雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

何かが終わる ・ 小さな小さな物語 ( 308 )

2012-01-25 10:46:33 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
世界経済が動揺しているようです。
ユーロ圏内の経済基盤の弱い国が問題になっていましたが、ここにきてアメリカ国債の格付が一部の格付会社で引下げらたことで動揺が激しくなったようです。
まあ、わが国の国債の格付も下げられているのですから、いいんじゃないですか、という気持ちもどこかにありますが、かつてのリーマンショックの経験からみても、格付会社に対する格付を強化することが緊急の課題だと思われます。


それにしても、財政規模からすればアメリカを遥かに上回る借金を持っていて、東日本大地震という災難に直面していて、原発事故は終息の目処が立たず、ギネスブックに登録したいような政権のもとにあるわが国の「円」が、どんどん値上がりしているというのです。
ユーロの基盤が揺らいでおり、アメリカ経済の先行き不安もあって、どういう理論からか「円」に多くの資金が逃避してきているのだそうです。
以前に、それも相当以前のこととなってしまいましたが、私が学んだ「経済原理のいろは」など何の役にも立たなくなってしまいました。


私の「経済理論のいろは」が役立たなくなっても、天下国家に影響を与えるわけではありませんが、もしかすると、『何かが終わろう』としているのではないかという予感がします。
アメリカ国債のピンチはとりあえず回避されましたが、今後長期にわたる緊縮財政を迫られることでしょう。全世界に放出され続けてきた「ドル」は、間違いなくその量を減らし、ある場面ではドラスチックな回収さえされるようになるのではないでしょうか。
わが国でいえば、アメリカ軍に対する基地提供は実に悩ましい問題ですが、おそらく、そう遠くない日に、基地は大幅に削減されることになるでしょう。それもアメリカの一方的な方針として。


「通貨が強くなって滅びた国はない」とよく言われます。ほんとにそうなのかどうか調べたことがないのですが、おそらくその通りだと思います。
ただ、国家は滅びなくても、輸出に依存している企業にとっての打撃は大きく消滅していく企業も少なくないでしょう。個々の企業のことはそれぞれの責任で対処するのが自由経済の基本だなどという人もいますが、その人も私と同じように役に立たない理論に縛られているように思われます。一つの企業が失われるということは、必ず雇用の場が失われているということなのです。今の日本にとって最も重要なことは『雇用の場の提供』なのです。
『何かが終わる』ということは、『何かが始まる』前兆でもあります。
今こそ、「高い円」を武器にしたダイナミックな施策を望みたいものです。

( 2011.08.13 )
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お送りする心 ・ 小さな小さな物語 ( 309 )

2012-01-25 10:45:42 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
今日、八月十六日は京都大文字の送り火が焚かれる日です。
今年は何かと騒がれたようですが、私たちの近くで過ごされた御霊(ミタマ)たちが、静かにお帰りいただけるように祈るばかりです。


京都五山の送り火につきましては、かなり前のことになりますが、作品の中に使いたくて少々勉強したことがあります。
盂蘭盆会の終りににあたって行われる五山(正しくは六つの山ですが)の送り火は、仏教の儀式と強く結ばれているようですが、発生や伝承の過程では、仏教とは関係なく多くの信仰や伝統が加えられてきたようです。
京都に限らず、今日でも各地で「大文字」やさまざまな形での送り火行事がなされていますが、そのいずれもが、特定の宗教儀式というよりは、もっと素朴なご先祖の御霊を慰めるという気持から発生し、今日も、さまざまな宗教儀式の形をとっていても、その気持ちに大きな変化がないように思われるのです。


この世のすべてを造られたという造物主というような存在があると仮定した場合、おそらく「人間」は、造物主の想定外の作品だったのではないでしょうか。
それは、きっと、「人間」が「火」というものを手にした時から造物主が意図した範囲を超える存在になっていったのではないでしょうか。
おそらく、私たちは、「火」を手にした早い段階から、ご先祖の御霊という存在と語り合う重要な役割を「火」に求めて来たように思われるのです。そして、ご先祖に限らず、一足先にかの国に旅立っていった御霊たちと、いつまでも心を通わせようとする人間の行為も、造物主の想定外だったかもしれません。


