雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

キャットスマイル  ⑧ お母さんたち

2014-03-18 19:01:28 | キャットスマイル 微笑みをありがとう
          キャットスマイル
               ⑧ お母さんたち


穏やかな日が続いた。
トラはすっかり元気になり、以前の威厳を完全に取り戻した。
チビは相変わらず、出掛けて行ったり家でゴロゴロしていたり、侵入者に対しては敢然と立ち向かっていくくせに、ボクにさえ甘えてくるようなところがある。全く分からない奴だ。
ボクもこの家にすっかり慣れて、時々、ずっと前から此処にいたような気がすることがある。体もずいぶん大きくなって、トラほど長くはないし、チビほど太くはないが、足はすでにボクが一番長い。
     *
ボクの毎日は、部屋の中だけでなく、テラスで過ごす時間が長くなったが、テラスから外に出ることはほとんどない。別に止められているわけでないが、ボクはどうも外の世界が好きになれない。小さい時のことが、頭のどこかに残っているのかもしれないが、ボクにはテラスと部屋の中と、時々二階に上がるくらいで十分なのだ。走りたくなった時は、部屋の中をぐるぐると駆けまわる。うまく回れるような間取りになっていて、ボクが走り出すとチビも同じように走りだし、時にはボクの前を走ることも珍しくない。
あれだけ外に行っているのに、まだ走り足らないのか不思議だ。

トラは部屋の中で走り回ることはあまりないが、トラには得意技がある。
時々襖を駆け上って、一番上の小さな押し入れに駆け込むのだ。一番上の押し入れは、トラのためにいつも少し開けられている。そのためトラが駆け上る襖の部分はいつもボロボロで、お父さんが時々その部分だけ張り直している。別に文句も言わないで。
チビも同じことをしようと何度も挑戦しているが、ほとんどは失敗して大きな音を立てて落ちている。五回に一度くらいは成功するが、その代わり降りる時は一人で降りられなくて、大きな声でお母さんを呼んでいる。本当に甘えん坊なんだ、あいつは。

トラはとにかく身が軽い。普段はあまり動かないで食卓の下で寝ていたりうずくまって目を閉じているが、突然高い所に飛び上がる。
押し入れだけでなく、タンスや本棚の上にも飛び上がることが出来る。もちろん、タンスの上にひと飛びで上がれるわけではないが、狭いテレビの上に昇り、そこからジャンプするのである。
例によって、チビも何度もまねをしようとしたが、テレビの上は凄く狭いので、その上に昇ることが出来ないのである。第一、あの太い図体でテレビの上に乗ることなんて無理だということが分からないということが、ボクには理解できない。

ボクは、高い所は苦手だ。
お姉さんに助けられた時には、必死になって木に登ったが、それも大した高さではなかったらしい。
トラの行動を見ていても、とても真似など出来そうになく、ボクはチビほど向こうみずではないから、チャレンジしようという気にならない。

ここの家の人もそれぞれ行動に特徴がある。
お母さんは、ボクたち三匹をまんべんなく世話をしてくれる。トラがいなくなっときなどは、トラのことばかりでボクたちは見捨てられるのではないかと心配したが、トラが元気になって来ると依然と同じように接してくれる。
ボクやチビが家中を駆け回ると、「静かにしなさい」と口では叱るけれど、別にむりやり止めさせる気はないらしい。押し入れに上れないボクや、めったに成功しないチビが、腹いせというわけではないが、襖にガリガリと爪を立てることがあるが、その時も、口では叱るけれど力ずくで止めるようなことはない。
その分、お父さんの仕事が増えることになる。

お姉さんは、時々しか家にいないけれど、いる時はいつも抱き上げてくれる。
ボクだけでなく、チビもあのトラさえも抱き上げられるとゴロゴロとのどを鳴らして嬉しそうにしている。ボクは抱かれることはあまり好きではないけれど、お姉さんに抱かれていると、なぜか幸せな気持ちになる。きっと、初めて抱かれて助けられたことを思い出すからかもしれない。

お父さんはあまり家にいないが、あまりボクたちを構ってくれることはない。ただ、食事をしている時、時々自分のおかずをボクたちに分けてくれる。お母さんは嫌がって怒っているが、魚の身をほぐして少しずつボクたちに分けてくれる。
それと、お父さんがたまに一日中家にいる時などには、櫛でボクたちの毛を梳(ト)いてくれる。お母さんも梳いてくれるが、お父さんは、ゴシゴシと力強くて、とても気持ちがよい。

