雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

絶望の中でも ・ 小さな小さな物語 ( 489 )

2013-08-17 10:37:15 | 小さな小さな物語 第九部
たまたま、懐かしい歌を聞きました。
ラジオから流れてくるその歌は、まだ若くして亡くなった女性歌手の澄んだ声が素晴らしく、メロディーの素晴らしさともあいまって、おそらく多くのファンがいることでしょう。
そして、私の場合は、その歌がある思い出とも重なってしまい、少々辛い気持ちになりました。

取り返しのつかない出来事や、決して取り戻すことのできない大切なものを失ってしまった悲しみは、実在します。
つい最近のことでも、国内外で、事件や事故に巻き込まれた人たちがいます。楽しい計画を実現しようとしている途中に、あるいは、まったく関係のない偶然から命を失ったり大切なものを失ったりした人たちにとって、何に怒りをぶつければよいのか、また、たとえ何かに怨みをぶちつけることが出来たとしても、果たしてそれが虚しさを押さえるためにどれほどの効果があるというのでしょうか。
絶対に取り戻せない虚しさは、結局は絶望とともに肩をすくめている以外に方法はないのでしょうか。

仏教説話に、子供を失った若い母親の話があります。
『 裕福な商人の若い妻は何不自由なく幸せに過ごしていました。さらに、元気な男の子にも恵まれ、幸せの絶頂にありました。
しかし、その子は突然の病で死んでしまいます。若い母親はその死を受け入れることが出来ず、亡骸を抱きかかえて、生き返らせてくれる人を捜し求めて半狂乱の状態となります。
見かねたある人が、祇園精舎にいるお釈迦さまを訪ねれば、苦しみから救ってくれると教えます。若い母親は早速お釈迦さまを訪ね、わが子を生き返らせてくれと泣き叫びます。
哀れに思われたお釈迦さまは、五粒の芥子の実をもってくれば、あなたを苦しみから抜け出させて上げましょう。但し、その五粒の芥子の実は、これまで一度も人が死んだことのない家から貰ってくるように、と条件を付けました。
若い母親は芥子の実を求めて千件もの家を訪ね歩く中で、大切な人との別れを経験しない人はいないことをさとります・・・ 』

「どんなに辛く悲しいことでも、どんなに大きな絶望であっても、やがては時間が解決してくれる」「この世のことでこの世で解決できないものなどない」
などという、ご高説を聞くこともあります。
まあ、ご高説を述べるのはお互い勝手ですが、そんなことで解決できるようなものは「絶望らしいもの」であって、本当に絶望している人には何の役にも立たないような気がします。
しかし、私の拙い経験から申し上げますと、「人はどのよう状態でも生きることが出来るし、失った大切なもののためにも生きねばならない」と、そのようにも思うのです。

( 2013.03.05 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二十四時間を生きる ・ 小さな小さな物語 ( 490 )

2013-08-17 10:34:18 | 小さな小さな物語 第九部
私たちは一日を二十四時間として生きています。
学術的に言えば少し違うのでしょうが、およそ二十四時間というものがベースとなって、計画的であれ成り行き任せであれ、毎日生活しているわけです。
二十四時間ですから、睡眠に八時間、労働に八時間、食事や休息や余暇などに残りの八時間、といったように分割することが出来れば、二十四時間というのはなかなか具合の良い時間なのですが、なかなかそういった配分の出来る人は少ないことでしょう。
平均的なサラリーマンの生活を考えてみましても、最近では一日の所定時間が八時間という人は長い方だと思うのですが、実際はなかなか八時間というわけにはいかないのが現実でしょうし、実務より厳しいともいえる通勤時間を加えれば、十二時間ほどになってしまう人が多いと思われます。
三等分など、とても無理な話になってしまいます。

江戸時代の人々は、太陰暦を中心とした生活でしたから、現在とは少し違う時間の配分が行われていたようです。
江戸時代の時刻は、昼間を六刻、夜間を同じく六刻として時間を区切っていました。日の出から日の入りまでを昼間とし、日の入りから日の出までを夜間としていましたから、大まかに二等分していたかといえば、少し違うのです。
朝の始まりである「明け六つ」というのは、日の出ではなく空が少し明るくなり始めた頃であり、「暮れ六つ」は、同じように日の入りではなく、日が沈んでしまって暗くなってきた頃のことですから、一日は昼間の方が三、四十分長く決められていました。
しかも、日の出日の入りは季節によって大きく変わりますから、昼夜の時間も季節によって大きく変わるわけです。つまり、サマータイムとは違いますが、江戸時代の人は常に一日の時間の配分は違っていたわけです。同時に、「一刻」といっても、季節により、昼と夜により、そうとう長さが違うわけです。時代小説などには、「明け六つ(朝六時頃)」などといった表記を見ることがありますが、現代の時間に当てはめる場合は季節によって大いに違うわけです。

