雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

かぐや姫のふるさと ・ 小さな小さな物語 ( 318 )

2012-01-25 10:36:58 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
今日九月十二日は、旧暦の八月十五日にあたりますので、中秋の名月ということになります。
古来お月さまは、私たちにとって、最も神秘的であり最も近しい天体ではないでしょうか。明るさや強烈さにおいては、太陽が遥かに上回っていますが、太陽は天体というよりもっと次元の違うものとして私たちに影響を与えてきたのではないでしょうか。


世界的に見た場合、お月さまは私たち日本人に特別大きな影響を与えたということではないようです。世界各地に伝えられている寓話や伝承の数は多く、例えば国旗を思い浮かべてみても、お月さまを取り入れている国は少なくありません。わが国の場合は太陽ですから、世界に向かってお月さまに関して大きなことは言えないのかもしれません。
しかし、わが国の祖先たちも、和歌や物語のテーマとしたり、お月見などという何とも優雅な文化をはぐくんでいます。
それも、今夜は十五夜の月を愛でる夜ですが、明日は十六夜(イザヨイ)の月を楽しみ、さらに、立待月(タチマチヅキ)、居待月(イマチヅキ)、臥待月(フシマチヅキ)、更待月(フケマチヅキ)と続くのですから、ちょっとやそっとの根性では、本格的なお月見なんて出来ないんですよ。


お月さまに関するわが国の伝承文学となれば、何といっても『竹取物語』ということになります。
「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり・・・」という文章で始まるこの物語は、伝えられている中で最古の物語とされています。作者や成立時期などは不明で、原本も伝えられていません。現在残されている最古の写本は、室町時代初期の後光厳天皇の筆とされるもので、「うつほ物語」や「源氏物語」に『竹取物語』について語られている所があることから、十世紀中頃までには貴族社会などに流布していたと考えられています。
『かぐや姫のお話』ということになれば、幼い子供に親しまれるものとなりますが、登場人物の中には実在の人物や、明らかに実在の人物を指していると思われる人物がおり、いずれも壬申の乱前後の人物であることから、物語の舞台は奈良時代初期と思われます。


さて、満月の夜にお月さまに帰って行ったかぐや姫は、その後息災なのでしょうか。兎に餅などをつかせて、幸せな日々を過ごしているのでしょうか。
最近では、「お月さまに兎などいない」などと本気で考えている輩が増えてきましたが、そういう意見はしばらく横においておいて、今宵くらいは、かぐや姫と物語など楽しんでみてはいかがでしょうか。

( 2011.09.12 )
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長寿と高齢化の狭間 ・ 小さな小さな物語 ( 319 )

2012-01-25 10:35:50 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
本日九月十五日は、たしか『敬老の日』だったですよね。どこへ行ってしまったのでしょうね。
ああ、十九日の月曜日へ移動しているのですか。『敬老の日』というのが、本音のところでいえば、どういう趣旨の記念日なのかは知りませんが、要は、休日を楽しむのに便利な方に日付をずらせる程度の記念日であることは明白なようです。


最近、テレビの旅番組のようなものを見る機会がありました。たまたまつけたところでその番組をやっていたので見てしまったという程度ですので、あまり詳しい背景は承知していません。
番組は、主人公の旅人が東欧の山村を訪ねるというものでした。その村は、その辺りでは長寿村として有名で、元気なお年寄りやその家族の日常を訪ねるというものでした。
どの程度編集されているものかどうかはともかくとして、印象深かったことは、八十歳、あるいは九十歳を超えた人たちが生き生きと生活している姿でした。それも、彼らの生活の中心は仕事でした。ほとんどが農業や酪農という村ですから、働くといっても会社勤めなのではなく、家業の仕事をしているのですが、しっかりと自分の持ち分を確保しているのですね。近隣の人と陽気に話したり、食事をしたりもしているのですが、彼らの日常の中心にあるのは仕事なのです。
もう一つは、大家族が大部分のようなのですが、世代間が微妙なバランスで保たれているように見えました。
もっとも、画面には登場して来ない部分では、寝たきりの老人もいるのでしょうし、深刻な家族内の軋轢もあるのかも分かりません。
ただ、放送された部分だけを見る限りは、長寿社会というのはこうあるべきかと感じさせられる部分がありました。


