雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

生命の連鎖 ・ 小さな小さな物語 (327 )

2012-01-25 10:25:52 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
アップル創業者であるジョブス氏死去のニュースは衝撃的でした。テレビなどで報道される彼の業績や発言などは、実にドラマチックであり、魅力的なものでありました。ソフトバンクの孫氏などは、将来、ダビンチと同列の偉人として語られるだろう、といった発言をされておりました。
残念ながら、未だに電気が電線によって運ばれるという仕組みさえ理解できない私としましては、ジョブス氏の偉大さの何たるかなどとても理解できないわけですが、惜しい人材が失われたことは理解できます。


同じ頃に、ノーベル賞の発表が行われていて、医学・生理学賞を受賞したスタインマン教授が受賞三日前に亡くなられていたという、これも衝撃的なニュースでありました。
授賞対象者は生存者に限るとされているノーベル賞ですが、決定時点で選考委員会は死亡の事実を確認していなかったということを理由に、例外的にスタインマン教授の受賞を有効としました。ノーベル賞の選考委員会など原理や理論だけで成り立っている無機質的な組織だと思っていたものですから、他人事ながら、何だか嬉しいニュースでした。
もっとも、すでに死去している人物のノーベル賞受賞は、前例があるそうですが。


報道記事によりますと、スタインマン教授は、自ら発明した技術により四年ばかりも闘病を続けてきていたそうです。ノーベル賞の受賞を心待ちにしていたともいわれ、実現したとはいえ、あと数日の延命が及ばず、さぞ無念と考えているのか、なあに、生きているとか死んでしまったとかは、自分の業績に何の影響もないと考えているのか、知りたいものです。
それにしても、現在社会の最高峰とされるノーベル賞を受ける技術を開発しても、やはり、結局は生命を完全にコントロール出来るわけではないようです。
ジョブス氏の場合でも同様で、もし彼が望めば、現在の人類が所有している最高水準の医療手当を受けることは可能だったと思われます。彼がそれを望んだのか、あるいは実践されたのか、全く知りませんが、人間としての生命は終焉を迎えてしまいました。
どれほどの頭脳を持ち、どれほどの財を得ても、何処からか生まれてきて、人間として生きて、そして死を迎え、何処かへ去っていく・・・、この生命の連鎖がどのようになっているか知ることも、断ち切ることも出来ないものなのでしょうか。


それは、何も限られた人物のことではなく、平々凡々を幾つ並べたらよいのか分からない私などでも、全く同じではないでしょうか。
生命の連鎖、親から子へ子から孫へと引き継がれていく命も連鎖といえるかもしれませんが、その命は、果たして私たちの命そのものなのでしょうか。
そして、それは、何も人間だけに限らっことではないかもしれません。
そういえば、わが家の小さな庭を住処としていたトカゲとカエルですが、最近姿を見せません。彼らもまた、生命の連鎖という流れの中で、すでに冬眠に入ったのでしょうか。

( 2011.10.12 )
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年金改革 ・ 小さな小さな物語 ( 328 )

2012-01-25 10:24:59 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
年金改革なるものが報道されています。
まさか、あんな試案がそのまま実現されるとは思いませんが、どうして年金制度というのはしっかりしたものを作り上げることが出来ないのでしょうか。政府指導者の多くの人が、何かにつけて「しっかり」という言葉を使って答弁されていますが、年金制度こそ「しっかり」したものを確立させてほしいものです。


現在の、というより、例えば平成元年時点で、当時の年金制度が長期存続など出来ないことは多くの方が指摘されておりました。むしろ、このままで存続可能だなんて本気で考えておられた方は、極めて少数派ではないでしょうか。
平成元年を起点にすれば、すでに二十三年経っているのですが、残念ながら小手先で制度をいじくるようなことしか出来ていないのが実態だといえます。
今回の試案も全く同じで、その中心になっているのは、年金給付の開始年齢を六十八歳、あるいは七十歳にするというもののようです。こんなの、一生懸命考えたり討議しなくてはならない改革なのでしょうか。給付開始年齢を遅らせれば制度維持できるなんて、誰でも考えつくことです。いっそのこと、給付開始を百歳くらいにすれば、向こう千年くらいは、現在の年金制度で十分安泰ということではないのでしょうか。