「お江戸日本橋、七つ立ち・・・」といった歌がありますが、この「七つ」というのは、明け六つの一刻前のことですから、夏であれば午前三時頃になります。江戸の旅人は、こんな時間に出立したそうですから、現代のサラリーマン以上に働いていたのかもしれません。
現代の私たちからすれば、季節により長さの変わる時間というのは不便なような気もしますが、それはそれで案外自然体に近い生活が出来るのかもしれません。
それに、私たちが持っている「体内時計」は、一日は二十五時間として組み込まれているそうですから、どんな時間の暦を作っても、体内時計とは一致しないわけです。
私たちは、朝の光を浴びることで体内時計を調節していますので、朝は調子が出ないというのは当然なのです。

私たちの地球は自転していますので一日という単位が生じるのですが、この回転、五万年に一秒程度遅くなっているそうです。お気付きの人は少ないと思いますが、一日の長さは僅かずつ長くなっているわけです。
地層や化石などからの研究によれば、九億年前の一年は四百八十五日だったそうですから、一日の長さは十八時間余りということになります。この計算でいけば、九億年後には一日の時間は三十時間ほどになることになります。
昔に戻ることはありませんから、私たちは一日十八時間の生活を考える必要はありませんが、来るべき九億年後に備えて、一日三十時間の生活パターンを研究しておく必要があります。
多分、大分のんびりできることは確かなようです。

( 2013.03.08 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バンスターズ彗星 ・ 小さな小さな物語 ( 491 )

2013-08-17 10:33:17 | 小さな小さな物語 第九部
バンスターズ彗星についての報道が増えています。
わが国から見る場合、今夜が最も接近している状態だそうです。太陽が沈んだ直後の西空低くに見えるそうです。肉眼でも見えるようですが、小さなものでも双眼鏡などを使えばさらにはっきり見えるそうですが、日没直後のことなので、くれぐれも慌てて太陽を見てしまわないように、お子様などには注意していただきたいと思います。
この後も四月中旬までは観測可能で、日ごとに西空高くに移って行くそうですが、反対に地球から遠のいて行きますので、この数日が見つけるチャンスのようです。

この彗星は、2011年6月に発見されたもので、その時の明るさは、19.4等星程度の明るさで木星の軌道より遠い所を地球に向かって懸命に進んでいる姿が発見されたそうです。
19.4等星というのがどのくらいの明るさなのか私には全く理解できないのですが、普通肉眼で見える星は6等星程度だと思うのですが、私の目などでは4等星くらいがやっとです。素人の望遠鏡程度ではとても駄目でしょうし、実際に発見されたのは米国のハワイ・マウイ島に設置されているバンスターズ1望遠鏡で発見されており、名前もそれに因んだものです。

彗星は、わが国では「ほうき星」ともいわれますが、古い文献にも時々記録されており、凶事の前兆とされたことが多いようです。
また、時には彗星を流星と混同されることもありますが、これは全く別のものです。流星、つまり流れ星は、先日の隕石騒ぎがありましたが、小惑星や塵のようなものが地球の大気圏に突入して燃え尽きる現象です。彗星は、宇宙空間を尾を引きながら進んでいるもので、地球から見た場合、流星は一瞬の出来事ですが、彗星は尾を引きながらとどまっているように見えます。
彗星とは、太陽系小天体のうち主に氷や塵で出来ているもので、太陽から遠く離れている場合には、小惑星と彗星の見分けはつかないそうです。それが太陽から3AU(AUは天文単位で地球と太陽との平均距離)まで近付くと、その熱の影響を受けて溶け出し、一時的な薄い大気となり(これをコマという)、その大気や塵などが長い尾(テイル)となって彗星の姿のなります。
彗星には、周期を持ったものとそうでないものとがあり、その周期も、最短のものは3.3年、長いものは数百年に及ぶものもあります。彗星は質量が小さいため、遥か遠くにある天体の変化にも影響を受けて軌道を変えるため、周期の有無がはっきりしないこともあり、200年を超えるものは全て非周期彗星と分類されるそうです。
有名な彗星としては、ハレー彗星は76年周期、エンケ彗星が最短の3.3年の周期をもっています。
1965年秋にやってきた池谷・関彗星は、マイナス17等級に達する見事さでしたが、この彗星は非周期彗星で、おそらく二度と人類の前に姿を見せてくれることは無いのでしょう。

