雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

東京電力にエールを ・ 小さな小さな物語 ( 505 )

2013-08-17 10:01:08 | 小さな小さな物語 第九部
福島第一原発への対応は、以前はかばかしい進展は見られないようです。
停電、水漏れ、鼠にまで襲われるなど、技術の粋を集めなくてはならない現場から伝えられてくるトラブルは、いかにもアナログ的なもののように思われてなりません。
しかし、これらのトラブルの原因を何もかも東京電力の対応不足のように報道されているのには、いささか公平ではないような気がします。

確かに、大地震や津波などが「想定外」であったとしても、あそこに原発さえなければ、今回の事故は発生しなかったわけです。ですから、所有者である東京電力に大きな責任があるのは当然のことですが、今なお責任の全てが東京電力にあるような意見や報道は、果たして正しいのでしょうか。
第一原因が東京電力にあるとしても、水素爆発を起こしてから後は、いくら大企業とはいえ一企業で対処できる問題ではないのです。その後の対応については、優れていた部分も劣っていた部分も、わが国政府を頂点とした国家の問題なのです。
東京電力もさることながら、「原子力何とか委員会」とか、まるで知っているかのような報道や解説を行った人たちの責任はどこへ行ってしまったのでしょうか。彼らは、安全な場所でご高説を述べるのが仕事なので、危険な部分については責任などないことになっているのでしょうか。
そういえば、確か「原発事故は終息した」といった宣言がなされたような記憶があるのですが、あれは撤回されたのでしょうか。それとも単なる個人的な見通しを述べたのだったのでしょうか。
水素爆発を起こしてから後は、国家全体で取り組むべき事故であって、東京電力だけを責めるのは、とても正論だとは思えないのです。

「水に落ちた犬は叩け」といった言葉が使われることがあります。私たちは、東京電力に対してこのような態度をとっていないでしょうか。
この言葉を「ことわざ」として取り扱うことがあるようですが、とんでもない話です。こんな下品な言葉を「ことわざ」の中に紛れ込ませてはなりません。
この言葉は、わが国でも活躍した魯迅が作品の中で使ったことから広く知られるようになったそうですが、彼は「フェアープレー」に対する反語として用いたのであって、そのような行動を推奨したわけではないのです。
中国語では「打落水狗」となりますが、中国に古くからある「ことわざ」は、「不打落水狗」であって、「勇者は、負けて弱っている相手に攻撃は加えない」という意味なのです。

繰り返しになりますが、少々オーバーな表現ですが、今は国家国民が総力をあげて東京電力を支援し、応援する時なのです。
資金、人材、技術等々を積極的に東京電力に投入して、収束への道筋を確立させて欲しいのです。東京電力の足を引っ張って喜んでいる時ではないのです。
今後、わが国が原発政策をどのように舵を取るかはともかく、周辺諸国の動向など見れば、世界最高水準の原子力技術を保有すべきことは間違いないと思われます。それに何よりも、この福島の事故をうまく処理する技術や工程を確立させれば、東京電力は世界一の廃炉技術を持つ企業になる可能性が高いのです。
何せ、今世紀後半から来世紀にかけて、廃炉技術を求める原発施設は山ほど出てくるのですから。
世界で最も期待され役立つ技術を蓄積した企業になる可能性の高い東京電力を、私たちは国家を挙げて支援応援する時なのです。
『頑張れ、東京電力』

( 2013.04.25 )
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浮かれないで ・ 小さな小さな物語 ( 506 )

2013-08-17 09:57:35 | 小さな小さな物語 第九部
ゴールデンウイーク、いかがお過ごしでしょうか。
今年は、暦通りの勤務体制の人や学生などにとっては、前半と後半に分割された形の曜日の配置になりました。もっとも、真ん中に挟まれた三日間を休日扱いにしている会社や、休暇を取ることが出来る人にとっては、かなりの大型連続休日が楽しめることになります。