ひるがえって、わが国の現状を考えてみますと、長寿村などという言葉は、まだ現存しているのでしょうか。
年齢面だけでいえば、その番組で紹介された程度の長寿村など、わが国には数えきれないほどありますが、わが国では、長寿村などとはいわず、高齢化村か限界集落とでも表現されるのではないでしょうか。大家族が珍しくなってしまったわが国では、長寿や敬老などという言葉は、言葉としては残っているとしても、そのような状態を表現する言葉としては、『高齢化』という言葉が主役になってしまったように思われてなりません。


現在日本の社会問題の根底にある難題は、年々深刻さを増す『少子高齢化』という現象にあります。
この問題を明快に解決させる方法を確立させないことには、『敬老の日』なんて、公務員やごく一部のサラリーマンの休日を増やす以上の働きはないように思うのです。
そんな方法があるのなら誰も苦労はしないという声が聞こえてきますが、高齢化に関して世界のトップを走っているわが国こそが、『長寿と表現されるもの』と『高齢化と表現されるもの』との狭間にある、齢を重ねても充実した生活を持続させることが可能な社会を作り出す責務を担っているのではないでしょうか。

( 2011.09.15 )
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おはぎとぼたもち ・ 小さな小さな物語 ( 320 )

2012-01-25 10:34:53 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
お彼岸が近付くと、私は「おはぎ」を連想することがよくあります。
特別に甘党と言うわけではないのですが、子供の頃に食べた「おはぎ」の味がなぜか懐かしく思い出されるのです。若い頃はそのようなことはなかったのですが、歳を取ってきたことによる現象なのかもしれませんが、時々無性に懐かしく感じることがあるのです。
正しくは、どんな味だったかは思い出せないのですが、なぜだか懐かしい味として記憶の中に刻まれているのです。


子供の頃、まだ食料事情の厳しい頃のことですが、「おはぎ」は子供たちにとって大変なご馳走でした。
お彼岸の何たるかを知ったのは最近のことですが、お彼岸に「おはぎ」が付き物であることは子供の頃から知っていたのです。
母親が、わが家ばかりか日本全体が貧しい時代、「おはぎ」を作る費用を捻出することさえ大変だったのでしょうが、市販されているものの三倍ほどもある「おはぎ」をたくさん作ってくれました。
「さあ、『おはぎ』をどうぞ」と仏壇に供えてから、待ちかねている子供たちに分けてくれるのです。


これはずっと後年になってからのことですが、春のお彼岸の時でも、母親は「さあ、『おはぎ』をどうぞ」と供えている姿を見て、「春は、『ぼたもち』じゃないの」と尋ねたことがあります。
母親は、「ああ、春は『ぼたもち』だと言う人もいるねぇ。でも、ご先祖様にお供えするものは『おはぎ』だよ。第一、『牡丹餅』といっても、この季節に牡丹なんて咲くのかねえ」と言っていたのを思い出します。どうやら母親の感性では、普通に食べる分には「おはぎ」でも「ぼたん」でもいいが、ご先祖様にお供えするものは「おはぎ」でなければならないようでした。


「おはぎ」は「御萩の餅」から来た言葉でしょうし、「ぼたもち」は「牡丹餅」からきた言葉であることは間違いないようです。
ただ、秋の彼岸に供えるものが「おはぎ」で、春の彼岸に供えるものは「ぼたもち」というのは、必ずしも定説ではないようです。
他にも、コシアンが「おはぎ」で、ツブアンが「ぼたもち」であるとか、その逆であるとか、あるいは、餅の部分が、完全につかれているものが「おはぎ」で、半つきのものが「ぼたもち」であるとか、その逆であるとか、または、地域によって呼び名が違うとか、諸説あるようですが、確固たる定説はないようです。
いずれにしても、「おはぎ」であれ「ぼたもち」であれ、一年中いつでも買い求めることが出来る時代になりましたが、残念ながら、未だに母親の作ってくれた「おはぎ」を超える味には出合っておりません。