今回のバンスターズ彗星も非周期彗星で、私たちにほんの少しばかり姿を見せてくれたあとは、遥か彼方に去って行ってしまうのです。
彗星の中には、太陽やその他の天体に突入して、壮絶な最期を遂げるものも少なくないそうです。
地球にも、40憶年程前にはたくさんの彗星が激突してきているそうです。現在、私たち地球上の生物全ての命の源泉ともいえる水は、それらの彗星によってもたされたものが大部分だとも考えられています。
宇宙空間を小さな体で尾を引きながら懸命に飛んでゆく彗星。自らの意思なのか宇宙の法則なのか、私たちが周期的であるとかないとかいったところで、彗星にすれば知ったことではなく、定められた道を迷うことなく突き進んでいるのでしょうか。
しかし、考えてみれば、私たちも彗星から命を頂いた子孫らしく、毎日毎日迷うことなく家に帰ってきていますよね。彗星より周期は少し短いですが、同じ習性なのかもしれません。それに、時々軌道を遠く離れてしまうものもあるあたりは、全く瓜二つのように思われます。

( 2013.03.11 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時は流れて ・ 小さな小さな物語 ( 492 )

2013-08-17 10:32:03 | 小さな小さな物語 第九部

私たちの宇宙の誕生はおよそ百五十億年前と考えられています。そして、私たちが属している銀河系銀河もその直後に誕生したと考えられています。
銀河の中では次々と星が生まれ、それらの星は寿命が尽きる時には大爆発を起こしその輝きは何千億倍の明るさになります。星の中にため込まれていたエネルギーを一気に吐き出し、その後は僅か一年ほどの間に漆黒の闇に戻って行きます。超新星爆発といわれる現象です。そして、この大爆発で飛び散った物質などは、次の新しい星を誕生させる源泉となるのです。
この超新星爆発という現象は、現在の銀河系の中では百年に一度程度しか起こりませんが、銀河系誕生から十億年ほどの頃には今の百倍程の頻度で発生していて、荒々しく、次々と星たちの消滅と誕生を繰り返していたそうです。

銀河系銀河の荒々しい活動は少しずつ落ち着いていきましたが、およそ百億年ほど経った頃、その活動の中から一つの星が誕生しました。太陽です。
そして、太陽が星として整っていく過程で大小無限といえるほどの惑星群が誕生し、その中の一つが地球として育っていったのです。
私たちの地球には、多くの生命体を育むために元素などが存在していますが、その主要なものである炭素・酸素・窒素・鉄といった重い元素が誕生するためには果てしなく繰り返されてきた大爆発が必要だったのです。

今私たちに姿を見せてくれている彗星は、いつ誕生したのでしょうか。
かの彗星もまた、太陽活動の一つとして生まれた天体の一つですから、生まれ年はともかく、私たち地球と極めて近しい関係にある天体だといえるのではないでしょうか。
太陽の惑星といえば、つい「水・金・地・火・・・」などと数え、冥王星は仲間うちであるとかないとかという論議もありましたが、とんでもない話で、小惑星といえども太陽系天体の一つであることに変わりはないのです。彗星もまた惑星の仲間であることに何の疑いもありません。
地球の誕生はおよそ四十六億年前と考えられています。
よく博物館などに地球の歴史をカレンダーにたとえているものがあります。地球の誕生を一月1日の午前零時として、現代を大晦日の年が変わる寸前としたものです。
それによれば、地球上に最初の生命が誕生したのは三月下旬の頃であり、その生命体が水中から陸に上がったのは十一月中旬のことなのです。
ある時期繁栄を誇った恐竜が絶滅したのは十二月二十六日のことであり、私たちの祖先が姿を見せたのは大晦日の午後十一時五十七分の頃であり、電気や火薬や原子力などといったとんでもない力を持ち出したのは、年が変わるつい二秒ほど前のことなのです。
それにしても、かの彗星はいつ頃から宇宙空間を飛び回っているのでしょうか。