報道によりますと、今年のゴールデンウイーク中の国内旅行者の数は2,223万人と予想され、これまでの最高になるそうです。
この数がどの程度正しいのか知りませんが、その道のプロがはじき出した数字ですから、そこそこ正しいのだと思うのですが、つまり、五人に一人はこの期間に旅行をするということになるわけです。
国内旅行が好調な理由としては幾つかの要因がからんでいるそうです。まず、円安により海外旅行がこれまでより割高になっていること。休日が分断型のため長期旅行が難しい人が増えたため。比較的短い期間で海外旅行を考えていたが、政情不安やインフルエンザのニュースなどで国内旅行に振り替えたこと。そして、わが国内でも様々なイベントなどが盛り沢山であることも理由の一つのようです。
東京都内や近郊では、歌舞伎座や六本木ヒルズやスカイツリーなどが話題になっていますし、ディズニーランドはますます好調のようです。
大阪でも大阪駅周辺の開発が話題を集めていますし、東北では大河ドラマに関連したお花見が人気を呼んでいるそうです。伊勢神宮や出雲大社も節目の年にあたっているなど、各地が観光に力を入れてきているように思われます。
そして何よりも、何だか少しばかり景気が良くなってきたような気がしてしまい、ついつい浮かれ出てしまう人の数も馬鹿にならないはずです。

それでは、私のように、いつもと変わらない日を過ごしている者は、時の流れから取り残されているのかということになります。
確かにそのようなひがみ根性も少しは顔を見せかけているのですが、なあに、そんなことはありません。
五人に一人が旅行するといっても、反対に言えば、五人のうち四人までは旅行などをしないわけですから、つまりは、ゴールデンウイークを私のように過ごしている者こそが主流だということなんですよ。
また、最近の円安や株式市場の堅調で恩恵を受けている人も少なくないのでしょうが、報道される街中のアンケートなどでは、全く恩恵を受けていないという人が半数を大きく上回っています。
また、イカ漁の漁船が燃料高で出漁を見合わせるというニュースがあるように、円安のマイナス影響を受けている人も少なくありません。

先日、アベノミクスの三本目の矢というものが発表されました。その第一弾ということですから、まだまだ計画があるようですから、それらの効果に期待したいと思います。
ただ、かねてから私が提案している「消費税引き上げ実施時期の延期」と「企業の利益蓄積分の一定額以上を投資なり社員配分なり納税なりで社会に還元させる」というのは、いつ採用されるのか密かに期待しています。
いずれにしても、三本の矢というものが効果的に働かない限り、旅行者が増えたり、新規開業の大型施設に人が殺到したり、株式市場の好調も、単なる円安効果だけであったり、「景気は気から」などというお題目に踊らされているだけでは、長くは続くわけがありません。
冷静に考えてみて、わが国の生活水準は世界中の中で相当高度な位置にあるはずです。もしそうだとすれば、「まだまだ欲しい」という欲望は、一部の人には可能でも国民上げて達成させることは簡単なはずがありません。
ゴールデンウイークに、「あまり浮かれないように」などと言うのは余計なことだとは思うのですが、念の為。

( 2013.04.28 )
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メーデーを考える ・ 小さな小さな物語 ( 507 )

2013-08-17 09:54:54 | 小さな小さな物語 第九部
本日、五月一日はメーデーの日です。
大分前のことになりますが、私もメーデーに参加したことがありますし、腕を組んで行進した経験もあります。しかし、最近の状況につきましては、新聞やテレビでの報道でしか知りませんが、果たして、メーデーの日というものが、私たちにとってどういう意味を持っているのかよく分かりません。
そんな私がメーデーに関して論じるのは少々気が引けますが、メーデーの日の活動や行事などが何を目指しているのかよく分からないものですから、テーマとさせていただきました。

辞書などには、メーデーとは、「毎年五月一日に行われる国際的な労働者の祭典」と説明されているものが多いようです。
言葉の意味としてはきっと正しいのでしょうが、私たちの実感としては果たしてどうなのでしょうか。
「労働者とは何ぞや」という定義から考えなければならないのかもしれませんが、いわゆる働いて給料を貰っている者、つまり、仮に、雇用されている者のうち経営職の者を除いた人たちを労働者とした場合、さて、そのうちの何%の人が、「自分たち労働者の祭典」だと認識しているのでしょうか。