( 2011.09.18 )
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小さな小さな物語  目次 ( No.321 ~ 340 )

2012-01-25 10:33:46 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
   小さな小さな物語  目次 ( No.321 ~ 340 )


   No.321  自然を楽しむ
     322  大きな犬と小さな犬
     323  高齢者が優しい社会
     324  ニュートリノの大発見
     325  悪い物は追放を


      326  生きとし生けるもの
     327  生命の連鎖
     328  年金改革
     329  七転び八起き
     330  大器晩成


     331  豊かさの尺度
     332  まあこのくらい
     333  のどかな時間
     334  走り続ける人々
     335  行きつける所まで


      336  移り行く季節に
     337  大空に羽ばたけ
     338  地産地消を考える
     339  得手不得手
     340  おとぎの国の物語
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自然を楽しむ ・ 小さな小さな物語 ( 321 )

2012-01-25 10:32:56 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
昨日、九月二十三日は秋分の日でした。
わが国では、秋のお彼岸の中日でもありますので、程度の差こそあれ、先祖のおまつり等をされる方が多いようです。
秋分の日は、お彼岸としての行事は定着していますが、「秋分」そのものに関する行事のようなものがあまり行われていないのは、他の祝日とは異なっているように思われます。もっとも、「春分」も同じですが。
そういえば、この二つの祝日は、天文学に基づいて年ごとに日付が決定されるのですが、このようにして決定される国民の祝日というのは、世界的にみても珍しいそうです。


「秋分」というのは、ご承知のように二十四節気の一つですが、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、季節感を知る重要な日だともいえます。また、昼と夜との長さが同じだということでも、私たちの生活に自然の移り変わりを教えてくれる日なのかもしれません。
ただ、細かなことに拘るとしますと、昼と夜の長さが同じだというのは必ずしも正しくないそうです。その理由は、私たちは、昼間というのを「日の出から日の入まで」と決めていますが、この日の出というのは、太陽が水平線に少しでも姿を現した時を指し、日の入は、太陽が水平線に完全に沈んだ時を指します。天文学的には、太陽の中心が水平線にある時を基準にしているため誤差が生じるのです。
他にも、大気の屈折により太陽が実際より早く顔を出したように見えたり、沈むのが遅く見えたりするそうですし、地球の自転からくる視差があるそうで、これらを合わせると、七分程昼間の方が長くなるそうです。
昼と夜とが、ほぼ同じになるのは、秋分より四日ほど先だそうです。


まあ、私たち日本人の殆どは、水平線から昇る太陽で朝を迎え、水平線の彼方に沈む太陽で夜を迎えているわけではないのですから、私たちの実体的な昼間はもう少し短いということも出来ます。
また、「朝起きて、夜寝て」といっても、「日の出、日の入」とリンクしているわけでもありませんし、第一、日の出や日の入の時間そのものが、東京と大阪では二十分近く違うでしょうし、北海道と沖縄ではもっと違います。
同じ土地であっても、「秋分」と「冬至」では、日の出も日の入も一時間余り違いますし、「夏至」の日では、昼と夜との長さは五時間ほども違うのです。
そんな環境の変化を、どうということもなく生活している私たちは、自然の息吹から離れて行っているのではないでしょうか。


