雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

和歌の上手だが ・ 今昔物語 ( 28 - 3 )

2020-01-03 12:36:11 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          和歌の上手だが ・ 今昔物語 ( 28 - 3 )

今は昔、
円融院の天皇が退位なさって後、御子の日(オンネノヒ・正月最初の子の日に、野辺に出て小松を引いて息災延命を祈った。)の野遊びのために、船岳(フナオコ・船岡山)という所にお出かけになられた。堀川院より出発されて、二条大路を西へ行き大宮大路に出て、大宮大路を北に上られたが、円融院の御幸を拝するための物見車がすき間なく立ち並んでいた。お供の上達部(カンダチメ・上流貴族)や殿上人の装束は絵にも描きつくせないほどの美しさであった。

円融院は、雲林院の南の大門の前で御馬に乗りかえられ、紫野に到着なされた。船岳の北の斜面に小松があちらこちらに群生している中に遣水(ヤリミズ・庭園内の小川)を流し、石を立て、砂を敷き、唐錦の平張(ヒラハリ・天井を平たく張り渡した天幕。)を立て、簾を懸け、板敷を敷き、欄干がつけられていて、すばらしいことこの上ない。
その中にお入りになったが、その周りには同じ錦の幕を引き廻らしていた。その御前近くに上達部の席が設けられ、その次に殿上人の席が設けられている。殿上人の席の末の方に、幕に沿って横に歌人の座が作られている。

院が着座なされると、上達部・殿上人が仰せに従って着席する。歌人たちは前もって召されていたので、皆参上していた。
「座に着くように」との仰せが下されると、順序通りに席に着いた。その歌人たちとは、大中臣能宣(ヨシノブ)、源兼盛、清原元輔、源茲之(シゲユキ)、紀時文等である。
この五人には、かねて院より回状があり、参上するよう仰せがあったので、皆衣冠に身を正して参上していた。

すべての者が着席し終わってしばらく経った頃、歌人席の末席に、烏帽子をかぶり丁染(チョウゾメ・正しくは丁子染らしい。黒みがかった橙色。)の粗末な狩衣袴(公家の略服。院の席には無礼な装束。)を着た翁がやって来て着席した。人々は、「いったい何者だ」と思って、よく見ると曾禰好忠(ソネノヨシタダ・著名な歌人であるが、変人といわれ官位も六位と低かった。小倉百人一首に入っている。)であった。
殿上人たちは、「そこに参ったのは、曾丹(ソタン・丹後掾であったことからの通称であるが、一種の蔑称。)か」とひそひそ声で尋ねると、曾丹は気色ばんだ様子で、「さようでございます」と答えた。それを聞いて殿上人たちは、この日の行事役の判官代(行事を取り仕切っている院庁の役人。)に、「あそこに曾丹が参っているが、召したものなのか」と尋ねると、判官代は、「そのようなことはありません」と答えた。
「それでは、誰か別の者が承って召したものなのか」と、次々に聞いて回ったが、「承りました」という人はいなかった。そこで行事の判官代は、曾丹の後ろに近寄って、「これはどういうことなのか。召しもないのに参ったのは」と尋ねると、曾丹は、「歌人たちに参上するように仰せがあったと承りましたので、参上したのです。どうして参上しないでおれましょうか。ここに参上されている方々に決して劣らぬ者ですから」と言った。
判官代はこれを聞いて、「こ奴は、なんと、召しもないのに強引に参ったのだ」と気がついて、「どういうわけで、召しもないのに参ったのだ。今すぐ退出せよ」と追い立てたが、それでも着席したまま動こうとしなかった。

その時、法建院の大臣(藤原兼家。正しくは法興院で、この時右大臣。)、閑院の大将(藤原朝光)などがこれをお聞きになって、「そ奴の襟首をとっ捕まえて放り出せ」と命じられると、若くて威勢の良い下級貴族や殿上人など大勢が曾丹の後ろに回り、幕の下から手を差し入れて、曾丹の狩衣の襟首を取って、仰向けざまに引き倒し、幕の外に引きずり出し、一足ずつ踏みつけたので、七、八度も踏みつけられてしまった。
すると、曾丹は飛び起きて、一目散に逃げだしたので、殿上人や若い随身や小舎人童たちが曾丹が逃げる後を追って、手を叩いてあざ笑った。まるで放れ馬を追うように大声ではやし立てた。
これを見た多くの人は、老いも若きも声をあげて笑いあった。

その時、曾丹は小高い丘に走り登り、後ろを振り返って、笑いながら追っかけてくる者たちに、大声で言った。「お前たちは何を笑っているのか。わしはもう何の恥もない老人だ。だから言ってやろう、よく聞けよ。太上天皇が子の日にお出ましになられ、歌人たちを召されると聞いて、この好忠が参上して座に着き、掻栗(カイグリ・菓子として出されている栗らしい。)をポリポリと食う。次に追い立てられた。次に踏みたてられた。それが何の恥になる」と。
それを聞いて、上中下の全ての人々が笑う声はさらに大きくなった。
その後、逃げ去ってしまった。その当時、人々はこの事を語り合って笑いの種にした。

されば、素性の賤しい者はやはりどうしようもない。好忠は、和歌は良く詠んだが、思慮が足りず、歌人たちを召すと聞いて、召しもないのに参上して、このような恥をかいて、大勢の笑いものになり、末代まで笑いの種にされたのである、
となむ語り伝へたるとや。

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