私は今、『高齢者が優しい社会』とはどういうものなのかに興味を持っています。
電車に乗れば、高齢者というだけで座席を譲られたり、レジャーを楽しむためのバスなどが高齢者なるがゆえに優遇されている、これらは『高齢者に優しい社会』です。しかし、子供や若い世代の中に、社会が支援すべきであるのに放置されているものが少なくありません。高齢者は、欲しい欲しいと主張するばかりでなく、自分たちが社会に対してどのように優しくなれるのかを、もっと真剣に考えるべきだと思うのです。
しかし、この考え方に立つための絶対条件は、高齢者が明日の生活に不安がないことです。贅沢など必要ありませんが、安定した年金制度が絶対必要なのです。


年金制度とは、高齢者(その定義はともかく)が安定して生活するための根本となるものです。現に、それに近い形になっています。
年金改革とは、現在の制度が将来破たんすることが見込まれるため、存続可能なために対策を打とうということです。
支給額を減らせばよい、給付年齢を遅らせばよい、などというのは、算数が出来れば考えつくことです。
そうではなくて、労働環境や、社会の仕組みや、原資の確保の方法など、それらの問題が先に検討されるべきではないのでしょうか。
人口が減少したり、保険料未払い者が増えれば揺らぐ制度など、そもそも制度としておかしいのです。税金であれ、保険料であれ、年金の原資は湧き出てくるものではなく拠出し積み立てられるものに限られるわけですから、小手先の対策ではなく、もっと根本的な改正が必要なのではないでしょうか。

( 2011.10.15 )
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七転び八起き ・ 小さな小さな物語 ( 329 )

2012-01-25 10:24:09 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「七転び八起き」って、面白い言葉ですよね。
諺としてはよく知られている方だと思われますし、その意味も理解しやすいものです。しかし、日常の会話なので、この言葉を使ったり聞いたりすることはあまりないのではないでしょうか。それは、現実ではあまり起こりえない現象なので、現実味の少ない言葉だと思われているからでしょうか。


この言葉の語源を調べたことがあるのですが、あまりはっきりしていないようです。私などは、この言葉を聞くと、まず、ダルマさんを連想するのですが、起き上がり小法師のダルマさんは、七回や八回ではなく、何十回でも何百回でも転んだり起きたりしますし、禅僧の達磨大師とも関係がないようです。
おそらく、「七転び八起き」の七と八は、その数を数えるという意味ではなく多いということの表現のような気もします。意味は全く違いますがよく似た言葉に、七転八倒という言葉があります。こちらは、一度も起き上がることなく転げまわることになりますが、この場合の七や八も多いという意味なのでしょうね。それに、「七転び八起き」ならまだ数えられますが、七転八倒の方は数えるのも大変ですよ。


それにしましても、この言葉の不思議なところは、日常会話ではあまり現実性を持って受け入れられないように思われますのに、いざ、自分の半生を振り返ることになると、「自分の人生は七転び八起きだった」などと表現される方が意外に多いことです。
テレビなどのドキュメントらしく作られている人物紹介番組では、その回数に若干の誤差はあるにしても、「七転び八起き」的な展開が、必ずといっていいほど用意されています。
しかし、冷静に考えてみますと、人の人生って、ほんとに七回も転んだり八回も起き上がったりしているものなのでしょうか。もちろん、転び方や起き上がり方の程度にもよりますが、運動会で転んだり、すねっ小僧をさすりながら起き上ったのも数に入れるとすれば、七回や八回では収まらないでしょうが、人生において、転んだとか起きたとかというのは、相当大変な出来事をさすのだと思うのです。