お兄さんはほとんど家にはいない。たまに姿を見せた時には、頭を撫でてくれる。それも、元気がなかったり、とても寂しい気持ちになっている時に必ずそうしてくれる。
それは、ボクに対してだけでなく、トラやチビに対しても同じらしい。
ただ、トラが家に帰る道が分からなくなった時、お兄さんの声がして帰る道を教えてくれたらしいのだが、どういうことなのかボクにはよく分からない。トラも、謎のままらしい。
ただ、チビは、お兄さんはそういう人なんだ、と不思議でもなんでもないらしい。

こういう人たちに囲まれての日々が続いていたが、ある日、ボクは急に食欲がなくなっていった。
特に変わった物を食べた記憶はないし、チビと違って、ボクはお母さんが出してくれる物以外は食べることはない。それなのに、朝、目が覚めると、何かむかむかするような気がして、食欲がなくなっていたのである。
昨日食べ過ぎたのかな、と思って、食事の後また寝床にもぐりこんだが、なかなか寝つかれず、少しうとうとした後も、気分がさらに悪くなっていた。
外から帰ってきたチビが、いつもなら大きな頭を押し付けてくるのに、それをしないでじっとボクの顔を見つめただけで、さっさとソファーに上って寝てしまった。
いつもは、頭を押し付けられるのは迷惑なのだが、素通りされてしまうと、少し寂しいし、ボクが少し変なのを感じとったのかもしれない。

夕方になって、お姉さんがボクの様子に気がついて、
「お母さん、チロ、少し様子が変よ」
と、お母さんに小声で話している。
「そういえば、今日はあまり食べていないみたい」
と、お母さんが答え、二人でボクの側に座りこんだ。
ボクは、無理に寝ているふりをしようとしたが、お姉さんはボクを抱き上げて、顔を覗きこんできた。
「やっぱり、少し元気がないみたい」
「そうねぇ、しばらくおとなしくさせていて様子を見ましょう」
と、ボクは寝床に戻された。

翌朝、ボクは昨日より状態が悪くなった。
どこかが特別痛いというわけではないが、体全体に力が入らず、食欲がなかった。
お姉さんはボクの様子を気にしながら出かけて行ったが、その後お母さんに籠に入れられて病院に連れて行かれた。確か、この家に助けられた時連れられてきた所で、独特の匂いがした。
ボクは注射のような物を三本ばかりもされて、そのうち眠ってしまったらしい。

次に目が覚めた時には、見覚えのない小さな檻の中に入れられていた。一瞬、ボクは再びとんでもない状態になっているのではないかと思ったが、しばらくして意識がはっきりしてくると、そうではなくて病院に連れて来られていることに気がついた。
ボクがゴソゴソと体を動かせていると、あの独特の匂いを持った人が近付いてきて声をかけ、スープの入った食器を入れてくれた。
ボクは低い声で威嚇して、その人を追いやったが、スープを飲むつもりはなかった。それにやはり食欲がわかないのである。

やがて夕方となり、お母さんとお姉さんが来てくれたが、また注射らしい物をされ、今夜はここに泊ることに決まったとお姉さんが話してくれた。
ボクは一緒に帰りたいと訴えたが、我ながら情けない声しか出なくて、お母さんやお姉さんに、ボクの病気が悪いと思わせてしまったかも知れなかった。

しばらくは眠ったようだったが、夜中に目覚めた後は、なかなか眠れなかった。
ボクが入れられているような小さな檻が幾つもあって、他にもネコだか犬だかが入れられているらしい。どうもあまりいい気もちのしない場所だった。
ボクは、突然のように、もしかするとこのままトラやチビのいる家に帰ることが出来ないのではないかと思った。一度その思いが襲ってくると、何だか息苦しくなってきて、とんでもない病気にかかっている気がしてきたのである。
思わず、二度、三度、小さな声で鳴いてしまった。

「大丈夫だよ、チロ。ぐっすりお休み。明日にはきっと帰れるから」
という声が聞こえてきた。
お兄さんの声だ、とボクは思った。同時に、そっと頭を撫でられたような気がした。
     *
翌朝目が覚めると、ボクは猛烈に空腹を感じた。
知らない女の人が持ってきてくれた食事をガツガツと食べた。あまり美味しくなかったが、空腹には勝てない。
やがてお母さんが迎えに来てくれて、また注射のような物を長い時間かけてされた後、お母さんが持ってきた籠に入れられた。
「ああ、これで帰ることが出来る」
と、ボクは思った。
病院の人と長々と話していたお母さんは、籠の中のボクを覗き込んで、
「帰られて良かったね・・。ほんとだ、この子笑ってるわ」
と、病院の人に話しかけると、病院の女性も、「ほんとだわ」と不思議そうに言っていた。