江戸時代の人々は、太陽の出ている時間を昼とし、太陽が沈んでいる間を夜として生活を作り上げていました。「明け六つ」というのは、日の出の少し前を指し、「暮れ六つ」というのは、日の入の少し後を指しますが、この時間で昼と夜とを分けていました。当然季節によりその長さは違ったわけです。
「お江戸日本橋、七つ立ち」と歌にもありますように、当時の旅人たちは、日の出のおよそ二時間ほども前の「七つ」に旅のスタートを切りました。今の時間にあてますと、夏至の頃なら、午前二時半頃、冬至でも午前四時半頃の出立なのです。
江戸時代の人々が、現代人より自然の流れに添った生き方をしていたのかどうかは分かりませんが、三日ほど後が、昼と夜とが同じ長さになる日なので、そこからは一日一日昼の時間が短くなっていくことを少しは心にとめて、少しでも自然を楽しむ時間を捻出したいものです。

( 2011.09.24 )

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大きな犬と小さな犬 ・ 小さな小さな物語 ( 322 )

2012-01-25 10:31:40 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ウォーキング中によく出会うのですが、とても大きな犬と縫いぐるみのような小さな犬を連れている人がいます。二匹の犬はとても仲が良いらしく、時々は小さな方が大きな方にかかっていっていることもあるのですが、大きな方はおっとりとしていて、小さい方の好き勝手にさせているようです。
いつかお聞きしたことがあるのですが、あれで大きな方が年下らしいのです。


彼らは、お互いが犬であることを認識しているのかどうか、いつも不思議に思いながら見ているのです。つまり、どちらも犬であることは確かですが、大きさも種類も違うわけですが、お互いが同種の生き物だと思っているかどうかということです。
このことを家人に話しますと、答えは極めて明瞭でした。「どちらも、自分が犬だなんて思っていないんですよ」と。
そう言われてみますと、わが家の十九歳になる猫は、自分のことを猫だなんて全く考えていないようです。私を仲間だと考えているらしい節も時々は見せるのですが、大概は自分が思いのままに動かせられる道具か何かのように、考えているとしか思えないからです。
大きな犬も小さな犬も、第三者が見れば間違いなく犬だと分かるでしょうし、わが家の猫も紛うことのない猫です。でも、きっと、自分では自分のことは分からないのでしょうね。


これは、何も、犬や猫に限ったことではないようです。むしろ、人間なんかはその典型のような生き物かもしれません。
あれだけ非難ごうごうだった指導者が、臆面もなくその立場にあり続けたことに対して、傲慢であるとか、恥知らずであるというのは、決して正しい指摘ではないような気がします。彼は、単に自分のことが見えていないだけのことだったのです。つまり、人間のごく普通の状態だったのではないでしょうか。
そういえば、社会的に名を知られた人物の中には、「己を知る」ことが出来ないのを絵にかいたような人物って少なくないですよ。幸いにも、社会的に云々される立場にない私なんかは非難を受けることはありませんが、「何も分かっていない」と責められることは、日常茶飯事のことです。


もっとも、それだからこそ、人間は成長するのだ、という人もいます。
スポーツや職人の世界などで、「早見えする者は大成しない」ということがあるようです。サラリーマンなどあらゆる分野に通じることかもしれませんが、へたに「自分の能力」を自己評価してしまうと、それが正しければ正しいほどチャレンジ精神が失われるようです。
「失敗は成功のもと」などという格言も、きっとそのようなことを指しているのではないでしょうか。
しかし、そうとはいっても、ある程度の年齢を重ねたり、しかるべき立場に立とうという人は、「己を知る」ということは必要ではないでしょうか。自分で自分を正しく見るなどということは、相当の聖人君子でなければ無理でしょうから、「己を知る」ことが出来る鏡のようなものを、持つ必要があるように思うのです。

( 2011.09.27 )
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高齢者が優しい社会 ・ 小さな小さな物語 ( 323)