東日本大地震から二年が過ぎました。
この二年を、長いか短いか感じるのは、それぞれの方々によるのでしょうが、テレビの特集番組などを見て感じましたのは、傷ついた心を癒すのには、まだまだ短すぎるという気がしました。だって、地球の歴史カレンダーに当てはめれば、二年などというのは、息をのむ間もない時間なのですから。
同時に、各地の復旧に関するレポートなど見ていますと、大変だと思うとともに怒りさえ感じられてきます。「単なる復旧ではなく復興だ」などとは、どの口が言ったのか追及したい思いとともに、わが国の国力というものは、結局この程度だったのかというあきらめの気持ちもしています。
もちろん、地道に、雄々しく、一歩一歩進んでいる人たちのレポートも数多くあり、頭が下がりました。
遠く離れた当地からは、やはり関心が薄れていっていることは確かです。もっともっと関心を持ち続けることが何より大切であることと、どんな理由があろうとも、復興予算をくすねている結果となっている自治体は、少しは恥ずかしいと思って欲しいものです。そこの市民もですよ。

( 2013.03.14 )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雁供養 ・ 小さな小さな物語 ( 493 )

2013-08-17 10:28:57 | 小さな小さな物語 第九部
『 秋、遥か北の国から雁たちが日本へやってくる時、小さな木片をくちばしにくわえて飛んでくるそうです。長い旅の途中、雁たちは時々その木片を海に浮かべて、疲れた羽を休めるのです。
そうして、ようやく津軽の浜までやってくると、雁たちはその木片を海岸に残して、日本の各地へと飛んで行き厳しい冬を過ごすのです。
やがて春になり、今度は北の国に帰って行くために、海岸においていた木片をそれぞれくちばしにくわえて、遥かな旅へと飛びたって行くのです。海岸には、この冬の間に命を落としてしまった雁たちの数だけ木片が残されます。
冬を越すことができず散っていった雁たちを哀れみながら、村人たちは、残された木片を集め、風呂を焚いて雁たちを供養したというのです。 』

これは、陸奥湾地方に伝わる伝説だそうです。
私がこの話をは初めて知ったのは、ウイスキーのコマーシャルに用いられていたのを見たのが最初なのですが、江戸時代に曲亭馬琴が編纂した「俳諧歳時記栞草」にも書かれているそうですから、ずいぶん古くからある話のようです。
また、私は聞いたことがないのですが、落語でも演じられているそうですし、俳句では「雁風呂」「雁供養」は春の季語になっています。

異常に暖かくなったり厳しい寒さが戻ってきたり、激しい風に風雨、北国では大雪の危険もまだまだ油断ができません。さらに今年は、花粉症に加え大気汚染の問題が、良くない話題を集めています。
しかし、それでも季節は確実に進んでいて、私がよく散歩するあたりの池からは、いつの間にか冬の鳥たちは姿を消してしまっています。すでに北国に向かって旅立ったのか、あるいはどこかの海岸に集まって飛んで行くのかもしれませんが、それぞれ元気に日本の冬を過ごすことが出来たのでしょうか。
この季節の頃、決まってこの伝説といいますか、民話といいますか、何とも切ないこの話を思い出すのです。

わが国の四季が少しずつ崩れていっている、といった話は随分前から耳にすることがあります。
確かな情報ではないのですが、以前は、この種の話の元になるものは、季節外れの野菜などが店先に並ぶことや、冷暖房の部屋で季節感がなくなったなどといった類だったと思うのですが、どうも最近は、天候であるとか、野草や野鳥などの生態などが話題の元になっていて、深刻さが増しているような気がします。
四季のある国に生まれた私たちは、その移り変わりの瑞々しさや、それぞれの季節が持つ優しさや厳しさによって育まれてきたものも少なくないと思うのですが、やがては、そういうものにも影響が出てくるのでしょうか。
やがて、春爛漫の季節になります。それぞれの季節を十分味わいたいものです。

( 2013.03.17 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コウモリは鳥か ・ 小さな小さな物語 ( 494 )

2013-08-17 10:27:06 | 小さな小さな物語 第九部
TPP交渉参加表明に関する議論が多発しています。
農業を護れ、国民皆保険制度が壊される、非関税障壁と呼ばれる部分で大きな打撃を受ける、食などの安全基準が犯される・・、等々、反対論が多数展開されています。
首相の正式表明で安心したのか、賛成意見はあまり取り上げられず、何故こんなに悪いことばかりある交渉に、遅れて、頼み込むようにしてまで参加するのかと考えてしまいます。