歴史上に名を残している人物となれば、たいていの場合相当の紆余曲折を経験しているはずです。物語などに取り上げられているとなると、実態以上の波乱場面が描かれている可能性もあります。それでも、残されている記録を辿ってみますと、案外七回も転んでおらず、八回も起き上がっている人物なんて少ないような気がします。いわんや、歴史に名を残すこともない人物においては、「七転び八起き」というほどのことなどない方が断然多いはずです。
とはいえ、平々凡々と生きているといわれても、それが五十年、六十年となり、百年さえも見えてくるほどまで生きるとすれば、そうそう簡単なことでないことも確かでしょう。ついつい「七転び八起き」の人生だなんて思ってしまうのも無理ないことかもしれません。しかし、それも考えようで、子供の頃運動会で転んだ時の悔しさを超えるほどの「転び」など、そうそう無いのかもしれませんよ。
第一、「七転び八起き」なんて言いますが、これ、まず転ぶ所から数えて行きますと、どうしても実現できないことなんですよ。何が起きてもこの世のことですから、もっと大らかに行きましょう、と考えてはいるのですが・・・。

( 2011.10.18 )
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大器晩成 ・ 小さな小さな物語 ( 330 )

2012-01-25 10:22:26 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「大器晩成」という言葉を聞く機会がありました。なんだか懐かしく、まだ死語にはなっていないのだと、少し嬉しいような気持ちもしました。
でも、この言葉、なかなか味わい深いというか、便利な言葉ですよね。


言葉の意味は、「大きな器は、完成するまでに時間がかかる」つまり、「本当の大人物となる者は、世に出て大成するまでには時間がかかる」といった意味で使われるのが普通のようです。
しかし、小説などの中で使われる分には、なかなか含蓄のある言葉であり、その人物を重厚に見せる働きがあると思うのですが、さて、現実の社会で使われているのを聞くと、何とも素直に受け取りにくい言葉のような気がします。
「彼は大器晩成型だ」などと言う使われ方をすることがありますが、それが五十代や六十代の人物に対してなら、まあまあ誉め言葉の部類なのでしょうが、二十代や三十代の人に対してとなると、何とも複雑な気持ちになってしまいます。
何も、「君は平均より遅れているよ」と言っているわけではないのでしょうが、「栴檀(センダン)は双葉より芳(カンバ)し」などという言葉とは、相当対極にあることは確かなようです。


「大器晩成」という言葉は、中国の大思想家、老子に由来しています。彼の著作「老子」の第四十一章の中に記されています。
老子は、孔子とほぼ同時代の人物で、思想的にはかなり対立的な立場といえましょう。生没年などは正確に確認できていませんが、およそ二千五百年ほど昔の人物で、ソクラテスや釈迦も似通った時代の人物ですので、この時代は大思想家が誕生した時代だったのかもしれません。
著作の「老子」は一章、一章はそれほど長くないので、機会があればぜひお読みになることをお勧めしますが、理解するのはなかなか難解ですので、どの参考書を選ぶにしても、解説を 100%信用してしまわないことも必要な気がします。


少々横道にそれましたが、老子第四十一章に示されている「大器晩成」を、前後の語句と共に並べてみますと、「大方無隅 大器晩成 大音希聲」となります。
老子の言葉を私などが意訳するのは、とんでもない間違いをする可能性があるのですが、それを承知で説明させていただきますと、「大いなる四角には隅というものはなく、大いなる器は完成するのに時間がかかり、大いなる音はほとんど聞こえない」といった意味のようです。つまり、果てしなく大きな方形には隅などないのだと教え、とてつもない大きな声は相手に伝わりませんよと教えているのです。そう考えますと、大いなる器は完成するのにはとても長い時間を要する、つまり、完成なんかしませんよ、と教えているように思われます。
私と同様に「大器晩成型」だと、自他共に認めざるを得ないお仲間の皆さん、大人物は大人物らしく悠々と行きましょうよ。何の完成を見なくとも、そんなことは老子先生がお認めのことなんですから。

( 2011.10.21 )
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豊かさの尺度 ・ 小さな小さな物語 ( 331 )

