運命紀行
誇り高きがゆえに
絶世の美女と言われ、和歌の上手と言われ、そして、誇り高き女性がいた。
複数の妻を持つのが普通の男社会である平安王朝の貴族社会を、胸を張り、凛として生きる女性がいた。
その人の名前は伝わっていない。私たちは、その女性を右大将道綱の母と呼ぶ。
彼女の父は、陸奥守藤原倫寧(トモヤス)。藤原北家の流れをくむが、いわゆる受領階級の中流貴族である。
十八歳の頃、藤原兼家の猛烈な求愛を受ける。
兼家は右大臣師輔の三男、上流貴族の御曹司であった。この頃は二十六歳の頃で、昇殿を許された歴とした殿上人であったが、長兄、次兄共健在で、上位の官職についていた。
都中に比類ないとまで噂される美貌の持ち主であり、教養豊かな彼女にとって、右大臣家の御曹司といえども十分満足できる相手ではなく難色を示すが、兼家のあまりにも熱心で強引な求愛にさすがの彼女も陥落する。
それは、単に兼家の熱心さに負けたということではなく、現在の官位はまだ低くとも、大きく羽ばたく才能の持ち主であることを感じ取ったからだと思われる。
実際に、長兄の早世、次兄との出世争いからの冷たい仕打ちを受けながらも、やがて、摂政関白太政大臣にまで上り詰め、宮廷を牛耳り、藤原氏全盛の基盤を作り上げていくのであるから、彼女の男性を見る目は確かだったといえる。
しかし、同時に、社会的に優れていることと家庭の幸せを築くこととは、いささかずれがあることは、いつの世も同じであるらしい。
二人が結ばれた時には、兼家にはすでに時姫という正妻がおり、将来関白となる道隆もすでに生まれていた。
翌年、彼女は道綱を生む。かけがえのない男児誕生であり、「道綱の母」の誕生でもある。
兼家の正妻時姫の出自も道綱の母と大差はなく、上流貴族が複数の妻を持つのが当然の時代、結婚当初は二人の地位に差はなかった。しかも、道綱の母には、口説き落とされての結婚という思いもあった。しかし、道綱という男児を儲けたとはいえ、その後の二人の立場は大きく差がついていった。時姫の子からは、道隆、道兼、そして道長と、平安王朝の絶頂期を築き上げる人物が登場していき、それに比べて、道綱の存在は遥かに影の薄いものになってしまったからである。
さらに、兼家には、次々と女性が現れ、道綱の母の心は千々に乱れる。
『 なげきつつひとりぬる世のあくるまは いかに久しきものとかは知る 』
これは、小倉百人一首に採録されている道綱の母の歌である。
この頃の、満たされぬ気持ちを詠んだものかと想像されるが、誇り高き彼女は、決して悲しみの中にうずもれてしまうようなことはなかった。
顔を上げて、凛として豊かな才能を筆に託して、その想いを書き綴っていった。
平安王朝文学の一角を担う、『蜻蛉日記』の誕生である。
* * *
平安王朝を舞台にした物語などに登場する女房や姫たちは、その殆どが美人として描かれている。
美しい女房装束や、絢爛豪華な王朝絵巻を思い描くと、そこに登場する女性全てが美人のように錯覚してしまい、紫式部や清少納言さえ美人であったかのように思ってしまう。平安王朝文学を代表するこの二人の女性も、実はとてつもない美人だったのかもしれないが、その確証は何もない。
しかし、道綱の母は違う。
当時の公式な系図を示す書物の中に、「本朝第一美人三人内也」と書き残されているのである。つまり彼女は、正真正銘の美人だったのである。
また、歴史物語「大鏡」の中では、「この君きはめたる和歌の上手におはしければ」と評されている。現代人が好き勝手につけた評価ではなく、当時の書物に記録されているのだから、和歌の上手であったということも正真正銘の事なのである。
美人で才媛、そして、右大臣家の御曹子に見染められ、強引なまでにして口説き落とされて一緒になった男は、紛れもない俊才であった。紆余曲折はあったとしても太政大臣にまで上り詰めていき、一子道綱も、母を異にする兄弟たちに比べれば見劣りするとはいっても、右大将にまで昇り、母の死後ではあるが大納言の地位を得ているのであるから、客観的に見る限り、まずは順調な生涯であったかに見える。
しかし、道綱の母という女性は、容姿端麗な才媛に加え、誇り高い女性であった。それゆえに、誇り高きがゆえに、のうのうと与えられた生涯に満足することは出来なかった。
今日私たちは、『蜻蛉日記』の作者として道綱の母を知ることが多い。
この作品は、彼女が十八歳の頃から三十九歳の大晦日までの二十一年間の記録である。夫兼家との赤裸々な記録が中心になっていることから、彼女の夫に対する復讐の記録であると評する人もいるようだが、少し違う。
その内容は、確かに兼家に対する厳しい態度や時姫はじめ妻妾たちとの葛藤が中心になっているとはいえ、上流貴族との交流、旅先のこと、母の死や道綱の成長などにも触れている。
それに、作品の中には兼家の和歌が多数収められており、兼家の協力があったとさえ感じ取られる面もある。
いずれにしても、この『蜻蛉日記』は、紀貫之の「土佐日記」に始まる日記文学という一つのジャンルを生み出した重要な作品といえる。また、この時代の女流作家の多くが女房経験者であるのに対して、彼女にはその経験がなく、その意味でも異彩を放っている面があるのかもしれない。
そして、道綱の母が、平安王朝の正真正銘の美人才媛であることを認識した上でこの作品を読んでいくと、これまでとは少し違う何かを見つけ出すことが出来るかもしれない。
( 完 )
誇り高きがゆえに
絶世の美女と言われ、和歌の上手と言われ、そして、誇り高き女性がいた。
複数の妻を持つのが普通の男社会である平安王朝の貴族社会を、胸を張り、凛として生きる女性がいた。
その人の名前は伝わっていない。私たちは、その女性を右大将道綱の母と呼ぶ。
彼女の父は、陸奥守藤原倫寧(トモヤス)。藤原北家の流れをくむが、いわゆる受領階級の中流貴族である。
十八歳の頃、藤原兼家の猛烈な求愛を受ける。
兼家は右大臣師輔の三男、上流貴族の御曹司であった。この頃は二十六歳の頃で、昇殿を許された歴とした殿上人であったが、長兄、次兄共健在で、上位の官職についていた。
都中に比類ないとまで噂される美貌の持ち主であり、教養豊かな彼女にとって、右大臣家の御曹司といえども十分満足できる相手ではなく難色を示すが、兼家のあまりにも熱心で強引な求愛にさすがの彼女も陥落する。
それは、単に兼家の熱心さに負けたということではなく、現在の官位はまだ低くとも、大きく羽ばたく才能の持ち主であることを感じ取ったからだと思われる。
実際に、長兄の早世、次兄との出世争いからの冷たい仕打ちを受けながらも、やがて、摂政関白太政大臣にまで上り詰め、宮廷を牛耳り、藤原氏全盛の基盤を作り上げていくのであるから、彼女の男性を見る目は確かだったといえる。
しかし、同時に、社会的に優れていることと家庭の幸せを築くこととは、いささかずれがあることは、いつの世も同じであるらしい。
二人が結ばれた時には、兼家にはすでに時姫という正妻がおり、将来関白となる道隆もすでに生まれていた。
翌年、彼女は道綱を生む。かけがえのない男児誕生であり、「道綱の母」の誕生でもある。
兼家の正妻時姫の出自も道綱の母と大差はなく、上流貴族が複数の妻を持つのが当然の時代、結婚当初は二人の地位に差はなかった。しかも、道綱の母には、口説き落とされての結婚という思いもあった。しかし、道綱という男児を儲けたとはいえ、その後の二人の立場は大きく差がついていった。時姫の子からは、道隆、道兼、そして道長と、平安王朝の絶頂期を築き上げる人物が登場していき、それに比べて、道綱の存在は遥かに影の薄いものになってしまったからである。
さらに、兼家には、次々と女性が現れ、道綱の母の心は千々に乱れる。
『 なげきつつひとりぬる世のあくるまは いかに久しきものとかは知る 』
これは、小倉百人一首に採録されている道綱の母の歌である。
この頃の、満たされぬ気持ちを詠んだものかと想像されるが、誇り高き彼女は、決して悲しみの中にうずもれてしまうようなことはなかった。
顔を上げて、凛として豊かな才能を筆に託して、その想いを書き綴っていった。
平安王朝文学の一角を担う、『蜻蛉日記』の誕生である。
* * *
平安王朝を舞台にした物語などに登場する女房や姫たちは、その殆どが美人として描かれている。
美しい女房装束や、絢爛豪華な王朝絵巻を思い描くと、そこに登場する女性全てが美人のように錯覚してしまい、紫式部や清少納言さえ美人であったかのように思ってしまう。平安王朝文学を代表するこの二人の女性も、実はとてつもない美人だったのかもしれないが、その確証は何もない。
しかし、道綱の母は違う。
当時の公式な系図を示す書物の中に、「本朝第一美人三人内也」と書き残されているのである。つまり彼女は、正真正銘の美人だったのである。
また、歴史物語「大鏡」の中では、「この君きはめたる和歌の上手におはしければ」と評されている。現代人が好き勝手につけた評価ではなく、当時の書物に記録されているのだから、和歌の上手であったということも正真正銘の事なのである。
美人で才媛、そして、右大臣家の御曹子に見染められ、強引なまでにして口説き落とされて一緒になった男は、紛れもない俊才であった。紆余曲折はあったとしても太政大臣にまで上り詰めていき、一子道綱も、母を異にする兄弟たちに比べれば見劣りするとはいっても、右大将にまで昇り、母の死後ではあるが大納言の地位を得ているのであるから、客観的に見る限り、まずは順調な生涯であったかに見える。
しかし、道綱の母という女性は、容姿端麗な才媛に加え、誇り高い女性であった。それゆえに、誇り高きがゆえに、のうのうと与えられた生涯に満足することは出来なかった。
今日私たちは、『蜻蛉日記』の作者として道綱の母を知ることが多い。
この作品は、彼女が十八歳の頃から三十九歳の大晦日までの二十一年間の記録である。夫兼家との赤裸々な記録が中心になっていることから、彼女の夫に対する復讐の記録であると評する人もいるようだが、少し違う。
その内容は、確かに兼家に対する厳しい態度や時姫はじめ妻妾たちとの葛藤が中心になっているとはいえ、上流貴族との交流、旅先のこと、母の死や道綱の成長などにも触れている。
それに、作品の中には兼家の和歌が多数収められており、兼家の協力があったとさえ感じ取られる面もある。
いずれにしても、この『蜻蛉日記』は、紀貫之の「土佐日記」に始まる日記文学という一つのジャンルを生み出した重要な作品といえる。また、この時代の女流作家の多くが女房経験者であるのに対して、彼女にはその経験がなく、その意味でも異彩を放っている面があるのかもしれない。
そして、道綱の母が、平安王朝の正真正銘の美人才媛であることを認識した上でこの作品を読んでいくと、これまでとは少し違う何かを見つけ出すことが出来るかもしれない。
( 完 )