運命紀行
歴史の谷間で
室町時代というのは、なかなか分かりにくい時代である。
もちろん、足利将軍による室町幕府によって統治されていた時代を指すことは明白であるし、室町時代という名称も、京都の室町に足利将軍家の政庁が置かれたことから付けられたものであり、この点からも分かりやすいようにも思われる。
しかし、それでは室町時代とはいつからいつまでかということになれば、諸説が入り乱れる。
かつては、時代区分を、「・・、奈良・平安・鎌倉・室町・江戸、・・」としていて、この場合の室町時代は、西暦でいえば、1338年から1603年までとなり、265年間に及ぶことになる。
最近では、広義で捉える場合には、足利尊氏が建武式目を制定した1336年、あるいは征夷大将軍に就いた1338年を起点とし、十五代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された1573年までのおよそ237年間とするのが一般的のようである。
しかし、この期間についても、政権という観点から見れば、さまざまな時代区分がされることになる。
南北朝時代というのを一つの時代という見方も出来るし、戦国時代と呼ばれる時代を室町幕府の時代と呼ぶには無理がありそうだし、安土桃山時代にいたっては、その起点には諸説あるとしても一つの時代区分として認知を受けているといえる。
それでは狭義では室町時代とはどの期間を指すのか。
その起点は南北朝合一が成された1392年とされ、応仁の乱勃発の1467年までの75年間、あるいは明応の政変のあった1493年までの約百年間とする意見が多いようだ。
最短を取れば、室町時代とは、奈良時代よりも短い時代ということになる。
奈良時代は、平安京に移るまでとすれば84年間ということになるが、長岡京に移るまでとすれば74年間となり、この二つの時代はほぼ同一の長さだともいえる。
足利将軍は、初代尊氏から十五代義昭まで十五人の将軍が就いているが、実質的な意味での室町幕府の将軍は何人いたのだろうか。
実質的な室町幕府の創設者ともいえる三代義満は、1394年に将軍職を四代義持に譲っている。
義持は二十九年間将軍職を務め、1423年に子の義量に譲位しているが、義量は僅か二年で病死し、その後四年ばかりは将軍不在の状態で義持が政権を担っている。つまり、義持は実質的には三十五年間にわたって幕府の首座にあったことになる。
義持の死後は、いろいろあった上で、六代義教が将軍職に就き、1441年まで将軍の地位にあった。
義教が倒れた後の七代義勝は幼くして将軍職に就いたが、1443年に僅か十歳で亡くなった。死因は落馬とも暗殺とも言われているが、一年にも満たない在位期間である。
その後はしばらく将軍職を置くことができず、1449年に八代義政が八歳で就任し1473年までその地位にあった。
つまり、実質的な室町幕府政権とは、金閣寺を建立した三代義満の最晩年に始まり、銀閣寺を建立することになる八代義政と共に終焉を迎えているのである。
この間に政治的指導者として活躍しているのは、この両者と、四代義持、六代義教の四人に過ぎないのである。
そして、この四人に共通していることとしては、正室がいずれも日野家から迎えられていることである。
三代義満の正室は日野業子であったが、亡くなった後に康子が後継の正室となり、北山院として存在感を示したいる。
四代義持の正室栄子は、康子の実妹であるが、若くして没したとはいえ五代将軍となった義量を儲けており、義持死去から義教就任に至るまでの混乱期においては少なからぬ指導力を示している。
八代義政の正室は、室町幕府最強の女性ともいえる日野富子で、政治の実権を握るということでは夫の義政より遥かに上であったと考えられる。
その中にあって、六代義教の正室宗子だけは例外ともいえる存在で、残されている資料は少なく、政治的な影響など全く示す機会がなかったようである。
歴代将軍家に日野家から入った正室の中で、ただ一人といってよいほど存在感が薄いことに、限りなく興味が引かれるのである。
