雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

誇らしい気持ち

2019-10-22 18:51:23 | 日々これ好日

        『 誇らしい気持ち 』

     
「即位礼正殿の儀」が 厳かに行われた

      民族衣装も目立つ 多くの海外からの賓客を迎えて
      平安朝衣装の華やかさと 「静」に包まれた進行は
      誇らしい気持ちが 沸き上がってきた
      間もなく「饗宴の儀」が始まる

                  ☆☆☆  
       

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明日知らぬ

2019-10-22 08:23:06 | 新古今和歌集を楽しむ

     明日知らぬ 命をぞ思ふ おのづから
              あらば逢ふ世を 待つにつけても 


                 作者  殷富門院大輔

( No.1145  巻第十二 恋歌二 )
            あすしらぬ いのちをぞおもふ おのづから
                      あらばあふよを まつにつけても 
                        



* 作者 殷富門院大輔(インプモンインノタイフ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性で、殷富門院に仕えた女房で歌人として知られていた。生没年ともに未詳であるが、1120年頃に七十歳くらいで没したらしい。

* 歌意は、「 明日はどうなるか分からない 命のことを思う 自然の成り行きで 生きているならば 逢うことが出来る夜(世)を 待つにつけても 」といったものとすれば、世の無常を詠んだというより、「恋歌」に乗せられることからも、片思いを詠んだものらしい。
もっとも、この和歌は「本歌取り」という当時多く見られた技巧的な和歌といえる。
本歌は、拾遺和歌集に読み人しらずとして載せられている「 いかにして しばし忘れむ 命だに あらば逢ふ世の ありもこそすれ 」である。筆者個人としては、本歌取りという和歌が好きになれないが、新古今和歌集の特徴の一つではある。

* 作者の大輔が仕えた殷富門院は、平安時代から鎌倉時代へと移り行く激しい時代に波乱に富んだ生涯を送った皇女である。
本名は、亮子(リョウシ/アキコ)。後白河天皇の第一皇女である。母は、藤原季成(大納言)の娘の高倉三位成子で、同母の弟妹に、第二皇女の好子内親王、第三皇女の式子内親王、第二皇子の守覚法親王、第四皇女の休子内親王がおり、今日でも著名な人物が含まれている。
殷富門院亮子は、1147年に誕生、1156年に父の即位にともない内親王の宣下を受ける。その半年後の同年9月に伊勢斎宮に卜定、野宮に遷った。1158年3月に後白河の譲位により、群行も行われないうちに退下している。

その後は、結婚することはなかったようであるが、後白河院の第一皇女として宮中では大切な存在として処遇されていたようである。また、三人の天皇の准母に就いていることからも、人格・教養共に大変優れた女性であったらしい。
1182年、殷富門院三十六歳の時に安徳天皇の准母となり皇后宮に冊立され、女院の地位を与えられた。この「准母」というのは、養母とは全く異質のもので、生母と同等とされる称号のようなものである。殷富門院は、これにより皇后並みの地位を得、女院の地位も与えられたのである。 この女院というのは、時代によりその待遇には差はあるようだが、上皇並みの待遇が与えられるとされ、院庁を置き、諸役人も配置され、経済面でも相当の手当てが保証された。上皇と全く同じというわけではないとしても、並の貴族とは格段上の権力・財力を得ることが出来たと考えられる。

殷富門院は、その後にも、後鳥羽天皇の准母、守成親王(後の順徳天皇)の准母に就いている。准母となった天皇は、いずれも鎌倉政権と厳しい関係を強いられ、悲劇性の強い天皇であるが、その厳しい時代にあって、殷富門院の存在は宮廷政権にどのような影響を持っていたのか・・・、興味深いが、これは別のテーマと考えたい。

* 作者の大輔が、いつごろ殷富門院のもとに出仕したのか確認できないが、相当長い期間を側近く仕えていたと推定できる。
大輔の父は従五位下藤原信成であり、母は従四位式部大輔菅原在良の娘なので、中級貴族の出自である。年齢は、推定であるが、殷富門院より大輔の方が十六、七歳年長と思われる。そう考えれば、女房としての出仕とはいえ、養育、あるいは教養面の指導を期待されてのことであったかもしれない、
殷富門院は、1192年に父後白河院の崩御と共に出家しているが、大輔もこの時出家している。常に側近くにあったらしいことが窺える。

* 新古今和歌集には大輔の和歌が十首採録されている。相当評価されていたのであろう。また、当時の一流歌人とされる藤原定家、寂蓮、西行、源頼政などと交流があったと伝えられており、新古今和歌集を代表する女流歌人である式子内親王は殷富門院の妹であるから、当然交流があったはずである。
また、多作家として知られていたようであり、鴨長明はその著作の中で、「最近の女流歌人としては、大輔、小侍従とさまざまいわれている・・・」評判の高い歌人として評価していたようである。

* これは、信憑性に疑義があるが、こういう噂もあったようだ。
後白河院の第三皇子である以仁王(モチヒトオウ)は、1180年に平氏討伐を企てて敗死した人物であるが、歴史を動かせた人物の一人である。この以仁王の第二皇子に道尊僧正という人物がいる。以仁王が敗死した後、道尊も平氏に拘束されたが、皇族であることから死罪を免れ仁和寺で出家した。そして、殷富門院の同母弟である守覚法親王の弟子として育てられた。後に、殷富門院は自らの御所を寺院にして、道尊を引き取って住職にしている。通尊は天皇家の護持僧として重きをなしている。
そして、この道尊の生母は大輔だという噂があったというのである。

* 殷富門院大輔という女性は、歴史上それほど知られた人物ではない。
しかし、殷富門院という女院を通しての事ではあるが、平氏政権から源氏政権へと激しく移り変わる時代を生きた女性の一人なのである。

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