松が根に 尾花刈り敷き 夜もすがら
片敷く袖に 雪は降りつつ
作者 修理大夫顕季
( No.929 巻第十 羇旅歌 )
まつがねに おばなかりしき よもすがら
かたしくそでに ゆきはふりつつ
* 作者は、藤原顕季(フジワラノアキスエ)。修理大夫は、修理造営を担当する修理職の長官。( 1055-1123 )享年六十九歳。
* 歌意は、「 松の根元に 尾花(すすきの花穂)を刈って敷き 一夜中 片袖を敷いて寝る(一人寝の表現)その袖に 雪が降り続いている 」と、野宿の様子を詠んだものであろう。
* 藤原顕季は、歌人としてはそれほど名高い人物ではないし、歴史上の人物としてもそれほど知られているわけではない。しかし、その生涯はなかなか興味深いものである。
* 顕季は、藤原氏で最も勢力を伸ばしている北家の出自であるが、顕季の魚名流は北家の中で劣勢にあり、概ね受領クラスの中級貴族であった。顕季の父は正四位下美濃守であり、母も同流の受領クラスの出身である
ところが、この母の親子が異例の出世を重ね、顕季及び子孫の地位を引き上げたのである。
* 母の親子は、尊仁親王の第一皇子に乳母の一人として仕えた。その後数人いた乳母や生母までが次々早世し、ただ一人の乳母として存在感を増していった。尊仁親王は摂関家との縁が薄く、皇位とは遠い存在と見られていたが、後冷泉天皇が正式な后妃に皇子を儲けることがなかったので、弟である尊仁親王が後三条天皇として即位したのである。これにより第一皇子も親王宣下を受け貞仁親王となり、翌年立太子した。これに伴い、親子は従五位下の位階を受けたのである。
さらに、後三条天皇の譲位により貞仁親王が白河天皇として即位すると、親子は正三位という破格の待遇を受けるに至った。そして、白河天皇が退位して院生を始めると、顕季も白河院の近臣として厚遇され、正三位という高位に就いた。受領クラスから公卿クラスへと出世したのである。因みに、母の親子は従二位まで上っている。
* 顕季に関する伝承はそれほど多くないようである。
ただ、正三位というのは、政権の中枢にかかわることが出来る位階であるが、顕季が望んだ参議にはなれなかったようである。その理由として、顕季が漢籍に優れていないため白河院が就かせなかったともいわれている。もしそうだとすれば、漢籍の知識というより、政治家としての能力が高くなかったのかもしれない。
* しかし、顕季は、六条家歌学の祖とされ、彼に始まる家系は善勝寺派と呼ばれ、四条家をはじめ七家の堂上家を輩出しているのである
顕季は、摂関家として活躍するようなことはなかったが、その消息をもっと知りたい人物の一人である。
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