運命紀行
情熱の歌人
宇多天皇の御時、ある歌学書に「誠にこの道の聖なり」と称えられた女房がいた。
才色共に優れたその女房は、また情熱の人でもあった。そして、それゆえに、王朝文化が絢爛豪華に熟成してゆく渦に巻き込まれながら、激動の運命を背負いながら生きた。
その女房は、伊勢と呼ばれた。
『 知るといえば枕だにせで寝しものを 塵ならぬ名の空に立つらむ 』
『 夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝な わが面影に恥づる身なれば 』
『 わたつみと荒れにし床を今さらに 払はば袖やあわと浮なむ 』
この三首は、古今和歌集にある伊勢の歌から抜粋したものである。
これらの和歌が伊勢の代表歌というわけではないが、彼女が情熱の人である一端を知ることができよう。
伊勢が宮中に出仕することになったのは、宇多天皇のもとに入内することになった温子(オンシ・藤原基経の娘)に従って後宮に入り、女房として仕えることになったからである。
やがて、温子の弟である藤原行平の求愛を受け結ばれる。しかし、相手は摂関家の御曹司であり、伊勢は受領階級の中下級の貴族の出自であり、二人の愛は彼女の願う形には育たなかった。
傷心の伊勢は、宮中を退出し、その頃父の任国であった大和へと下った。
どのくらいの時間が経過したのだろうか、温子からの招きがあり、再び女房として仕えることになった。温子が特別伊勢が気に入っていたからであろうが、同時に和歌をはじめとした彼女の豊かな才能は傑出していたものと考えられる。
しかし、再び宮中に入ると、才色兼備の伊勢の周りには多くの上流貴族が集まった。一旦熱が冷めたはずの行平や、その兄の時平や平貞文などの誘惑が続いた。
行平との辛い経験から男性と距離を保っていた伊勢であったが、ついに帝からの思し召しとなったのである。
宇多天皇は、伊勢が仕える温子の夫であり、天皇や貴族が複数の妻を娶るのが当然の時代とはいえ、心の葛藤は小さなものではなかった。しかし、時の帝の求愛を拒絶し続けることもできることではなかった。幸いにも、後の温子と伊勢の関係を見ると、温子は伊勢の幸運に理解を示したようである。
伊勢は帝の求愛を受け入れ、やがて、皇子が誕生する。
受領階級の出自でありながら皇子を儲けた伊勢は、その輝くばかりの美貌と溢れるばかりの知性はさらに磨かれ、わが世の春を謳歌するかに見えた。
しかし、儚い定めの皇子は五歳(八歳とも)で夭折する。
さらに、宇多天皇も譲位し、やがて出家する。
皇子を亡くし、宇多のもとも離れた伊勢にとって、失意の時が続く。
だが、その期間はそれほど長いものではなかった。再び、伊勢に熱い想いを寄せる御曹司が登場する。
その人物は、宇多天皇の第四皇子であり、宇多の後を継いだ醍醐天皇の実弟にあたる敦慶親王であった。
さらに言えば、敦慶親王は、実母と死別したあと温子の猶子となり、温子の一人娘である均子内親王を正妻にしていた。しかも、年齢は、伊勢よりも遥かに若く、簡単に飛び込んでいける相手ではなかった。
平安女流文学の先駆者に、再び運命は難しい決断を迫ったのである。
* * *
伊勢の出生年については諸説あり、872年、874年、877年などの説がある。和暦でいえば、弘仁から天長の頃となるが、最後に結ばれる敦慶(アツヨシ)親王や愛娘中務の誕生などと照らし合わせて見ても、確定させるのはなかなか難しい。
父は、伊勢守藤原継蔭。藤原北家の末裔にあたるが、いわゆる受領階級で五位程度、中下級の貴族の家といえる。
伊勢というのは出仕後の女房名で、本名は不詳。父が伊勢守であったことから名付けられたが、後に天皇の寵を受けるようになり、伊勢の御、伊勢の御息所、とも呼ばれた。
伊勢が、その美貌、教養、気品などのすばらしさが知られるようになったのは、わが国史上初の関白となる藤原基経の娘、温子が宇多天皇のもとに入内するのに女房として従ったことからである。温子は、872年の生まれであるので、伊勢もそれほど違わない年齢だったのかもしれない。
宮中に入って後、温子の異母弟である行平に見染められ結ばれるが、相手は長年朝廷を牛耳っている基経の御曹司であり、伊勢が思い描く生活とは乖離があったと思われる。
やがて、離れていく行平を思いきるため宮中を去り、父親の任国に身を隠した。
しかし、ほどなく温子の招きに応じて宮仕えをすることになる。それは、温子の好意に応えるものであったが、伊勢自身にも雅やかな宮中生活を捨てきれない部分もあったのかもしれない。