* * *
日野家は、本姓は藤原北家日野流嫡流であり、その家格は名家にあたる。
藤原内麻呂のひ孫にあたる藤原宗家が伝領地の山城国宇治郡日野(現在の京都市伏見区)に、寺院を建て薬師如来を祀った。弘仁十三年(822)の頃のことである。
その後代々この薬師如来を祀り、治承六年(1051)、子孫の藤原資業が改めて薬師堂を建立し、日野薬師堂とも称されるようになった。
これがその後資業(スケナリ)を始祖とする一門の氏寺となり、やがて名字も日野と名乗るようになった。
日野家一門は、いずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降「名家」の家柄として定着した。
極官は概ね中納言であったが、鎌倉時代に伏見天皇に重用された俊光が権大納言まで昇進し、日野流の嫡流と認知されるようになった。
なお、浄土真宗の開祖親鸞上人は、この一族の出自とされる。親鸞は娘覚信尼を同族の広綱に嫁がせていて、その子孫が門主として本願寺を率いた大谷家である。
室町幕府の足利将軍家と日野家の関係は、天皇家と藤原摂関家との関係に擬せられることがあるが、そのスケールはいささか小さい。
日野家は由緒ある旧い家柄であるが、家格は「名家」であり、「五摂家」「清華家」「大臣家」「雨林家」「名家」「半家」という家格が定着していた時代であり、庶民から見れば雲の上の存在であるが公家社会ではそれほど有力な家柄とはいえない。
また、足利将軍家が日野家から正室を迎えるのが慣例であったとする意見も見られるが、どうもそのようには見えない。正室として入った女性たちの頑張りで、次期正室を一族の女性から誕生させたもので、結果として、日野家からの正室が続いたように思われる。
足利将軍家と日野家の繋がりは、建武の新政と呼ばれる時代に、足利尊氏が後醍醐と対立し、軍事衝突に至った時、日野家出自の醍醐寺三宝院の賢俊が北朝の光厳院の院宣を仲介して朝敵となることを避けることが出来たことから始まった。
尊氏に擁立されて即位した後光厳天皇のもとで日野一門は重用され、裏松、烏丸、日野西など多くの分家を誕生させ、後に強大な権力を握ることになる三代将軍義満の正室に、業子そして継室に康子を嫁がせることになったのである。
さて、本稿の主人公である日野宗子は、日野家第二十一代当主である大納言重光の娘である。
後に将軍家の正室となった程の人物だが、その生没年は確定されていない。生年は、兄の生年が応永四年で妹の生年が応永十八年なので、その間ということになる。少々間隔があり過ぎて推定し難い。ただ、足利義教に嫁いだのが応永三十五年なので、この時まで未婚であったとすれば、妹の生年に近い頃ではないかと個人的には考えている。没年は、ある人物の日記に記録されていることから、公的記録ではないが、文安四年(1447)四月二十九日とされている。
宗子の夫となる義教(ヨシノリ)は、応永元年(1394)六月、三代将軍義満の三男として生まれた。母は側室の藤原慶子である。四代将軍義持とは同母の弟である。
足利将軍家の方針として、嫡男以外の男子は僧籍に入ることになっていて、義教も十歳の時に青蓮院に入り、十五歳の時に得度して門跡となった。名前も義円となる。
義教が義円と名乗ることになった同じ日に、同年の異母兄弟である義嗣は、やはり梶井門跡に入っていたが、還俗して元服前でありながら従五位下に叙せられたのである。これにより、現将軍は兄の義持となっている上、満一のために義嗣を還俗させたことから、義教の将軍職への道は完全に絶たれたともいえた。
義円となった義教は、仏道に専心し、応永二十六年(1419)には、百五十三代天台座主に就いている。
「天台開闢以来の逸材」とも呼ばれたらしく、並の人物ではなかったらしい。
一方、義教と同年の義嗣は、その後順調に昇進を重ね、権大納言、正二位と上っていたが、異母兄である将軍義持とは不和であったらしく、将軍打倒に動いたことから二十五歳で殺害されている。
