『 NATO 東京事務所設置か 』
NATO(北大西洋条約機構)が
東京に 連絡事務所を開設する方向で調整している との報
現在 わが国は ベルギー大使館が
NATOとの連絡事務所を 兼務しているとか
NATOと聞くと 私などは 軍事同盟の色合いを強く感じてしまうが
世界の現状を考えると NATOとの紐帯は重要な気もする
ただ 「紛争に手を染めるのは嫌だが 平和は欲しい」
との思いが強いわが国は どうお付き合いするのかが
難しい課題のように 思われる
☆☆☆
『 うつろふと見む 』
春風は 花のあたりを よきて吹け
心づからや うつろふと見む
作者 藤原好風
( 巻第二 春歌下 NO.85 )
はるかぜは はなのあたりを よきてふけ
こころづからや うつろふとみむ
* 歌意は、「 春風よ 桜の花のあたりを よけて吹け 桜が自分の意志で 散るものかどうか確認したいのだから 」といったものでしょうか。
* 作者の藤原好風(フジワラノヨシカゼ)は、平安時代前期の中下級の貴族です。
生没年は共に不詳ですが、官暦は伝えられています。
898 左兵衛少将
903 右衛門尉
911 従五位下
926 出羽介
などが伝えられています。
* 掲題歌の前書き(詞書)には、「春宮の帯刀の陣にて桜の花の散るをよめる」とあります。
「帯刀の陣(タチハキのジン)」とは、春宮(トウグウ・東宮に同じ)に仕える帯刀舎人(タチハキトネリ・皇太子に仕える舎人のうち武器を持って警備に当たった者。)の詰め所のことです。
作者の好風は、この帯刀舎人であったようですが、その時期は、おそらく 898 年に左兵衛少将に任ぜられる前であったと推定されます。とすれば、893 年- 897 年の間は、宇多天皇の第一皇子である敦仁親王が春宮でしたので、この間のことと考えられます。敦仁親王は 897 年に醍醐天皇として即位していますので、その翌年に左兵衛少将に就いたと推定されます。
舎人は下級の官人ですが、帯刀舎人となりますと、武器を帯びて春宮を護衛するわけですから、二十歳前後にはなっていたのではないでしょうか。
それから推定しますと、好風の誕生年は、870 年の半ば前後ではなかったのでしょうか。
* 好風は、藤原南家の家柄です。やがて、藤原北家の全盛時代となっていきますが、この頃には、南家もそれほどの差はなかったようにも思われますが、父の陸奧守滋実(藤原正野の子、という説もある。)も従四位下であり、中下位の貴族の家柄であったようです。
好風が貴族とされる従五位下に上ったのは 911 年のことですから、おそらく、四十歳に近い頃だったのではないでしょうか。
そして、926 年には出羽介に就いていますが、その後の官暦が伝えられていませんので、これが最終官職で、そう遠くない時期に没したと推定されます。行年は五十歳台と考えられ、当時としては平均的な年代だったのではないでしょうか。
* 藤原好風の和歌は、勅撰和歌集に採録されているのは、表題の一首だけです。歌人としては、後の時代に評価を受けることはなかったようです。
また、貴族としても、ようやく受領職を手に入れることが出来た程度と言えますが、庶民から見ますと、国守は雲の上とも言える立場です。作者の父もそうですが、好風も奥羽の地に縁が深かったようで、それはそれで豊かな人生だったのではないでしょうか。
一千余年を過ぎた現代人から見れば、いかにも印象が薄い人物に見えますが、好風にしても、私たちがその名前を承知していることに苦笑いしているようにも思うのです。
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