再び始めた宮中での生活は、絢爛豪華な絵巻物だったのかもしれないが、実は、その中心近くに自分が位置していることを伊勢は認識していたのであろうか。
多くの公卿たちの注目を浴び、ついには帝の寵愛を受けるまでになるのである。
だが、絢爛豪華な絵巻物は、また、流転の激しいものでもあった。
折角儲けた皇子を喪い、帝もまた退位し出家してしまう。天皇といえども激しい政争の渦中にあることに変わりがなかった。
取り残されたような伊勢の前に登場したのは、宇多天皇の第四皇子敦慶親王であった。
この親王は、後世描かれる源氏物語の主人公のモデルの一人とまでいわれる貴公子であった。光り輝くとまで噂される容貌に加え、詩歌・管弦に秀で、実兄である醍醐王朝の文化興隆の中心となる人物であった。そして、女性遍歴もまた華やかなものであった。
伊勢が敦慶親王の強引なまでの誘いを受けたのは、何歳の頃であったのか。
敦慶親王の正妻となった温子の愛娘均子が亡くなった後のこととすれば、親王の年齢は二十五歳前後位か。そして、一方の伊勢はといえば、三十歳代、それも半ばを過ぎていたかもしれない。
しかし、伊勢は、あらゆる誹謗や心の葛藤を乗り越えて、親王の胸に飛び込んでいった。
伊勢は、939年頃まで生きることになる。おそらく享年は、六十歳前後であったか。
その八、九年前には親王にも先立たれるが、伊勢の晩年は、不幸なものではなかったようである。
何よりも、親王との間に儲けた愛娘は、中務として現代にまで伝えられる和歌の上手であり、両親のどちらに似たとしても輝くばかりの姫君であったことだろう。
そして伊勢は、華やかな宮中を舞台に生きたからこそ、その豊かな才能を花開くことが出来たのだと考えられる。
古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集においては、女流歌人として最も多くの和歌が採録されている。家集「伊勢集」は、この後に続く多くの女流作家に影響を与えたといわれている。
伊勢こそが、平安王朝に輝く女房文学の功労者といっても、決して言い過ぎではないだろう。
( 完 )
情熱の歌人
宇多天皇の御時、ある歌学書に「誠にこの道の聖なり」と称えられた女房がいた。
才色共に優れたその女房は、また情熱の人でもあった。そして、それゆえに、王朝文化が絢爛豪華に熟成してゆく渦に巻き込まれながら、激動の運命を背負いながら生きた。
その女房は、伊勢と呼ばれた。
『 知るといえば枕だにせで寝しものを 塵ならぬ名の空に立つらむ 』
『 夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝な わが面影に恥づる身なれば 』
『 わたつみと荒れにし床を今さらに 払はば袖やあわと浮なむ 』
この三首は、古今和歌集にある伊勢の歌から抜粋したものである。
これらの和歌が伊勢の代表歌というわけではないが、彼女が情熱の人である一端を知ることができよう。
伊勢が宮中に出仕することになったのは、宇多天皇のもとに入内することになった温子(オンシ・藤原基経の娘)に従って後宮に入り、女房として仕えることになったからである。
やがて、温子の弟である藤原行平の求愛を受け結ばれる。しかし、相手は摂関家の御曹司であり、伊勢は受領階級の中下級の貴族の出自であり、二人の愛は彼女の願う形には育たなかった。
傷心の伊勢は、宮中を退出し、その頃父の任国であった大和へと下った。
どのくらいの時間が経過したのだろうか、温子からの招きがあり、再び女房として仕えることになった。温子が特別伊勢が気に入っていたからであろうが、同時に和歌をはじめとした彼女の豊かな才能は傑出していたものと考えられる。
しかし、再び宮中に入ると、才色兼備の伊勢の周りには多くの上流貴族が集まった。一旦熱が冷めたはずの行平や、その兄の時平や平貞文などの誘惑が続いた。
行平との辛い経験から男性と距離を保っていた伊勢であったが、ついに帝からの思し召しとなったのである。
宇多天皇は、伊勢が仕える温子の夫であり、天皇や貴族が複数の妻を娶るのが当然の時代とはいえ、心の葛藤は小さなものではなかった。しかし、時の帝の求愛を拒絶し続けることもできることではなかった。幸いにも、後の温子と伊勢の関係を見ると、温子は伊勢の幸運に理解を示したようである。