     * * *
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キャットスマイル  ⑨ 一大事件

2014-03-18 19:00:44 | キャットスマイル 微笑みをありがとう
          キャットスマイル
               ⑨ 一大事件


その後もボクは、時々食欲が減ることがあったが、それもごくたまのことで、特に変わったこともなく過ごしていた。
トラもすっかり以前のような威厳に満ちた姿に戻ったし、チビは相変わらず出歩いていて、食事の頃にはきっちりと帰ってきて、思う存分食べている。そして、いまだにボクの寝床を狙っていて、大きな頭でボクを押しのけようとする。
     *
お天気の良い時は、ボクたち三匹は、揃ってテラスで過ごすことが多くなった。
トラは箱の中で寝ていることが多いが、ボクはテラスのコンクリートの上で横になるのが好きだ。もっとも真冬の寒い時には、箱の中か、その頃だけ敷いてくれるマットの上で寝そべることになる。
チビは、テラスでも好き勝手である。ボクと同じようにコンクリートの上に寝そべることも多いが、ボクと違って真冬でもコンクリートの上でぐうぐう眠っている。箱に入ることも多いが、それもチビが入っている中に入り込んでいって、トラを押しつぶすようにして眠っている。
全くチビという奴は、自分の図体の大きさが分かっていないらしい。

テラスは南側にあり、とても日当たりがよく、夏は風通しがよく、冬は北風を防いでくれる。
冬もお天気さえ良ければいっぱいの日差しがあり、夏は日差しが遠のくし、お母さんが日除けをつけてくれる。その下で寝転んでいるボクたちの上を涼しい風が通り抜けて行く。蝉の声がうるさいのは少し困りものだが。

あの日、いたずら坊主たちに追われて、傷を負ってたまたまこの家の庭に逃げ込んだのが、今の生活の始まりなのだが、それも、もう随分と前のことになり、思い出すことも少なくなった。
あれから、夏も冬も何度か迎えたし、今ではボクの体はトラと比べてもチビと比べても見劣りしないほどになっている。
もっとも、トラとチビは茶と白の虎模様であり、ボクは灰色がかった白で、見た目は全然違う。
体つきも、トラほど長くないし、チビほど丸々としてはいない、ただ足の長さはボクが一番でその分背が高い。

その日は、雨模様の日であった。
ボクもトラもテラスには出ないで、家の中で寝そべったりゴロゴロして一日を過ごしたが、チビはいつものようにどこかへ出かけていた。
ただその日は、夕方になって、食事の頃になってもチビは帰って来ないのである。
時々遊び呆けて夜遅くまで帰って来ないこともあるが、たいていは、どうしてそれほど時間に正確なのだと思うほど、食事時には帰ってきているのである。

夕方も過ぎ、雨は止んでいたが外はすっかり暗くなっているのにチビは帰って来ず、お母さんも少し気になったらしく、庭に出たり、すぐ近くまで捜しにいったらしい。チビがこの時間まで帰って来ないのは特に珍しいことではないので、お母さんがわざわざ捜しに行ったのは、お天気が良くないこともあり、虫の知らせのようなものがあったのかもしれない。

お母さんが外へ捜しに行って少し経った頃、テラスのある所のガラス戸に何かがぶつかる音がした。
ボクが駆け寄っていると、ガラス戸の向こうにチビがうずくまっていた。様子が変である。
ボクは大声を出した。
その声にトラも駆け寄ってきて、ガラス戸に爪を立てたが、外のチビは身動きをしない。
ボクとトラは大声で鳴き叫び、家の中を走り回った。

外から帰って来たお母さんは、ボクとトラが暴れ回っている姿に異常を感じて、ガラス戸に駆け寄った。
すぐにガラス戸が開けられたが、チビは少しばかり頭を持ち上げ、小さな声で鳴いたが、その声はかすれていてほとんど聞き取れないほどである。
お母さんは飛び出してチビを抱え上げた。
チビはぐったりとしていて、口と顔のあたりから血が流れていた。顔のあたりの血はすでに固まっていたが、口からはまだ少し血が流れていた。電灯に照らされたテラスには点々と血の跡が見られた。