人の運命の計り難いことは、この二人の動向からも教えられる。
四代将軍義持は、室町幕府の最も安定した時期に長期に政権の座にあったが、なぜか後継者の育成ということを考えなかったらしい。
応永三十年(1423)に正室日野栄子の子義量に将軍職を譲り、後継体制を固めようとしたようだが、応永三十二年に義量は急死してしまう。すると、その後は後継将軍を立てることなく自分が政務を司った。
そして、応永三十五年(1428)一月、病を得て危篤状態に陥ってもなお後継者の指名を拒否し続けたのである。そのため、正室日野栄子や重臣たちは協議を重ねた結果、石清水八幡宮で籤(クジ)を引き、義持の弟である、いずれも僧籍にある四人から選ぶことになった。
一月十七日に籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封されて、義円が次期将軍に指名されたのである。
後継者を、それも将軍職という大任を籤引きで決めるなどというのは、悪ふざけとも取られるかもしれないが、当時、神託というものは現代以上に大きな信頼を得ていたと考えられる。現在でも、なお神託に類するものは広く支持されているし、例えばスポーツの組み合わせや、時には勝敗さえも籤引きでなされることは知られている通りである。
しかし、その当時であっても、義教のことを「籤引き将軍」と陰口されたようであるから、異常であることも確かであった。
籤引きの結果は、十九日には義円に報告され、何度か辞退の後応諾することとなった。
栄子や重臣たちは、権力の空白からくる混乱を避けるためにも、一日も早い就任を願ったが、幾つかの難関があった。
まず、義円はこの時すでに三十五歳の壮年であったが、元服前に出家していたため無位無官であり、妻帯もしていなかった。頭髪も、僧体のままで将軍就任というわけにはいかなかった。
さらには、関東公方との関係や天皇継承などの紆余曲折があり、晴れて征夷大将軍に就任したのは、翌年三月十五日のことであった。六代将軍足利義教の誕生である。
このように、義教の将軍就任には若干の日時を要したが、正室である御台所の選定は素早かった。
義教が還俗してからひと月も経つか経たない閏三月三日に正式に御台所が定められた。日野宗子である。
宗子は義持未亡人栄子の姪にあたるが、突然の還俗から将軍就任へという慌ただしい最中に、おそらく義教の意向など殆ど斟酌されることなく決定されたと考えられる。決定に動いた中心人物は、もちろん栄子であろう。
六月二十一日には婚儀が執り行われ、翌年三月には女の子が誕生している。
しかし、残念ながら、宗子と義教の仲はあまり良くなかったらしい。
義教は次第に側室である正親町三条尹子を寵愛するようになり、永享三年(1431)六月には、義教は突如として尹子に御台所の身分を与えたと宣言したのである。このため、宗子は「本台所」尹子は「新台所」と呼ばれるようになり、正妻が二人いる状態となったのである。
さらに、七月二十六日には二人の間の一人娘が死去し、翌日には宗子の後見役ともいえる栄子もこの世を去った。
傷心の宗子にとどめを指すかのように、義教は宗子に離縁を申し渡し、この年の暮れまでには、宗子は御所を去っている。
義教は、「天台開闢以来の逸材」といわれたように、あてがわれたような正室には満足できなかったのかもしれない。
政治面においても、お飾りの将軍として満足できる人物ではなかった。軍事力の強化、宗教勢力への影響力行使、関東や九州を始めとした有力大名への実力行使、など幕府権力強化面での功績は小さくないという意見は少なくない。特に、応仁の乱後も幕府権力が一定期間持ちこたえられたのは、義教が設立した奉公衆制度にあるともいわれる。
その一方で、粗暴な振舞いも多く伝えられていて、「悪御所」という異名も付けられている。
永享九年(1437)の頃から播磨の豪族赤松満祐が将軍に成敗されるだろうという噂が流れるようになった。真偽も出所もはっきりしないが、これまでにも多くの大名や豪族が弾圧を受けてきており、赤松一族としては笑い飛ばすことのできない噂であった。
