いかにせん 来ぬ夜あまたの 郭公
待たじと思へば 村雨の空
作者 藤原家隆朝臣
( No.214 巻第三 夏歌 )
いかにせん こぬよあまたの ほととぎす
またじとおもへば むらさめのそら
* 作者 藤原家隆朝臣(フジワラノイエタカノアソン)は藤原北家出自の貴族。新古今和歌集の撰者の一人である。(1158-1237)享年八十歳。
* 歌意は、「 どうすれば良いのか、来ないことの多いほととぎすを もう待つのはやめようと思うと、村雨が降ってきて、何ともやってきそうな空ではないか。」といった意味か。夏歌に属しているが、ほととぎすが想い人を指していることは当然と言えよう。
* 家隆の父は、正二位権中納言藤原光隆。母は藤原実兼の娘で、実兼も正四位上刑部卿であり、格別とまではいかないまでも、上級貴族に属していたといえる。
家隆自身も、十八歳で叙爵。二十歳で侍従となり、越中守などを併任した後、1201年に従四位下、1220年には宮内卿に昇っている。最終官位は従二位である。
その後病のため七十九歳で出家している。
出家後は摂津国の四天王寺に入った。翌年には八十歳で没しているので、出家としての期間は短かったが、四天王寺の西側の地に夕陽庵(セキヨウアン)を設けていて、この地から見えるちぬの海(大阪湾)に沈む夕陽をこよなく愛し、その彼方にある極楽浄土へ行くことを望んだという。この地は、夕陽丘として今日に伝えられている。
* 歌人としては晩成であったようであるが、藤原俊成を師として学び、藤原定家と並ぶほどの評価を得たとされる。また、後鳥羽院が和歌を習い始めた頃、藤原良経に、誰を師にすればよいかと尋ねたところ、家隆を挙げたというエピソードもある。
また一説には、寂蓮法師の婿であったというものもある。その多作ぶりは名高く、生涯に詠んだ和歌の数は六万首ともいわれている。
新古今和歌集には四十三首が収録されていて、その数は第七位に位置する。
これらを勘案すれば、家隆が当時を代表する歌人の一人であったことは確かと思われるが、現代、歌人としてそれほど高い評価を受けていないような気がする。
☆ ☆ ☆