玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
作者 式子内親王
( No.1034 巻第十一 恋歌一 )
たまのおよ たえなばたえね ながらへば
しのぶることの よわりもぞする
* 作者、式子(ショクシ/シキシ)内親王は、後白河天皇の第三皇女。 ( 1149 - 1201 ) 享年五十三歳。
1159年(平治元年)、内親王宣下を受けて、斎院に卜定。賀茂斎院として1169年に病で退下するまで約十年間賀茂神社に奉仕した。
* 歌意を、「私の命が、絶えるというなら絶えてしまうがよい。生き続けていれば、この秘めた恋を、秘め続ける力が弱って、秘め続けることが出来ないかもしれない」といった感じとすれば、表に出る情熱的な恋など大したことないように感じられる。
新古今和歌集には、この歌の次に続けて二首載せられている。
『 忘れては うち嘆かるる夕べかな われのみ知りて 過ぐる月日を 』
『 わが恋は 知る人もなし 堰(セ)く床(トコ)の 涙漏らすな 黄楊(ツゲ)の小枕(オマクラ) 』
冒頭の歌とそれに続く二首を合わせて思料すると、皇女という身分に生まれながら、むしろそれゆえに、激しい恋を忍びきらなくてはならない人生だったのではないかと、切なさを感じる。
* 賀茂斎院を退下した後は、母の実家高倉三条第に、その後は後白河院の法住寺殿内に移った。
1185年といえば、式子内親王三十七歳の頃になるが、この頃までには、叔母の八条院暲子内親王(鳥羽天皇の皇女。母は美福門院。)のもとに身を寄せている。
しかし、八条院とも八条院とその姫宮を呪詛したという疑いをかけられて去らざるを得なくなった。その後、白河押小路殿に移り、父後白河院の同意を得られないまま出家した。後白河院の崩御が1192年のことなので、これより少し前の式子内親王が四十二、三歳の頃と考えられる。
父の崩御により、大炊御門殿を譲られたが、九条兼実によって事実上横領された状態となり、実際に手に出来たのは、1196年に兼実が失脚した後のことであった。
しかし、五十歳を過ぎた頃から煩いがちになったようで、1201年(正治三年)1月25日に崩御した。
* 皇女として生まれ、和歌をはじめ才能豊かな女性であったと考えられるか、その生涯は、住まいの変遷を追ってみるだけでも、波乱多い生涯と推察できる。
新古今和歌集には、49首選ばれているが、これは、全体で五位、女性の一位にあたり、新古今和歌集の中心歌人の一人といえよう。
冒頭の和歌は、小倉百人一首にも選ばれているので、多くの人に親しまれていると思われる。
筆者個人としては、新古今和歌集における最も好きな歌人であり、この後も再三紹介させていただきたいと考えている。
☆ ☆ ☆