運命紀行
私を捨てよ
『侍は家を立てることが第一。私はもう年をとって老い先も短い。私の身を案ずるあまり、家を潰すようなことがあってはならぬ。万一の場合は、私を捨てよ。私のことなど少しも心に掛けることなく、ひたすら、家を立てることを心掛けよ』
前田利家未亡人芳春院まつが、人質として江戸下向にあたって利長に伝言したとされる言葉である。
家長となった嫡男利長をはじめ重臣たちの多くの反対を抑えて、芳春院が人質として江戸に向かって出立したのは慶長五年五月十七日のことであった。
前田家から徳川家へ人質として送られるのは、芳春院の他に重臣四名の子女もいた。そのうちの一人は、前田長種の十一歳の娘で、その母は、芳春院の長女幸なので孫にあたる。
芳春院や姫たちには、それぞれに侍女や小者が数人ずつ付き、さらには護衛の武者や荷駄を運ぶ要員も少ない数ではなかった。そして、全体を統括するのは古参の重臣村井長頼であった。
人質を江戸に送り届けるための一行とはいえ、豊臣政権下屈指の大大名としての品格は保たれており、女性の多い一行は、むしろ華やかささえ漂わせていた。
しかし、『私を捨てよ』と利長に伝えた芳春院もこの時五十四歳、老い先が長くないという思いは決して誇張ではなかった。わが身の人質としての重さと、もしこの身が失われた時の前田家の行く末、さらには豊臣家の行く末にさえ少なからぬ影響を与えることを感じていた。
そして、芳春院の一行が江戸に到着するのを待っていたかのようにして、家康は行動を起こした。
大軍を率いて東に向かったのである。上杉討伐がその目的であるが、石田三成に挙兵を促せる目的とも考えられ、そのためには、前田軍を味方に確保しておくことが絶対の条件だったのである。
七月の十七日、西軍の総大将となる毛利輝元が大阪城に入ると石田三成らは打倒家康を鮮明にした。
これより時代は、関ヶ原の合戦へと流れていくのである。
* * *
臨終にあたっての秀吉の必死の願いにも関わらず、その死と共に豊臣政権は揺らぎ始めた。
家康の台頭だけでなく、秀吉幕下の大名たちも武断派と吏僚派との対立も激しく、一触即発の状態に達していた。彼らを何とか自重させていたのは前田利家の存在であった。
果たして、利家死去が伝わったその夜には、武断派といわれる武将たちが三成を襲ったのである。細川忠興、加藤清正、福島正則ら豊臣戦力の中心にいる七人であった。
この二派の対立の主因は朝鮮出兵に関する扱いともされているが、いずれにしても豊臣幕下の猛将たちの多くが関ヶ原において徳川方に付くことになるのである。
前田利長は、利家の死から五か月経った頃、家康の強い勧めにより、金沢に帰国した。利家の遺言は三年間は大阪を離れるなというものであるが、それさえも破らなければならないほどの家康の強い要請だったのであろう。
そして、帰国後まもなく、「家康暗殺計画」という情報が家康のもとに伝えられた。しかも、その中心人物は利長だとされるものであった。密告者は光成に近い人物とされているが、案外、家康の意向によるものである可能性も捨てきれない。
家康は直ちに「前田に謀反の疑いあり」として加賀出兵を号令した。まことに迅速な行動で、やはり謀略的なものが感じられるが、前田家は苦境に立たされることになった。
利長は、一時は決戦の覚悟もしたようであるが、結局、重臣の横山長知を大坂に向かわせ釈明に努めた。
交渉は半年近くにも及んだが、ようやく利長の赦免が認められたが、その過程で家康は芳春院まつを人質として江戸へ下向させることを求めたのである。
利長や前田家中にとって苦しい選択となったが、その条件を受け入れることによって、お家の窮地をとりあえず回避することが出来たのである。
戦国時代において、人質を取ったり取られたりすることは、ごく当然の戦略であった。人質の存在が一定の安全保障になることは事実だが、時には何の役にも立たなかった例も少なくない。
家康ほどの人物が、芳春院まつを人質として押さえることに拘ったのは、よほどの価値を認めていたからであろう。
利家夫人として、前田家を今の身代に築き上げるのにどれほどの貢献があったかを家中の重臣たちすべてが承知しており、前田家を味方につける一番の鍵は芳春院を掌握することだと考えたのである。さらに、秀吉の全盛期の頃から、利家夫人まつは豊臣家の奥向きのことについて秀吉夫人ねねに並ぶほどの影響力を持っていて、秀吉子飼いの武将やねねに少なからぬ影響力を持っていることを熟知していたのである。
江戸に向かう芳春院まつは、ひたすら前田家の行く先を思い続けていた。
それは、単に行く末を案ずることではなく、いかに前田家の安泰を図るかということであった。
そして、その第一は、人質として大きな価値を認められている自分が、一日も長く生き抜くことが重要であり、その第二は、徳川の天下となるのであれば、前田家が重要な地位を占めるための手段であった。
芳春院まつは、江戸で十四年の人質生活を送ることになる。利長の死去により人質を解かれたのであろう。
この間に前田家は、加賀百万石の基礎を築いたといえる。徳川との関係では、秀忠の姫を三代利常の室に迎えることが実現していた。
芳春院まつは、人質生活を終えた後も、金沢を拠点に三年余りを過ごし、金沢城内で七十一年の生涯を終えた。
戦国の世に女性としてひときわ輝きを見せた生涯であった。