2012-01-25 10:30:25 | 小さな小さな物語 第五部~第八部

敬老の日が過ぎましたので、しばらくは高齢者が話題になることは少ないかと思い、あえて、こんなテーマを選びました。
現在、世界全体が大変な変動の時を迎えているということは、多くのコメンテーターやアナリストたちが述べています。おそらくそうなのでしょう。
わが国社会の変動も、決して小さなものではなく、例えば、平成に入ってからの二十年余りに限って見ても、その変化は小さなものではありません。しかも、経済面、政治面、労働環境などを見る限り、一直線といっていいほどの低下を示しています。それでいて、平均的な日本人の生活内容はそれほど変化しているのでしょうか。負のマグマは、一部の人たちにしわ寄せされていて、多くの人は何の変化もないような生活しているのだとすれば、どこかの時点で急激な社会変化が起きるような予感がします。


野田新首相の外交デビューが報道されていました。「ごく静かに」ですが、概ね好意的なものが多かったようです。個人的には、首相夫人にとても好感を感じました。「もっと華やかに」という意見もあるそうですが、変に華やかなファーストレディなんて、ご免こうむりたいものです。野田首相夫人の今後に期待して、エールを送ります。
しかし、残念ながら、今回の国連における野田首相の演説は、野田首相の責任では全くありませんが、わが国の地位の低下が如実に表れたものだったようです。わが国の二十年余にわたる停滞と国力の損耗は、ぼつぼつ国民全員が認識し、覚悟を決め、行動すべき時が近づいているように思うのです。


わが国の国力低下の要因の一つに、人口の減少が考えられます。さらに、それ以上に人口構成のゆがみが大きな問題になっています。いわゆる「少子高齢化」と呼ばれる現象であり、高齢者人口の爆発的な増大が、国家経済の大きな足かせになっていることは確かでしょう。
しかし、高齢者人口の爆発的な増大といっても、高齢者や高齢者予備軍の人たちも、歳は一年に一歳しか取りません。少々誤差はあるとしても今日の姿は、国家の指導者たるもの予測が出来ないはずがありません。それとも、いい加減な人口予測や経済見通しに頼ったため、「想定外」の状態になっているとでもいうのでしょうか。
しかし、過去のことをぐずぐず言っても始まりません。現在の姿を目をつぶらずに認めて、永続可能な社会体制を構築する必要があります。


まだ幼稚園児かと思われる子供が、お年寄りに席を譲っていました。
電車の中での光景ですが、実に温かく、見ている者まで嬉しくなってきます。お年寄りをいたわる心は、数千年の昔から美徳であり、人間の優しさであります。つまり、高齢者に優しい社会は「優しい社会」であります。
しかし、今私たちが生きている社会は、高齢者といわれる人たちが人口の20%を超え、やがては、30%あるいは35%にもなると予想される社会です。高齢者が社会の優しさに甘えて過ごせる社会ではないのです。
今こそ私たちは、『高齢者が優しい社会』を構築させる必要があると思うのです。
それには、どのような手段があるのか、今後当コラムでも、随時考えて行きたいと思っています。

( 2011.09.30 )



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ニュートリノの大発見 ・ 小さな小さな物語 ( 324 )

2012-01-25 10:29:29 | 小さな小さな物語 第五部~第八部

素粒子のニュートリノが光速を超えたという測定結果が確認されたという。
実験によるものだそうですが、その後の半年間の検証でも測定結果を否定する材料は出てきておらず、なお、検証が続けられているそうですが、どうやら、たいへんな「大発見」になりそうです。


正直申しまして、私にはこの「大発見」の意味がよく分からないのですが、幾つかのニュースや解説を見てみますと、物理学の根本をなす常識が否定されてしまう発見なんだそうです。
光より早い物質は存在しない、というのが物理学の常識であって、この発見が事実だとすれば、アインシュタインが提唱した相対性理論は根底から覆されることになるそうです。
さらに、光より早い物質が存在するとなると、理論的には、タイムマシンを作ることが可能ということになるそうです。つまり過去の世界へさかのぼることが出来るというわけです。
それ以外でも、物理学の常識とされるものが連鎖的に否定されていく可能性も秘められていそうです。


そう言えば、その昔、私が物理の授業が大嫌いだったのは、誤った原理に基づく理論を優秀な私は本能的に拒絶していたのかもしれません。
物理に限らず、例えば日本史などでも、僅か二十年ほどでこれまでとは全く違う新事実が発見されることがありますし、僅か千年か二千年前の出来事でも、諸説があるのですから、少なくとも義務教育程度の段階で、日本史の成績に優劣をつけるのはどうかと思ったりもします。
それにして、この「大発見」でつくづく思いますことは、私たちは知識のないものに対してはいかに興味をひかれないかということを痛感しました。天体の発見や、古代遺跡の発掘などもそうですし、ダジャレや、浄瑠璃などもそうかもしれません。
そう考えますと、興味を持っていた人がそれほど多かったとは思えない「なでしこジャパン」が、あれほどすごい興奮を多くの人に与えたということは、ほんとに凄いことだったんですねえ。


光より早いものがあれば、光を追っかけて過去にさかのぼっていくことが出来る・・・。
理論的にはそうなのだそうですが、本当にそのようなことが可能なのでしょうか。
しかし、考えてみますと、ニュートリノなど持ち出さなくても、人間の思考は、一瞬にして数百年の昔にも未来にも馳せ参じることが可能です。タイムマシンなど、今時小さな子供でも大して驚きませんし、釈迦はその教えの中で、数億年、数十億年の時間軸を駆使しているように思われます。
彼岸を過ぎて、秋の夜長となる折から、ニュートリノに負けないように、遠い過去や遥かな未来に想いを馳せてみませんか。

( 2011.10.03 )

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悪い物なら追放を ・ 小さな小さな物語 ( 325 )

2012-01-25 10:28:00 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
増税論議が姦しいことですが、またまた、たばこの増税が検討されているそうです。
1本当たり2円ということが報道されていますが、1箱700円という声を聞いた後では、「たったそれだけかい」という気がしてしまいます。もしかすると、某大臣と某大臣は、合意の上でアドバルーンを上げたり、こっちの管轄だと文句をつけたりして、「2円ぐらいならどうでもいいや」という雰囲気を世間に行き渡らせたのだとすれば、これは、なかなかの策士だと認めなければなりません。


私は、喫煙しませんので、別にたばこ増税に積極的に反対するつもりはありません。
むしろ、常々喫煙者のマナーの悪さを腹立たしく感じることがあるので、もっと大幅な増税をしてほしいほどです。喫煙者のマナーの中で、一番気に入らないのは、吸い殻のポイ捨てです。こういうことを言いますと、喫煙者である知人は全員が「自分はそんなことはしない」と言います。灰皿のない所では吸わないし、携帯用の灰皿も持っている、と皆さん言います。
しかし、わが家の横の車が走っている道路には、ほぼ毎日と言っていいほど、必ず吸い殻が落ちています。時々は庭の中にまで投げ込まれています。まさか放火が目的ではないと思うのですが、無神経さに腹が立ちます。
私の知人たちは、マナーの優等生のようなことを言いますが、現に道路などの様々な場所で吸い殻が落ちていることも事実だと思うのです。
増税も結構ですが、その前に、たばこの発売元は、投げ捨てられた吸い殻の回収の責任があると思うのです。全国に吸い殻回収要員を配置するのもいいでしょう。出来なければ、小売業者に費用を支払って各地区の回収を担当させるのも結構です。それも出来なければ、回収された吸い殻一個に対して、100円とまでは言いませんが、10円なり20円なりで買い取るべきです。増税される前に1箱700円にすれば、その程度の費用は簡単に捻出できますよ。


