桜を詠む ・ 今昔物語 ( 24-32 )
今は昔、
小野宮太政大臣(藤原実頼)がまだ左大臣であられた時、三月の中旬の頃であったが、政務のため参内され陣の座(宮中で公卿が政務を行なう場所。ここでは左近の陣)に着いていると、上達部(カンダチメ・上級貴族)二、三人ばかりが会いにやって来ていた。
外には、南殿(紫宸殿)の御前の桜の大木がまことに神々しく、枝も庭までおおうほどに美しく咲き誇り、花びらが庭一面に隙間なく散り積もり、それが風に吹き立てられ水の面のように波立って見える。
大臣は、「何とも情緒ある眺めかな。毎年美しく咲くが、これほど美しく咲いた年はなかった。土御門中納言(藤原敦忠・三十六歌仙の一人)が参内すればよいのになあ。これを見せたいものだ」と仰る。
その時、遥か向こうから上達部の先払いの声が聞こえてきた。役人を呼んで、「あの先払いの声は、誰が参内されたのか」と尋ねられると、「土御門権中納言が参内されたのでございます」と申し上げた。大臣は、「それは、なかなか良い具合のことだ」とお喜びになっていると、中納言がやって来て座に着くや否や、大臣は、「あの花が庭に散っている様子を、如何ご覧になられるか」と仰った。
中納言が「まことに趣がございます」と申し上げると、「それにしては、遅うございますな」と大臣は歌の催促をされる。中納言は心の中で、「この大臣は、当代の和歌の名人であられる。そうであるのに、自分がつまらない歌でも臆面もなく詠もうものなら詠まずにいるより拙いことになろう。そうとはいえ、高貴なお方がこのようにお求めになっていることを、強いて辞退することも不都合な事であろう」と思い、袖を掻きつくろい姿勢を正して、このように詠じた。
『 とのもりの とものみやつこ 心あらば この春ばかり あさぎよめすな 』
( 主殿寮(トノモリョウ)の 掃除にたずさわる者よ お前に風流の心があるならば この春の間だけは 朝の庭掃除はしないでくれ )
大臣はこれをお聞きになって、とても感嘆なされ、「この歌の返歌は、とても出来るものではない。見劣りするような歌を詠もうものなら、長く汚名が残るだろう。といって、これに勝る歌が詠めようはずがない」と言って、「仕方がないので、古歌でも詠じて何とか格好をつけよう」と思われて、忠房(藤原忠房)が唐へ行く時に詠んだ歌を詠じられた。
この権中納言は、本院の大臣(藤原時平)が在原棟梁(アリハラノムネヤナ)の娘である北の方に産ませられた子である。年は四十ばかりで、容貌・容姿の美しい人であった。人柄も良いので、世間の評判も華やかで、名を敦忠といった。[ 意識的な欠字。「本院」か? ]に通っていたので、[ 欠字。同じく「本院」か? ]の中納言ともいわれた。
和歌を詠むことに優れていたが、このような歌を詠んだので、たいそう世間で褒め称えられた、
となむ語り伝へたるとや。
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今は昔、
小野宮太政大臣(藤原実頼)がまだ左大臣であられた時、三月の中旬の頃であったが、政務のため参内され陣の座(宮中で公卿が政務を行なう場所。ここでは左近の陣)に着いていると、上達部(カンダチメ・上級貴族)二、三人ばかりが会いにやって来ていた。
外には、南殿(紫宸殿)の御前の桜の大木がまことに神々しく、枝も庭までおおうほどに美しく咲き誇り、花びらが庭一面に隙間なく散り積もり、それが風に吹き立てられ水の面のように波立って見える。
大臣は、「何とも情緒ある眺めかな。毎年美しく咲くが、これほど美しく咲いた年はなかった。土御門中納言(藤原敦忠・三十六歌仙の一人)が参内すればよいのになあ。これを見せたいものだ」と仰る。
その時、遥か向こうから上達部の先払いの声が聞こえてきた。役人を呼んで、「あの先払いの声は、誰が参内されたのか」と尋ねられると、「土御門権中納言が参内されたのでございます」と申し上げた。大臣は、「それは、なかなか良い具合のことだ」とお喜びになっていると、中納言がやって来て座に着くや否や、大臣は、「あの花が庭に散っている様子を、如何ご覧になられるか」と仰った。
中納言が「まことに趣がございます」と申し上げると、「それにしては、遅うございますな」と大臣は歌の催促をされる。中納言は心の中で、「この大臣は、当代の和歌の名人であられる。そうであるのに、自分がつまらない歌でも臆面もなく詠もうものなら詠まずにいるより拙いことになろう。そうとはいえ、高貴なお方がこのようにお求めになっていることを、強いて辞退することも不都合な事であろう」と思い、袖を掻きつくろい姿勢を正して、このように詠じた。
『 とのもりの とものみやつこ 心あらば この春ばかり あさぎよめすな 』
( 主殿寮(トノモリョウ)の 掃除にたずさわる者よ お前に風流の心があるならば この春の間だけは 朝の庭掃除はしないでくれ )
大臣はこれをお聞きになって、とても感嘆なされ、「この歌の返歌は、とても出来るものではない。見劣りするような歌を詠もうものなら、長く汚名が残るだろう。といって、これに勝る歌が詠めようはずがない」と言って、「仕方がないので、古歌でも詠じて何とか格好をつけよう」と思われて、忠房(藤原忠房)が唐へ行く時に詠んだ歌を詠じられた。
この権中納言は、本院の大臣(藤原時平)が在原棟梁(アリハラノムネヤナ)の娘である北の方に産ませられた子である。年は四十ばかりで、容貌・容姿の美しい人であった。人柄も良いので、世間の評判も華やかで、名を敦忠といった。[ 意識的な欠字。「本院」か? ]に通っていたので、[ 欠字。同じく「本院」か? ]の中納言ともいわれた。
和歌を詠むことに優れていたが、このような歌を詠んだので、たいそう世間で褒め称えられた、
となむ語り伝へたるとや。
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