『 大荒れの春分の日 』
「暑さ寒さも彼岸まで」 という言葉があるが
「何のことですか」 と聞きたくなるような
ほぼ全国的に 大荒れの天気となった
それも 寒さがしっかりと居残り
しかも 波の寒さではなかった
各地で 被害も出ていて 厳しいお彼岸となった
ぼた餅をいただきながら ご先祖様にご挨拶のつもりが
今日は勘弁していただいた
お彼岸の期間は まだ三日あるので
ぼた餅はいただいてしまったが ご挨拶は後日ということで・・
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『 花山院の崩御 ・ 望月の宴 ( 105 ) 』
さて、こうしているうちに二月となったが、花山院がたいそう重くお患いになられる。
「これは一大事。どのようなご容態なのか」とお聞き申し上げていたが、御瘡(オンカサ・できもの。)で発熱なさったのである。哀れにもご臨終かと思われるご様子なので、医師なども治癒の望みの薄い旨を申し上げる。
院には、例の中務とその娘が生んだ御子がたくさんいらっしゃるが、それぞれに女宮が二人ずついらっしゃる。
「私が死ぬのであれば、まず何よりもこの女宮たちを忌み(四十九日)のうちに皆私が連れて行くぞ」といったことばかり仰せになるので、御匣殿(ミクシゲドノ・中務のこと)もその娘も、さまざまに涙を流される。
中務の生んだ妹宮は、姉妹の兵部命婦(花山院に仕えていたらしい。)に生まれたその時に、「これは、あなたの子にしなさい。わたしは関与しないから」と仰せになったので、命婦はそのつもりでその妹宮を養育申し上げている。
こうしているうちに、花山院は昏睡状態となり、二月八日に崩御なさった。御年四十一歳でいらっしゃった。
長年の間おそばでお仕えしていた僧侶も俗体の者も、心から悲しく哀惜申し上げること限りなかった。
殿(道長)なども、「何と言ってもご立派であった院であられたのに。まことに残念で寂しいことだ」とお申しになられる。
御葬送の夜、忌まわしい喪服を着るというので、兵部命婦は、
『 去年(コゾ)の春 桜色にと いそぎしを 今年は 藤の衣をぞ着る 』
と詠んだ。まことに、哀れなることがたくさんある。
実際に、御忌みの間に、この兵部命婦が養っている女宮をお除きして、他の女宮は片端から皆お亡くなりになったので(史実としては、よく分っていない。)、高貴な人の御心は、まことに恐ろしいものだと思い知らされたのである。
「兵部命婦に養われた女宮は、『私は関与しない』と仰せられていたので、断念なさったのであろう」と言っては、泣き嘆いたのである。
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