2012-01-25 10:21:15 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「キログラム」を定義する国際基準が約200年ぶりに見直されるそうです。
「質量・キログラム」「長さ・メートル」「時間・秒」「電流・アンペア」「温度・ケルビン」「物質量・モル」「光度・カンデラ」、以上を基本七単位というそうですが、難しい原理は私にはまったく理解できないのですが、「キログラム」を除く単位は、いずれも物理の定数で導き出されるそうです。その中で、質量の単位だけは、標準の人工物によって定められていたのが、「プランク定数」とやらをもとに決められることになるそうなのです。
現在、標準となっている人工物は、キログラム原器と呼ばれ、1799年からパリに存在していて、各国に複製があるそうです。わが国には、1890年に複製が届きました。現在の物は、白金90%とイリジウム10%の円柱形で、数十年に一度パリへ運び校正してきましたが、大気中の物質が付着するなので微妙な誤差が生じていたようなのです。(以上は、毎日新聞10/22朝刊の記事を参考にさせていただきました)


キログラムの基準が何によっているのか考えたこともなかったのですが、厳格に標準が設けられていることは当然なことではあります。
米でも豆でも油でも、同じ一升マスで計られて良しとされていたのは、私たちの日常生活ではそれほど遠い昔のことではありません。そこには、悪意によるごまかしや、善意による手加減なども行われていたことでしょうから、何とも微妙な悲喜交々も発生したことでしょう。
さらに遡れば、太閤検地などが有名ですが、もっと昔、律令が制定される頃にも、様々な尺度が定められ、それによる争いもあったでしょうし、もっと昔、現在の私たちが記録としておぼろげな時代であっても、人々は、長さや広さや大きさなどを巡って、いろいろな知恵を出し合ってきたことでしょう。


文明が進んだ現代という社会においては、様々な尺度が、実に理論的、合理的に、しかも正確に定められているようです。
豊かさを測る尺度についても、様々に試みがなされているようです。
今年、わが国のGDPが中国に抜かれて世界第三位になってしまったということが話題になりましたが、このGDPも国家の豊かさを示す尺度の一つであることは確かでしょう。しかし、私たち一人一人の生活にとって、果たしてどれほどの意味を持っているのか、なかなかに難しいものがあります。国全体ではなく、一人当たりのGDPで見るべきだとか、購買力を加味しなければならないとか、いろいろな意見があります。


国家全体のGDPであれ、一人当たりのGDPであれ、豊かさの大まかな傾向を示していることは間違いないようですが、GDPがキログラム原器とは程遠いものであることも確かのようです。
そうかといって、豊かさについて述べられている幾つかの書物や意見などの中には、精神的な面を加味しているものが多く、とても尺度などとは別の物のように思われます。
ただ、テレビの番組などで紹介される、それほど豊かだとされていない国の人々が、実にゆったりと満ち足りたかのような姿を見せているのは、あれは何によるものなのでしょうか。
精神論ではない、「豊かさの尺度」を見つけたいものです。

( 2011.10.24 )
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まあ、このくらい ・ 小さな小さな物語 ( 332 )

2012-01-25 10:20:03 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「豊かさの尺度だって? 馬鹿なことを考えなさんな・・・」
「大体ね、豊かさだとか、幸福度なんてものはね、体重計るのとはわけが違うんだよ」
「もし、尺度があったとして、それでどうするんだ? 豊かさ度の優劣でも競おうっていうのか」


いずれも、ごもっともな意見です。
しかし、「豊かさの尺度」は、そんなに役に立たないものなんでしょうか。
ということは、「幸せの尺度」とか、「満足の尺度」なんてのも、当然同類に属しますでしょうから、やはり、考えること自体無駄なことになるのでしょうね。
はい、実は、これらについても、かなりまじめに考えていたものですから、ちょっとがっかりです。


