雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今年もあと二週間

2022-12-17 17:54:14 | 日々これ好日

      『 今年もあと二週間 』

    当地は 朝の十時頃から 冷たい雨の一日となった
    大雪に見舞われている方々には 申し訳ないが
    冷たい雨でも 何だか気が滅入る
    今年の漢字が「戦」になったのが 
    この一年の すべてを表しているのかもしれない
    この数日 テレビで 各地の神社などで
    大しめ縄を 新しくかける様子が伝えられていた
    来年への 人々の願いが 込められているのだろう
    今年もあと二週間
    年賀状という大仕事もあるが 新しい年に向けて
    懸案事項を 少しでも減らしておこう

                  ☆☆☆

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見る時なくて

2022-12-17 08:02:00 | 古今和歌集の歌人たち

      『 見る時なくて 』


 奥山の 岩垣紅葉 散りぬべし
       照る日の光 見る時なくて

          作者  藤原関雄

( 巻第五 秋歌下  NO.282 )
       おくやまの いはがきもみぢ ちりぬべし
                てるひのひかり みるときなくて


* 歌意は、「  奥山の 岩に囲まれた紅葉した木々の葉は このまま散ってしまうだろう 照り輝く太陽の光を 見る時もないままに 」といった、ひっそりと紅葉し散っていく木々を慈しむように詠んだ歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「宮仕へ久しうつかうまつらで山里にこもり侍りけるによめる 」とありますので、寂しげな木々に自分の姿を写していた面もあるのでしょう。
また、資料によっては、作者名の下に、「治少輔五位」とあるようなので、作者が晩年の頃の作品と考えられます。
 
* 作者の藤原関雄(フジワラノセキオ)は、平安時代初期の、藤原一族の中核的家柄の人物です。
藤原氏の始祖は鎌足ですが、その次男とされる不比等によって巨大な権力を握る態勢を作り上げていき、その息子たちは藤原四家と呼ばれる流派に分かれ競い合います。その中で、一番で遅れたのが北家ですが、この頃には最も有力流派となり、平安時代の最強勢力になっていきます。
北家の祖は、不比等の次男である房前で、二代目がその三男の真楯、三代目がその長男の内麻呂です。
関雄の父 真夏は、この内麻呂の長男として誕生しました。順調に昇進し、三十七歳で正四位下参議となり、父の後を継ぐには十分な地位を得ました。しかし、この後、薬子の変と呼ばれる政争に連座し挫折、その後復帰するも、嫡男の地位を次男の冬嗣に奪われることになります。これ以降、北家そして藤原氏全体の指導者としての地位は、冬嗣の子孫が引き継いでいくことになるのです。
ただ、真夏の子孫も繁栄しており、やがて12の堂上家(公卿を出すことが出来る上級貴族)を輩出しています。

* 関雄は、この真夏の五男として誕生しました。805 年のことです。母は未詳です。
825 年に文章生試に及第して、若くして文章面で有能さを示しましたが、どうも出仕することが肌に合わなかったのか、常に東山の旧居(後に禅林寺になる。)に籠もるような生活を選び、人々に東山進士と呼ばれたようです。

* 834 年、淳和上皇は、関雄を高く評価していたようで、再三召し出そうとしましたが、応じないで日を過ごしましたが、辞退しきれずに詔に応じて上皇の近臣として仕えるようになりました。
翌年に勘解由判官(カゲユ ホウガン・もともとは地方行政を監督する職務であったが、この頃は中央行政も監督した。判官は三等官。)に任ぜられましたが、煩雑で激務なのを理由に数か月後に少判事(刑部省で裁判などを担当。)に転任しました。若干の左遷かも知れません。
しかし、839 年に従五位下に叙爵して、貴族の仲間入りを果たしていますので、仕事ぶりはそれなりに評価されていたのでしょう。
仁明朝では、刑部少輔、下野守を務めています。
文徳朝では、諸陵頭(陵墓を管轄する部署の長)、治部少輔(もともとは戸籍などを担当する部署であったが、この頃は僧尼や仏事などの担当になっていたらしい。少輔は大輔の下位職で従五位下相当官。)、斎院長官などを歴任しました。
やがて、病気を理由に辞職を申し出ましたが認められないまま、853 年 2 月に亡くなりました。行年四十九歳でした。

* 当時、四十九歳での死去は、特別早世ということではないのでしょうが、関雄は若い頃から頑強な体質ではなかったように感じられます。
職務拒否体質とか、人付き合いが重荷であったというほどではないとしても、宮廷への出仕は、関雄が求める人生ではなかったように思えてならないのです。
そう考えますと、掲題の歌が、何とも哀れに感じてならないのです。

     ☆   ☆   ☆



 

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