京都五山の送り火は、荘厳ですばらしいものです。
しかし、身近にお迎えした御霊たちを、かの国にお返しする道を照らすためには、あのような立派な焚火を必ずしも必要とするわけではありますまい。各地に伝えられる伝統行事しかり、小さな仏壇の蝋燭の微かな明かりもしかり、あるいはそれが線香花火だったとしても、そこに私たちのお送りする心さえあれば、再会を約して旅立ってくれることでしょう。

( 2011.08.16 )
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出会いの数だけの別れ ・ 小さな小さな物語 ( 310 )

2012-01-25 10:44:37 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
毎年のことですが、お盆が終わった頃は、私にはどうも調子の悪い時期のようです。夏バテからくる体調面の影響もあるかと思うのですが、つい何かと考えさせられることが多い時期です。
子供の頃は、夏休みの残り日数と宿題の量とを突き合わせることに忙しく、いや、まだ三日は遊べるはずだと考えながら、やがて窮地に追い込まれるのが恒例行事になっていましたが、それはそれでなかなかに大変な悩みを抱える時期でした。


さすがに、大人になってからはそのようなことはなくなりましたが、第一、夏休みが無くなってしまったのですから、宿題に悩むこともないのは当然のことです。
その代わりというわけではないのですが、大人とやらを飽きるほどやってきますと、今度はまた違う思いに追い込まれることの多い時期に変わってきました。
八月になると、テレビなどで戦争や原爆被害に関するドラマやドキュメントが放送されることが多く、今年は東日本大地震や原発事故がそれらと重なって、とても重いものに感じられました。


年齢とともに、盂蘭盆会の前後には、何かと考えさせられることも増えてきました。私は、お盆といってもごくありきたりのことしかしないのですが、ふと、考え込んでしまうことがあります。
「私たちは、出会った数だけ、別れなくてはならない」ということは頭では分かっていますし、小説のテーマにしたこともあります。その出会いは、人であれ、動物であれ、植物であれ、景色であれ、思い出であれ、同じことです。
「出会ったものとはいつかは別れる」このごくごく当たり前のことが、私の場合はこの時期に再通知されるようになっているようです。


まあ、文章にしますと若干深刻な感じではあるのですが、よくしたもので、人間は年をふるほどに体力は衰えるものの精神力は強くなるようで、少々の悲しい経験は懐かしい思い出に変えてくれるようです。
もっとも、精神力が強くなったのか鈍くなったのかは、意見の分かれるところですが。
お盆も過ぎたことですから、幾つかの重い思い出は棚上げすることにして、当面の重大事を検討しようと思っています。
ええ、今年、何十年も花や実を楽しませてくれていた姫ザクロが二本とも枯れてしまったのですよ。この別れを受け入れて、新しく植え直すかどうかが、私にとって目下の最重大事なんです。

( 2011.08.19 )
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遥か彼方のお話 ・ 小さな小さな物語 ( 311 )

2012-01-25 10:43:46 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
今回は、遥か彼方のお話です。
ところで、遥か彼方といえばどのくらいの距離を指すのでしょうか。「千里の道も一歩より」なんて諺がありますが、この「千里」というのは、遥か彼方の部類に入るのでしょうか。
一方で、宇宙の旅などということになりますと、「千里」などは誤差の範囲になってしまう程度の距離かも知りません。
それに、宇宙なんて言葉も簡単に使ってしまいますが、これもかなり無責任に使われているような気がするのです。


例えば、月の探査だとか、宇宙ステーションなどを指して宇宙探検などというのは、どうも大げさなように思われるのです。
宇宙全体は実に広大な空間を持っています。その広大さは、有限なのか無限なのかさえ分からないほどの広大さです。断言は出来ませんが、まあ、そういうことになっています。
その宇宙の中で、月であるとか、人工衛星が飛んでいる辺りは、宇宙と表現するのはオーバーすぎるような気がするのです。宇宙全体からみれば、私が地球上で思いっきりジャンプした時の位置と、たいして変わらない距離のように思うのです。
もっとも、地球も宇宙の一部ですから、人工衛星を宇宙空間を飛んでいると表現するのは、決して間違いではないのですが。


NASA(米航空宇宙局)は、地球から四億五千万光年離れた宇宙空間で、二つの銀河が衝突する場面を捉えた色鮮やかな画像を公表しました。(毎日新聞、八月十八日付夕刊の記事を使わせてもらいました)
エックス線宇宙望遠鏡チャンドラーのデーターとハップル宇宙望遠鏡の映像を組み合わせたと説明されていますが、それがどういうことなのか全く分かりませんが、紫色と青色の銀河が衝突しようとしている写真も載せられています。
四億五千万光年の彼方ということになりますと、一光年が・・・、そう、とても長い距離ですから、これは間違いなく「遥か彼方」と言って良いのではないでしょうか。


その記事によりますと、私たちが住んでいる銀河系銀河も、アンドロメダ銀河と衝突する可能性が高いそうです。僅か数十億年程度しかない先のことですよ。
でも、それだけあれば、現在生きている私たちの大部分は影響ないでしょうから、アンドロメダ銀河の接近はあまり心配しないで、遥か彼方の星空を眺めながら、移りゆく季節などを楽しみましょうよ。

( 2011.08.22 )
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金高騰 ・ 小さな小さな物語 ( 312 )

2012-01-25 10:42:48 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
『金、史上最高値を更新』というニュースをよく見ます。
世界中で金ブームが起こっていて、わが国もその影響からか、一般家庭の女性などが手持ちの金製品を買取業者に持ち込んでいるそうです。
戸棚の奥で邪魔になっていた、お爺さんだか大爺さんだかの記念の盃やメダルを業者に持ち込んでみると、何十万円にもなったと大喜びする人も少なくないそうです。
残念ながら、そのような恩恵には程遠い身としては、いくら高くなったといっても、買う人がいる間はまだまだ上がりますよ、と憎まれ口でもたたくしか仕方がありません。


古来、『金』ほど人間を魅了する物はないようです。
わが国でも財宝のことを『金・銀・サンゴ』などと表現していますし、古代文明の多くには『金』が重要視されたという記録が残っています。
化学という技術が発展することになった大きな動機は、『錬金術』の研究だそうです。未だその技術が確立されていないのはまことに惜しいことですが、もしかすると、某国の秘密研究所では大量生産に至らないまでも、実用化されているかもしれませんなあ。
その点奥床しいわが国では、『白銀も黄金も、子供という宝には及ばない』と詠んだ歌人がおりますが、まあ、子供は子供として、白銀も黄金もあるに越したことはありませんわなあ。


ところで、今回の世界的な『金』の高騰は、通貨不安に起因しているとも言われています。
ドル価値の低下傾向が止まらず、ユーロは加盟国の経済不安が表面化してきており、大地震に原発事故に慢性的な財政赤字の国の通貨がどんどん上がるのですから、預金通帳を眺めて喜んでいるわけにはいかないと『金』を買う人が増えているのでしょうね。
しかも、最近の『金』購入の大口先には、各国の中央銀行が名を連ねているそうですから、通貨発行権を持っている組織が、一番通貨を信用していないのかと心配になってきます。


世界中の通貨が、『金』だけに向かっているのならどうということはないのですが、そんなことが続くはずがありません。そう遠くない日に、その他の『物』に通貨の洪水は流れていくことでしょう。
つまり、物々交換の時代に近づいていくような予感があります。そして、その中核となる『物』は、おそらく食料でしょう。通貨があろうが、『金』があろうが、技術があろうが、食料を手当てできない時代が訪れる懸念など全くないと考えていていいのでしょうか。
『円』が実力以上に評価されている今こそ、バンバン国債を発行して食糧の自給体制を整えるべきではないでしょうか。すでに膨大な借金を抱えている日本国ですから、あと百兆円やそこら国債を増やしたところでどうってことありませんよ。
そんなことをしたら、『円』が暴落するってですか? それはそれで、結構じゃないんですか?
まあ、私が叫んだところで仕方のないことですが。

( 2011.08.25 )
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ラクダのコブ ・ 小さな小さな物語 ( 313 )

2012-01-25 10:41:48 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ラクダを見たことがありますか?
多分、大部分の日本人は動物園などで一度や二度は見たことがあると思うのですが、この二、三年の間だとどうですか。
実は、私はわりあい動物園が好きで、いい年をしていながらたまに行くんですよ。ところが、その時にラクダを見たかどうか記憶がはっきりしないのです。トラやシロクマなどに比べると地味かもしれませんが、存在感のある動物だと思うのですが、どうも記憶に残っていないのです。


最近、テレビで、かなり親しくラクダにお目にかかる機会がありました。
魅力的な動物ですねえ、まったく。
夕暮れの中で一頭だけがじっと遠くを見ている表情は、実に哀愁に満ちていて、来し方を想っているのか、行く末を祈っているのか、哲学的な表情は荘厳でさえあります。
果たして、人間社会の役者にあれほどの表情を作り出せる人はいるのでしょうか。


ラクダと人間社会との関わりは古く、諸説はありますが、紀元前二千年以上前に家畜化されたようです。ヒトコブラクダの野生種は絶滅したと考えられており、現在野生のものは家畜化されたものが再び野生化したものと考えられています。フタコブラクダの方は野生種が残っていますが、その数は全部で数百頭程度だそうで絶滅が懸念されています。
ラクダは『砂漠の舟』と呼ばれたように、乾燥地帯の人々にとって重要なパートナーですが、その生態も表情以上に神秘的な部分があるようです。
「ラクダのコブには水が貯められているので、水なしでも長く生きられる」というのは迷信ですが、数日は水なしで大丈夫なのは本当です。体の中にコブのような水を蓄えておける特殊な器官があるのかといえばそうではなく、血液中に大量の水を蓄えられるようになっているのです。
一度に八十リットル程度、記録によれば百三十六リットルの水を飲むことのできるラクダは、それを血液中に貯めているのです。普通の哺乳動物では血液中の水分が増え過ぎると赤血球が破壊されてしまいますが、ラクダは二倍になっても大丈夫なのです。
反対に、人間は体重の一割の水分が失われると生命が危険な状態になりますが、ラクダは四割失われても生命を維持することが可能なのだそうです。


ところで、コブの中身ですが、脂肪が貯えられています。この脂肪は、皮下脂肪のほとんどが集められているもので、食料を得られない時の栄養源となり、厳しい日射を防ぐ役目も担っています。
この他にも、砂塵を防ぐために鼻の穴を閉じることが出来たり、長い魅力的なまつ毛を備えたりしています。塩分濃度の高い水を摂取することも出来ますし、七百キロもある体で砂地を歩ける脚を持っています。
このように、さまざまな神秘的な特徴を持っているラクダですが、何よりも神秘的なのは、やはり『遠くをじっと見つめる』あの表情ではないでしょうか。少し涼しくなれば、ラクダと人生を語り合う機会を持つのもいいかもしれませんよ。
それにしても、なぜ、コブが一つのものと二つのものがあるんでしょうか。

( 2011.08.28 )
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無い物ねだり ・ 小さな小さな物語 ( 314 )

2012-01-25 10:40:55 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
世界陸上、感動的なシーンがいくつかありました。
女子百メートルの予選を福島選手が突破した時の、あのすばらしい笑顔を見ると『ああ、スポーツっていいなあ』と心底思いました。感動もしました。最終結果はともかく、努力を続けてきて大舞台で目標の第一関門を突破したことはすばらしく、ご本人はもちろんでしょうが、無責任に見ているだけの私なども感動させてもらい、単に金メダルだけがスポーツの目的ではなく、『参加することに意味がある』というオリンピックの精神といわれるものが真実のような気がしました。


しかし、冷静に見てみて、例えば男子一万メートルを見ていますと、少々考えさせられてしまいます。『参加することに意味がある』ということが真実だとしても、競技である限り優劣を競うことに本質があることも真実です。これは、今回参加している選手のことを指しているわけではないのですが、男子一万メートルにおいて、最近に帰化した人を除けば、日本人選手が勝つことなどまず考えられません。参加している選手の大半がフライングでも犯せば別ですが。


『人間』を動物学上の分類で示せば、サル目(霊長類)ヒト科の動物ということになりす。
そして、ヒト科に属しているのは、現存しているものでは『ホモ・サピエンス』ただ一種なのです。つまり、地球上の人間は全て『ホモ・サピエンス』なのです。従って、本来持っている能力は、基本的には同等と考えられますから、日本人選手も頑張りと努力で一万メートルで優勝することも可能という理論も成り立ちます。
しかし、実際の問題として、地球上には多くの民族があります。それぞれの能力において、地域や気候やその他の要因により、民族により肉体的な相違があることも否定できません。
現時点において、日本民族の選手が男子一万メートルの世界的な大会で優勝したいというのは、『無い物ねだり』ではないでしょうか。


新しい首相が選出されました。
「どなたがなっても同じだ」とか「どなたがなってもこれまでよりましだ」といった意見が聞かれますが、ここ数年のわが国の政治を見ていて、何だか分かってきたようなことがあります。
それは、『政治家が悪い』などということではなく、『日本国民が政治的に未熟である』ということです。その国民から立派な政治リーダーなんて誕生するはずがありません。それこそ『無い物ねだり』ということです。
新首相も、政治的に未熟な国民が選んだリーダーなのですから、あまり『無い物ねだり』はしないで、立派な人であれば参考にして、そうでもなければ他山の石として、私たちも少し真剣に政治に関心を持ちましょうよ。

( 2011.08.31 )
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新首相に期待したい ・ 小さな小さな物語 ( 315 )

2012-01-25 10:39:50 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ようやく首相が交代しました。
誰がやっても同じだという意見も強いようですが、案外そうではないみたいですよ。それは、つい先日まで嫌というほど感じさせられたのてすから、誰がやっても同じということではないと思うのです。
もちろん、同じ民主党政権ですし、今回の代表選びも前回と全く同じ構図でしたので、『ノーサイド』なんて、きれいな言葉を出したところで、そうそう上手くはいかないでしょう、きっと。
参議院での野党有利の状態に変化があるわけでもなく、大きな変化は期待できないのかもしれません。


ただ、私は、この首相に期待してみようと考えています。本音を申しますと、この二年間の民主政権には相当失望していますし、今回の代表選挙の状況を見る限りあまり変化は期待できないような気持ちもします。しかし、それでも、しばらくはこの新首相に期待したいと思っているのです。
その理由は簡単です。六月二十三日付の当ブログ(№292)において、松下政経塾出身者にエールを送ったことがあるからです。理由はそれだけです。
ただ、経営の神様の薫陶を受けた新首相であれば、自分の責任を人に押し付けたり、人の手柄を横取りしたり、目に余るような厚顔無恥な振る舞いだけはしないと思うのです。


前回のブログでも書かせていただきましたが、私たち日本人は政治的にきわめて未熟なのです。国民のレベル以上の政治指導者など誕生するはずがないのですから、「丁々発止と世の悪事をたたっ切ってくれる」ような人物を期待してはいけないのです。
ごく常識的なことを、ごく常識的に、誠実に粘り強く実施してくれる人で十分なのです。それ以上を望むのは、『無い物ねだり』なのですから。


政党支持や政治的立場などについて論じる気持ちは全くありません。
私は、松下政経塾について、その内容をほとんど知りません。松下幸之助氏の著作の何冊かを読んで私淑しているだけの者です。
また、民主党政権がどうだとかこうだとか言っても、私たち国民が選んでしまった結果なのです。今しばらくはどうにもならないのですから、新首相の手腕をしばらくは応援しようではありませんか。

( 2011.09.03 )


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自然災害と向き合う ・ 小さな小さな物語 ( 316 )

2012-01-25 10:38:56 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
台風12号は、各地に大変な被害をもたらしました。被災地の皆さまにお見舞い申し上げます。


今回の台風は、かなり異例づくめのものだったようです。
まず、移動するスピードがとても遅く、そのため同じ地域に大雨が降り続き大きな被害を発生させました。それも、前線との関係もあったのでしょうが、台風の中心から遠く離れた場所での被害も大きかったことも特徴的でした。
紀伊山地や山間の町や村での降水量は、1,000mmを遥かに超えたというのですから、想像するだけでも恐ろしいほどです。山間を流れる美しい川は、観光目的で何度か見たことがあるのですが、広大な山並みに包まれるようにして流れている風景を思い浮かべますと、あのあたりに降った雨の多くがあの川に流れ込んだのだと考えるだけで恐ろしい気がします。


今回の台風は当地も相当の雨に襲われました。風はこれまで経験している台風より強いものではなかったのですが、隣接する市町村などでも河川の氾濫や人的な被害が報道されています。
私宅のすぐ近くに小さな河川が流れています。江戸時代の地図にも載っている川なのですが、水源にあたる所は山間の幾つかの灌漑用の池になっていたのですが、現在では、池の数も減り、低い山はすべて住宅地となっています。
私の家はその水源に近いあたりにあるのですが、その川でさえ轟音をとどろかせて濁流を流しています。日頃は、小川に毛が生えた程度の川を、コンクリートで固めてしまうことがいいのだうか、などと考えていましたが、今回のような大雨の時には、自然の美しさより水害に強い方が有難く感じてしまいます。


東日本大地震は、千年に一度の災害だともいわれています。阪神淡路大地震の時は、四百年に一度の災害だとも言われました。
ある大都市の首長の方が、大津波が発生した場合、この街を完全に守ることは不可能だ、人命をいかに守るかということに重点を置きたいという発言をされるのを聞いた覚えがあります。
原発事故を人災か自然災害かを論ずることは別の機会にさせていただくとして、直ちにすべての原発を止めよという意見もあるようです。
温暖で豊かな自然に恵まれているわが日本ですが、地震があり、台風があることも事実です。自然災害において、『二度とこのような惨事は起こしません』という言葉を聞くことが時々ありますが、そんなことが実現できると本気で思っている人も少数派でしょう。
私たちは、この国で生きていく限り、自然災害とどう向き合っていくのかを常に考える必要があるのではないでしょうか。

( 2011.09.06 )
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 重陽の節句 ・ 小さな小さな物語 ( 317 )

2012-01-25 10:37:50 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
今日、九月九日は重陽の節句にあたります。
かつては、旧暦では菊の花の頃にあたることから菊の節句と呼ばれたり、また秋の収穫期にあたることもあり重要な節目の節句であったようです。ただ、現在では一部の寺院などを除けば、一般家庭などではあまりなじみのない節句です。


『重陽』という言葉は、陰陽思想では奇数は『陽』とされ、その陽が重なるという意味です。『9』というのは奇数の最大の数字であり、それが重なる九月九日は『陽』が強すぎ不吉とされたようです。重陽の節句も、中国から伝わったものですが、当初は不吉とされるものを祓うための行事だったようです。
それがいつの頃からか、吉祥と考えられるように転じ、祝いの日となったのです。
重陽の節句では特に邪を祓い長命を祈る傾向が強いようです。菊の花びらを浮かべた酒を飲んだり、これは枕草子にも描かれていますが、前夜から菊に綿を置いて露を染ませ、その綿で体を拭くと長生きするといった習慣があったそうです。


新暦の九月九日は、菊の候というより残暑の候のイメージが強いですが、よくしたもので菊の花を飾って祝うのに困ることはありません。
古代中国では、菊には邪気を祓い長命をもたらす力があると考えられていたそうです。現在のわが国では、一年中いつでも様々な種類の菊の花を手に入れることが可能ですが、同時に、葬礼の主役の花になってしまっているように思われます。


わが家の小さな庭にも、何株かの菊が植わっています。毎年挿し芽はするのですが、主のように前からある図体ばかり大きくなる株が主役です。
先日の台風で大半が倒され、一部は乱暴に切られたりしているのですが、来月半ば過ぎには小さな花をいっぱいに咲かせてくれるはずです。
菊花展などで見られるように、菊をとても大切に育て見事な花を咲かせている菊愛好家の人は大勢おられます。そのように大事大事に育てられても菊は菊、わが家のように放ったらかしにされていても菊は菊・・・。
菊に限ったことではありませんが、人生様々ですねぇ。

( 2011.09.09 )
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