農業などのある分野は、致命的な打撃を受けて消滅してしまいそうな話も聞きます。
米なども、完全自由化がなされれば70%が輸入米にとって代られるという意見を述べている人もいるそうです。本当にそうなのでしょうか。日本のコメは、外国産のコメに品質と価格を加味した場合、それほど値打ちのないものなのでしょうか。もしそうだとすれば、国民は毎年大変な金額を第二の税金のような形で取られていることになります。

個々の品目や制度については、これから多くの意見が交わされることでしょう。従って、この欄ではその面は少し離れて、何故賛否両論のTPPに参加しようとしているのかについて考えてみます。
TPPに賛成であれ反対であれ、わが国が自由貿易から離れて自立していくことなど出来ないことは承知していると思います。現に、私たちは他国との貿易において関税や輸入制限によって、ある分野を護り、他国への売り込みにも制限を懸けられたりしています。さらには、通貨制度(円安・円高)による束縛がどれほど大きなものであるかということは、この数カ月の変化で身にしみたはずです。
TPPに関わらず、私たちが世界と付き合っていくためには複雑な問題や多くの矛盾があることも覚悟しなくてはならないのです。
そして何より大切なことは、TPPに正式参加できたとしても、それによる経済的利益など大したことではないのです。それでも、なぜ参加するのか。その理由の一つは、世界の動きは多国間による貿易協定を締結する方向に動いていて、TPPに不参加だけで済む話ではないのです。つまり、国家の安全保障とも無関係でないということも考える必要があるのです。

コウモリは鳥か獣か、といった物語を聞いたことがあるような記憶があります。
コウモリのように、ある時は鳥として振る舞い、ある時は獣として振る舞うことが出来ればいいのですが、お前は鳥だ、いやお前は獣だと両方から拒絶される恐れがあります。
わが国の国力からすれば、もはやコウモリのような行動では生き延びることは無理で、どちらかの旗幟を鮮明にする必要があるのです。
鳥になるのも一つの方法ですし、獣になるのも一つの方法だと思います。ただ、コウモリが鳥だといって頑張り抜くのは少々無理があるようにも思うのです。
さて、私たちはどちらを選べば良いのでしょうか。

( 2013.03.20 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラシーボ効果 ・ 小さな小さな物語 ( 495 )

2013-08-17 10:24:06 | 小さな小さな物語 第九部
いろいろと噂されていた日銀の総裁・副総裁人事は意外なほどスムーズに国会の承認が得られ、新しい体制での通貨政策が実施されていくことになりました。
「アベノミクス」という言葉も、すっかり定着してしまい、日銀首脳の交代により首相提言の金融政策が正式にスタートしたわけです。
三本の矢などと、何とも古めかしい喩が首相の経済政策のスローガンになっているわけですが、喩は古くとも新鮮な息吹を吹き込んで強力な経済政策を展開してくれることを期待しています。

次は新年度予算の規模と内容が経済政策の次の柱ともいえます。首相の思惑通りの予算が組めれば、第一と第二の矢は放たれたことになります。
もっとも放たれた矢は、いくら強弓であっても風の影響も受けるでしょうし、障害物にぶち当たれば止まってしまいます。一旦弦を離れれば、後は矢の気の向くままというわけにはいかず、適切で強力なフォローが絶対に必要です。
株高・円安と、新首相就任以来、様変わりの好転を見せていますが、まだまだ株価も円相場もこれからが正念場です。
少し円安に振れたからといって、まだまだ「円」は世界最強ともいえる通貨です。強い商品はどんどん販売すればいいのです。販売すべき「円」は、どんどん発行すればよろしい。国債を発行すればよいのです。
財政規律がどうと難しいことを仰る方が登場してくれることでしょうが、今更五十兆円や百兆円程度の借金が増えたからといって、どうってことはありませんよ。何もしなくじっとしていれば、そのくらいの借金は間違いなく積み上がっていきます。どんと、経済対策につぎ込めば、後から税収がついてきてくれますよ。

