運命紀行
流浪の豪傑
その朝は霧が深かった。
率いる軍勢は、兵の数二千八百。形勢を逆転させるには、あまりに少数であった。
大和口を任された御大将は、黒糸威しの鎧姿も厳めしい偉丈夫、後藤又兵衛基次。
時は元和元年(1615)五月六日。大和路を攻めのぼって来る敵軍を迎撃すべく、藤井寺に出陣した。
やがて一隊は、徳川軍先鋒水野勝成隊と衝突、乱戦となった。天下無双の豪傑であり、戦巧者として知られた後藤又兵衛に率いられた一隊は、大軍を相手に、寄せては引き引いては寄せる互角の戦いを挑み、援軍の到着を待った。
しかし、後続してくるはずの薄田兼相、明石全登らの率いる軍勢は、霧のためもあって到着が遅れ、後藤又兵衛軍は孤立の状態に陥った。その一方で、敵軍には続々と新手の援軍が加わり、伊達政宗軍の鉄砲隊も参戦してきていた。
敵軍の数は、すでに十倍を超え、戦いの帰趨は明らかになりつつあった。
ただ、一縷の望みといえば、この戦場に一人でも多くの敵兵を引きつけることが出来れば、別の作戦部隊が敵の総大将徳川家康に肉薄することがたとえ少しであれ可能性が高まることであった。
後藤又兵衛は、少なくなった将兵を纏め、この日何度目かの敵陣突入を敢行しようとしていた。
その時であった。一発の銃弾が後藤又兵衛の腰のあたりに命中した。
堪え切れず馬上から崩れ落ちた御大将に、黒田藩以来の従者である吉村武右衛門が駆け寄って助け起こそうとしたが、立ちあがることは困難であった。その瞬間に、流浪の豪傑は己の最期を知った。
「我が首を敵に渡すな。田の中に埋めよ」
大坂夏の陣、世にいう道明寺の戦いであった。
* * *
後藤又兵衛基次は、永禄三年(1560)播磨で生まれた。出生地には諸説あるが、姫路近郊の山田村とされる。
父は、播磨別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(伯父という説もある)の次男。小寺氏滅亡後は、仙石秀久に仕えた。
幼少年期のことは、よく分からない。秀吉により播磨別所氏が攻められた時、水攻めにあい籠城中の三木城から、父が旧知である秀吉軍軍師黒田官兵衛に息子を託したという話もあるようだが、確認できない。
天正十四年(1586)の秀吉の九州征伐において、仕えていた仙石久秀が島津家久との戦いで大敗し、領国に逃げ帰ってしまった後、黒田家に仕えることになる。但しこの時は、藩主黒田官兵衛孝高の重臣である栗山利安のもとに百石で召し抱えられている。
その後は、勇猛ぶりを発揮し、順調に出世していった。朝鮮出兵にも参加、晋州城攻めでは加藤清正らと一番槍を競い、関ヶ原の合戦では、石田三成の家臣で剛槍の使い手として知られる大橋掃部を一騎打ちで破っている。
その戦いぶりは勇猛果敢、身の丈は六尺に及び、晩年までに身に受けた傷跡は五十三か所にも及んだといい、まさに豪傑を絵に描いたような武者振りであったという。
そして、関ヶ原の後黒田家が筑前五十二万石に移封されると、大隅城城代として一万六千石を拝領している。
慶長十一年、後藤又兵衛基次は突然黒田藩を出奔する。如水(官兵衛孝高)が亡くなって二年後のことである。
出奔の原因については、数々のエピソードが残されているが、あとから理由づけとして強調されたものもあり、どれと断定することは難しいが、主君黒田長政との軋轢が積み重なったものではないだろうか。
又兵衛は長政より八歳ほど年長である。又兵衛は諸国に知られた豪傑であり、長政も戦国末期の激しい時代を戦い抜いてきた剛の者であった。当然に共に我も強く信念を曲げない頑固者同士であったろう。しかも年長の又兵衛は、臣下とはいえ「目の上のたんこぶ」のような存在だったのかもしれない。
又兵衛は、家族や一族を引き連れて隣国細川家に入った。事前に密約が出来ていたともいわれる。
黒田藩と細川藩はこの頃激しく対立していた。関ヶ原の戦いの後、豊前から筑前へと国替えとなった黒田長政は、その折、その年の年貢米を徴収していってしまった。そのため、あとに入った細川忠興は年貢を徴収することが出来ず激怒し、以来両家は対立関係にあったのである。
そこへ、軍事機密などを熟知した重臣が突如逐電したのであるから、緊張は一触即発の状態に達した。その少態を憂えた徳川家康の調停で衝突は避けられたが、又兵衛は細川藩を退去することになった。
武辺者としての後藤又兵衛基次の名は高く、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康などの有力藩主から誘いの声がかかるが、又兵衛一行は郷里である播磨に戻った。
そして、播磨藩主池田輝政に出仕したが、黒田藩との関係を遠慮して少額の扶持であり、分家の岡山藩に移るという気の使いようであった。さらに、黒田長政からは、有力藩主に対して、又兵衛の仕官を受けてはならないという「奉公構え」というものが発せられるに至り、その岡山藩も辞し、京都で浪人生活をすることになる。慶長十六年(1611)の頃のことである。
慶長十九年(1614)、大坂の役が勃発すると、大坂方の呼び掛けに呼応して、諸将に先駆けて大坂城に入った。この時、三百人ほどの兵を率いていたという。
この時はまだ大坂城は堅牢であり、軍資金は無尽蔵というほどに豊富、諸国には浪人が満ち溢れていた。又兵衛が居を構えていた京都には、豊臣に同情的な公家勢力も少なくなかった。又兵衛が大坂城に入ったのには、徳川幕府を倒さないまでも、豊臣が一方の勢力として生き残る可能性は十分あると読んだのかもしれない。
しかし、冬の陣を戦って、大坂陣営の実力を知り、戦後の大坂城の惨めな姿を見た後の夏の陣は、死に場所を求めての参戦だったのかもしれない。あるいは、槍一筋の流浪の豪傑には、それ以外の選択肢などなかったのかもしれない。
後藤又兵衛基次が流浪の豪傑となる発端となった、黒田藩出奔の原因に関していくつもの話が残されている。そのいくつかを紹介してみる。
* 朝鮮遠征の出来事として、長政が敵将と組みあって川の中に落ちた時、又兵衛はそばにいたが加勢することなく悠然と見守っていた。不思議に思った小西行長の家来が何故加勢しないのかと尋ねると、「敵に討たれるようでは、我が殿ではない」と言い放ったとか。長政は見事敵を討ち果たしたが、後でこの話を聞き又兵衛を憎むようになったという。
* 同じく朝鮮の陣で、長政の陣営に虎が入り込み、馬を殺すなどして暴れ回った。家臣の一人が虎に切りかかったが刃が役に立たず、窮地に陥った。この時又兵衛が割って入って、虎の眉間に一撃を加え即死させた。この状況を見ていた長政は、一手の将たる者は、大事な役を持ちながら畜生と争うなどとは不心得である、と又兵衛を叱責したという。
* 城井氏との初戦で敗れたあと、指揮を取っていた長政は頭を丸めて父官兵衛孝高に謝罪し、物頭以上の部下もそれに倣ったが、又兵衛は、戦に勝ち負けはつきもの、負け戦のたびに髷を落としていたら、生涯毛が生えそろうことがない、と嘯いた。官兵衛は不問にしたが、長政は大いに面目を失ったという。
* この他にも、いくつかの話が残されている。いずれもエピソードとしては面白いが、どれを以て、両者に致命的なひびを与えたのか断じがたい。
また、又兵衛には、生存伝説も残されている。
* 奈良県宇陀市には、又兵衛桜と呼ばれる巨木が現存している。道明寺の戦いから生き延びた又兵衛は、この地で隠遁生活を送った。僧侶姿であったともいわれ、その屋敷跡の桜が現在に伝えられているという。
* 大分県中津市には、市の史跡として「後藤又兵衛の墓」が残されているという。大坂で戦死したのは影武者で、秀頼を護って真田幸村らと共に瀬戸内海を豊後に逃れ、島津を頼る一行と別れて、又兵衛は知人の女性がいる伊福の里に向かう。その里で女性や村人たちと平穏な日を過ごしながら再起の日を待つが、秀頼病死との知らせがもたらされ、再起の夢破れ自刃したという。
源義経などでもそうであるが、生存伝説を素直に受け入れることはなかなか難しい。
しかし、そこには、悲劇の英雄に対する庶民の温かい情愛のようなものが垣間見られる。
流浪の豪傑、後藤又兵衛基次。豪傑などという現代社会ではなかなか受け入れられにくい人物が、無骨で、要領が悪く、それらを背負って懸命に生きた人物がいたということは確かなことである。
( 完 )
流浪の豪傑
その朝は霧が深かった。
率いる軍勢は、兵の数二千八百。形勢を逆転させるには、あまりに少数であった。
大和口を任された御大将は、黒糸威しの鎧姿も厳めしい偉丈夫、後藤又兵衛基次。
時は元和元年(1615)五月六日。大和路を攻めのぼって来る敵軍を迎撃すべく、藤井寺に出陣した。
やがて一隊は、徳川軍先鋒水野勝成隊と衝突、乱戦となった。天下無双の豪傑であり、戦巧者として知られた後藤又兵衛に率いられた一隊は、大軍を相手に、寄せては引き引いては寄せる互角の戦いを挑み、援軍の到着を待った。
しかし、後続してくるはずの薄田兼相、明石全登らの率いる軍勢は、霧のためもあって到着が遅れ、後藤又兵衛軍は孤立の状態に陥った。その一方で、敵軍には続々と新手の援軍が加わり、伊達政宗軍の鉄砲隊も参戦してきていた。
敵軍の数は、すでに十倍を超え、戦いの帰趨は明らかになりつつあった。
ただ、一縷の望みといえば、この戦場に一人でも多くの敵兵を引きつけることが出来れば、別の作戦部隊が敵の総大将徳川家康に肉薄することがたとえ少しであれ可能性が高まることであった。
後藤又兵衛は、少なくなった将兵を纏め、この日何度目かの敵陣突入を敢行しようとしていた。
その時であった。一発の銃弾が後藤又兵衛の腰のあたりに命中した。
堪え切れず馬上から崩れ落ちた御大将に、黒田藩以来の従者である吉村武右衛門が駆け寄って助け起こそうとしたが、立ちあがることは困難であった。その瞬間に、流浪の豪傑は己の最期を知った。
「我が首を敵に渡すな。田の中に埋めよ」
大坂夏の陣、世にいう道明寺の戦いであった。
* * *
後藤又兵衛基次は、永禄三年(1560)播磨で生まれた。出生地には諸説あるが、姫路近郊の山田村とされる。
父は、播磨別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(伯父という説もある)の次男。小寺氏滅亡後は、仙石秀久に仕えた。
幼少年期のことは、よく分からない。秀吉により播磨別所氏が攻められた時、水攻めにあい籠城中の三木城から、父が旧知である秀吉軍軍師黒田官兵衛に息子を託したという話もあるようだが、確認できない。
天正十四年(1586)の秀吉の九州征伐において、仕えていた仙石久秀が島津家久との戦いで大敗し、領国に逃げ帰ってしまった後、黒田家に仕えることになる。但しこの時は、藩主黒田官兵衛孝高の重臣である栗山利安のもとに百石で召し抱えられている。
その後は、勇猛ぶりを発揮し、順調に出世していった。朝鮮出兵にも参加、晋州城攻めでは加藤清正らと一番槍を競い、関ヶ原の合戦では、石田三成の家臣で剛槍の使い手として知られる大橋掃部を一騎打ちで破っている。
その戦いぶりは勇猛果敢、身の丈は六尺に及び、晩年までに身に受けた傷跡は五十三か所にも及んだといい、まさに豪傑を絵に描いたような武者振りであったという。
そして、関ヶ原の後黒田家が筑前五十二万石に移封されると、大隅城城代として一万六千石を拝領している。
慶長十一年、後藤又兵衛基次は突然黒田藩を出奔する。如水(官兵衛孝高)が亡くなって二年後のことである。
出奔の原因については、数々のエピソードが残されているが、あとから理由づけとして強調されたものもあり、どれと断定することは難しいが、主君黒田長政との軋轢が積み重なったものではないだろうか。
又兵衛は長政より八歳ほど年長である。又兵衛は諸国に知られた豪傑であり、長政も戦国末期の激しい時代を戦い抜いてきた剛の者であった。当然に共に我も強く信念を曲げない頑固者同士であったろう。しかも年長の又兵衛は、臣下とはいえ「目の上のたんこぶ」のような存在だったのかもしれない。
又兵衛は、家族や一族を引き連れて隣国細川家に入った。事前に密約が出来ていたともいわれる。
黒田藩と細川藩はこの頃激しく対立していた。関ヶ原の戦いの後、豊前から筑前へと国替えとなった黒田長政は、その折、その年の年貢米を徴収していってしまった。そのため、あとに入った細川忠興は年貢を徴収することが出来ず激怒し、以来両家は対立関係にあったのである。
そこへ、軍事機密などを熟知した重臣が突如逐電したのであるから、緊張は一触即発の状態に達した。その少態を憂えた徳川家康の調停で衝突は避けられたが、又兵衛は細川藩を退去することになった。
武辺者としての後藤又兵衛基次の名は高く、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康などの有力藩主から誘いの声がかかるが、又兵衛一行は郷里である播磨に戻った。
そして、播磨藩主池田輝政に出仕したが、黒田藩との関係を遠慮して少額の扶持であり、分家の岡山藩に移るという気の使いようであった。さらに、黒田長政からは、有力藩主に対して、又兵衛の仕官を受けてはならないという「奉公構え」というものが発せられるに至り、その岡山藩も辞し、京都で浪人生活をすることになる。慶長十六年(1611)の頃のことである。
慶長十九年(1614)、大坂の役が勃発すると、大坂方の呼び掛けに呼応して、諸将に先駆けて大坂城に入った。この時、三百人ほどの兵を率いていたという。
この時はまだ大坂城は堅牢であり、軍資金は無尽蔵というほどに豊富、諸国には浪人が満ち溢れていた。又兵衛が居を構えていた京都には、豊臣に同情的な公家勢力も少なくなかった。又兵衛が大坂城に入ったのには、徳川幕府を倒さないまでも、豊臣が一方の勢力として生き残る可能性は十分あると読んだのかもしれない。
しかし、冬の陣を戦って、大坂陣営の実力を知り、戦後の大坂城の惨めな姿を見た後の夏の陣は、死に場所を求めての参戦だったのかもしれない。あるいは、槍一筋の流浪の豪傑には、それ以外の選択肢などなかったのかもしれない。
後藤又兵衛基次が流浪の豪傑となる発端となった、黒田藩出奔の原因に関していくつもの話が残されている。そのいくつかを紹介してみる。
* 朝鮮遠征の出来事として、長政が敵将と組みあって川の中に落ちた時、又兵衛はそばにいたが加勢することなく悠然と見守っていた。不思議に思った小西行長の家来が何故加勢しないのかと尋ねると、「敵に討たれるようでは、我が殿ではない」と言い放ったとか。長政は見事敵を討ち果たしたが、後でこの話を聞き又兵衛を憎むようになったという。
* 同じく朝鮮の陣で、長政の陣営に虎が入り込み、馬を殺すなどして暴れ回った。家臣の一人が虎に切りかかったが刃が役に立たず、窮地に陥った。この時又兵衛が割って入って、虎の眉間に一撃を加え即死させた。この状況を見ていた長政は、一手の将たる者は、大事な役を持ちながら畜生と争うなどとは不心得である、と又兵衛を叱責したという。
* 城井氏との初戦で敗れたあと、指揮を取っていた長政は頭を丸めて父官兵衛孝高に謝罪し、物頭以上の部下もそれに倣ったが、又兵衛は、戦に勝ち負けはつきもの、負け戦のたびに髷を落としていたら、生涯毛が生えそろうことがない、と嘯いた。官兵衛は不問にしたが、長政は大いに面目を失ったという。
* この他にも、いくつかの話が残されている。いずれもエピソードとしては面白いが、どれを以て、両者に致命的なひびを与えたのか断じがたい。
また、又兵衛には、生存伝説も残されている。
* 奈良県宇陀市には、又兵衛桜と呼ばれる巨木が現存している。道明寺の戦いから生き延びた又兵衛は、この地で隠遁生活を送った。僧侶姿であったともいわれ、その屋敷跡の桜が現在に伝えられているという。
* 大分県中津市には、市の史跡として「後藤又兵衛の墓」が残されているという。大坂で戦死したのは影武者で、秀頼を護って真田幸村らと共に瀬戸内海を豊後に逃れ、島津を頼る一行と別れて、又兵衛は知人の女性がいる伊福の里に向かう。その里で女性や村人たちと平穏な日を過ごしながら再起の日を待つが、秀頼病死との知らせがもたらされ、再起の夢破れ自刃したという。
源義経などでもそうであるが、生存伝説を素直に受け入れることはなかなか難しい。
しかし、そこには、悲劇の英雄に対する庶民の温かい情愛のようなものが垣間見られる。
流浪の豪傑、後藤又兵衛基次。豪傑などという現代社会ではなかなか受け入れられにくい人物が、無骨で、要領が悪く、それらを背負って懸命に生きた人物がいたということは確かなことである。
( 完 )