運命紀行
二上山を仰ぐ
『二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ』
(万葉集・巻二 大伯皇女御作歌)
伊勢の国から飛鳥の地に入る時に越える山というのは、どの山のことを指しているのであろうか。
大津の皇子が僅かな下僕を従えて飛鳥の地に戻ったのは、天武天皇崩御後間もない秋のことであった。
都はすでに天武天皇の喪に入っており人影は少なく、それでいて、どこか殺気立っているような空気が流れていた。
天武天皇が衰えを見せ始めた頃、政務の一切を持統皇后と草壁皇子に委ねると決定した。しかし、実質的な政務は大津皇子を筆頭にして壬申の乱を勝利した重臣たちが牛耳っていた。
常に天武天皇の側近くにある持統皇后への天皇の信頼は厚いが、何分にも皇后は天智天皇の皇女であった。いくら天武の皇后といっても、壬申の乱を戦った重臣にとっては、敵方の血統であることを消し去ることなど出来ていなかった。
大津皇子は、文武両道に優れた偉丈夫であり、重臣たちの期待を担っていた。持統の影響を強く受け大津皇子を謀反人として扱っている日本書紀でさえ優れた資質の持ち主であるとたたえている。
その大津皇子であるから、天武天皇崩御の後、身に迫る危険は素早く察知したはずである。持統皇后の異常なまでの草壁皇子への偏愛も見てきていたし、不幸な最期を遂げた皇子たちの事件の真実も承知していたはずである。
しかし、大津皇子は、天武天皇の亡骸が安置された殯宮(モガリノミヤ)において、謀反の疑いで捕らえられ、翌日には処刑されてしまう。悲報を受けた妃の山辺皇女は、髪を振り乱し、素足で処刑場に向かい、殉死したという・・・。
大津皇子、二十四歳。大人物と期待された皇子のあまりにもあっけない最後である。
それは、謀反により処刑というより、暗殺というべき出来事であったのか。あるいは、絶対に優勢な陣営の支援を受けていたための油断であったのか。
そして、また、飛鳥に戻ってから、やがて永久の住処となる二上山を仰ぎみることはあったのだろうか。
* * *
大津皇子の誕生は、663年、斉明天皇の御代で天智・天武の両雄の確執がまだ表面化する前のことである。
父は天武天皇。母は天智天皇の娘である大田皇女である。
大田皇女と持統天皇とは父母を同じくする姉妹であるが、二人の母蘇我遠智娘は、実の父を夫である中大兄皇子に責め殺され狂乱のうちに死ぬという不運の人であった。
そして、この姉妹は、共に大海人皇子に嫁いだのである。一夫多妻が普通の時代であるが、中大兄皇子は弟と伝えられている大海人皇子にこの他にも二人、全部で四人も自分の娘を嫁がせているのである。
両親を共にする二人の皇女は、相次いで大海人皇子に嫁ぎ、大田皇女は大伯皇女と大津皇子を生み、持統は草壁皇子を生んだ。このような関係が、大田と持統にどのような影響を与えたのか想像することさえ難しいが、結果としては、大津皇子と草壁皇子という並び立つことが出来ぬ、そして共に哀しい運命を背負わせることになるのである。
大伯皇女と大津皇子にとっての不運は、母大田皇女の早すぎる死であった。逝去の正確な日は伝えられていないが、埋葬記録から大津皇子が三、四歳の頃であったと考えられる。
大田皇女と持統は全く同じ血脈であり、普通であれば、大海人皇子が即位したときに皇后の地位を得るのは、姉である大田皇女のはずであった。しかし、すでに亡くなっていることから持統皇后が実現したのである。そしてこのことが、大伯・大津の姉弟に過酷な運命を強いることになったのである。
壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は即位し天武天皇となった。これまでの大王という称号から始めて天皇という称号を唱えることになる。
