘇我氏との血縁は無く、皇族としては傍流とされていたと考えられる。母は、糠手姫皇女といって、敏達天皇の皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹にあたり、やはり蘇我氏との繋がりはないようである。
しかし、この天皇の妻と子供を見ると、歴史の重要な位置に立っていることが分かる。

当時の天皇には多くの妻がいた。天皇に限らず、豪族や、もっと下級層でも複数の妻を持つことは珍しくなく、第一婚姻という形態自体が現在とは相当違う。
天皇の場合は、后、皇后、妃、夫人、あるいは、中宮、女御、更衣、御息所など、様々な呼び名があり、それぞれに順位があったようだ。しかし、この天皇の御代、皇后という呼び名はなかったと考えられているが、複数の妻には順位付けがあったと考えられる。
それはともかく、この天皇の妻を三人紹介してみよう。
一人目は、田眼皇女(タメノヒメミコ)である。文献には「妃」と書かれていることが多いが、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた皇女である。舒明天皇より数歳年上と考えられているが、子供がいたかどうかは不詳で、どうやら即位以前に亡くなっているらしい。推古天皇からすれば、傍系の王に過ぎないように思ったのではないかと考えられるが、もしかすると舒明天皇には若くして輝くものがあったのかもしれない。この皇女が早く亡くなったことは残念に思われる。
二人目は、皇后とされる宝姫王(タカラノヒメミコ)である。後の皇極・斉明天皇であるが、ドラマチックということでは舒明天皇を凌ぐと思われるが、それは後述する。この皇后は、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(天武天皇)を生んでいる。
そして三人目は、夫人とされる法提郎女(ホテイノイラツメ)である。蘇我馬子の娘で皇族ではないが、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノオウジ)という第一皇子を生んでいる。
実は、蘇我氏と血縁のない舒明天皇が即位できた大きな原因は、この古人大兄皇子の存在があったからで、蘇我本宗家はこの皇子の将来に夢を託し、舒明天皇を推挙したものと考えられるのである。

つまり、舒明天皇の即位の陰には、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を皇位に就けるための「つなぎの天皇」であった可能性が見えるのである。
しかし、この推定が正しいとしても、蘇我氏の血を引く天皇の実現が目的であれば、蘇我一族は山背大兄王をなぜ天皇に推挙しなかったのだろうか。謎が残る。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 10 )

2017-02-22 11:15:50 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 10 )

再び女性天皇に

舒明天皇の御代はおよそ十三年、決して短い期間ではない。
日本書紀によれば、その間には、大陸との行き来が激しかったらしいことや、天候不順からくる飢饉があったことなどが記されている。しかし、舒明天皇の巻の記事の半分以上は即位に至る諸豪族の争いが記されていて、山背大兄王を強く推挙していた境部摩理勢(サカイベノマリセ)を蘇我蝦夷(ソガノエミシ)が討ち果たす記事など、こちらが主題かのようにさえ見る。
つまり、舒明天皇の御代は、国内政治的には比較的平穏な期間だったように思われる。

舒明天皇十三年の冬十月九日に、天皇は崩御された。
十八日に宮の北で殯(モガリ・仮の安置所に祭ること)を行った。この時、東宮・開別皇子(ヒラカスワケノミコト・中大兄皇子)が御年十六歳で誄(シノヒコト・弔辞のようなもの)を奉った。(日本書紀)
翌年の正月十五日に舒明天皇の皇后であった宝皇女が即位した。皇極天皇である。
日本書紀の巻第二十四は、皇極天皇の血脈を簡単に記し、即位したこと、蘇我蝦夷を引き続き大臣として、何の変りもないとしている。つまり、皇極女帝の即位はごく自然の流れといった書き出しなのである。

