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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  命長ければ辱多し

2012-01-08 08:00:56 | 運命紀行
       運命紀行

          命長ければ辱多し


『 つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれれば、あやしうこそものぐるほしけれ 』

現代人にとってもよく知られた徒然草の序文である。
作者、卜部兼好がこの作品を書き上げたのは、諸説あるも四十七、八歳の頃とされている。
各章段は比較的短いものであが、序文も含めれば二百四十四段にも及ぶ大作であり、ごく短期間に書き上げられたとするには無理がある。最初の三、四十段は若い頃に書かれたものらしく、それ以後の表現方法とは著しい差がある。もっとも、全体を通しても各段ごとに、テーマや内容によってかなり差のある文体が用いられている面もあり、一概に執筆年齢の差とは断定できないかもしれない。

ただ、全体を通して、文章の美しさ、格調の高さについては早くから評価されており、枕草子と共に随筆文学の双璧と評価されたり、隠者文学の第一人者と称えられるのは、当然の評価と思われる。
しかし、この作品の大半が、兼好が四十歳代後半の短い期間に書かれたものだとすれば、何が彼に起こったのか興味が起こる。
徒然草第七段に興味深い文章がある。少々長くなるが引用してみる。

『 あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟(ケブリ)立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに もののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。
かげろふの夕(ユウベ)を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ヒトトセ)を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(チトセ)を過すとも、一夜(ヒトヨ)の夢の心地こそせめ。

住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。
命長ければ辱(ハジ)多し。
長くとも四十(ヨソジ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕(ユウベ)の陽に子孫を愛して、栄(サカ)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき 』

年齢の感覚は現代とは差があると考えられるし、兼好もまだ若く、勢いから書き上げた文章ではないかとも考えられるが、いざ自分が四十を過ぎた時、何か期するものがあったのかもしれない。
三十歳の頃出家して、隠者としての生き方を探った兼好は、その意思に反してか否かはともかく、和歌の上手、あるいは能書家として、上流社会や台頭著しい武士社会との関わりも浅いものではなかった。
そして、いつか四十歳を過ぎた時、彼の心を急がせる何かがあったのかもしれない。

格調高い文章を後世に残した卜部兼好の没年は定かでない。ただ、七十歳前後まで生存していたことは確かで、『あさましき』と書き残した彼は、後半の三十年をどのような思いで生きたのか興味が尽きない。


     * * *

卜部兼好(ウラベカネヨシ)が誕生したのは、弘安六年(1283)の頃とされる。蒙古が襲来した弘安の役直後の頃である。やがて鎌倉幕府は衰退し、朝廷は南北対立の時代となり、足利尊氏が台頭してくる激しい時代であった。

卜部家は、朝廷に神祇官として仕える家柄で、兼好の家はその分家筋にあたる。
父兼顕は治部少輔として朝廷につかえており、兼好も二十歳の頃には六位蔵人として後二条天皇のもとに出仕している。蔵人は、天皇の身の回りの雑事に携わる職掌であり、身分は低くとも天皇をはじめ上流社会と接点を持つ青年期を送ったものと考えられる。
その後、左兵衛佐まで昇進したが、天皇崩御からしばらく後に出家した。三十歳の頃のことである。

出家の原因についての確たる理由は伝えられていない。
末法思想が浸透していた時代であり、日蓮上人や一遍上人が活動している時代であり、そのような社会背景を受けていた面も考えられる。
ただ、出家といっても、まさに家を出るということで、寺院に帰属するとか修行に励むなどということはなく、隠遁生活を求めたもののようである。

出家直後は、都の外れにあたる修学院や小野辺りの山里に隠棲し、三十代後半には、比叡山横川に入り隠遁修行の生活を送っている。
今日、兼好法師という名前で紹介されることが多いが、法師、すなわち僧侶としてどれほどの修行を積んだものか分からないし、神祇官の出自の者と法師というのに違和感があるが、当時は仏教の経典などは教養人としては当然学ぶものであったらしい。
また、吉田兼好という紹介され方も多いが、これは、後年、兼好の卜部家が京都吉田神社に仕えていたことから吉田姓を名乗るようになったことからであって、兼好自身は、自分が吉田として伝えられていることに驚いていることだろう。

兼好は出家後隠遁生活をしていたようであるが、この間に関東へも少なくとも二度は下向しているようであり、鎌倉近くに住んだこともあったらしい。
そして、四十代入った後、都に戻り、歌人として、能書家として、また文化人として、活躍するようになる。
それは、若い日に書き残した『命長ければ辱多し』という言葉に挑戦するためだったのか、自らの言葉を忘れてしまっていたのか、それとも、後の世の長寿を生きる人のために生きざまを示すためのものであったのか・・・。

鎌倉から室町へと移る激しい時代を、兼好は確固とした足取りで生きて行く。
歌人として能書家として知られた存在であったが、徒然草が兼好の生前に人々に読まれたという記録はない。徒然草の作者が卜部兼好である確たる資料もないと唱える研究者もいる。
徒然草が世に出たのは、兼好没して後、八十年ほども経ってから、室町時代の歌人正徹が紹介したことからである。その後、江戸時代に入ると、出版文化の発展と共にベストセラーになっていったのである。
徒然草を短い章段に区切ることや、作者を吉田兼好と紹介されるようになるのもこの頃からである。

若き日に、『命長ければ辱多し』と書いた男が書き残したとされる徒然草は、その格調の高い文体と共に、彼がどのような想いで四十歳以後を生きたのかと想いを馳せる時、また違った指針を示してくれるような気もするのである。

                                        ( 完 )
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