そして、嘉吉元年(1441)六月二十四日、将軍義教は、招かれた赤松邸で殺害されたのである。
日頃からの振舞いと、自信過剰から起こった惨劇は、嘉吉の乱と呼ばれることになる。
それでは、御所を追われた後の宗子はどのような生活を送っていたのだろうか。残念ながら、私などが捜す程度ではその消息は全く分からない。
宗子が御所を追われた後、妹の重子が義教の側室になっている。その一方で、宗子・重子の兄である義資は所領を没収された上、最後は暗殺され、一時的に日野家の勢力は衰えを見せている。義教は、青蓮院時代から、義資に無礼があり憎んでいたともいわれるが、有力豪族や公家の力を削ぐ一環かもしれない。
それにしても、重子は七代義勝と八代義政を生み、日野富子という女傑の登場を演出しているのであるから、義教の真意がどこにあるのか実に分かりにくい。
日野宗子が何歳で将軍御台所となったのか分からないが、それまでは有力公卿の姫として育っていたはずである。
義教との結婚生活は、期間としては三年余りだが、実質的にはもっと短かったと考えられる。
そして、御所を追われてからの消息は分からないが、官人である中原康富という人物の日記に、文安四年(1447)四月二十九日に、出家して観智院と名乗っていた宗子が死去したと記されているという。
愛娘を失い、夫から追われて御所を去ってから十五年余りの歳月が流れている。この長い期間を、宗子はどのように過ごしたのであろうか。幼くして世を去った愛娘の菩提を弔う念仏一途の日々であったのだろうか。あるいは、夫の死や日野家の栄枯など、世の流れを淡々と見つめていたのだろうか。
歴史の流れを、いつをもって山の頂として、いつをもって谷の底とすればよいのか知らないが、日野宗子という女性は、荒々しい時代の谷間に咲いた名も知らぬ一輪の花のように思われてならないのである。
( 完 )
歴史の谷間で
室町時代というのは、なかなか分かりにくい時代である。
もちろん、足利将軍による室町幕府によって統治されていた時代を指すことは明白であるし、室町時代という名称も、京都の室町に足利将軍家の政庁が置かれたことから付けられたものであり、この点からも分かりやすいようにも思われる。
しかし、それでは室町時代とはいつからいつまでかということになれば、諸説が入り乱れる。
かつては、時代区分を、「・・、奈良・平安・鎌倉・室町・江戸、・・」としていて、この場合の室町時代は、西暦でいえば、1338年から1603年までとなり、265年間に及ぶことになる。
最近では、広義で捉える場合には、足利尊氏が建武式目を制定した1336年、あるいは征夷大将軍に就いた1338年を起点とし、十五代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された1573年までのおよそ237年間とするのが一般的のようである。
しかし、この期間についても、政権という観点から見れば、さまざまな時代区分がされることになる。
南北朝時代というのを一つの時代という見方も出来るし、戦国時代と呼ばれる時代を室町幕府の時代と呼ぶには無理がありそうだし、安土桃山時代にいたっては、その起点には諸説あるとしても一つの時代区分として認知を受けているといえる。
それでは狭義では室町時代とはどの期間を指すのか。
その起点は南北朝合一が成された1392年とされ、応仁の乱勃発の1467年までの75年間、あるいは明応の政変のあった1493年までの約百年間とする意見が多いようだ。
最短を取れば、室町時代とは、奈良時代よりも短い時代ということになる。
奈良時代は、平安京に移るまでとすれば84年間ということになるが、長岡京に移るまでとすれば74年間となり、この二つの時代はほぼ同一の長さだともいえる。
足利将軍は、初代尊氏から十五代義昭まで十五人の将軍が就いているが、実質的な意味での室町幕府の将軍は何人いたのだろうか。