話が個人的な不満に走ってしまいましたが、最近に実施されたたばこ増税の際に、「健康被害」という問題と、「諸外国に比べて安価」ということが理由に挙げられるのが、どうも気に入りません。
たばこが健康によくないということは、相当昔から言われていることです。多くの研究結果やデーターも発表されています。従って、税金を上げるというのは、水に落ちた犬をたたくような行為に見えてしまうのです。それに、例えば精神的な面などで健康に役立っている部分もあるはずです。
安価だということも、だから諸外国並みに引き上げるというのも、いかにも乱暴な発想のように思います。もし、この理論を主張する場合には、諸外国に比べて圧倒的に高価なものは引き下げる、という政策も同時に行わなければ納得できません。
さらに、これはこの欄で書くのは憚られますが、喫煙者により社会制度が助けられていることも事実なのです。


いずれにしても、たばこの増税を図るのであれば、「喫煙者に税の負担増をお願いする」と、はっきり言うべきです。
健康のためだなんてのは、論外です。そんなに健康に悪いのでは、使用や流通を禁止すべきです。
禁止されている薬物等は沢山あるわけですし、たばこによる喫煙者、受動喫煙者の被害は、何人の人の命を縮めているか計算して、社会が容認できない程なら、使用禁止にすべきなのです。
悪い物は、追放しなければなりません。

( 2011.10.06 )
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生きとし生けるもの ・ 小さな小さな物語 ( 326 )

2012-01-25 10:26:50 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
今月中に、世界の人口は七十億人に達するそうです。
この地球上に、大きいといえば大きいですが、宇宙全体から見れば全くちっぽけな、この地球上に七十億人の人々が生活しているのだと考えますと、何とも不思議な感慨に襲われます。
もっとも、私たち日本国民だけでも一億二千万人余りいるわけですから、その六十倍弱だと考えれば、別に不思議なことでもないような気もします。


しかし、私たちのこの地球は、私たち人間をどの程度まで受け入れてくれる能力があるのでしょうか。
人類の始まりがどのようなものであり、いつ頃、何人くらいでスタートしたのか知らないのですが、他の動物から進化したものだと仮定すれば、そのスタート時点は一人だったと考えられます。
もちろん、この進化というのは、「進んだ」とか「優れた」とかという意味ではなく、分化したと考えるべきだと思うのですが、やがてある集団で、自分たちが今まで肉親や仲間だと思っていたものとは違う動物らしいと認識した時から人類の歴史は始まったのだと私は思っているのです。
それが、地球上のある一か所で発生したことなのか、多くの地域で一斉に発生したのかはともかく、その集団がある人数を越えた時にも、きっと、この地球は自分たち人間をどの程度の数まで受け入れてくれるのだろうと考えたように思うのです。その時の人数は、せいぜい百人か千人、多くても一万人以下のように思うのです。


そう考えれば、私たちの遠い祖先が心配してから何万倍にもなっているわけですので、私なんかが心配してからでも、一万倍やそこらに世界人口が増えても、どうということなどないのかもしれません。
しかし、本当はどうなのでしょうか。地球上の人口が百億人とか二百億人というのならともかく、一兆人の人類を、この地球に許容する能力などあるのでしょうか。
極端な話になってしまいましたが、つまり、この地球上で生存していける人間の数は、おそらく、限界というものがあると思うのです。現に、たかだか七十億人の人口であっても、多くの人たちが飢餓にさらされており、五歳未満で亡くなっていく子供の数は膨大なものだそうです。


わが国は今、少子高齢化といわれる人口ピラミッドのゆがみに苦しんでいます。
人口が減少していく社会が既に始まっており、それによる国力の低下が心配されています。多くの国家指導者と目される人が、人口の増加へと対策を考えたり意見を述べられたりしています。しかし、それは、果たして正論なのでしょうか。
わが国は、諸外国のいずれもが経験していないスピードで高齢化が進んでいます。けれども、これはわが国だけの問題ではなくなるはずです。スピードの差はあるとしても、わが国と同じ問題を抱える国は増えてくるでしょうし、この地球が人類を養う能力に限界がある、ということが認知されればされるほど、世界人口の高齢化は進むはずです。
幸か不幸か、わが国は、生きとし生けるものすべてがこの地球に受け入れられるための、その規範作りの任務を与えられているように思うのです。

( 2011.10.09 )
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