メーデーという言葉は、英語でいえば「May Day」となり、五月の日という意味です。世界各地で行われているさまざまな祭典のことを指します。
ヨーロッパでは、夏の訪れを祝う日であるとともに、労働者が統一して権利要求する日でもあります。もともとは、この祭典では、労使双方が休戦して共に祝うのが慣習であったのが、近代に入り転化してきたもののようです。
労働運動の象徴ともいえるメーデーは、1886年の5月1日に、アメリカ合衆国・カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟)が、シカゴを中心に八時間労働制を要求する統一ストライキを実施したのを起源としています。
わが国では、1905年(明治38年)の平民社による茶話会形式の集会がメーデーの先駆けと位置付けられているようですが、わが国の場合、労使間の抗争から政府反逆的な運動とされたりで禁止に追い込まれ、第二次大戦後再開されましたが、労使対決、さらには政治色の強い運動へと傾いてしまいました。

第二次大戦後のメーデーに象徴される組合活動が、わが国労働者の労働環境改善に大きく貢献したことは疑いの余地がありません。
しかし、例えばこの十年間で考えた場合、メーデーのお祭り騒ぎの良し悪しはともかく、組合活動による労働環境の改善には成果があまりにも少ないように思われるのです。
わが国の労働環境が相当高水準になったという理由もあるのでしょう。しかし、現時点でいえば、よく報道されているように、生活保護による手当より低い給与しか得られない労働者が少なくないのです。
組合活動だけのせいではないでしょうし、いわんやメーデーのせいではないでしょう。
しかし、真面目に働こうとしている人が、最低限の生活が出来る条件を整えるための条件作りなどを、真剣に討議する日が必要なのではないでしょうか。
政権与党にはぜひこのことを本気で考えて欲しいとともに、働く側も、メーデーのあり方も含め、先人たちがそれこそ命をかけて勝ちとってきた、生活権を死守する気概を示す場所が必要なのではないでしょうか。
「自分は食べて行けているからこのままで良い」という考えが通じる時間は、もうそれほど長くないような気がするのです。

( 2013.05.01 )
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祝日のことも考えよう ・ 小さな小さな物語 ( 508 )

2013-08-17 09:50:22 | 小さな小さな物語 第九部
ゴールデンウイークも後半戦最中となりました。いかがお過ごしでしょうか。
今年は、大部分の人にとっては、前半と後半の二つに分断されていますが、これはこれでメリハリのある計画が立てられたと仰る方もいるようです。
「後半戦最中となりました」などと言いますと、まるで戦っているような表現ですが、実際に、戦いそのものだと仰る方も少なくないのではないでしょうか。

ところで、このゴールデンウイークは、国民の祝日が集中していることから誕生したことはご存知でしょうか。
大変失礼な言い方かもしれませんが、当然知らない方などいないでしょうが、あまり意識していないという方も少なくないのではないでしょうか。たまたま祝日が固まっていたことからゴールデンウイークという表現が生まれたのであって、大型連休を作るために祝日を集中させたわけではないのです。
「そんなことは誰でも分かっていることだ」と言われるかもしれませんが、実はそうでもないのですよ。政府といいますか為政者といいますか、彼らは大型連休を作るために祝日を作り出している部分があるのです。
ゴールデンウイーク中の祝日四日を並べてみましょう。
『四月二十九日・昭和の日・・・激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』
『五月三日・憲法記念日・・・日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期待する』
『五月四日・みどりの日・・・自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ』
『五月五日・こどもの日・・・こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する』
と、説明されています。

四月二十九日は、もとは昭和天皇の誕生日だったのですが、崩御された後に『昭和の日』に変更されたものです。その意義は立派なものですが、大型連休を守るための意図が見え見えで、果たして、何人の人が「思いをいたして」いるでしょうか。
五月三日は、以前からある祝日で、昨今は何かと話題豊富で、注目の祝日といえるでしょう。
五月四日は、いつの間にか『緑の日』になっていたのです。当初は、「祝日と祝日の間を休日に」という趣旨で生まれたもので、大型連休構築以外の目的などなかったのです。『緑』はダシにされたわけです。それでも、「一月一日から十二月二十三日までは祝日に挟まれているから、この間は全部祝日にしよう」という意見はなかったようですから、それなりの良識はあったようです。
五月五日は、以前からある祝日です。「三月三日は何故祝日ではないのか」という意見が根強くありますが、もともと端午の節句は男の子の祝日だったからですが、ここは、こども全体の祝日として、もっともっと真剣にこどもたちのことを考える日にしたいもです。ただ、個人的には『母に感謝する』とわざわざ書かれているのが少々気になって、「親父はどうなっているのだ」とは思います。
いずれにしても、この間の四日の祝日のうち二日は、大型連休を死守するために作られたといっても言い過ぎではないのです。