天智天皇の後継者となった大友皇子と大海人皇子が戦った壬申の乱の時、大津皇子は十歳の頃であり武勇を立てる年齢ではないが、そのご立派な成長を遂げ天武天皇や重臣たちの期待を集めていった。
「懐風藻」は大津皇子の人柄をほめそやし、罪人として扱っている「日本書紀」でさえほめたたえているのである。一方の草壁皇子は凡庸であり何よりも病弱であった。
持統皇后は、わが子草壁皇子を天武天皇の後継者にするべく、懸命の策を練った。
大伯皇女を伊勢神宮の斎王として送り出させたのも、有力皇族や豪族に嫁いで、大津皇子の後ろ盾になることを恐れたものと考えられる。
しかし、大津皇子は天皇や群臣たちの期待を一身に担って偉丈夫に育っていく。一歳年上でありながらひよわな草壁皇子とは、年々差が開いていった。
持統皇后は、衰えを見せ始めた天武天皇に草壁立太子を積極的に働き掛け、自らも祭り事に口出すことを強めて行った。すでに大津皇子は、群臣たちの間では次期天皇に近いほどの信頼を集めており、このまま天武が身罷りなどすれば、自分たち親子の立場が弱くなることは明らかであった。
皇后の立場も草壁皇子の存在も、天武天皇あってのものであった。いくら皇后として、時には天皇の代行役を務めていても、群臣たちにとって持統は、天智天皇の皇女であった。壬申の乱を戦った豪族たちにとっては、敵方の娘であることを忘れていないのである。
天武天皇の病は重くなり、ついに、政務一切を皇后と草壁皇子に委ねるとの決定を受けることに成功する。持統皇后は、天皇の病気回復のための祈祷や行事を盛大に行い、群臣の掌握に努め、草壁皇子の次期天皇としての存在感を高めようと努力を続けた。
しかし、群臣たちにとっては、天武天皇の後継者は大津皇子であり、病床の天皇の決定に関わらず、大津皇子の存在に何のかげりも見えなかった。
686年9月、天武天皇崩御。
大津皇子は、僅かな供を連れて密かに都を離れた。
天武王朝の体制は固まっているとはいえ、持統皇后を中心とした勢力の暴走も予測される状況にあり混乱から身を守るためであった。飛鳥を離れ伊勢国に向かった。伊勢神宮斉王である姉大伯皇女に会うためであった。
この伊勢行きが、単に姉に会うためであったのか、混乱から身を守るためであったのか、あるいはもっと他に大事があったのか、残されている確かな資料はない。
ただ、伊勢国は飛鳥と東国を結ぶ土地である。東国は天武勢力の強い土地柄であり、壬申の乱を戦った天武重臣たちの信頼厚い大津皇子にとっては、いざ戦乱となった時には重要な意味を持ってくる。そのため、天武崩御直後の大津皇子の密かな伊勢国行きは、謀反の準備ととられる面も持っていた。
しかし、天武の群臣たちの厚い信頼と期待を受けていた大津皇子に謀反の必要などあったのだろうか。
草壁皇子が正式に皇太子に就いていたか否かに関わらず、天武王朝は大津皇子を中心とした勢力を中心に運営されており、謀反を起こすとすれば、それは、未だに群臣たちから敵視されがちな持統皇后側であったはずなのである。
大津皇子の謀反事件では三十余人が捕らえられ、大津皇子は十分な詮議もなく翌日に処刑されているが、他は二人が流罪にされただけで許されているのである。この事件は、謀反というより、暗殺というものであったように感じられてならない。
それにしても、大津皇子は何故に伊勢国に向かったのであろう。
斎王である姉とはどのような話をしたのであろう。
都に戻ることを心配する姉に比べて、あまりにも無防備に飛鳥への山を越えたのは、群臣たちの信頼を受けている自信であったのか、それとも油断であったのか・・・。
そして、飛鳥への山を越え、無念の最期を迎えるまでの間に、あの二上山を仰ぎ見ることがあったのだろうか。