「プラシーボ効果」という言葉があります。
「プラシーボ」というのは「偽薬」と訳されるそうですが、つまり「偽物の薬」のことです。
「プラシーボ効果」というのは、信頼される人から、良い薬だといって飲まされると、それが水とか小麦粉であっても、病状に良い効果を与えることがある、ということを指します。
このような話は、日常生活でも時々目にすることがあります。お母さんが幼い子供に、「痛いの痛いの飛んで行け!」と呪文を唱えますと、幼い子供の痛みは本当に軽減されるそうですから、これもこの効果の一つではないでしょうか。

実は、順調に船出をした新政権ですが、経済政策で見た場合、それほど具体的な政策が実行されたわけではありません。
言うならば、「プラシーボ効果」のような状態なのです。「痛いの痛いの飛んで行け!」と同じで、このお母さんの言葉はとても大切で有効なのですが、いついつまでも効果が続くものではありません。
要は、そして最も大切なのは、第三の矢である具体的な経済政策がどのように打ち出され実行されるかということです。
そのためにこんな提案はどうでしょうか。
一つは、キプロスの預金に対する課税のまねではありませんが、わが国を代表するような有力企業の社内保留金の一定割合を強制的に何らかの形で支出させるのです。社員への配分、地域への配分、設備投資など使途は企業に任せればよろしい。
そしてもう一つ、消費税の引き上げを二年ばかり延期させることです。それによる税収の落ち込みなど大したことではありません。むしろ、上向きかけている景気動向の頭を押さえることの方が遥かに経済的な損失ですよ。
当然、こんなことを上回るような施策を考えてくれているのでしょうが、「ブラシーボ効果」が切れた後には、本当に有効な薬が必要だということだけはお忘れなく。

( 2013.03.23 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廻り廻って ・ 小さな小さな物語 ( 496 )

2013-08-17 10:21:10 | 小さな小さな物語 第九部
キプロスの金融危機が、ユーロ圏経済に影響を及ぼし、それがアメリカ株式市場の反落につながり、それを受けたわが国の株式市場も下落する・・・。
先週末の一日二日は、世界経済は繋がっているということを教えてくれるお手本のようなものでした。
これは決してキプロスという国家や国民について非難しているつもりはありませんので、くれぐれも誤解がないようにお願いしておきたいのですが、人口や経済規模からすれば間違いなく小国の部類だと思うのですが、世界経済に対してこれだけの影響をもっていることに驚くとともに、確かに私たちの生活のすべての面が、良いにつけ悪いにつけ、廻り廻ってくる波を受けていることになっているようです。

テレビなどの街頭インタビューなどで、最近の株式市場の活況について、「恩恵を受けているのは一部の金持ちだけだ」といったものを見る機会が何回かありました。番組の構成自体がそのような意見を期待している様子が見え見えのものもいくつかありました。
個人的な感情からいえば、「そうだ、そうだ」と叫びたい気持ちも確かにあるのですが、それはあまりにも短絡的な考えのようにも思うのです。
株式取引に何の関係もない人であっても、例えばこの三カ月程の値上がりだけで、年金資源は増加していて、年金制度に何の工夫がなされないとしても、破綻するのが何カ月かは先に延びたはずですよ。つまり、現に年金を受給しているいないかに関わらず、加入している人すべては、その恩恵を受けているはずです。もしかすると、下手な株式投資家よりも恩恵は大きいかもしれません。
もっとも、この十数年にわたる、年金資金を管理している組織の立派な運用の在り方が、現在の年金システムの危機の原因の何割かになっているともいえることになります。破綻危機の原因は、少子高齢化だけではないはずなのです。

お花見の季節、今年は各地とも相当早く、行事の調整などに苦心されている人もいるかに聞いています。
まあ、こちらの方は、たとえ葉桜になったところで、年金資金をじゃじゃ漏れにされたほどのことはありますまい。
ところで、お花見の桜といえば、やはりソメイヨシノが主流のようです。八重桜やシダレザクラも捨てがたいですし、日本人は何といっても山桜だという人もいるそうです。各地には、それぞれに特徴ある桜を愛でる人々も少なくありませんが、全体としてはやはりソメイヨシノの存在感は圧倒的です。
しかし、このソメイヨシノは江戸時代に江戸の染井村で交配により生み出された新しい品種なのです。ソメイヨシノは種で増やすことは出来ませんので、一本一本接木などで増やしていくそうなのです。つまり、わが国だけでなく、ワシントンにあるソメイヨシノも、全て一本の木から生み出されたクローン桜なのです。
廻り廻って全国に広がり、今や気象庁はじめ桜ウオッチャーに追い回される存在になっているのです。