お母さんは大声でチビの名前を呼び、抱き上げた。それでなくとも大きなチビの体は、ぐったりとしていてさらに重たそうにお母さんは抱え上げて、
「どうしたの、チビ。しっかりして!」
と繰り返した。お母さんの服のあちこちに血が滲んだ。

お母さんは、お父さんたちのために用意していたらしいバスタオルの上にチビを寝かせ、包み込むようにして抱き上げると、
「トラ、チロ、お留守番頼むわよ」
と言って、家を飛び出していった。
ボクが病院に行く時などに使われる籠は物置の中なので、お母さんはチビを抱きかかえたまま病院に向かったらしい。

ボクはトラに体を寄せて、小さく鳴いた。
お留守番を頼むといわれても、何が出来るわけでもないし、それは、いくら偉大なトラだといっても同じだと思う。
ボクたちは、ただ部屋の中をうろうろし続けていた。
寝そべってみても何だか落ち着かず、もちろん眠ることなど出来ない。
ボクとトラだけでの留守番が、とても長い時間になった。

どれくらいの時間が経ったのか、お母さんとお姉さんが帰ってきた。お母さんの電話でお姉さんは直接病院に行ったらしい。
「大丈夫よ、チビは大丈夫だからね」
と、お姉さんは、ボクたち二匹を同時に抱き上げてそう言った。
しかし、その顔はとても大丈夫そうな顔ではなく、「チビは大丈夫だから」という言葉は、お姉さんが自分自身に言っているような声に聞こえた。

お母さんとお姉さんとの会話や、お父さんに説明している話などから、チビの様子が少しばかり分かってきた。
どうやら、車か自転車にぶつかったらしく、怪我の様子からすれば、多分自動車らしいとのことであった。怪我をしているのは、頭と口の中で、腰のあたりも打っているのは、跳ね飛ばされたためらしい。
口の中の怪我は、出血はひどいが、治療で治るし、腰のあたりや足には骨折がないので、時間が経てば良くなっていくらしい。
問題は頭から顔にかけての傷で、おそらくここをぶつけたらしく、左目が心配だし、頭の方はしばらく様子を見る以外に方法はないらしい。

怪我をしたのは、血の固まり具合からすれば、お母さんが病院に連れて行った時から二時間ほども前のことらしく、もしかするとしばらくは気を失っていたか、まったく動けなかったのではないかと病院の先生は言っていたらしい。
おそらく片目は腫れあがっていて見えない状態なので、傷む体と見えない片目をかばいながら、一歩一歩必死になって家まで辿り着いたらしい。

お母さんもお姉さんも涙ながらに話していて、お父さんも沈痛な面持ちで聞いていて、お兄さんも側に立っていた。
頭の怪我は命にかかわるほどのもので、今はとにかく安静にしていることが大切で、鎮痛剤を打ってとりあえず寝かせているらしい。
この丸一日ぐらいが山で、手術というわけにもいかず、あとはチビの生命力に託すしかないという状態だというのである。
     *
その夜、ボクはトラに身体を寄せて眠った。
とても独りで寝ることなど出来なかったので、寝床を出てトラの横に寝そべったが、トラも嫌がる様子を見せずに僕の頭を舐めてくれた。
「チロ、トラに優しくしてもらいなさいよ。そうそう、トラに舐められていい顔しているわね。トラもチロも、良い夢を見てぐっすり眠れば、きっと明日にはチビも元気になるからね」
とお姉さんはボクたちの頭を撫でてくれた。

その夜、ほんとにボクは夢を見た。
しかしその夢は、ボクが大怪我をして、口から血を垂らしながら、一歩一歩、懸命にわが家に向かっている夢であった。

     * * *

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キャットスマイル  ⑩ チビ頑張る

2014-03-18 18:59:55 | キャットスマイル 微笑みをありがとう
          キャットスマイル
               ⑩ チビ頑張る


次の日も、チビは帰って来なかった。
ボクは、朝から落ち着かず、部屋の中をうろうろしたり、ガラス戸に顔を押し付けて、テラスにチビがいないか何度も何度も見に行った。入院しているのだから、テラスにいるはずがないことは分かっているつもりだったが、気がつくと、ガラス戸に顔を押し付けているのです。
     *
トラは、いつもと変わらぬ威厳で、堂々と寝そべっている風に見えたが、いつもなら少々の物音などではピクリともしないのに、今日は朝から、何か音が聞こえたりすると、顔を持ち上げ、耳をぴくぴく動かしている。
トラもやっぱりチビのことが心配なのだ。いくら威厳があっても、心配なものは心配なんですよ、きっと。

朝の仕事が一段落したらしいお母さんが、
「チビの様子を見てくるから、しっかりお留守番していてね」
といって出掛けて行った。
ボクは何だか心細くなり、お母さんの足にまとわりつくと、お母さんはボクを抱き上げて、
「大丈夫よ。チビは頑張り屋さんだから、あのくらいの怪我には負けないわよ。様子を見てくるから、おとなしく待っていてね」
と、ボクをトラの横に降ろした。

トラは、分かったとばかりにボクの頭を舐めてくれたが、その視線はやはりお母さんの方を見ていた。
「トラ君も、あまり心配しないで。チビは、きっと大丈夫だから」
と、お母さんはトラの頭を撫でてから、部屋を出て行った。
お母さんは、ボクやトラを心配させないために、「大丈夫よ」と何度も言ってくれていたが、きっとあれは、お母さんは自分自身に言って聞かせているように思えて、お母さんが出て行くと、何だかとても心細くなってしまったのです。

トラはお母さんの言いつけを守ろうとしているかのように、やたらボクの体を舐め回り、優しい表情を見せてくれる。
いつもは、チビのようにボクの食べ物を狙ったり、ボクの寝床に押し入ってきたりしない代わりに、ボクにはあまり関心のないような顔をしていることが多いのに、今日はやたらに優しい。
そのことが余計にボクを不安にさせるのだ。

それしても、ボクにとって、トラやチビはいったい何なんだろう。
どういう理由からか分からないけれど、生まれた所を離れることになってしまい、今では母親の顔さえ思い出すことが出来ない。
いたずら坊主たちに追い回されて、怪我をしてこの家に飛び込んできたことからトラやチビと一緒に暮らすことになってしまった。別にボクが望んだわけではないが、トラやチビの方がもっと望んでいなかったことのはずだ。

それに、あの時のボクは医者に連れて行ってもらったとはいえ、傷ついていたし、泥だらけだったし、第一自分が思っていたよりはるかに小さかった。お母さんやお姉さんは、やたらボクを可愛がってくれたので、トラやチビは面白くなかったはずだ。
しかし、トラもチビも、ボクをいじめることなど一度もなかった。そりゃあ、チビは、しょっちゅうボクの寝床を狙っているけれど、いじめているわけでないことはよく分かっている。
今では、三匹が一緒にいることが当然のようになってしまっている。今まであまり考えたことなどなかったが、こうしてチビが大怪我をして入院してしまうと、三匹が揃っていないことが大変なことだということがひしひしと感じられる。

お母さんはなかなか帰って来なかった。
病院だけではなく、お買い物などにも行っているのだと思うけれど、それにしても帰ってくるのが遅すぎるような気がする。何だか悪いことが起こっているみたいな気がしてならない。
トラも同じようなことを考えているのか、何度かガラス戸越しにテラスやその先の庭の方を見渡し、戻ってきてはボクを舐めてくれる。そしてしばらくすると、またガラス戸に近づいて行く。

ようやくお母さんが帰ってきた。
お母さんはまとわりつくボクたちの横に座り、交互に頭を撫でてくれた。
「安心して、チビは大丈夫よ。ただね、頭を強く打っていて、食事を食べないみたいなの。体の傷は大丈夫だし、口の中も切っているけど、すぐ良くなるらしいわ。あとは、頭を打った後遺症が治まることと、片目がどうなるか少し心配なの」
と、お母さんはボクとトラに、一言一言かみしめるように、丁寧に話してくれた。
「夕方もう一度様子を見に行くつもりなので、それまでに少しでも食べられるようになるといいんだけれどね。あなた方もあまり心配しないでね。チビは一生懸命頑張っているから、二、三日できっと元気になるわよ。そう、絶対大丈夫だからね」
と、お母さんは、涙声になっているのに気がついたのか、ボクたちから離れて行った。

お母さんが離れて行くと、トラはいつもの位置である食卓の下に戻り、ゆっくりと寝そべった。その姿には、いつもの威厳が戻っていて、さすがだと思った。
しかしボクは、お母さんの言っていることがどういうことなのか今一つ分からず、トラについて行って、寝そべっているトラに体を寄せた。トラは嫌がりもせず、ボクの体を舐めてくれた。
ボクはお母さんが説明してくれていたことを思い返していた。
お母さんが、大丈夫、大丈夫と繰り返していることが、気になって仕方がなかった。あの食いしん坊のチビが食欲がないということも心配だった。