実質的な室町幕府の創設者ともいえる三代義満は、1394年に将軍職を四代義持に譲っている。
義持は二十九年間将軍職を務め、1423年に子の義量に譲位しているが、義量は僅か二年で病死し、その後四年ばかりは将軍不在の状態で義持が政権を担っている。つまり、義持は実質的には三十五年間にわたって幕府の首座にあったことになる。
義持の死後は、いろいろあった上で、六代義教が将軍職に就き、1441年まで将軍の地位にあった。
義教が倒れた後の七代義勝は幼くして将軍職に就いたが、1443年に僅か十歳で亡くなった。死因は落馬とも暗殺とも言われているが、一年にも満たない在位期間である。
その後はしばらく将軍職を置くことができず、1449年に八代義政が八歳で就任し1473年までその地位にあった。
つまり、実質的な室町幕府政権とは、金閣寺を建立した三代義満の最晩年に始まり、銀閣寺を建立することになる八代義政と共に終焉を迎えているのである。
この間に政治的指導者として活躍しているのは、この両者と、四代義持、六代義教の四人に過ぎないのである。
そして、この四人に共通していることとしては、正室がいずれも日野家から迎えられていることである。
三代義満の正室は日野業子であったが、亡くなった後に康子が後継の正室となり、北山院として存在感を示したいる。
四代義持の正室栄子は、康子の実妹であるが、若くして没したとはいえ五代将軍となった義量を儲けており、義持死去から義教就任に至るまでの混乱期においては少なからぬ指導力を示している。
八代義政の正室は、室町幕府最強の女性ともいえる日野富子で、政治の実権を握るということでは夫の義政より遥かに上であったと考えられる。
その中にあって、六代義教の正室宗子だけは例外ともいえる存在で、残されている資料は少なく、政治的な影響など全く示す機会がなかったようである。
歴代将軍家に日野家から入った正室の中で、ただ一人といってよいほど存在感が薄いことに、限りなく興味が引かれるのである。
* * *
日野家は、本姓は藤原北家日野流嫡流であり、その家格は名家にあたる。
藤原内麻呂のひ孫にあたる藤原宗家が伝領地の山城国宇治郡日野(現在の京都市伏見区)に、寺院を建て薬師如来を祀った。弘仁十三年(822)の頃のことである。
その後代々この薬師如来を祀り、治承六年(1051)、子孫の藤原資業が改めて薬師堂を建立し、日野薬師堂とも称されるようになった。
これがその後資業(スケナリ)を始祖とする一門の氏寺となり、やがて名字も日野と名乗るようになった。
日野家一門は、いずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降「名家」の家柄として定着した。
極官は概ね中納言であったが、鎌倉時代に伏見天皇に重用された俊光が権大納言まで昇進し、日野流の嫡流と認知されるようになった。
なお、浄土真宗の開祖親鸞上人は、この一族の出自とされる。親鸞は娘覚信尼を同族の広綱に嫁がせていて、その子孫が門主として本願寺を率いた大谷家である。
室町幕府の足利将軍家と日野家の関係は、天皇家と藤原摂関家との関係に擬せられることがあるが、そのスケールはいささか小さい。
日野家は由緒ある旧い家柄であるが、家格は「名家」であり、「五摂家」「清華家」「大臣家」「雨林家」「名家」「半家」という家格が定着していた時代であり、庶民から見れば雲の上の存在であるが公家社会ではそれほど有力な家柄とはいえない。
また、足利将軍家が日野家から正室を迎えるのが慣例であったとする意見も見られるが、どうもそのようには見えない。正室として入った女性たちの頑張りで、次期正室を一族の女性から誕生させたもので、結果として、日野家からの正室が続いたように思われる。
足利将軍家と日野家の繋がりは、建武の新政と呼ばれる時代に、足利尊氏が後醍醐と対立し、軍事衝突に至った時、日野家出自の醍醐寺三宝院の賢俊が北朝の光厳院の院宣を仲介して朝敵となることを避けることが出来たことから始まった。
尊氏に擁立されて即位した後光厳天皇のもとで日野一門は重用され、裏松、烏丸、日野西など多くの分家を誕生させ、後に強大な権力を握ることになる三代将軍義満の正室に、業子そして継室に康子を嫁がせることになったのである。
さて、本稿の主人公である日野宗子は、日野家第二十一代当主である大納言重光の娘である。
後に将軍家の正室となった程の人物だが、その生没年は確定されていない。生年は、兄の生年が応永四年で妹の生年が応永十八年なので、その間ということになる。少々間隔があり過ぎて推定し難い。ただ、足利義教に嫁いだのが応永三十五年なので、この時まで未婚であったとすれば、妹の生年に近い頃ではないかと個人的には考えている。没年は、ある人物の日記に記録されていることから、公的記録ではないが、文安四年(1447)四月二十九日とされている。
宗子の夫となる義教(ヨシノリ)は、応永元年(1394)六月、三代将軍義満の三男として生まれた。母は側室の藤原慶子である。四代将軍義持とは同母の弟である。
足利将軍家の方針として、嫡男以外の男子は僧籍に入ることになっていて、義教も十歳の時に青蓮院に入り、十五歳の時に得度して門跡となった。名前も義円となる。
義教が義円と名乗ることになった同じ日に、同年の異母兄弟である義嗣は、やはり梶井門跡に入っていたが、還俗して元服前でありながら従五位下に叙せられたのである。これにより、現将軍は兄の義持となっている上、満一のために義嗣を還俗させたことから、義教の将軍職への道は完全に絶たれたともいえた。
義円となった義教は、仏道に専心し、応永二十六年(1419)には、百五十三代天台座主に就いている。
「天台開闢以来の逸材」とも呼ばれたらしく、並の人物ではなかったらしい。
一方、義教と同年の義嗣は、その後順調に昇進を重ね、権大納言、正二位と上っていたが、異母兄である将軍義持とは不和であったらしく、将軍打倒に動いたことから二十五歳で殺害されている。
人の運命の計り難いことは、この二人の動向からも教えられる。
四代将軍義持は、室町幕府の最も安定した時期に長期に政権の座にあったが、なぜか後継者の育成ということを考えなかったらしい。
応永三十年(1423)に正室日野栄子の子義量に将軍職を譲り、後継体制を固めようとしたようだが、応永三十二年に義量は急死してしまう。すると、その後は後継将軍を立てることなく自分が政務を司った。
そして、応永三十五年(1428)一月、病を得て危篤状態に陥ってもなお後継者の指名を拒否し続けたのである。そのため、正室日野栄子や重臣たちは協議を重ねた結果、石清水八幡宮で籤(クジ)を引き、義持の弟である、いずれも僧籍にある四人から選ぶことになった。
一月十七日に籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封されて、義円が次期将軍に指名されたのである。
後継者を、それも将軍職という大任を籤引きで決めるなどというのは、悪ふざけとも取られるかもしれないが、当時、神託というものは現代以上に大きな信頼を得ていたと考えられる。現在でも、なお神託に類するものは広く支持されているし、例えばスポーツの組み合わせや、時には勝敗さえも籤引きでなされることは知られている通りである。
しかし、その当時であっても、義教のことを「籤引き将軍」と陰口されたようであるから、異常であることも確かであった。
籤引きの結果は、十九日には義円に報告され、何度か辞退の後応諾することとなった。
栄子や重臣たちは、権力の空白からくる混乱を避けるためにも、一日も早い就任を願ったが、幾つかの難関があった。
まず、義円はこの時すでに三十五歳の壮年であったが、元服前に出家していたため無位無官であり、妻帯もしていなかった。頭髪も、僧体のままで将軍就任というわけにはいかなかった。
さらには、関東公方との関係や天皇継承などの紆余曲折があり、晴れて征夷大将軍に就任したのは、翌年三月十五日のことであった。六代将軍足利義教の誕生である。