私たちの日常は、あらゆる事件や事象が廻り廻って影響を受けているのです。
落語の中にはご隠居さんなる人物がよく登場します。たいていは浮世離れしているように描かれていることが多いものです。かつて、唐土には仙人なる浮世を超越した生活を送っていた人々がいたそうです。
わが国でも、平安や鎌倉時代には、末法思想の影響もあってか、仙人のような生き方にあこがれた人々も少なくなかったそうです。かの西行もそうだったのかもしれません。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。廻り廻って押し寄せてくる世間のしがらみを捨て切れることなど出来たのでしょうか。西行に関する断片的な知識からいえば、とてもとてもそんな様子は感じられず、廻り廻って押し寄せてくる世間の波にどっぷりとつかった生涯だったように見えてしまうのです。
現代に生きる私たちには、そのようなことを望むこととて困難なことです。
せめて、植木職人の手で生み出された一本の桜から、廻り廻って各地で花を咲かせているソメイヨシノの健気さに想いを寄せながら、お花見を楽しむとしますか。

( 2013.03.26 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一票は一票 ・ 小さな小さな物語 ( 497 )

2013-08-17 10:19:25 | 小さな小さな物語 第九部
いわゆる「一票の格差」を問題視した裁判が、各地の高裁で次々と憲法違反と判定されています。
報道などを見る限り、今回初めて下された、憲法違反でかつ選挙無効という判決に対するものに大きな関心が寄せられているようです。確かに、政治の混乱や社会に対する影響などを考えれば、選挙無効ということは大変なことだと思うのですが、本当は、憲法違反という判定こそが立法府に対するレッドカードのはずなのです。

いくら憲法違反という判決が出たところで、選挙無効とされない限りは、のらりくらりと国会議員を続けていけばいいという考え方こそがとんでもない話であって、実際に、恥ずかしげもなくその旨のことをテレビのインタビュウに応えている鉄面皮と表現したい国会議員もいます。
選挙無効ということは大変なことのようですが、決してそうではなく、憲法違反とされた議員が国会議員として存続していることの方がよほど大変なのです。
選挙無効が付こうが付くまいが、憲法違反と判定されれば国会議員は全員失職すべきなのです。国会議員が全員失職すれば混乱すると心配される人もいるようですが、大したことありませんよ。憲法違反の制度により選ばれてしまった人物によって政治を担当されることの方が遥かに社会に悪影響を及ぼすはずです。

それにしても、どういうつもりで前回選挙に対する裁判所の判断を国会は無視し続けてきたのでしょうか。
国会議員の全てとは言わないまでも、過半の議員は、よほど図々しいか、無能なのか、それ以外の理由もあるのでしょうか。
昨年末以来、経済対策などきわめて順調にスタートした新政権です。この問題に対しても思い切った解決策を示して欲しいものです。
「0増5減」なんて小手先の対策は話になりませんよ。現在与党の中でまとめられつつあるという、わけの分からない制度などは憲法違反そのものですよ。議員定数削減といえば正義のように叫ぶ意見に振り回されるのも愚の骨頂です。
おそらく、これまで出来なかったことを現在の国会が簡単に改善策を見つけ出せるとは思えませんので、この際勇気をもって、不祥事の団体の定番である「第三者委員会」にでも丸投げするのもいいのではないですか。

それにしても、選挙制度というものは難しいものです。
そもそも格差とは何なのか、そして、何故発生しているのかも国民全体がよく考えてみる必要もありそうです。
詳しく調べたわけではありませんが、人口比でみた場合、一票の格差は他の先進国に比べてわが国が突出しているというものでもないのです。例えば、アメリカの上院議員は各州から二名ずつ選出されるため、人口比でいえば六十倍ほどの差があるそうです。
そのような例を考えてみますと、人口比だけで国会議員を選ぶのが本当に正しいのかということになります。例えば、国土の面積比では駄目なのかということや、領海分も考慮する必要があるのではないかということも笑って済ませることではないような気がするのです。
要は、何を根拠として議員を選出するのかということをルール化させることが大切なのです。現役の国会議員を除いたメンバーで討議されることが理想ですが。
同時に、二十万人で一人の国会議員を選出するのと、四十万人で一人の国会議員を選出する地域がある場合、本当に一人の選挙権としての価値は半分になるのでしょうか。これは算数の問題ではなく国家運営のためのテストなのです。それほど簡単なものではないような気がするのです。
ルールさえしっかりしておれば、算数的に考えた一票の格差などという単純なことで大騒ぎする必要などないような気がするのです。
どちらの地域に属していても、一票は間違いなく一票としての働きをするのですから。

