運命紀行
夢のうちにありながら
『 旅の世にまた旅寝して草枕 夢のうちにも夢をみるかな 』
これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて大僧正までも昇り詰めた僧・慈円の和歌で「千載和歌集」に採録されているものである。
「新古今和歌集」は、八代集とも呼ばれる勅撰和歌集の最後のもので、後鳥羽院の下命により藤原定家ら六名が撰者に選ばれているが、この和歌集編纂にあたっては、後鳥羽院自らや和歌所に属した多くの歌人などが加わったとされている。慈円もその一人である。
「新古今和歌集」には、1978首の和歌が採録されているが、採録されている数の多い順に歌人を挙げてみると、
第一位・西行 94首。 第二位・慈円 92首。 第三位・藤原良経 七十九首。 第四位・藤原俊成 72首。 第五位・式子内親王 49首。 となる。
西行、慈円という僧籍にある人物が上位二人になっているのである。当時、和歌の世界では西行の存在は極めて大きかったとされるが、「新古今和歌集」の採録数でみる限り、慈円は西行に肩を並べるほどの評価を受けていたことになる。
歌人としての慈円は、「新古今和歌集」ばかりでなく、勅撰和歌集に採録されている数は269首といわれており、そのほかに歌集もあり伝えられている和歌の数は極めて多い。その中から代表的なものを選び出すのは至難の事であり、ここでは、「新古今和歌集」の中から何首か選んでみる。
『 みな人の知り顔にして知らぬかな かならず死ぬるならひあるとは 』
歌意は、「だれも皆、知っているような顔をしているが、何と知らないことか、必ず死ぬという、定められた習わしがあるということを」
『 昨日見し人はいかにと驚けど なほ長き夜の夢にぞありける 』
歌意は、「昨日会ったばかりの人が、どうして儚くなってしまったのかと驚くばかりだが、やはり、『長き夜の夢』とたとえられるような、無常のなかをさまよっているのだなあ 」
『 なにゆゑにこの世を深くいとふぞと 人の問へかしやすく答へん 』
歌意は、「 どういうわけで、この世をそれほど嫌うのかと、どなたか訊ねてください。即座にお答えしましょう」
『 思ふべきわが後の世はあるかなきか なければこそはこの世には住め 』
歌意は、「思い慕うような後の世(極楽浄土)は、あるのかないのか、ないからこそ、この世に住んでいるんだよ」
『 極楽へまだわが心ゆき着かず 羊の歩みしばしとどまれ 』
歌意は、「修業が足らず、わたしの心は極楽浄土へ行き着くまでになっていない。羊が屠所に向かうように、死に近づいている命の歩みよ、しばらくとどまっていてくれ」
恋の歌も一首加えておく。
『 わが恋は松を時雨の染めかねて 真葛が原に風騒ぐなり 』
歌意は、「わたしの恋は、時雨が松を紅葉させることができないように、想う人をなびかすことができず、真葛が原に風が葛の葉の白い裏を見せているように、恨みの心が騒いでいます。(裏見と恨みを結んでいる)」
以上は、いずれも「新古今和歌集」に載っているもので、特別にこのような性格のものを選んだわけではないが、いかにも僧侶を連想させるような内容ばかりのような気がする。恋の歌とされるものでさえ、説法ではないとしても理屈っぽい気がしてならない。
これらの歌が、当時の人々に、特に宮中や著名な歌人たちから高い評価を受けたらしいというのは、少々不思議に思う。
ただ、現代の私たちから見ると、ほとんどの歌が、そのまま大体の意味を理解できる内容のような気もする。
そして、何よりも、慈円という人物を、新古今時代を代表する歌人という切口だけで見てしまうと、人物像を見誤る気がするのである。
☆ ☆ ☆
慈円は、久寿二年(1155)の誕生である。保元の乱勃発の前年のことである。
保元の乱は、天皇家、摂関家、そして次第に力をつけてきていた武家が、それそれれの勢力拡大のために入り乱れた動乱である。
天皇家は後白河天皇と崇徳上皇、摂関家は藤原忠通と藤原頼長、武家は源義朝・平清盛らと源為義・平忠正らが互いの思惑を秘めて激突した戦いであった。結局、後白河・忠道・義朝・清盛らの連合体が勝利し、敗れた側は散っていったが、四年後には、今度はむしろ武家が中心ともいえる平治の乱が起こった。この二つの戦乱は、武家が大きく飛躍するきっかけとなったと言える。
その後、平清盛の全盛の時代となり、やがて源平合戦を経て源頼朝が鎌倉に幕府を開くことになる、武士が激しく戦った時代であるが、同時に、政権の中心が公家勢力から武士階級へと移っていく時代でもあった。
慈円が生きた時代は、まさにそのような時代であった。
慈円の父は藤原忠通。摂政・関白・太政大臣を務め、公家社会の頂点にあった。
しかし、母の加賀局は二歳で他界し、父も十歳の時に亡くなっている。
慈円は、幼い頃に青蓮院に入寺しているので、まだ父が健在な時であったと思われる。
僧籍に入った理由などは伝えられていないが、慈円は忠通の十一男にあたることや、当時天皇家や摂関家から有力寺院に入ることは珍しいことではなかったので、特別異例なことではなかったようだ。
仁安二年(1167)、天台座主・明雲について受戒、十三歳の頃のことである。
以後、当然ながら相当の修養を積んだと考えられるが、摂関家の子息らしい順調な立身を続けたようである。仏教界においても、公家社会と同様の家柄による身分制度は濃厚に守られていたからである。そのうえ、慈円の場合は、若くして学問の非凡さを示していたようであるが、その一方で、紛争の絶えない当時の延暦寺に嫌気をさし、隠居を同母兄である藤原兼実に申し出たりしていて、苦労も小さくなかったようだ。
文治二年(1186)、平家が滅亡し源家の時代が到来すると、源頼朝の支持を得て兄・兼実が摂政に就くと、その後は、平等院執印、法成院執印など大寺の管理を委ねられ、文治五年には後白河院により宮中に招かれるなど、慈円は仏教界で存在感を高めていった。
そして、建久三年(1192)に三十八歳で天台座主に就任し、権僧正に叙されている。
この天台座主の地位は、建久七年(1196)に兼実が失脚し、慈円もその地位を辞している。
しかし、建仁元年(1201)に再び天台座主に復帰し、和歌所寄人にもなっているが、翌年には座主を辞している。その翌年には、大僧正に任じられているので、この時の辞任は失脚ではなかったらしい。
大僧正も三か月ほどで辞しているが、この後は、前大僧正と呼ばれることが多かったようだ。
さらに、建暦二年(1212)には、後鳥羽院の要請で三度目の天台座主となり、翌年三月には辞任するも、同年十一月には四度目の天台座主となり、健保二年(1214)まで在任している。
結局慈円は、第六十二代・六十五代・六十九代・七十一代と、実に四代の座主を務めているが、これは初めてのことであった。
後世、土御門天皇の皇子である尊助法親王が八十二代・八十五代・九十一代・九十五代の四代を務め、伏見天皇の皇子である尊園法親王が百二十一代・百二十六代・百三十一代・百三十三代と四代務めている。
天台宗の長い歴史の中で、四代座主を務めたのはこの三人であるが、後の二人が法親王であることを考えれば、慈円の存在の大きさが浮かび上がってくる。
そして、慈円という人物の足跡を見てみると、歌人としての偉大さ、僧籍における存在感だけではないのである。実は、政界に対する影響力も、見過ごせない実績を残しているのである。
慈円がそのような立場になりえた一番の理由は、父・藤原忠通の存在であった。
保元の乱で勝利し公家の頂点に立った忠通は、また、多くの子供に恵まれていて、一族の基盤を強固なものにしていた。
忠道の実質的な後継者である慈円の同母兄・六男兼実は摂政・関白・太政大臣となり、九条家始祖とされる人物である。慈円の、仏教界あるいは政治の世界での活躍に最も寄与が大きかった人物と考えられる。
同じく同母兄の十男兼房も太政大臣に就いている。
あとは異母の兄弟姉妹であるが主な人物を挙げれば、四男基実は近衛家の始祖であり、五男基房は松殿家の始祖である。
また、長女聖子は崇徳天皇の中宮であり、次女育子は二条天皇の中宮である。(異説もある)
このような一族を背景に持ち、しかも慈円自身が再三天台座主に就任する実力者であり、和歌所の有力者となれば、節目節目に政治的な尽力を求められるというのも、当然といえば当然と言える。
政治的な面で最も大きな働きといえば、兼実の孫の道家の後見役を務め、摂政・関白・太政大臣の地位を務められる人物にしたことであろうが、鎌倉政権とのつながりも強く、京都朝廷と鎌倉幕府の協調を理想として尽力し、後鳥羽上皇の挙兵に反対したとされる。
道家の子・藤原頼経が頼朝直系の途絶えた鎌倉将軍の後継者として鎌倉に下向するのにも少なからぬ影響を与えたと考えられる。
これは、政治面とは少し違うが、当時異端視されていた専修念仏を唱えていた法然の教義を厳しく批判する一方で、その弾圧には反対し、法然やその弟子である親鸞を庇護したとされている。なお、親鸞は、九歳の時に慈円について得度している。慈円が仏教界全体に影響力を持っていたことが窺える話である。
また、藤原俊成・定家・為家と続く御子左家は、当時の歌壇の中心を担う家柄であるが、父や祖父の名声に押しつぶされそうになったのか、為家が出家を決意したことがあり、慈円が出家を思いとどまらせて、無事名門の跡を継がせたとも伝えられている。
このように、ごく断片的な資料を求めただけでも、慈円という人物が、単なる歌人とか、単なる僧侶とかという観点からではその偉大さを知ることができないことがわかる。
しかし、同時に、それほどの人物であってもなお、冒頭に挙げた和歌にあるように、「夢の中で夢をみているようだ」と詠んでいるのを思えば、生きることの難しさをつくづくと感じさせられてしまう。
最後に、「捨玉集」にある歌を紹介しておく。
『 わが心奥までわれがしるべせよ わが行く道はわれのみぞ知る 』
( 完 )
夢のうちにありながら
『 旅の世にまた旅寝して草枕 夢のうちにも夢をみるかな 』
これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて大僧正までも昇り詰めた僧・慈円の和歌で「千載和歌集」に採録されているものである。
「新古今和歌集」は、八代集とも呼ばれる勅撰和歌集の最後のもので、後鳥羽院の下命により藤原定家ら六名が撰者に選ばれているが、この和歌集編纂にあたっては、後鳥羽院自らや和歌所に属した多くの歌人などが加わったとされている。慈円もその一人である。
「新古今和歌集」には、1978首の和歌が採録されているが、採録されている数の多い順に歌人を挙げてみると、
第一位・西行 94首。 第二位・慈円 92首。 第三位・藤原良経 七十九首。 第四位・藤原俊成 72首。 第五位・式子内親王 49首。 となる。
西行、慈円という僧籍にある人物が上位二人になっているのである。当時、和歌の世界では西行の存在は極めて大きかったとされるが、「新古今和歌集」の採録数でみる限り、慈円は西行に肩を並べるほどの評価を受けていたことになる。
歌人としての慈円は、「新古今和歌集」ばかりでなく、勅撰和歌集に採録されている数は269首といわれており、そのほかに歌集もあり伝えられている和歌の数は極めて多い。その中から代表的なものを選び出すのは至難の事であり、ここでは、「新古今和歌集」の中から何首か選んでみる。
『 みな人の知り顔にして知らぬかな かならず死ぬるならひあるとは 』
歌意は、「だれも皆、知っているような顔をしているが、何と知らないことか、必ず死ぬという、定められた習わしがあるということを」
『 昨日見し人はいかにと驚けど なほ長き夜の夢にぞありける 』
歌意は、「昨日会ったばかりの人が、どうして儚くなってしまったのかと驚くばかりだが、やはり、『長き夜の夢』とたとえられるような、無常のなかをさまよっているのだなあ 」
『 なにゆゑにこの世を深くいとふぞと 人の問へかしやすく答へん 』
歌意は、「 どういうわけで、この世をそれほど嫌うのかと、どなたか訊ねてください。即座にお答えしましょう」
『 思ふべきわが後の世はあるかなきか なければこそはこの世には住め 』
歌意は、「思い慕うような後の世(極楽浄土)は、あるのかないのか、ないからこそ、この世に住んでいるんだよ」
『 極楽へまだわが心ゆき着かず 羊の歩みしばしとどまれ 』
歌意は、「修業が足らず、わたしの心は極楽浄土へ行き着くまでになっていない。羊が屠所に向かうように、死に近づいている命の歩みよ、しばらくとどまっていてくれ」
恋の歌も一首加えておく。
『 わが恋は松を時雨の染めかねて 真葛が原に風騒ぐなり 』
歌意は、「わたしの恋は、時雨が松を紅葉させることができないように、想う人をなびかすことができず、真葛が原に風が葛の葉の白い裏を見せているように、恨みの心が騒いでいます。(裏見と恨みを結んでいる)」
以上は、いずれも「新古今和歌集」に載っているもので、特別にこのような性格のものを選んだわけではないが、いかにも僧侶を連想させるような内容ばかりのような気がする。恋の歌とされるものでさえ、説法ではないとしても理屈っぽい気がしてならない。
これらの歌が、当時の人々に、特に宮中や著名な歌人たちから高い評価を受けたらしいというのは、少々不思議に思う。
ただ、現代の私たちから見ると、ほとんどの歌が、そのまま大体の意味を理解できる内容のような気もする。
そして、何よりも、慈円という人物を、新古今時代を代表する歌人という切口だけで見てしまうと、人物像を見誤る気がするのである。
☆ ☆ ☆
慈円は、久寿二年(1155)の誕生である。保元の乱勃発の前年のことである。
保元の乱は、天皇家、摂関家、そして次第に力をつけてきていた武家が、それそれれの勢力拡大のために入り乱れた動乱である。
天皇家は後白河天皇と崇徳上皇、摂関家は藤原忠通と藤原頼長、武家は源義朝・平清盛らと源為義・平忠正らが互いの思惑を秘めて激突した戦いであった。結局、後白河・忠道・義朝・清盛らの連合体が勝利し、敗れた側は散っていったが、四年後には、今度はむしろ武家が中心ともいえる平治の乱が起こった。この二つの戦乱は、武家が大きく飛躍するきっかけとなったと言える。
その後、平清盛の全盛の時代となり、やがて源平合戦を経て源頼朝が鎌倉に幕府を開くことになる、武士が激しく戦った時代であるが、同時に、政権の中心が公家勢力から武士階級へと移っていく時代でもあった。
慈円が生きた時代は、まさにそのような時代であった。
慈円の父は藤原忠通。摂政・関白・太政大臣を務め、公家社会の頂点にあった。
しかし、母の加賀局は二歳で他界し、父も十歳の時に亡くなっている。
慈円は、幼い頃に青蓮院に入寺しているので、まだ父が健在な時であったと思われる。
僧籍に入った理由などは伝えられていないが、慈円は忠通の十一男にあたることや、当時天皇家や摂関家から有力寺院に入ることは珍しいことではなかったので、特別異例なことではなかったようだ。
仁安二年(1167)、天台座主・明雲について受戒、十三歳の頃のことである。
以後、当然ながら相当の修養を積んだと考えられるが、摂関家の子息らしい順調な立身を続けたようである。仏教界においても、公家社会と同様の家柄による身分制度は濃厚に守られていたからである。そのうえ、慈円の場合は、若くして学問の非凡さを示していたようであるが、その一方で、紛争の絶えない当時の延暦寺に嫌気をさし、隠居を同母兄である藤原兼実に申し出たりしていて、苦労も小さくなかったようだ。
文治二年(1186)、平家が滅亡し源家の時代が到来すると、源頼朝の支持を得て兄・兼実が摂政に就くと、その後は、平等院執印、法成院執印など大寺の管理を委ねられ、文治五年には後白河院により宮中に招かれるなど、慈円は仏教界で存在感を高めていった。
そして、建久三年(1192)に三十八歳で天台座主に就任し、権僧正に叙されている。
この天台座主の地位は、建久七年(1196)に兼実が失脚し、慈円もその地位を辞している。
しかし、建仁元年(1201)に再び天台座主に復帰し、和歌所寄人にもなっているが、翌年には座主を辞している。その翌年には、大僧正に任じられているので、この時の辞任は失脚ではなかったらしい。
大僧正も三か月ほどで辞しているが、この後は、前大僧正と呼ばれることが多かったようだ。
さらに、建暦二年(1212)には、後鳥羽院の要請で三度目の天台座主となり、翌年三月には辞任するも、同年十一月には四度目の天台座主となり、健保二年(1214)まで在任している。
結局慈円は、第六十二代・六十五代・六十九代・七十一代と、実に四代の座主を務めているが、これは初めてのことであった。
後世、土御門天皇の皇子である尊助法親王が八十二代・八十五代・九十一代・九十五代の四代を務め、伏見天皇の皇子である尊園法親王が百二十一代・百二十六代・百三十一代・百三十三代と四代務めている。
天台宗の長い歴史の中で、四代座主を務めたのはこの三人であるが、後の二人が法親王であることを考えれば、慈円の存在の大きさが浮かび上がってくる。
そして、慈円という人物の足跡を見てみると、歌人としての偉大さ、僧籍における存在感だけではないのである。実は、政界に対する影響力も、見過ごせない実績を残しているのである。
慈円がそのような立場になりえた一番の理由は、父・藤原忠通の存在であった。
保元の乱で勝利し公家の頂点に立った忠通は、また、多くの子供に恵まれていて、一族の基盤を強固なものにしていた。
忠道の実質的な後継者である慈円の同母兄・六男兼実は摂政・関白・太政大臣となり、九条家始祖とされる人物である。慈円の、仏教界あるいは政治の世界での活躍に最も寄与が大きかった人物と考えられる。
同じく同母兄の十男兼房も太政大臣に就いている。
あとは異母の兄弟姉妹であるが主な人物を挙げれば、四男基実は近衛家の始祖であり、五男基房は松殿家の始祖である。
また、長女聖子は崇徳天皇の中宮であり、次女育子は二条天皇の中宮である。(異説もある)
このような一族を背景に持ち、しかも慈円自身が再三天台座主に就任する実力者であり、和歌所の有力者となれば、節目節目に政治的な尽力を求められるというのも、当然といえば当然と言える。
政治的な面で最も大きな働きといえば、兼実の孫の道家の後見役を務め、摂政・関白・太政大臣の地位を務められる人物にしたことであろうが、鎌倉政権とのつながりも強く、京都朝廷と鎌倉幕府の協調を理想として尽力し、後鳥羽上皇の挙兵に反対したとされる。
道家の子・藤原頼経が頼朝直系の途絶えた鎌倉将軍の後継者として鎌倉に下向するのにも少なからぬ影響を与えたと考えられる。
これは、政治面とは少し違うが、当時異端視されていた専修念仏を唱えていた法然の教義を厳しく批判する一方で、その弾圧には反対し、法然やその弟子である親鸞を庇護したとされている。なお、親鸞は、九歳の時に慈円について得度している。慈円が仏教界全体に影響力を持っていたことが窺える話である。
また、藤原俊成・定家・為家と続く御子左家は、当時の歌壇の中心を担う家柄であるが、父や祖父の名声に押しつぶされそうになったのか、為家が出家を決意したことがあり、慈円が出家を思いとどまらせて、無事名門の跡を継がせたとも伝えられている。
このように、ごく断片的な資料を求めただけでも、慈円という人物が、単なる歌人とか、単なる僧侶とかという観点からではその偉大さを知ることができないことがわかる。
しかし、同時に、それほどの人物であってもなお、冒頭に挙げた和歌にあるように、「夢の中で夢をみているようだ」と詠んでいるのを思えば、生きることの難しさをつくづくと感じさせられてしまう。
最後に、「捨玉集」にある歌を紹介しておく。
『 わが心奥までわれがしるべせよ わが行く道はわれのみぞ知る 』
( 完 )