しかし、別に言い訳するつもりはありませんが、これらの尺度を持つことは、もしかすると相当大切なことかもしれないようにも思うのです。
「満足度、No.1」なんてコマーシャルありましたよね。
確か、ブータンという国は、国民総幸福量という独自の指標で国家を運営しているそうです。
例えば、これらのコマーシャルなり国家施策を行うためには、やはりそれなりの尺度が必要だと思うのです。「キログラム原器」と呼ばれているような厳格な標準物は必要としないとしても、「まあ、このくらい」という程度のもので十分だとしても、やはり基準となるものが必要だと思うのです。そして、その場合に何よりも重要なことは、「まあ、このくらい」だという標準物は、大まかであってもふらつかないものでないといけないということです。為政者や保護者など、強い地位にある人の都合でふらつくようでは、「豊かさ度」であれ「幸せ度」であれ、その尺度になんかなりえません。


理屈っぽい話になってしまいましたが、今、私たちの国は、かなり激しい変化の時を迎えていると思うのです。おそらく、数十年後に回顧した場合、激しい変化が読み取れるはずです。それも、現在一般的に使用されている経済指標によれば、相当急激な低下に見舞われるはずです。
例えば、GDPでいえば、世界で十位以下になるのはそれほど先のことではないでしょうし、一人当たりの可処分所得(可処分収入)も、実質的な購買力平価でみれば、とても先進国などといえない状態になる可能性があります。
「東日本大地震の復興資金を次の世代に負担させてはいけない」などと言えば、何とも正論のような気がしてしまいますが、そんな費用なら、次の世代は喜んで引き受けてくれるでしょう。そして、彼らは言うでしょう、「そんなことで大見えを切るより、やがて一千兆円にも達しようとしている借金をどうするつもりなのか」と。ギリシャの財政状況は、数字だけで見れば、わが国よりもましなんですよ。
今、私たちは、豊かさや満足度などに関して、国家におんぶに抱っこされるのでなく、「まあ、このくらいで良し」とする、自分自身の尺度を持つ必要があるように思うのです。

( 2011.10.27 )
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のどかな時間 ・ 小さな小さな物語 ( 333 )

2012-01-25 10:19:00 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
近くの郊外をドライブする機会がありました。
もっとも、私宅自体が郊外も外れといっていいような所ですから、田園地帯を走ったという方が正しい表現です。薔薇がきれいらしいという情報を得て公園を訪ねるのを少し遠回りしただけのことなのですが、ちょっとした発見がありました。


田の稲は、すでに刈り取られていて、所々に穂を取った後の藁束を組んだものが田に並べている景色を久しぶりに見ました。その辺りには、年に何度も車で走る機会があるのですが、いつもは、単なる田園風景としてしか見ていなかったのですが、今回は、やたらとコスモスの花が目につきました。
私の近くの田畑などにコスモスが植えられるのは、数年前から見られるようになった現象ですが、今回の二時間ほどのドライブの間に、何か所ものコスモス畑に出合いました。それも、コスモスの花が美しく咲いているというだけでなく、何枚もの田畑に、白とピンク系のコスモスだけを植えていて、見事な景色を生みだしていたり、子供たちや、老夫婦がのんびりと散策していたりして、ちょっとした秋の風物という感じが伝わってきて、目指した公園に負けないほど、のんびりとした時間を送らせていただきました。


しかし、私がこのとき目にしただけでも、何十枚かの田畑がコスモス畑になっていました。コスモスが、ひと月やそこらで育つわけがありませんから、それらの田は、本来稲作として利用されるべきなのが、コスモス畑に代わっているということなのです。
近くの人や、私のように通り過ぎて行く人たちに、ほっとさせてくれる、あたたかなひとときを与えてくれるということは、実にすばらしいことであり、ありがたいことではあるのですが、同時に少々考えさせられてしまう面もあります。