それでは、舒明天皇が崩御した時点で、次期天皇候補は皇后に限られていたのかといえば、とてもそのような状況ではなかったはずである。
舒明天皇と皇極天皇の皇子である中大兄皇子は、皇太子の地位にあり有力候補の一人とも考えられるが、日本書紀に従えば、この時十六歳であり、当時の皇位継承者としてはあまりにも若過ぎる。そうなると、かねてより皇位を狙い続けている厩戸皇子(聖徳太子)の御子である山背大兄王と、舒明天皇と蘇我馬子の娘である法提郎女(ホテイノイラツメ)との間の皇子である古人大兄皇子とが有力候補であったはずである。
古人大兄皇子は、蘇我本宗家である蝦夷や入鹿が強く支援しており、山背大兄王も勢力を有していて対抗していたようである。結局は、両者の対立が大戦乱となるのを避けるために皇后である宝皇女、つまり皇極天皇の登場となったという見方が強いようである。しかしそれは、考え方によっては、皇極天皇であれば両者を含め群臣を納得させることが出来るということになる。
再び女帝誕生となったのは、単なる対立の先送りの為であったと考えるのはあまりにも安易な考えのような気がする。皇極天皇自身の存在の重さをもっと考慮する必要があるように思うのである。

皇極天皇即位の翌年十一月、蘇我入鹿は山背大兄王を斑鳩(イカルガ)に兵を送り不意打ちした。
山背大兄王の舎人たちは奮戦し、敵将の一人を討つなどし、その隙に山背大兄王は妃や一族を率いて脱出し、生駒山に身を隠した。四、五日経ち、従っていた家来たちは、東国に行き、軍を起こして引き返せば勝利できると勧めたが、「戦えば、きっと勝つであろう。しかし、自分の為に万民を苦しめることはできない」と言って、斑鳩寺に入った後、一族もろとも自ら死を選んだという。ここに厩戸皇子(聖徳太子)・山背大兄王と続いた上宮王家は滅亡した。

それにしても、山背大兄王一族が自死するあたりの日本書紀の表記は、あまりにも不自然である。
蘇我本宗家が古人大兄皇子の即位を願っていることから山背大兄王を攻めたということは分かるが、かねてより皇位を求め続けていたらしい山背大兄王が、一族諸共を呼び集めるようにして滅亡したというのである。しかも、「戦えば勝つのは分かっているが万民を苦しめるわけにいかないから」と何とも理解しがたい言葉を残したというのである。
また、蘇我氏が蘇我系の天皇の即位を求めていたことは分かるが、なぜこれほどまでに山背大兄王を憎まなければならないのだろうか。血統という面からすれば、厩戸皇子は父も母も蘇我の血を引いており、さらに山背大兄王を生んだ妻は蘇我馬子の娘なのである。
考えられる一つの理由は、欽明天皇は蘇我稲目(馬子の父)から二人の娘を妻に迎えていたが、その一人は推古天皇らを生み、いま一人(小姉君)は、厩戸皇子の母となる穴穂部間人皇女らを生んでいるのである。この小姉君の子孫はどうも蘇我氏と対立することが多かったような気配がある。もしそうだとすれば、小姉君は蘇我稲目の実子ではなく、物部氏の娘のような気がするのである。全くの想像であるが、そうであるとすれば、蘇我本宗家としては、物部氏の血を引く山背大兄王を即位させることはとても容認できなかったと考えられる。

このような推理が成立するとすれば、厩戸皇子が物部氏討伐に加わったことや、蘇我馬子と共に推古朝を支えたという日本書紀などの記録は、そのまま受け入れてよいのか疑問が残る。
さらに言えば、山背大兄王滅亡の様子を見ると、何としても山背大兄の上宮王家を歴史の表舞台から消し去る必要があったように見える。むしろ、山背大兄王という人物や一族は、本当に存在していたのかとさえ思えてしまうのである。これは、私個人の想像ではなく、そのように主張する研究者もおり、上宮王家には謎が多すぎる。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 11 )

2017-02-22 08:44:47 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 11 )

大化の改新

『 皇極天皇四年の六月十二日、天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄が傍らに控えていた。
中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、蘇我入鹿が疑い深い性格で、昼夜に剣を携えていることを知り、俳優(ワザオキ・芸人)を使って剣をはずさせようとした。入鹿は笑って剣をはずし、座に着いた。
倉山田麻呂(クラノヤマダマロ・蘇我氏。入鹿の従兄弟)は玉座の前に進み出て、三韓の上表文を読み上げた。

その時、中大兄は衛門府に命じて、十二の通門を封鎖して行き来を禁じ、衛兵を一ヶ所に集めて賞禄を与えようとした。そして、中大兄は自ら長槍を取って大極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子らは弓矢を持って中大兄を守った。海犬養連勝麻呂(ウミイヌカイノムラジカツマロ)に命じて、箱の中の二本の剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田(カツラギノワカイヌカイノムラジアミタ)とに授けて、「油断するな、不意をついて斬れ」と命じた。子麻呂らは水で飯を流しこんだが、恐怖のため嘔吐した。中臣鎌子は叱り励ました。
倉山田麻呂は、上表文の読み上げが終わろうとしているのに子麻呂らが来ないので不安になり、全身汗みずくになり、声を乱し手を震わせた。
鞍作臣(クラツクリノオミ・蘇我入鹿のこと)は不審に思って、「なにゆえ震えているのか」と訊いた。倉山田麻呂は、「天皇のお側近くなのが畏れ多く、不覚にも汗が流れるのです」と答えた。

中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢に押されて襲いかからないのを見ると、「やあ」と気合を掛け、子麻呂らと共に不意をついて、剣で以って入鹿の頭と肩を斬り裂いた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂は手で剣を振り回して入鹿の片足を斬った。
入鹿は転がりながら玉座のもとに辿り着き、叩頭して、「皇位に坐すべきは天の御子です。私めに何の罪があるのですか。どうかお調べください」と言った。
天皇は大いに驚き、中大兄に仰せられた。「なぜこのような事をするのか。何事があったのか」と。
中大兄は地に伏して奏上した。「鞍作は天皇家をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとしています。どうして天孫を鞍作に代えられましょうか」と。

天皇は立って殿中に入られた。
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は入鹿を斬り殺した。
この日に、雨が降り、あふれた水で庭は水浸しになった。敷物や屏風で鞍作の屍を覆った。 』

以上は、中大兄皇子と中臣鎌子が主導して皇極天皇の面前で蘇我入鹿を斬り殺した場面を、日本書紀から抜粋したものである。
この後中大兄皇子は、皇族や群臣たちや諸豪族たちを集めた上で、入鹿の屍を父である大臣蘇我蝦夷に送り届けた。事情を知った蝦夷は、宝物などを焼き自刃する。ここに蘇我本宗家は滅亡し、歴史に大きな動揺を与えたことは確かであろう。
この暗殺劇は、中大兄皇子と中臣鎌子の劇的な出会いから慎重に計画されてきたもので、かつては、この事件そのものを「大化の改新」と呼ぶことが多かった。さすがに最近では、この事件の年の干支をとって「乙巳の変(イッシノヘン)」と呼ぶのが一般的である。
それでもこの事件を、この時代における最大のクーデターであったとする意見は根強い。しかし、本当にそれほどの事件であったのだろうか。

長年大和政権に勢力を張っており、天皇擁立にも大きな影響力を持っていた蘇我本宗家の親子を武力で倒したのであるから、その後の歴史に与えた影響は小さくはないだろう。クーデターと呼ぶのも大げさ過ぎることもないかもしれない。
しかし、クーデターというのは、武力によって政権を奪取することだとすれば、少し違うような気がする。確かに蘇我本宗家の勢力は絶大で、蘇我馬子は天皇であったという研究者さえいるらしい。だが、この時代の政権の中心人物は天皇だとする本稿としては、入鹿の暗殺は、外交的な意見の対立もあったのかもしれないし横暴な振る舞いもあったのかもしれないが、要は次期天皇を廻る延長線で起きた事件のように見えてくるのである。
見事なまでに実力者の暗殺に成功はしたが、中大兄皇子も中臣鎌子も政権を手にしたわけではないのである。将来の布石となったかもしれないが。

この事件は皇極天皇は事前に知らされていなかったらしく、皇極朝の多くを担っていた蝦夷・入鹿が討たれたことは相当な衝撃であったようである。中大兄皇子も皇極天皇を支える重要人物の一人であったと考えられるが、おそらく後継者の有力候補とみなしていた実の息子によって、最も信頼していた重臣が目の前で惨殺されてしまったのである。
皇極天皇は、皇位を中大兄に伝えるよう詔(ミコトノリ)した。これまで天皇は終身在位で、存命中にその座を下りることはなかった。従って、皇極天皇の詔はわが国最初の譲位による皇位継承を実現させようとしたものである。しかし、事の経緯を見ると、皇極天皇は、「とてもやってられないわ。それならお前がやりなさい」といった気持であったのではないかと推察してしまうのである。

皇極天皇の意向に関わらず、中大兄皇子には即位できる環境にはなかったようである。つまり、それだけの実力も群臣の支持もなかったと思われるのである。
古代について学ぶ時、それも私のような趣味レベルの場合は、その根本となるのは「古事記」と「日本書紀」にほぼ限られる。この両書であれば簡単に目にすることができるし、研究書も多く出版されている。
この両書について、その信頼性を云々する意見は古くからあるが、完全無視にして当時を推し測ることは不可能といえる。ただ、この両書に限らず現代にいたるまで、公文書に近い物であればあるほど、発行された当時の権力者の思惑が加味されていることを配慮しておく必要があることも否定できない。
そう考えた時、中大兄皇子の人物像や乙巳の変の背景などは、素直に両書の記述を受け取ることが出来ないような気もするのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 12 )

2017-02-22 08:43:01 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 12 )

皇極天皇の謎

中大兄皇子らによる時の権力者蘇我入鹿を暗殺したという事件は、天皇の面前であったことでもあり大事件であったことは確かである。
現在ではこの事件を「乙巳の変(イッシノヘン)」と呼ぶのが通説で、大化の改新というのは、この後の孝徳天皇の御代に行われた一連の改革を指すことになる。
また、クーデターと呼ぶこともあるが、その実態はクーデターに程遠い気がする。入鹿が横暴を極め天皇の地位を狙ったから誅罰したという中大兄皇子の言葉を正しいとすれば、それは政権奪取ではなく、不埒な君臣を討っただけのことであり、政権奪取の意思がなかったことになる。

皇極天皇はこの事件を受けて、皇位を中大兄皇子に譲るむね詔(ミコトノリ)する。クーデターを認めた形であるが、息子の勝手な振る舞いに怒っているようにも見える。
天皇の詔を受けて中大兄皇子は腹心の中臣鎌子に相談すると、「古人大兄皇子は兄(異母兄)であり、軽皇子(カルノミコ・皇極天皇の同母弟)は叔父である。ここで殿下が即位すれば、弟としての謙遜の心に反するでしょう。しばらくは叔父君を立てて民の望みにこたえるのが良いでしょう」と申し上げたという。日本書紀の記事であるが、思わず本音が漏れてしまったのか、民の望みは軽皇子即位だと忠告したのである。
そこで、中大兄皇子の内密の申し出を受けて、皇極天皇は軽皇子に譲位された。軽皇子は再三固辞し、古人大兄皇子が適任と申し出た。そのような事が繰り返された結果軽皇子が即位し孝徳天皇誕生となる。この部分の記録も、軽皇子と古人大兄皇子が皇位を譲り合ったかのように記されているが、その中に中大兄皇子は入っていないのである。

孝徳天皇の即位は、皇極天皇四年の六月十四日となっているが、入鹿が暗殺されたのは十二日のことで、朝廷内にさしたる混乱も起きていないのである。
新政権は、皇極前天皇には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)という尊号が与えられ、皇太子に中大兄皇子、左大臣は阿倍内麻呂(アヘノウチマロ)、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌子を内臣とした。
右大臣や中臣鎌子は事件の功労を賞されているようであるが、新天皇は皇極天皇と同様蘇我の血を受けており、本宗家は滅亡したとはいえ蘇我氏が全滅したわけではなかった。結果としては、皇族や群臣の勢力図に若干の変化があった程度のようにも見える事件なのである。
中大兄は引き続き皇太子の地位にあり、次期天皇の最有力候補の地位を保っている。研究者によっては、今回ばかりでなく、この後も中大兄皇子がなかなか皇位に就かなかったのは、その方が自由に朝廷の改革が進められると考えたからであると説明しているものもあるが、今一つ納得できない。