( 完 )
二上山を仰ぐ
『二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ』
(万葉集・巻二 大伯皇女御作歌)
伊勢の国から飛鳥の地に入る時に越える山というのは、どの山のことを指しているのであろうか。
大津の皇子が僅かな下僕を従えて飛鳥の地に戻ったのは、天武天皇崩御後間もない秋のことであった。
都はすでに天武天皇の喪に入っており人影は少なく、それでいて、どこか殺気立っているような空気が流れていた。
天武天皇が衰えを見せ始めた頃、政務の一切を持統皇后と草壁皇子に委ねると決定した。しかし、実質的な政務は大津皇子を筆頭にして壬申の乱を勝利した重臣たちが牛耳っていた。
常に天武天皇の側近くにある持統皇后への天皇の信頼は厚いが、何分にも皇后は天智天皇の皇女であった。いくら天武の皇后といっても、壬申の乱を戦った重臣にとっては、敵方の血統であることを消し去ることなど出来ていなかった。
大津皇子は、文武両道に優れた偉丈夫であり、重臣たちの期待を担っていた。持統の影響を強く受け大津皇子を謀反人として扱っている日本書紀でさえ優れた資質の持ち主であるとたたえている。
その大津皇子であるから、天武天皇崩御の後、身に迫る危険は素早く察知したはずである。持統皇后の異常なまでの草壁皇子への偏愛も見てきていたし、不幸な最期を遂げた皇子たちの事件の真実も承知していたはずである。
しかし、大津皇子は、天武天皇の亡骸が安置された殯宮(モガリノミヤ)において、謀反の疑いで捕らえられ、翌日には処刑されてしまう。悲報を受けた妃の山辺皇女は、髪を振り乱し、素足で処刑場に向かい、殉死したという・・・。
大津皇子、二十四歳。大人物と期待された皇子のあまりにもあっけない最後である。
それは、謀反により処刑というより、暗殺というべき出来事であったのか。あるいは、絶対に優勢な陣営の支援を受けていたための油断であったのか。
そして、また、飛鳥に戻ってから、やがて永久の住処となる二上山を仰ぎみることはあったのだろうか。
* * *
大津皇子の誕生は、663年、斉明天皇の御代で天智・天武の両雄の確執がまだ表面化する前のことである。
父は天武天皇。母は天智天皇の娘である大田皇女である。
大田皇女と持統天皇とは父母を同じくする姉妹であるが、二人の母蘇我遠智娘は、実の父を夫である中大兄皇子に責め殺され狂乱のうちに死ぬという不運の人であった。
そして、この姉妹は、共に大海人皇子に嫁いだのである。一夫多妻が普通の時代であるが、中大兄皇子は弟と伝えられている大海人皇子にこの他にも二人、全部で四人も自分の娘を嫁がせているのである。
両親を共にする二人の皇女は、相次いで大海人皇子に嫁ぎ、大田皇女は大伯皇女と大津皇子を生み、持統は草壁皇子を生んだ。このような関係が、大田と持統にどのような影響を与えたのか想像することさえ難しいが、結果としては、大津皇子と草壁皇子という並び立つことが出来ぬ、そして共に哀しい運命を背負わせることになるのである。
大伯皇女と大津皇子にとっての不運は、母大田皇女の早すぎる死であった。逝去の正確な日は伝えられていないが、埋葬記録から大津皇子が三、四歳の頃であったと考えられる。
大田皇女と持統は全く同じ血脈であり、普通であれば、大海人皇子が即位したときに皇后の地位を得るのは、姉である大田皇女のはずであった。しかし、すでに亡くなっていることから持統皇后が実現したのである。そしてこのことが、大伯・大津の姉弟に過酷な運命を強いることになったのである。
壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は即位し天武天皇となった。これまでの大王という称号から始めて天皇という称号を唱えることになる。