折から、政府は、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉への参加の是非について、苦心しているようです。その是非はともかく、参加する場合には、金融や医療やサービス分野とともに、農業が難しい問題を包含していることは確かでしょう。
また、ちょうど今日あたり、世界の人口は七十億人に達するとの報道もあります。タイの水害は、やたら工業製品の被害を伝える傾向がありますが、人々の生活への影響はもちろん、農産物の被害も甚大なものに違いありません。
世界の食糧危機は、近い将来の問題ではなく、たまたまわが国が巻き込まれていないだけで、世界の各地で悲惨な状況が起きているのです。
コスモスの花畑にのんびりとした時間をいただいたことは、心から感謝しますが、それらのコスモス畑がどんどん広がっていくのを喜んでいて、ほんとうにいいのでしょうか。

( 2011.10.30 )
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走り続ける人々 ・ 小さな小さな物語 ( 334 )

2012-01-25 10:17:49 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
つい先日まで、関西は大阪マラソンで盛り上がっていました。
東京をはじめ、各地で大勢の人が参加するマラソン大会が数多く開催されるようになりました。開催の目的は様々なのでしょうが、本音のところは、いわゆる町おこしでしょう。
一般市民が参加できるこの種のマラソンに対しては、様々な意見があるようです。今回の大阪マラソン開催の陰には、様々な美談や哀しい事情があったり、自分や近しい人のために、かなりの決意を持って参加された人も少なくないようです。


本格的なマラソンはともかく、いわゆるジョギングなどを含めますと、走ることが好きな人は相当多いようです。
毎日、大概慌ただしい毎日だと思うのですが、その上休息できる時間を走り回る人の気持ちが分からないという人もいれば、四時間を切るか切らないかのタイムで二度ばかりのマラソンを経験しただけで、マラソンは何ぞかと果てしないほどの蘊蓄を述べられる人もいます。
残念ながら、私はマラソンに参加した経験がないので、それぞれの意見に反論することは出来ないのですが、マラソンや駅伝をテレビ観戦するのは相当好きな方だと思います。それでも、マラソンに関する果てしないほどの蘊蓄は、少々降参気味です。ただ、「マラソンは人生そのものだ」「参加しようとも思わない人に、マラソンを語る資格はない」なんてことを言われると、少々馬鹿らしくなってしまいます。


「人はなぜこれほどまでに走りたがるのか?」これ、ちょっとした疑問だと思いませんか。
もともとは、敵から逃げるとか、敵を追うとか、といった切羽詰まった状態から人間は走ることを覚えたのでしょうね。実際に、マラソンの起源は、戦いの勝利を伝えるために兵士がマラトンの丘を駆け抜けたことだそうですから、この頃の走りは、まだ生き抜くための知恵の一つだったのかもしれません。
しかし、昨今のわが国の市民マラソンといわれるような大会に参加される人の中には、様々な動機や決意を抱いて参加されている人が少なくないようです。人生そのものだといわれてしまうと、なかなか素直に理解することが出来ないのですが、人生の一つの転機として捉えている人は大勢いられるようです。


野生動物の中には、単に生き延びるためとか餌を取るためだけでは理解できないような長距離移動をする物がいるそうです。
コウモリの仲間に1,000kmもの距離を移動する種類があるそうですし、サバクヒタキという鳥は、16,000kmを移動するそうですから、多くの動物には、走ることへの憧れを持つ遺伝子があるのかもしれません。
大阪マラソンをテレビを見ながらぐずぐず言っている私は、そのような本来持っているべき遺伝子が貧弱なのかもしれません。

( 2011.11.02 )
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行けつける所まで ・ 小さな小さな物語 ( 335 )

2012-01-25 10:16:36 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
マラソン談義が続きます。
なぜあれほど大勢の人がマラソンに熱中するのか?
私自身がマラソン競技をテレビで観戦するのがとても好きなので、その魅力についてはある程度分かっているつもりです。しかし、「じゃあ、走ってみたら」と言われても、これが全くその気になれません。もっとも、体力的に自信がないのが最大の理由ではあるのですが、市民マラソンと呼ばれるものは、何も体力的に優れた人ばかりではないと思われますから、体力的以外にも原因があるようにも思われます。