孝徳天皇は、皇極天皇四年を「大化元年」に改めた。これまでわが国には元号は無く、天皇の統治年数を記していた。「大化」はわが国最初の元号であるが、この次の「白雉」と合わせて十年ほどで、孝徳天皇の崩御と共に従前に戻っている。
この時代を象徴する言葉の一つとして、「大化の改新」という言葉があるが、どうも独り歩きしている感がある。初めて元号を設定したのは大きな出来事といえばいえるし、戸籍や田畑の調査、官位などを新しく制定したりしているが、天皇の周辺はさわがしく、十分な協力体制を得られなかったように見える。即位翌年、翌々年と「改新の詔」を出しているが、それほど革命的とは言えまい。
朝鮮半島諸国などとの関係は厳しくなっていたし、何よりも国内の皇族や群臣から十分な協力は得られなかったようである。そうとはいえ、孝徳天皇が意欲的に統治にあたっていたらしく、この期間の改新の実行者が中大兄皇子という説は、とうてい納得できない。

孝徳天皇の皇太子として、朝廷内でそれなりの働きはしたことであろうが、この皇子が力を注いでいたのは、自分の勢力拡大と競争相手を滅亡させることであったようだ。
最大の競争相手である古人大兄皇子は、先の皇位争いの時点で、身の危険を察し出家して吉野に入っていたが、中大兄皇子は気を許すことなく、謀反の疑いで討伐している。さらに、乙巳の変で協力を受け、娘二人を妃としている蘇我倉山田麻呂も謀反を理由に誅罰しているのである。
中大兄皇子が主導したものか、中臣鎌子があおったものか分からないが、この皇子は陰惨な手法に優れていたように思えてならない。

そして,終には、そのターゲットは孝徳天皇に及んでいる。
孝徳天皇が遷都を行なった時期は今一つはっきりしないが、即位の翌年末には難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)に移ったようである。まだ仮宮で他の施設も利用しながらのようであるが、難波の地は外交上の要所であった。天皇が難波を選んだのは、朝鮮半島諸国との関係が難しい時期であったことや、統治者としての意欲からか、あるいは旧勢力から距離を置く狙いもあったのかもしれない。
しかし、飛鳥の地を離れることは群臣たちに不評であったようである。中大兄皇子は孝徳天皇に飛鳥へ戻ることを迫り、受け入れられなくなると、皇祖母尊として依然影響力を持っている母(皇極天皇)、孝徳天皇の間人皇后(ハシヒトコウゴウ・中大兄と同母の妹)、さらに一族の多くを引き連れて飛鳥へ去ってしまったのである。群臣の多くもこれに従ったという。
孝徳天皇はやがて失意のうちに崩御する。

この強引な事件は、中大兄皇子の実力を見せつけるものと思われる。しかし同時に、そこには皇位を離れていてもなお皇極前天皇の存在感が強く感じられるのである。
皇極天皇の在位期間は僅か三年半ほどである。皇后時代から隠然たる力を擁していたのかもしれないが、中大兄皇子はよほどこの実母を頼りにしていたらしい。
そう言えば、皇極天皇という人物には謎に包まれている部分がある。

宝皇女(皇極天皇)は、敏達天皇の曽孫であり、母系を辿っても欽明天皇の曽孫である。つまり、本当は宝皇女ではなく、宝姫王とでも呼ばれていたはずである。その宝皇女は、最初、高向王(タカムクノオオキミ)と結婚している。高向王は用明天皇の孫とされるが、父の出自は不詳である。二人の間に漢皇子(アヤノミコ・生まれた時点では皇子とは呼ばれなかったはずである)が生まれている。この二人のその後の動静が全く記録に残されていない。
やがて、どういういきさつか、田村皇子(舒明天皇)に嫁ぎ皇后となるのである。
この流れをどう理解すればよいのか。宝皇女は、人並み優れた美貌の持ち主か、特別な霊力を有していたのか、それとも何らかの特別な人為的な力が働いていたのか、謎は深い。
そして、高向王と漢皇子のその後は辿れないのか・・・。ここにも謎が隠されているように思えてならない。

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