雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ふるさとへ向かう人々

2022-12-29 19:10:29 | 日々これ好日

      『 ふるさとへ向かう人々 』

    故郷へ向かう人々の姿が 伝えられている
    乗り物も道路も 渋滞が伝えられていて
    大変な状態の人も いらっしゃるのだろうが
    こうしたニュース 見ている者も 温かな気持ちになる
    コロナの心配もあるが 基本的な注意を払いながら
    ふるさとを満喫して欲しいと 心から願う

                   ☆☆☆

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いざ言問はむ

2022-12-29 08:01:05 | 古今和歌集の歌人たち

     『 いざ言問はむ 』

    
 名にしおはば いざ言問はむ 都鳥
           わが思ふ人は ありやなしやと

            作者  在原業平

( 巻第九 羈旅歌  NO.411 )
        なにしおはば いざこととはむ みやこどり
                  わがおもふひとは ありやなしやと


* 歌意は、「 都鳥よ お前が『都』という語をその名に持っているのならば さあ 尋ねてみよう わが愛する人は 都で元気でいるのかどうか と 」 といった、京にいる愛する人の動静に心を寄せた歌でしょう。
もっとも、この歌は、「伊勢物語」の中にある有名な歌ですから、物語全体とも合わせて理解する必要がありそうです。

* 作者の在原業平(アリハラノナリヒラ・ 825 - 880 )は、古今和歌集に三十首採録されていて、本集の代表的な歌人の一人といえますが、それを超えて、この時代の歌人・文学者として、さらには粋人として最も著名な人物といっても大げさではないように思われます。
「伊勢物語」は、いわゆる歌物語といわれる作品の最古の部類の位置を占めていますが、後世に与えた影響ということでは屈指といえるでしょう。作者については、業平をはじめ数人の候補者が挙げられていて、定説化されていないようですが、物語の主人公が業平がモデルになっていることは確実視されています。

* 業平の父は、第五十一代平城天皇(父は桓武天皇)の第一皇子阿保親王で、その第五御子として誕生しました。母は、桓武天皇の皇女伊登内親王です。つまり、業平は、父方をたどれば平安王朝の祖といえる桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば同じく桓武天皇の孫に当たるという人物なのです。
父の阿保親王は、第一皇子ではありましたが、生母が葛井氏(フジイシ・河内国あたりの豪族か?)であったため、皇位継承の候補からは外れていたようです。当時は、皇族あるいは藤原氏以外を生母とする皇子は、皇位継承は難しかったのです。さらに、810 年に起きた薬子の変に連座して、太宰権帥に左遷されるなど不運に襲われているのです。

* 当然、業平にもその影響があり、桓武天皇の本流に誕生しながらも、皇族あるいは貴族としても恵まれた生涯とはいえなかったようです。
業平誕生の翌年、父の意向で、兄弟たちと共に「在原」姓を賜って臣籍降下しており、業平は皇族としての生活実感はなかったと考えられます。
伝えられている官歴によりますと、
845 年に左近衛将監に就いています。この役職は六位程度と推定されます。
849 年に従五位下を叙爵して、貴族の地位を得ていますが、二十五歳のことで、その血筋を考えれば、極めて遅い叙爵といえます。
862 年に従五位下に昇っていますが、六位からの昇叙ともされていますので、降格されていた可能性が考えられます。
業平の最終官位は、従四位上ですが、それを受けたのは 877 年のことですから、すでに五十三歳になっていました。職務としても、右近衛中将、蔵人頭などを経験していますが、公卿と呼ばれる地位にさえ昇っていません。
そして、880 年にその生涯を終えています。行年五十六歳でした。

* 私たちが歴史上の人物として在原業平を俯瞰した場合、六歌仙の一人とされ、「伊勢物語」に登場する主人公と同一視し、高貴で男前でモテモテの人物として見てしまいますが、その奥には、きっと重い物を背負った生涯であったのかもしれないと、考えざるを得ません。
いずれにしましても、在原業平という人物を語るには、さらなる知識と相当の想いが必要だと痛感させられました。

     ☆   ☆   ☆

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