( 2013.03.29 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国の骨格 ・ 小さな小さな物語 ( 498 )

2013-08-17 10:16:53 | 小さな小さな物語 第九部
「国家とは何ぞや」などと大見えを切るわけではありませんが、国家とは何をもって認定されるのでしょうか。
例えば、国連に加盟していることをもって国家という考え方があるとすれば、これはかなり歪んだ考え方になってしまうでしょう。何故なら、国連に加盟するためには、国連の安全保障理事会と総会の両方の承認を得ないと加盟できませんので、拒否権を持つ常任理事国という制度が存在する限り、国連加盟は民主的な手段で検討されているとはいえないからです。
つまり、国連加盟国は国家であるとか否かの判断基準などではなく、規模の大きいクラブの会員という方が正しいような気がします。
現在、国連に加盟している国家は193ケ国(2012年10月現在)だそうですが、ごく単純に考えて、当然国家として位置付けられるべきだと思われる国は、これ以外にも数多くあるわけです。

国連に加盟できる条件には、「主権国家であること」という条件もあります。さて、何をもって主権国家と判断するのか、それを誰が公平に判断できるのかということになりますと、これもまた難しい限りです。
国家について政治的な背景を絡めてしまうと難しくなってしまいますので、もっと簡単に考えを進めたいと思います。
まず、国家であるためには「人」が存在していることが絶対条件となります。人口が「0」という考え方はあり得ないでしょう。そして、もう一つは「国土」です。
かつて、亡命政府という形態も歴史上何度か登場していますが、あくまでも一時的に政権中枢部が緊急避難しているだけで「人」も「領土」も傷つけられながらも存在していたはずです。
現在国家らしい形態をもっている「人」の集団は、おそらく数百に達するのでしょうが、その中に「国土」を有していない集団もあるのでしょうか。不勉強で私はよく知らないのですが、いわゆる主権を侵されている形であっても、国家を名乗る集団であれば、「国土」と主張する地域は有していると思うのです。
岩礁に近いような島嶼(トウショ)に対しても、互いに領有を主張し合う背景には、たとえ一歩でも国土の侵食を許すことは、国家存続の危機に繋がっていることを認識しているからなのでしょう。

さて、それでは「人」と「国土」を有していれば、それでもって国家といえるかといえば、それはそれで疑問といえます。
やはりそこには、人々が生活するに足る最低限の治安や秩序が保たれており、人々を養うだけの経済的基盤があり、人が人としての尊厳を最低限保つことが出来るだけの文化や制度が定着していることも必要だと思うのです。
そして何よりも、生命や生活基盤や最低限の人権を守るための体制が必要であり、その体制を守り推進していく指導者が必要であり、その指導者たちを選出する仕組みも大きな意味を持っているはずなのです。

つまり、国家指導者たち、すなわち国民の意見を代弁する人たちを選出する選挙制度も、国家が国家であるための重要な要素の一つなのです。
このところ、わが国の選挙制度について多くの意見が噴出してきており、司法当局が憲法違反とする判断が示されるに至っては、国家のほころびが浮上していると真剣に考えていく必要があるのです。
選挙制度変更による一部議員や政党の有利不利など全く考慮の必要などないのです。いわんや司法の判断に対して身の程も知らぬ発言をしている議員もいますが、しっかりとチェックしていて、そのような人物を選んだ選挙民は恥ずかしいと思うべきだと思うのです。
同時に、選挙制度というものは、どういう国家作りを標榜しているのかという重要な指針なのです。
「一票の格差」ということがまるで錦の御旗のように叫ばれている感がありますが、算数のテストではないのですから、人口比だけで単純に国会議員を選んで良いのか真剣に考えるべきだと思うのです。人口比だけを尺度にすれば、三十年後には、国会議員の八割は大都市圏の代表だけになりますよ。本当にそれで国民国土を守って行く国会議員団が選出できるのでしょうか。
繰り返しますが、人口比だけで国会議員を選ぶのは、それほど賢い方法ではないかもしれないということも、少しは考えておく必要があると思うのです。

( 2013.04.01 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする