雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  森の下草

2014-03-16 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               森の下草

「新古今和歌集」に小馬命婦(コマノミョウブ)の歌が一首のみ採録されている。

『 露の身の消えばわれこそ先立ため 後れんものか森の下草 』

歌意は、「露のような身であなたが亡くなられるのであれば、わたしが先立ちましょう。あなたに後れることなど決してございません、たとえ森の下草のようなこの身であっても」といった、実に激しく切ないものである。
この歌は、「返し」となっていて、その前には、小馬命婦に贈った歌が載せられている。

「わずらひける人のかく申し侍りける」
『 長らへんとしも思はぬ露の身の さすがに消えんことをこそ思へ 』
歌意は、「生き長らえるとは思っていない露のような身だが、やはり、露のように消えていくことを悲しく思う」と、うったえているものである。

この二首は、「小馬命婦集」に載せられていたものをそのまま「新古今和歌集」が採録したものなので、他にもこのような例は多い。
従って、後の和歌の添え書きがこのような形になっているのは、小馬命婦が書き添えたものをそのまま採録されたためである。
この歌の贈り主は、「新古今和歌集」では「読み人知らず」とされているが、小馬命婦集から、藤原兼通の子である阿闍梨からだということがわかっている。
当時の阿闍梨は、女性との交際が禁断の世界ではなかったような例がたくさん見受けられるが、それにしても、たった二首の和歌が、二人の関係を様々に思い描かせてくれるもののように思われる。

小馬命婦は、次のような歌も残している。
『 数ならぬ身は箸鷹の鈴鹿山 とはぬに何の音をかなせむ 』
歌意は、「物の数にもあたらないこの身は、箸鷹(ハシタカ・小型のタカの一種)の足に付けた鈴のように、鈴鹿山を越えるあなたから便りがないのに、わたしがどんな音信をすればよいのでしょうか」と、恨み言のような内容の一首である。
この歌は、「伊勢に下った男性から、「鈴鹿山を越えるというのに、あなたから何の音信もないのは悲しいことだ」と言ってきたことに対する「返し」の歌と添え書きがある。
この相手が、先の阿闍梨と同一人物なのかどうかは分からない。また、この歌には、「鈴鹿と鈴と音信」「箸鷹と はした(身分が低いこと)」などの縁語といった技巧がなされているようであるが、それはともかく、先の歌とともに、自分をずいぶん卑下しているように感じられてならないのである。
当時の歌や物語などによく見られるような、単なる言葉の綾なのか、実際にそのような環境にあったのか、あるいは必要以上にそのようなことを感じる女性であったのか、それを知りたいと思ったのである。

しかし、小馬命婦の残されている消息は極めて少ない。
「小馬命婦集」という家集があり、勅撰和歌集には全部で七首採録されている一流の歌人なのにである。また、「何々命婦」という呼び名は、当時の文献にたくさん登場してくるが、平安時代の頃になると、「従五位下以上の位階を有する女性、あるいは官人の妻」が付けることが多く、内侍司に仕える女性だったようである。但し、命婦は官職ではなく、ある程度身分を表す称号のようなものであったようだ。
従五位下以上ということは、概ね殿上人に当たる位で、命婦と呼ばれる女房は、いわゆる中臈クラスだったと考えられる。
摂関家や、公卿階級とは明らかな差はあるとしても、天皇や中宮の側近くに仕える身分に不足はなかったはずと考えられる。
さらに言えば、元良親王(陽成天皇第二皇子)・藤原高遠(正三位太宰大弐)・清原元輔(肥後守、清少納言の父)といった身分のある歌人と贈答歌を交わしているのである。

しかし、小馬命婦は、自らを「森の下草」とたとえているのである。


     ☆   ☆   ☆

小馬命婦の生没年、両親の名前は不詳である。
当時の女性の名前や生没年が詳らかでないことは珍しいことではない。しかし、歌集に名を残したり政権の側近くにあった人の、血縁について全く分からないという人はあまりない。

実は、本稿を書くにあたって、主人公として考えた「小馬命婦」は、清少納言の娘のことだったのである。
清少納言の娘については、「上棟門院小馬命婦」として、本稿の小馬命婦と区別されていることが多いが、現在でもこの二人が混同されている文書もある。さらに言えば、小倉百人一首にも採録されている歌人である周防内侍の母親も、「小馬内侍」と呼ばれた女性らしいので、少々ややこしい。
「加賀」とか「伊勢」といった名前であれば、紛らわしい人物が登場してきても不思議でないが、「小馬」という名前も、当時としてはありふれていたのだろうか。

それはともかく、明らかになっている足跡を追ってみよう。
小馬命婦が最初は藤原兼通に仕え、後に円融天皇のもとに入内した媓子(コウシ)に仕えた女房であったことは確かとされる。
藤原兼通は、西暦925年から977年まで生きた人物で、藤原北家九条流を率いて関白・太政大臣を務めている。妹の安子は、第六十二代村上天皇の中宮となり、第六十三代冷泉天皇・第六十四代円融天皇を儲けている。
天皇家とのつながりを背景に、兼通は絶大な権力を握り、関白に就任するとその翌年、天禄四年(973)二月に娘の媓子を円融天皇のもとに入内させた。
この時、媓子は二十七歳になっていた。当時の公卿の姫としては異例なほど遅い結婚で、何らかの事情があったと考えられるが、媓子は大変優れた人柄であったとも伝えられているので、兼通が皇室に入れる機会を待ち続けていたというのがその理由のように思われる。

二十七歳の媓子に対して、円融天皇は十二歳下で、満年齢でいえば十四歳になる直前にあたり、まだ少年の面影を残していたかもしれない。二人は、いとこにあたる関係でもあるが、入内の年の七月には媓子は中宮となり、その仲はとても睦まじかったとされる。
しかし、入内後六年にして媓子は世を去った。享年三十三歳である。
その死にあたって、円融天皇の悲しみはとても大きく、その時詠んだ歌が残されている。
『 思ひかね眺めしかども鳥辺山 果てはけぶりも見えずなりにき 』 (鳥辺山は葬送の地)

さて、小馬命婦であるが、何歳の頃、どういう経緯で藤原兼通の女房として出仕したのか分からない。
たとえ宮中でなくても、摂関家への出仕であるから、その素性などは当然問われたはずである。おそらくは、藤原氏か妻女などと何らかの縁故があったと考える方が自然と思われる。さらに、命婦と名付けられるからには、実家は中級貴族、例えば地方長官を務めるほどの家柄であったと考えられる。例に挙げるのが適切か否か分からないが、清少納言や紫式部の実家というのがその階級にあたる。

やがて媓子が入内するにあたって、小馬命婦は宮中に移り媓子に仕えることになったと思われる。もちろん官職としての出仕ではなく、女御(後に中宮)媓子に仕える女房としてであり、その際多くの女房が集められたと思われるが、実家から送り込まれた女房たちの役割は重視されていたと考えられる。
また、小馬命婦の年齢であるが、全く勝手な想像であるが、媓子といくつも違わない年齢であったと思われるのである。
小馬命婦が兼通・媓子以外に仕えたという記録が見当たらないので、媓子没後間もなく、宮中を去ったのではないか。
その頃には兼通も世を去っているので、藤原家に戻って出仕したという可能性も低い気がする。結局小馬命婦は、媓子と同じように、六年ばかりだけ華やかな宮中生活をしただけで、その後は、再びいずれかの家に出仕したのか、結婚生活に入ったのかは分からないが、歴史の光が届く場所からは消えてしまったのではないだろうか。

しかし、そのごく限られた中で、冒頭に挙げたような激しい恋をし、それでいながら「森の下草」と自らをたとえるような控え目な人柄が、今日その姿を謎めかせることになってしまったように思うのである。
残念ながら、小馬命婦については、ごく一般的な情報源にある以上の事実も、推定も手にすることができなかったが、冒頭の二首を味わうだけでも、魅力あふれる平安王朝の女房のように思われてならないのである。

                                                  ( 完 )





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