ゴールデンウイークは、すでにわが国の生活習慣に定着し、季節の風物詩を生み出してくれる大切な期間になっていることは間違いありません。私も、難癖をつけて一人悦に入ろうという気持ちでは決してありません。
ただ、祝日には、少々こじつけや、主義主張上気に入らない日もあるかもしれませんが、一般的には、それ相応の意味があると思うのです。従って、祝日にあたっては、たとえ数分であれ、その意図するところを考えてみたいものと提案したいのです。
とりあえず、今日は緑に親しんで、明日はこどものことを、それも自分の子供だけではなく、社会全体のこどもの将来について考えてみたいものです。
えっ、『五月六日』ですか? 五月六日はオマケですから、好き勝手な時間を楽しんでください。特に、世のお父さんたちは・・・。

( 2013.05.04 )
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ただ今主役中 ・ 小さな小さな物語 ( 509 )

2013-08-17 09:48:45 | 小さな小さな物語 第九部
このところテレビの報道番組の主役を張っていた「渋滞情報」も、どうやらその役目を終えたらしく、日常が戻ってきた感じがします。
テレビドラマなどでは、主役の存在は実にはっきりしていてまことに分かりやすいのですが、報道番組では、どのニュースを主役に仕立て上げようかと各放送局は知恵を絞っているようです。
誰が考えても動かしようのない情報や事件がある場合はともかく、そうでない場合にはどのニュースを主役に抜擢するかで視聴率が微妙に変わるそうです。

新聞の見出しも同様だと思うのですが、特に駅や街頭での販売比率の高いスポーツ紙の場合は、トップニュースのテーマと表現方法で売り上げは大きく変わるそうです。
その場合、客観的にいくらニュースバリューが高くても、主役になり得るニュースとそうでないものがあるそうです。主役に適さない高級な見出しよりも、少々下らなくても主役に適したものを見出しに使う方が無難なのだそうです。
関西のスポーツ新聞の多くが、大してニュースとしての価値がなくても阪神タイガースを見出しに使うのはそのためらしいのです。
そう考えれば、テレビドラマや映画なので、素晴らしい演技を見せている脇役が多い俳優が主役を張った作品は、芸術的な価値はともかくヒットすることは少ないようです。たとえ大根役者でも、主役慣れした人を使う方が安定的な支持が得られるそうです。芸術的な価値は別にしてですが。

わが家の野生的な庭は、暖かくなるにつれてその本領を発揮してくれています。
今年は、球根類がいずれもきれいな花を咲かせてくれました。特にアイリスは最近では最高だったと思うのですが、ほぼ終わり、チューリップとフリージアが残っている程度ですが、テッポウユリを中心としたユリたちがたくさん姿を見せており、やがて主役の座を勤めてくれそうです。
わが家の庭で、「ただ今主役中」なのはノースポールです。勢力からいえば雑草類ですが、それはいつものことですから、私にとっては背景みたいなものです。
ノースポールは、数年前に二株ばかり鉢植えしたものが、種を飛ばしあちこちから勝手に芽を出してくれているのです。今年は通路にあたる部分に生えてきたものを一切抜かないようにしていたものですから、通路を中心に花壇の一部を含め真っ白な花が圧倒的な存在感を示しています。

適任と思えない役者が主役を務めるドラマを観るのには忍耐力を必要としますが、ノースポールがわが家の庭の主役を見事に務めている姿を見ますと、少々感動的な気持ちになりました。
ノースポールはチューリップにもユリにもなれないけれど、素直にその姿を表現することで主役に堪えうる姿を示すことは可能だと思えたからです。
ゴールデンウイーク中は、父として、母として、あるいはグループ旅行などにおいても、自分を「ただ今主役中」と実感された方も少なくないのではないでしょうか。しかし、日常生活が戻ってくると、時間に追われ日常の煩雑さに埋没し、自分を主役と実感する機会はそうそうないものです。
しかし、考えてみますと、私たちは自分の人生においては主役を努めざるを得ないわけです。肩肘張って、大見えを切ることはありませんが、素直に自分の姿で生きて、「ただ今主役中」といえる日々を送りたいとは思うのですが、なかなかノースポールのようにはいかないものですねぇ。

( 2013.05.07 )
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不思議な話 ・ 小さな小さな物語 ( 510 )

2013-08-17 09:47:17 | 小さな小さな物語 第九部
不思議な話って、ありますよね。
例えば、それほど広くもない道路の向こう側を、とてもよく知っている人が通っているのを見かけ、横断歩道を懸命に走って渡り後を追っかけたのですが、どこへ消えたのか見当たらないのです。後日本人に確認すると、その頃は遠く離れた町に旅行していたという・・・。
この場合、見かけた相手が事故にあったり亡くなったりしていれば完全に怪談話となるわけですが、そこまで行かなくても、これと似たような経験をされている人は案外多いようです。

このような場合、良識に満ち溢れた人は明快な答えを用意しています。
「他人の空似というやつだよ。世の中には、三人は似ている人がいるというからな」と、一刀両断に解決してくれます。
でも、本当に、全ての場合が他人の空似なのでしょうか。世の中には、そうそう理屈や経験だけでは理解しえないことってあるような気もするのですがねぇ。

最近、たまたまある本でこんな記事を読みました。
植物の不思議について書かれているなかに、
『 花の雄しべが雌しべより遥かに長く高い位置にあるのは理由がある。受粉させるためであれば、両者は同じ程度の長さである方が効率的である。それをわざわざ距離を置いているのは、簡単に受粉出来ないようにしているからである。すなわち、雄しべはその花粉を同じ花の雌しべではく、虫や風の力を利用して、遠くの花の雌しべに受粉するための工夫なのである。つまり、近親交配(近親結婚)を避けようとする知恵なのである。 』
如何ですか? 自然の摂理だといえばそれまでですが、世の中には不思議な仕組みが沢山あるのですよ。

この記事を見て、私の疑問の一つが即座に解けました。
実は、わが家の庭に今スズランが花をつけています。多分ドイツスズランだと思うのですが、シランを群生させている真ん中で見事な姿を見せてくれているのです。
このシランは、三年ほど前に通路になっていた部分の一画に他の場所から十株ばかり移したものなのです。一方のスズランは、五年以上も前に鉢植えで買ったものを花壇に移したことがあり、三株ばかりあったものが今は一株だけが残っています。
花壇のスズランとシランのとの距離は十メートル以上あり、間にはキンカンなどもあり種が飛んできたとは思えないのです。第一、スズランは株分けで増やすもので種で育つとは思えないのです。
では、どうしてシランの真ん中にスズランがあるのか、これが私の疑問でした。でも、どうやら答えを見つけることが出来ました。
ある夜、シランに恋したスズランは、そろりそろりと十メートルの距離を歩いて行って、今ではシランたちの女王さまになっているのですよ。
ただ、この事実に対して、「シランを移す時にスズランの根っこが土に混じっていたんですよ」と、とんでもない言い掛かりをつける人もいるのですよ。この世には、不思議なことが沢山あるというのにですよ。

( 2013.05.10 )

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痛みが分かる ・ 小さな小さな物語 ( 511 )

2013-08-17 09:45:47 | 小さな小さな物語 第九部
先日、腰痛を体験しました。
夜中に突然目が覚め、激しい痛みを感じました。夢の中の出来事とは思いませんでしたが、何が起きているのか分からず、身体を起こそうとすると再び激しい痛みに襲われました。
何とか痛みが起こらない角度を考えながら身体を起こし、むりやり立ちあがってみますと、激しい痛みにもかかわらず歩くことが出来ました。
寝違えたのか、それとも夢の中での出来事に驚きギックリ腰にでもなってしまったのか、などと思いながら、痛みの起きない体制を守りながら眠ろうとしました。
眠りさえすれば、この痛みも夢の中の出来事になっているはずだ、などと自分自身に暗示を掛けながら眠ろうとしましたが、なかなか寝つけません。眠るという行動は、自分の意志だけで実行できるものではないことがよく分かりました。
それでも、しばらくはうとうととしたようですが、朝になっても痛みは消えていないのです。

これまでスポーツの後などに腰が痛くなったことなどはありますが、いわゆる腰痛というものを体験していなかったものですから、相当ショックで、わが人生の中で一番か二番かという痛さにおびえながら、大きな湿布を張ってもらって一日安静に過ごしました。幸い夕方には殆ど痛みは収まり、翌朝にはどの角度からも痛みは消えていました。その後も二日ばかりはおびえながら身体を動かせていましたが、どうやら一端は、治まってくれたようです。
周りの人からは、さまざまな声を掛けてくれました。
「自分も経験があるので、その痛みはよく分かる」
「運動不足も原因なので、ここをこういうように鍛える体操をせよ」
「一日で良くなったのだから、大したことではないよ。腰痛の部類にも入らないよ」
等々、ご心配いただきありがたいものです。

ずっと以前のことになりますが、有名な(という噂の)外科医の奥さまとお話しする機会がありました。
その時奥さまがこういう話をして下さいました。
「夫は、患者を治すということには、全身全霊を懸けていますよ。手術の時など何時間でも飲まず食わずでメスを持っていますのよ。でもね、その患者が痛がっているとか苦しんでいるとかということには、殆ど考慮していないみたい。手術を成功させるためには、患者の痛みなど二の次三の次みたいですよ」
これは随分以前のことなので、最近は変わってきているとは思います。
ペインクリニックという診療科目もあるそうですし、痛みそのものを取り除くことの重要性が、傷病を完治させることと同じほどに大切だといわれるようにもなってきているようです。

「痛み」というものは、実に厄介な性質を持っています。
まず、人には分からないし、個人差もあるからです。
「痛みが分かる」という言葉がありますが、本当に人の痛みというものは分かるものなのでしょうか。
自分の痛みについては、どんなに同情的な声をかけてくれても、「おまえにこの痛みが分かるか」という気持ちがどこかにありますし、人の痛みに対しては、同情しながらも「痛みで死んだりしないはずだ」という気持ちを何処かに持っているような気がするのです。私ではなく、一般的にですよ。
まあ、変な弁解をしても仕方がありませんが、「痛みが分かる」ということは、相手を理解する上で大切な要素の一つと考えられていますが、本当は同じ痛みが分かるはずなどないのです。
自分の痛みは堪えられないほど大きいものですが、他人の痛みはどんなに激しいものでも堪えられるものです。本当に相手の立場を考えるためには、このことを考慮しておく必要があると思うのです。
それは、個人同士でもそうですし、国家間や民族間においても全く同様だと思うのです。
それにしても、腰痛をお持ちの方々、くれぐれも御身大切になさってください。

( 2013.05.13 )
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知っていること ・ 小さな小さな物語 ( 512 )

2013-08-17 09:43:55 | 小さな小さな物語 第九部
「知っていること」って、どの程度のものを指すのでしょうね。
つい先ほど道端で出会った人と交わしたことから得た情報も「知っていること」ですし、長い時間をかけて相当の努力の結果習得した知識であっても、それも「知っていること」の一つに過ぎません。すごく努力をしたと思っていても、特に学問的なものとなれば、さらに詳しく「知っている人」は山ほどいるわけですから、知識としては大して自慢できるものでもありません。
もしかすると、先ほど聞いて「知っていること」の方が希少価値があって、少なくともニュースとしては優れているかもしれません。

私たちは、「知っていること」は、ついつい誰かに話したり教えてみたりなるものです。
街角のおしゃべりは関西人の文化のように喧伝されることがありますが、決してそのようなことはなく、人間の本能のようなものだと思うのです。
「ここだけの話ですよ・・・」などというのは、「知っていること」を最大限に価値を高めるための最もコストのかからないフレーズですが、たいていの場合、何回目の「ここだけ」なのか眉に唾をして聞いた方が良いようです。

ある文筆家の方が、確かテレビ番組の中でだったと思いますが、こんな話をされていました。
「文芸作品を書くためには、いかに多くの知識・情報を集められるか、そして、そのうちのどれだけ多くを捨て去ることが出来るかによって、作品の厚みが変わってくる」と。
文芸作品と、ニュース性を重要視するものとは条件は変わってくると思うのですが、私たちが「知っていること」と思っている知識の多くは、ほんとうはそれほど凄い価値などないのがほとんどなのです。第一、自分だけが知っている知識などというものは、果たして知識なのかどうかと疑って考えてみる必要があるのです。

従って、「知っていること」をあまり安易に披露することは考えものだということになります。たいていの場合は、「知っている」ことの大半は薄っぺらな伝聞がベースになっていることが多いですから、もう少し豊富な経験や学習をしている人からは笑われるのがオチだからです。
もちろん、仲間内のおしゃべりなどは中途半端な知識も潤滑油の働きをしますので、お互いに披露しあうのは結構なのですが、少なくとも、国家の指導者とまではいかなくとも、政治的に指導的な立場にある人や、小さくとも企業経営者などと自認されている方には「知っていること」の披露にはそれなりの配慮が必要なはずです。
中途半端な学習にもとずく「知っていること」などを得々と披露されたのでは、迷惑を受ける人は少なくないのですから・・・、と思うのですが。

( 2013.05.16 )
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普通に考える ・ 小さな小さな物語 ( 513 )

2013-08-17 09:41:02 | 小さな小さな物語 第九部
わが国と近隣諸国との間が、何だかぎくしゃくしているような気がしてなりません。
私たちからすれば、何故それほどわが国を目の敵のようにして、箸の上げ下ろしにまで文句をつけられているのかと納得いかない部分がままあります。
同時に、それらの国々からすれば、日本人というのは、いくら言って聞かせても分からない人種だ、と思っているかもしれません。
さらに心配なことは、近隣諸国ばかりでなく、アメリカなどからもわが国要人の発言や行動に許容しづらい部分があるような声も聞こえてきています。

私たちが日常生活を送る場合、普通に考えて行動していれば、突発的な重大な事故でもない限り、深刻なトラブルや犯罪に巻き込まれるようなことはそうそうないように思われます。
学校教育については私は全く門外漢ですし、自分自身が学んだことなどはとっくの昔に忘却の彼方に消えてしまっていますので、これを取り上げるのはどうかと思うのですが、例えば、高校で習った数学や物理などというものは、私たちの日常生活の中でどの程度役立っているのでしょうね。
いや、学問というものは、一つ一つの単発的な知識を学ぶだけではなく、それらにより頭脳の訓練や、総合的な知識や判断力の向上という観点から考えねばならない、と教えられたこともありますので、やはり、それぞれの強化はそれなりの意味があるのでしょうね。
しかし、日常生活においては、やっぱり普通に考えて行動すれば、事足りるような気がするのです。

同時に、普通に考えていては納得いかないこともあります。
私など、未だに巨大な飛行機が空を飛ぶことが信じられませんし、鉄の巨大な舟が水に浮かぶのもアルキメデスがおかしな理論を考えついたためではないかと思ったりしますので、私が普通に考えるだけでは日常生活を乗り越えるのは無理かもしれません。
ある本で、水より重い木について書かれているのを読みました。普通私たちは、木は水に浮くもの、と考えています。しかし、例えば高級家具や仏壇などに使われることの多い黒檀や紫檀などは、比重が1より大きく、従って水に入れると沈んでしまいます。世界にはもっと重い木もあって、ブラック・アイアン・ウッドという木は、比重が1.42だそうですから、木は水に浮かぶというのを普通の考えと思っているようでは、世界の人々と友好的な関係を築いて行く上では不十分な考えということになります。

つい最近も、政治家として指導的立場にある人の発言が問題になっています。
この発言については、ここで説明するのも不愉快ですから省かせていただきますが、これなどは、「木が水に浮かぶ」と断言するよりも遥かに悪質で、「世の中に水に浮かぶ木などない」と言っているに近いレベルのような気がするのです。
今回のような発言は良否を論じる対象にもなりませんが、わが国が近隣諸国はじめ他国と友好的な関係を築いて行くためには、私たちの正義を絶対的な正義だと主張したり、私たちが普通だと思うことは世界のどの国にとっても普通なのだという考え方は、やはり少々傲慢なのではないでしょうか。
他国と友好を築いて行くためには、私が普通に考えるだけで世の中を渡って行こうとするよりは、もう少し高度な知恵が必要なはずだと思うのです。 

( 2013.05.19 )
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87%での決断 ・ 小さな小さな物語 ( 514 )

2013-08-17 09:39:09 | 小さな小さな物語 第九部
有名なハリウッド女優が、乳がんの手術を受けたことが話題になっていました。
現在発病しているわけではないが、遺伝子検査などで発病の可能性が87%あると指摘されたことと、母親が同じ病気で亡くなっていることも手術を決断した理由のようです。
しかし、いくら近い将来発病の可能性が高いといっても、また、医学が進んでいるといっても、その決断には相当の勇気が必要だっただろうと、感動しました。

テレビ番組の中で、このニュースが話題になっていて、87%発病の危険性があると指摘された場合どうするか、ということをコメンテーターの方や番組に参加している一般の人などに意見を求めていました。
手術にかかる費用や、その女優さんのような最新の治療が受けられるのか、などの前提条件もありますが、大半の意見は、手術には踏み切らないというもののようでした。
全体のニュアンスとしては、そういう指摘を受けた場合は、早期発見のための検査の機会を増やして、少しでも異常が見つかれば手術に踏み切るというものでした。
それぞれの個人的な考え方もあるでしょうが、どうも国民性のようなものも働いているような気がしました。

そもそも、87%の危険性というのはどういう程度の危険性なのでしょうか。
病気ということではなく、単に確率という面だけで考えてみますと、おそらく普通の日常生活をしていて交通事故で重傷を負う以上に高い危険性と思われます。
それでも、13%は大丈夫なのだから、という考えに立つ人も少なくないと思われます。87%と指摘された人の多くが発病して行っても、自分は残りの13%に入る自信があるという、何とも見上げた根性の人も少なくないようで、しかもそういう人が13%を遥かに超えているような気もします。
それに、確率というものに対して、私たち日本人は、あまり信用していないか、あるいは鈍感になっている傾向があるのかもしれません。
天気予報の降水確率というものをどう理解したら良いのか首を傾げてしまうことがあります。降水確率83%なら、きっと傘を持っていくと思うのですが、がん手術と一緒には出来ないでしょうね。
地震の発生率などは、確率に対して鈍感にさせる最大のものではないでしょうか。「どこどこを震源とする大地震が30年以内に発生する確率は60%である」などという予報は、どういうことを言っているのでしょうか。それに、本当に科学的なデーターに基づいているのでしょうか。そのような発表は、東日本や淡路などでの地震を一つでも二つでも予知出来てからにして欲しいものです。

でも、もしかすれば、とんでもないと思っている地震予知よりも、宝くじのコマーシャル方のがもっと罪が重いような気がします。
例えば、ジャンボ宝くじと呼ばれるようなものは、1ユニットが1000万枚で作られているそうです。つまり、1等にあたる確率は1000万分の1ということで、%で表すのさえ大変です。
それでもテレビコマーシャルは、まるで、あなたにもあなたにも当たりますよと言わんばかりの宣伝ぶりです。これ、立派な詐欺ではないのでしょうかねぇ。あんな派手な宣伝は、私に当選させてからにして欲しいものです。
いずれにしても、確率というものは確率であって、確率でしかありません。
ただ、100%確実なデーターもあることはあるのです。
それは、人は必ず死ぬということです。しかも、今日の一日は、私たちの今生の時間を確実に一日削っているということもです。
だからどうせよ、というわけではないのですが、たとえ来世というものがあるとしても、今いるところでの一日一日は、もう少し味わいつつ生きるのも面白いのではないでしょうか。

( 2013.05.22 )
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