伊勢は帝の求愛を受け入れ、やがて、皇子が誕生する。
受領階級の出自でありながら皇子を儲けた伊勢は、その輝くばかりの美貌と溢れるばかりの知性はさらに磨かれ、わが世の春を謳歌するかに見えた。
しかし、儚い定めの皇子は五歳(八歳とも)で夭折する。
さらに、宇多天皇も譲位し、やがて出家する。
皇子を亡くし、宇多のもとも離れた伊勢にとって、失意の時が続く。
だが、その期間はそれほど長いものではなかった。再び、伊勢に熱い想いを寄せる御曹司が登場する。
その人物は、宇多天皇の第四皇子であり、宇多の後を継いだ醍醐天皇の実弟にあたる敦慶親王であった。
さらに言えば、敦慶親王は、実母と死別したあと温子の猶子となり、温子の一人娘である均子内親王を正妻にしていた。しかも、年齢は、伊勢よりも遥かに若く、簡単に飛び込んでいける相手ではなかった。
平安女流文学の先駆者に、再び運命は難しい決断を迫ったのである。
* * *
伊勢の出生年については諸説あり、872年、874年、877年などの説がある。和暦でいえば、弘仁から天長の頃となるが、最後に結ばれる敦慶(アツヨシ)親王や愛娘中務の誕生などと照らし合わせて見ても、確定させるのはなかなか難しい。
父は、伊勢守藤原継蔭。藤原北家の末裔にあたるが、いわゆる受領階級で五位程度、中下級の貴族の家といえる。
伊勢というのは出仕後の女房名で、本名は不詳。父が伊勢守であったことから名付けられたが、後に天皇の寵を受けるようになり、伊勢の御、伊勢の御息所、とも呼ばれた。
伊勢が、その美貌、教養、気品などのすばらしさが知られるようになったのは、わが国史上初の関白となる藤原基経の娘、温子が宇多天皇のもとに入内するのに女房として従ったことからである。温子は、872年の生まれであるので、伊勢もそれほど違わない年齢だったのかもしれない。
宮中に入って後、温子の異母弟である行平に見染められ結ばれるが、相手は長年朝廷を牛耳っている基経の御曹司であり、伊勢が思い描く生活とは乖離があったと思われる。
やがて、離れていく行平を思いきるため宮中を去り、父親の任国に身を隠した。
しかし、ほどなく温子の招きに応じて宮仕えをすることになる。それは、温子の好意に応えるものであったが、伊勢自身にも雅やかな宮中生活を捨てきれない部分もあったのかもしれない。
再び始めた宮中での生活は、絢爛豪華な絵巻物だったのかもしれないが、実は、その中心近くに自分が位置していることを伊勢は認識していたのであろうか。
多くの公卿たちの注目を浴び、ついには帝の寵愛を受けるまでになるのである。
だが、絢爛豪華な絵巻物は、また、流転の激しいものでもあった。
折角儲けた皇子を喪い、帝もまた退位し出家してしまう。天皇といえども激しい政争の渦中にあることに変わりがなかった。
取り残されたような伊勢の前に登場したのは、宇多天皇の第四皇子敦慶親王であった。
この親王は、後世描かれる源氏物語の主人公のモデルの一人とまでいわれる貴公子であった。光り輝くとまで噂される容貌に加え、詩歌・管弦に秀で、実兄である醍醐王朝の文化興隆の中心となる人物であった。そして、女性遍歴もまた華やかなものであった。
伊勢が敦慶親王の強引なまでの誘いを受けたのは、何歳の頃であったのか。
敦慶親王の正妻となった温子の愛娘均子が亡くなった後のこととすれば、親王の年齢は二十五歳前後位か。そして、一方の伊勢はといえば、三十歳代、それも半ばを過ぎていたかもしれない。
しかし、伊勢は、あらゆる誹謗や心の葛藤を乗り越えて、親王の胸に飛び込んでいった。
伊勢は、939年頃まで生きることになる。おそらく享年は、六十歳前後であったか。
その八、九年前には親王にも先立たれるが、伊勢の晩年は、不幸なものではなかったようである。
何よりも、親王との間に儲けた愛娘は、中務として現代にまで伝えられる和歌の上手であり、両親のどちらに似たとしても輝くばかりの姫君であったことだろう。
そして伊勢は、華やかな宮中を舞台に生きたからこそ、その豊かな才能を花開くことが出来たのだと考えられる。
古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集においては、女流歌人として最も多くの和歌が採録されている。家集「伊勢集」は、この後に続く多くの女流作家に影響を与えたといわれている。
伊勢こそが、平安王朝に輝く女房文学の功労者といっても、決して言い過ぎではないだろう。
( 完 )