運命紀行
倭しうるわし
尊の命は、その役割を終えようとしていた。
ようやく辿り着いた地は、「のぼの」だという。帰り着くべき地は、まだ遥かに遠い。
思えば、戦いに明け暮れた日々であった。
天皇の命令とはいえ、熊襲征討のため西に向かったのは、まだ十六歳のときであった。それも僅かな兵を与えられただけで苦しい戦の連続であった。
熊襲を討って帰還した尊に対して、天皇はすぐさま、東への出陣を命じた。「東の方、十二道の諸国に命令に従わない人々がいるから、これを討て」というものであった。
西の方への長征の疲れをとるひまもなく、東の方への遠征を命じるのは、天皇は吾に早く死ねと思っているのかと、疑いの気持ちを抱きながらも出立せざるを得なかった。
この征討も、兵士さえ与えられぬ出立であった。
東の諸国を平定しての帰路、伊吹の山に荒ぶる神がいると聞き征伐に向かった。しかし、この荒ぶる神を討つことは出来ず、氷雨に打たれ霧に包まれて道に迷い、ようやく下山した時には荒ぶる神の妖気にあてられ尊は病の身となった。
尊は倭への道を急いだ。
病を得た身を回復させる方法があるとすれば、懐かしい倭の地で身を休めることしかなかった。
尊は、すでに己の命が終わろうとしていることを感じ取っていた。
しかし、倭の地は遥かに遠く、身を進める力はすでに果てていた・・・。
倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山ごもれる 倭しうるわし
* * *
日本武尊は、神話の世界と有史の世界の狭間に活躍した、わが国古代史上随一の英雄である。
ヤマトタケル(日本武・倭建)という名前は、熊襲の首長が討たれた時、尊に奉った称号である。
本名は、小碓命(オウスノミコト)。景行天皇の第二皇子であり、第十四代仲哀天皇の父と伝えられている。
兄、大碓命(オオウスノミコト)が朝夕の食事に出てこないことを注意するように命じられた時、言うことを聞かなかったのか、「手足を折りこもに包んで投げ捨てた」と天皇に報告した。
このことも原因してか、天皇はまだ少年の小碓命を十分な兵もつけずに熊襲征討を命じた。まだ、前髪が残る十六歳の頃であったという。
さらに、小碓命、すなわち日本武尊が無事熊襲征伐から戻ると、ほとんど休む間もなく、天皇は、東国への征討を命じた。
「父は私に早く死ねと思っているのか」と嘆きながらも東の方の征伐に向かう。命じられた国々を平定し帰還の途中、伊吹山の荒ぶる神を征伐に向かい、ここで荒ぶる神の妖気にあてられてしまう。一度は、泉の水を飲み元気を取り戻すが、ついに、能煩野(ノボノ)まで来た時に力尽き、遥かなる倭を偲びながら命絶えたという。三十歳の頃であったとか・・・。
そして、ここ能煩野の地に墓を造営した時、白鳥が墓から飛び立ち、倭の地に向かったと伝えられている。
古事記を基に推定すれば、日本武尊が活躍したのは千九百年ほどの昔である。記録を残した古事記が編纂されてからでも千三百年が過ぎている。
日本武尊の記録は、古事記や日本書紀に限らず、多くの文献に残されており、伝承となればさらにその数は増える。
それらの文献の内容は一致していないものも多く、いづれを持って真実と定めることは極めて困難である。むしろ、歴史上日本武尊なる人物は存在せず、何人かの英雄の業績を統合させたものだという意見の方が優勢かもしれない。
大和に政権が誕生するにあたって、哀しくも荒々しい活躍を見せた人物がいた。その記録されているもののすべてが彼の軌跡であったかどうかはともかく、『倭は国のまほろば、たたなづく 青垣、山ごもれる 倭しうるわし』と絶唱した人物がいたことを信じたい・・・。
( 完 )
倭しうるわし
尊の命は、その役割を終えようとしていた。
ようやく辿り着いた地は、「のぼの」だという。帰り着くべき地は、まだ遥かに遠い。
思えば、戦いに明け暮れた日々であった。
天皇の命令とはいえ、熊襲征討のため西に向かったのは、まだ十六歳のときであった。それも僅かな兵を与えられただけで苦しい戦の連続であった。
熊襲を討って帰還した尊に対して、天皇はすぐさま、東への出陣を命じた。「東の方、十二道の諸国に命令に従わない人々がいるから、これを討て」というものであった。
西の方への長征の疲れをとるひまもなく、東の方への遠征を命じるのは、天皇は吾に早く死ねと思っているのかと、疑いの気持ちを抱きながらも出立せざるを得なかった。
この征討も、兵士さえ与えられぬ出立であった。
東の諸国を平定しての帰路、伊吹の山に荒ぶる神がいると聞き征伐に向かった。しかし、この荒ぶる神を討つことは出来ず、氷雨に打たれ霧に包まれて道に迷い、ようやく下山した時には荒ぶる神の妖気にあてられ尊は病の身となった。
尊は倭への道を急いだ。
病を得た身を回復させる方法があるとすれば、懐かしい倭の地で身を休めることしかなかった。
尊は、すでに己の命が終わろうとしていることを感じ取っていた。
しかし、倭の地は遥かに遠く、身を進める力はすでに果てていた・・・。
倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山ごもれる 倭しうるわし
* * *
日本武尊は、神話の世界と有史の世界の狭間に活躍した、わが国古代史上随一の英雄である。
ヤマトタケル(日本武・倭建)という名前は、熊襲の首長が討たれた時、尊に奉った称号である。
本名は、小碓命(オウスノミコト)。景行天皇の第二皇子であり、第十四代仲哀天皇の父と伝えられている。
兄、大碓命(オオウスノミコト)が朝夕の食事に出てこないことを注意するように命じられた時、言うことを聞かなかったのか、「手足を折りこもに包んで投げ捨てた」と天皇に報告した。
このことも原因してか、天皇はまだ少年の小碓命を十分な兵もつけずに熊襲征討を命じた。まだ、前髪が残る十六歳の頃であったという。
さらに、小碓命、すなわち日本武尊が無事熊襲征伐から戻ると、ほとんど休む間もなく、天皇は、東国への征討を命じた。
「父は私に早く死ねと思っているのか」と嘆きながらも東の方の征伐に向かう。命じられた国々を平定し帰還の途中、伊吹山の荒ぶる神を征伐に向かい、ここで荒ぶる神の妖気にあてられてしまう。一度は、泉の水を飲み元気を取り戻すが、ついに、能煩野(ノボノ)まで来た時に力尽き、遥かなる倭を偲びながら命絶えたという。三十歳の頃であったとか・・・。
そして、ここ能煩野の地に墓を造営した時、白鳥が墓から飛び立ち、倭の地に向かったと伝えられている。
古事記を基に推定すれば、日本武尊が活躍したのは千九百年ほどの昔である。記録を残した古事記が編纂されてからでも千三百年が過ぎている。
日本武尊の記録は、古事記や日本書紀に限らず、多くの文献に残されており、伝承となればさらにその数は増える。
それらの文献の内容は一致していないものも多く、いづれを持って真実と定めることは極めて困難である。むしろ、歴史上日本武尊なる人物は存在せず、何人かの英雄の業績を統合させたものだという意見の方が優勢かもしれない。
大和に政権が誕生するにあたって、哀しくも荒々しい活躍を見せた人物がいた。その記録されているもののすべてが彼の軌跡であったかどうかはともかく、『倭は国のまほろば、たたなづく 青垣、山ごもれる 倭しうるわし』と絶唱した人物がいたことを信じたい・・・。
( 完 )