『 行楽日和 』
連休最終日 各地の観光地は 相当の賑わい
この賑わいを喜ぶ一方で 懸念の声も
ぼつぼつ コロナコロナを 卒業したいと思うし
ウイズコロナとは どういう状態なのかを
模索中といったところか
ところで私はといえば 占領された領土を奪取すべく
秋を感じながら ひたすら 雑草を抜く
☆☆☆
秋はただ ものをこそ思へ 露かかる
荻の上吹く 風につけても
作 者 源重之女
( No.354 巻第四 秋歌上 )
あきはただ ものをこそおもへ つゆかかる
おぎのうえふく かぜにつけても
* 作者は、平安時代中期の歌人。西暦1000年前後に活躍した女性であるが、その消息はほとんど伝えられていない。
* 歌意は、「 秋は ただただ 物思いばかりする 露がかかっている 荻の上を吹き渡る 秋風の音を聞くにつけても 」と、実に淡々とした描写が感じられる。
* 残念ながら、作者の源重之女に関する伝承は、残された和歌の数に比べ、極めて少ない。皇族や摂関家などにつながる一族や女房として傑出した作品を残した人たちも含めて、当時の女性の消息を伝える記録は少ないが、それにしても作者の記録は少な過ぎるように思われる。
清和天皇を祖先に持つ家柄であり、勅撰和歌集に十八首採録されている著名な女流歌人であってもである。
* ただ、作者の父には、それなりの記録が残されており、そこから作者についていくつかの推察は可能である。
作者の父源重之の父は、従五位下三河守兼信の子である。清和天皇の孫にあたる血筋である。その兼信は陸奥国安達郡に土着したため、重之は伯父の参議兼忠の養子となった。
ただ、その官職は、967年に右近将監となり従五位下に昇っているが、その後も、肥後や筑紫の国司を歴任している。どうやら受領クラスの生涯であったらしい。ただ、歌人としては高い評価を受けていたようである。三十六歌仙の一人に選ばれており、勅撰和歌集には全部で六十八首選ばれていて、これは少ない数ではない。
現代の私たちにとっても、次の和歌が「小倉百人一首」に選ばれていることからも馴染み深い。
『 風をいたみ 岩打つ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな 』
* 清和源氏という名門の一族でありながら、重之にとっては貴族としては決して恵まれていなかったようだ。一つは、藤原氏の台頭であり、もう一つは、養父の兼忠が958 年に亡くなったことである。重之が二十歳になるかならぬかの頃と推定され、後見人を喪ったためもあって、受領クラスとして生きることになり、最晩年に陸奥国に下ったのも、左遷されたためとの伝承もある。
重之は、1000年頃に陸奥国で没したらしく、行年は六十余歳と推定されている。
* 本稿の主人公、源重之女は、父の和歌の詞書から、父の陸奥国行きに同道していたと推定されるのである。もしかすると、父の最期を看取った可能性も考えられる。もしかすると、都から遠く離れた陸奥国を終の棲家としたのかもしれない。もしかすると、・・・。
何もかもが「もしかすると」になってしまうが、何か寂しさがつきまとう女性のように思われてならないのである。
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