「そこに、山があるからだ」というのは、最初に誰が言ったのかは知りませんが、登山の魅力について語る時に、時々聞かれる言葉です。何だか知的な言葉のような気もしますが、「分からない奴には分かるまい」といった傲慢さを感じるのは、登山の魅力を理解できない者のひがみでしょうか。
幸か不幸か、これに匹敵するほどの名言はマラソンにはないようですが、「走ったことのない者には、いくら説明してもその魅力は伝わらない」と聞かされると、納得するしかありません。
そう言われてみると、マラソンと登山は、多くの類似点があるようにも思われます。


「人生は、重い荷物を背負って、遠い道を行くようなものだ」と言ったのは、徳川家康だそうですが、長距離を、それぞれの能力の限りを尽くして(ちょっとオーバーですが)走り続けるマラソンという競技は、人生を疑似体験しているような部分があるのかもしれません。
そして、マラソンも登山も、目標地点に到達したときの達成感が、きっと、とてつもなくすばらしいのでしょうね。


山らしい山に登った経験がなく、フルマラソンはおろか、その真似事らしい経験もない私は、そのすばらしい達成感を経験したことがありません。
それでも、家康が教えるように、「重い荷物を背負って、遠い道を行く」ことだけは、きっちりと体験させてもらえそうです。
ただ、気がかりなのは、そう教えてくれた家康は、遠い道の向こうの目的地に到達することが出来たのでしょうか。天下を掌握し、豊臣氏を滅ぼすことによって、遠い道の向こうの目的地に到達することが出来、達成感を得たのでしょうか。
そう考えると、大した荷物は背負っていないとはいえ、遠い道を歩いていることは私も同じだと思うのですが、とても達成感を得るような到達なんか、実現しそうもありません。
もし、私と似たり寄ったりのご同輩がいらっしゃるなら、ここは一つ腹を決めて、『行きつける所まで』歩いて見ましょうよ。 

( 2011.11.05 )
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移り行く季節に ・ 小さな小さな物語 ( 336 )

2012-01-25 10:15:34 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
本日、十一月八日は立冬にあたります。
よく言われるように、暦の上では冬になったということになります。ここ数日は、温かいというより暑いという日が続いていただけに、これからの数日は、少しピリッとしたお天気になるようです。もっとも、これで平年並みだそうですが。


ご存知のように、立冬というのは、二十四節気の一つです。一年を二十四分割した季候区分ですが、それらをさらに三分割した七十二候というものもあります。いずれも中国から伝来した言葉で、太陰暦を用いていた人々にとって季節を知る上で重要な意味を持っていたようです。
また、不思議なことに、月の運行を基に作られた太陰暦にあって、この二十四節気や七十二候は太陽の黄経を基に算出されています。
因みに、季候という言葉は、四季七十二候から生まれたものです。


それにしても、七十二候ということになりますと、一候は五日ということになりますから、昔の人は五日ごとの季候の変化、つまり、日の光や、風の匂いや、山や海の色や、鳥や虫の声などを、敏感に感じ取ることが出来ていたのでしょうか。
そういえば、現在でも、ある種の野菜などは、その地域によって、種蒔きに適切な日が数日間だけしかないというものがあるそうですから、七十二候の変化を感じ取れないようでは、一人前に農作業をすることなど出来なかったのかもしれません。


一年の自然の変化を、二十四節気どころか七十二候を敏感に感じ取り、大地や天空などあらゆるものの中に、八百万の神々の息吹を感じながら生きていた祖先の人々。その生活は、病や飢えや弾圧の厳しい環境の中であっても、もしかすると、意外に心豊かなものであったのかもしれません。
冷房が終わるのを待ちかねて暖房のお世話になり、このひと月ばかりは、暖房なのか冷房なのか分からないままに、エアコンのお世話になっている身には、とても五日ごとの自然の変化を捉えることなど無理なことですが、晩秋に向かうこれからの季節を、少しでも肌で感じて行きたいと思っています。

( 2011.11.08 ) 
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