( 完 )
私を捨てよ
『侍は家を立てることが第一。私はもう年をとって老い先も短い。私の身を案ずるあまり、家を潰すようなことがあってはならぬ。万一の場合は、私を捨てよ。私のことなど少しも心に掛けることなく、ひたすら、家を立てることを心掛けよ』
前田利家未亡人芳春院まつが、人質として江戸下向にあたって利長に伝言したとされる言葉である。
家長となった嫡男利長をはじめ重臣たちの多くの反対を抑えて、芳春院が人質として江戸に向かって出立したのは慶長五年五月十七日のことであった。
前田家から徳川家へ人質として送られるのは、芳春院の他に重臣四名の子女もいた。そのうちの一人は、前田長種の十一歳の娘で、その母は、芳春院の長女幸なので孫にあたる。
芳春院や姫たちには、それぞれに侍女や小者が数人ずつ付き、さらには護衛の武者や荷駄を運ぶ要員も少ない数ではなかった。そして、全体を統括するのは古参の重臣村井長頼であった。
人質を江戸に送り届けるための一行とはいえ、豊臣政権下屈指の大大名としての品格は保たれており、女性の多い一行は、むしろ華やかささえ漂わせていた。
しかし、『私を捨てよ』と利長に伝えた芳春院もこの時五十四歳、老い先が長くないという思いは決して誇張ではなかった。わが身の人質としての重さと、もしこの身が失われた時の前田家の行く末、さらには豊臣家の行く末にさえ少なからぬ影響を与えることを感じていた。
そして、芳春院の一行が江戸に到着するのを待っていたかのようにして、家康は行動を起こした。
大軍を率いて東に向かったのである。上杉討伐がその目的であるが、石田三成に挙兵を促せる目的とも考えられ、そのためには、前田軍を味方に確保しておくことが絶対の条件だったのである。
七月の十七日、西軍の総大将となる毛利輝元が大阪城に入ると石田三成らは打倒家康を鮮明にした。
これより時代は、関ヶ原の合戦へと流れていくのである。
* * *
臨終にあたっての秀吉の必死の願いにも関わらず、その死と共に豊臣政権は揺らぎ始めた。
家康の台頭だけでなく、秀吉幕下の大名たちも武断派と吏僚派との対立も激しく、一触即発の状態に達していた。彼らを何とか自重させていたのは前田利家の存在であった。
果たして、利家死去が伝わったその夜には、武断派といわれる武将たちが三成を襲ったのである。細川忠興、加藤清正、福島正則ら豊臣戦力の中心にいる七人であった。
この二派の対立の主因は朝鮮出兵に関する扱いともされているが、いずれにしても豊臣幕下の猛将たちの多くが関ヶ原において徳川方に付くことになるのである。
前田利長は、利家の死から五か月経った頃、家康の強い勧めにより、金沢に帰国した。利家の遺言は三年間は大阪を離れるなというものであるが、それさえも破らなければならないほどの家康の強い要請だったのであろう。
そして、帰国後まもなく、「家康暗殺計画」という情報が家康のもとに伝えられた。しかも、その中心人物は利長だとされるものであった。密告者は光成に近い人物とされているが、案外、家康の意向によるものである可能性も捨てきれない。
家康は直ちに「前田に謀反の疑いあり」として加賀出兵を号令した。まことに迅速な行動で、やはり謀略的なものが感じられるが、前田家は苦境に立たされることになった。
利長は、一時は決戦の覚悟もしたようであるが、結局、重臣の横山長知を大坂に向かわせ釈明に努めた。
交渉は半年近くにも及んだが、ようやく利長の赦免が認められたが、その過程で家康は芳春院まつを人質として江戸へ下向させることを求めたのである。
利長や前田家中にとって苦しい選択となったが、その条件を受け入れることによって、お家の窮地をとりあえず回避することが出来たのである。
戦国時代において、人質を取ったり取られたりすることは、ごく当然の戦略であった。人質の存在が一定の安全保障になることは事実だが、時には何の役にも立たなかった例も少なくない。
家康ほどの人物が、芳春院まつを人質として押さえることに拘ったのは、よほどの価値を認めていたからであろう。
利家夫人として、前田家を今の身代に築き上げるのにどれほどの貢献があったかを家中の重臣たちすべてが承知しており、前田家を味方につける一番の鍵は芳春院を掌握することだと考えたのである。さらに、秀吉の全盛期の頃から、利家夫人まつは豊臣家の奥向きのことについて秀吉夫人ねねに並ぶほどの影響力を持っていて、秀吉子飼いの武将やねねに少なからぬ影響力を持っていることを熟知していたのである。
江戸に向かう芳春院まつは、ひたすら前田家の行く先を思い続けていた。
それは、単に行く末を案ずることではなく、いかに前田家の安泰を図るかということであった。
そして、その第一は、人質として大きな価値を認められている自分が、一日も長く生き抜くことが重要であり、その第二は、徳川の天下となるのであれば、前田家が重要な地位を占めるための手段であった。
芳春院まつは、江戸で十四年の人質生活を送ることになる。利長の死去により人質を解かれたのであろう。
この間に前田家は、加賀百万石の基礎を築いたといえる。徳川との関係では、秀忠の姫を三代利常の室に迎えることが実現していた。
芳春院まつは、人質生活を終えた後も、金沢を拠点に三年余りを過ごし、金沢城内で七十一年の生涯を終えた。
戦国の世に女性としてひときわ輝きを見せた生涯であった。
( 完 )