天智天皇の後継者となった大友皇子と大海人皇子が戦った壬申の乱の時、大津皇子は十歳の頃であり武勇を立てる年齢ではないが、そのご立派な成長を遂げ天武天皇や重臣たちの期待を集めていった。
「懐風藻」は大津皇子の人柄をほめそやし、罪人として扱っている「日本書紀」でさえほめたたえているのである。一方の草壁皇子は凡庸であり何よりも病弱であった。
持統皇后は、わが子草壁皇子を天武天皇の後継者にするべく、懸命の策を練った。
大伯皇女を伊勢神宮の斎王として送り出させたのも、有力皇族や豪族に嫁いで、大津皇子の後ろ盾になることを恐れたものと考えられる。
しかし、大津皇子は天皇や群臣たちの期待を一身に担って偉丈夫に育っていく。一歳年上でありながらひよわな草壁皇子とは、年々差が開いていった。
持統皇后は、衰えを見せ始めた天武天皇に草壁立太子を積極的に働き掛け、自らも祭り事に口出すことを強めて行った。すでに大津皇子は、群臣たちの間では次期天皇に近いほどの信頼を集めており、このまま天武が身罷りなどすれば、自分たち親子の立場が弱くなることは明らかであった。
皇后の立場も草壁皇子の存在も、天武天皇あってのものであった。いくら皇后として、時には天皇の代行役を務めていても、群臣たちにとって持統は、天智天皇の皇女であった。壬申の乱を戦った豪族たちにとっては、敵方の娘であることを忘れていないのである。
天武天皇の病は重くなり、ついに、政務一切を皇后と草壁皇子に委ねるとの決定を受けることに成功する。持統皇后は、天皇の病気回復のための祈祷や行事を盛大に行い、群臣の掌握に努め、草壁皇子の次期天皇としての存在感を高めようと努力を続けた。
しかし、群臣たちにとっては、天武天皇の後継者は大津皇子であり、病床の天皇の決定に関わらず、大津皇子の存在に何のかげりも見えなかった。
686年9月、天武天皇崩御。
大津皇子は、僅かな供を連れて密かに都を離れた。
天武王朝の体制は固まっているとはいえ、持統皇后を中心とした勢力の暴走も予測される状況にあり混乱から身を守るためであった。飛鳥を離れ伊勢国に向かった。伊勢神宮斉王である姉大伯皇女に会うためであった。
この伊勢行きが、単に姉に会うためであったのか、混乱から身を守るためであったのか、あるいはもっと他に大事があったのか、残されている確かな資料はない。
ただ、伊勢国は飛鳥と東国を結ぶ土地である。東国は天武勢力の強い土地柄であり、壬申の乱を戦った天武重臣たちの信頼厚い大津皇子にとっては、いざ戦乱となった時には重要な意味を持ってくる。そのため、天武崩御直後の大津皇子の密かな伊勢国行きは、謀反の準備ととられる面も持っていた。
しかし、天武の群臣たちの厚い信頼と期待を受けていた大津皇子に謀反の必要などあったのだろうか。
草壁皇子が正式に皇太子に就いていたか否かに関わらず、天武王朝は大津皇子を中心とした勢力を中心に運営されており、謀反を起こすとすれば、それは、未だに群臣たちから敵視されがちな持統皇后側であったはずなのである。
大津皇子の謀反事件では三十余人が捕らえられ、大津皇子は十分な詮議もなく翌日に処刑されているが、他は二人が流罪にされただけで許されているのである。この事件は、謀反というより、暗殺というものであったように感じられてならない。
それにしても、大津皇子は何故に伊勢国に向かったのであろう。
斎王である姉とはどのような話をしたのであろう。
都に戻ることを心配する姉に比べて、あまりにも無防備に飛鳥への山を越えたのは、群臣たちの信頼を受けている自信であったのか、それとも油断であったのか・・・。
そして、飛鳥への山を越え、無念の最期を迎えるまでの間に、あの二上山を仰ぎ見ることがあったのだろうか。
( 完 )