このように、義教の将軍就任には若干の日時を要したが、正室である御台所の選定は素早かった。
義教が還俗してからひと月も経つか経たない閏三月三日に正式に御台所が定められた。日野宗子である。
宗子は義持未亡人栄子の姪にあたるが、突然の還俗から将軍就任へという慌ただしい最中に、おそらく義教の意向など殆ど斟酌されることなく決定されたと考えられる。決定に動いた中心人物は、もちろん栄子であろう。
六月二十一日には婚儀が執り行われ、翌年三月には女の子が誕生している。
しかし、残念ながら、宗子と義教の仲はあまり良くなかったらしい。
義教は次第に側室である正親町三条尹子を寵愛するようになり、永享三年(1431)六月には、義教は突如として尹子に御台所の身分を与えたと宣言したのである。このため、宗子は「本台所」尹子は「新台所」と呼ばれるようになり、正妻が二人いる状態となったのである。
さらに、七月二十六日には二人の間の一人娘が死去し、翌日には宗子の後見役ともいえる栄子もこの世を去った。
傷心の宗子にとどめを指すかのように、義教は宗子に離縁を申し渡し、この年の暮れまでには、宗子は御所を去っている。
義教は、「天台開闢以来の逸材」といわれたように、あてがわれたような正室には満足できなかったのかもしれない。
政治面においても、お飾りの将軍として満足できる人物ではなかった。軍事力の強化、宗教勢力への影響力行使、関東や九州を始めとした有力大名への実力行使、など幕府権力強化面での功績は小さくないという意見は少なくない。特に、応仁の乱後も幕府権力が一定期間持ちこたえられたのは、義教が設立した奉公衆制度にあるともいわれる。
その一方で、粗暴な振舞いも多く伝えられていて、「悪御所」という異名も付けられている。
永享九年(1437)の頃から播磨の豪族赤松満祐が将軍に成敗されるだろうという噂が流れるようになった。真偽も出所もはっきりしないが、これまでにも多くの大名や豪族が弾圧を受けてきており、赤松一族としては笑い飛ばすことのできない噂であった。
そして、嘉吉元年(1441)六月二十四日、将軍義教は、招かれた赤松邸で殺害されたのである。
日頃からの振舞いと、自信過剰から起こった惨劇は、嘉吉の乱と呼ばれることになる。
それでは、御所を追われた後の宗子はどのような生活を送っていたのだろうか。残念ながら、私などが捜す程度ではその消息は全く分からない。
宗子が御所を追われた後、妹の重子が義教の側室になっている。その一方で、宗子・重子の兄である義資は所領を没収された上、最後は暗殺され、一時的に日野家の勢力は衰えを見せている。義教は、青蓮院時代から、義資に無礼があり憎んでいたともいわれるが、有力豪族や公家の力を削ぐ一環かもしれない。
それにしても、重子は七代義勝と八代義政を生み、日野富子という女傑の登場を演出しているのであるから、義教の真意がどこにあるのか実に分かりにくい。
日野宗子が何歳で将軍御台所となったのか分からないが、それまでは有力公卿の姫として育っていたはずである。
義教との結婚生活は、期間としては三年余りだが、実質的にはもっと短かったと考えられる。
そして、御所を追われてからの消息は分からないが、官人である中原康富という人物の日記に、文安四年(1447)四月二十九日に、出家して観智院と名乗っていた宗子が死去したと記されているという。
愛娘を失い、夫から追われて御所を去ってから十五年余りの歳月が流れている。この長い期間を、宗子はどのように過ごしたのであろうか。幼くして世を去った愛娘の菩提を弔う念仏一途の日々であったのだろうか。あるいは、夫の死や日野家の栄枯など、世の流れを淡々と見つめていたのだろうか。
歴史の流れを、いつをもって山の頂として、いつをもって谷の底とすればよいのか知らないが、日野宗子という女性は、荒々しい時代の谷間に咲いた名も知らぬ一輪の花のように思われてならないのである。
( 完 )