お母さんは、夕方遅くにお姉さんと一緒にチビを見に行ったようだ。
少し元気を取り戻しているらしいが、食事が出来ないらしく、今夜も帰ることが出来なかったようだ。
「でも、大丈夫よ」
と、お母さんは、お父さんに説明しているのを聞いていたボクやトラに、語りかけた。
「でもね、頭を打っているから、帰ってきて万が一のことがあると大変だから、もう一日入院していることになったのよ。だから、あまり心配しないでね」

しかし、トラは次の日も帰ってくることが出来なかった。
少し食事が出来るようになったらしいので、最悪期は過ぎたらしいけれど、まだ、頭や目が心配らしい。
結局トラが帰ってきたのは、四日目の夕方だった。
心配していたほど体は痩せていなかったが、左目の様子がおかしく、顔の形が少し変わっているように見えた。毛を少し切り取っていることが原因らしいけれど、大分険しい顔つきになっているように見えた。

「しばらくはおとなしくしている必要があるので、トラもチロもいたずらをしては駄目よ」
とお母さんはボクに言い、チビ専用の寝床を用意していた。
ボクは恐る恐るチビに近づいた。病院のあのいやな匂いがチビの体に染みついているようで、どうも気味が悪い。それでも勇気を出して近付くと、チビは低い声で唸り、どうやら近づくのを嫌っているみたいだ。
トラは少し離れた所からみているだけで、チビに近付こうとはしなかった。やはり、何か違うものをチビに感じているのかもしれない。

その夜、チビはお母さんが用意した寝床用の箱の中で眠り、トイレに二度ばかり行ったほかは、うろつくようなことはしなかった。
トイレに行く時も、少しひょろついているみたいで、まだまだ良くなっていないみたいだ。
明け方になって、ボクは勇気を振り絞って、チビの寝床に近付いた。やはりチビは眠っていなかったらしく、すぐに目を開けてボクを見た。確かに左目がおかしい。
チビは、ボクに向かって小さく声を出したが、それは唸り声ではなく、警戒している声ではなかった。でも、近付くのは歓迎していない様子が伝わってくる。
ボクは、箱のすぐ近くに寝そべって、小さく鳴いた。
チビは、その声に特に反応することはなかったが、嫌がっている様子でもなく、目を閉じた。
     *
ボクは、いつの間にか、そのまま眠ってしまった。
いつもは、ボクの寝床を狙いに来るチビがうっとうしくて仕方がなかったが、今こうして近くにいるだけで何だか安心して、ぐっすりと眠れるような気がしていた。

「お母さん、見て。チロがチビの横で寝ているわよ。ほら、あんなに嬉しそうな顔をして」
「ほんと・・・。きっといい夢を見ているのでしょうね、笑っているもの」
 
     * * *
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キャットスマイル  ⑪ このままでいたい

2014-03-18 18:59:12 | キャットスマイル 微笑みをありがとう
          キャットスマイル
               ⑪ このままでいたい


チビは少しずつ元気を取り戻していった。
口の中をかなり傷つけたらしく、歯にも影響があるようで、あれだけ何でも食べていたチビが、スープのようなものを中心にして食べているのは、何だか滑稽な感じもするが、見ていて少し寂しい。
それに、まだ少し体がふらつくようで、ボクガ近くに寄るのもあまり気に入らないらしい。
     ☆
ボクは何とかチビに元気を取り戻させたくて、しきりに近づいていくのだが、特に怒るようなことはないが、喜びもしない。
トラは、そんなボクやチビの様子を見てはいるが、自分からは何の行動もしない。ボクをたしなめることもないし、チビを励まそうともしない。
じっと見守っているだけである。

その後、チビは一度病院に連れて行かれたが、その時はあまり時間はかからず、すぐに戻ってきた。その後は順調らしく、後はチビの体力が戻るのを待つだけだと、お母さんとお姉さんは話をしていた。
確かにその通りで、一日ごとにチビは元気を取り戻してきているようだ。まだ寝床から離れないことが多いが、食事の量が少しずつ増え、食べる物もボクやトラと同じ物になっていった。
ただ、自分の分を食べるだけで、トラの分やボクの分まで食べにくるようなことはしなくなった。あれだけ憎たらしく思っていたのに、自分の分だけ食べ終わると、すごすごと自分の寝床に戻っていくチビの後ろ姿は、とても痛々しい。いくら憎たらしくても、チビには、早く図々しくなって欲しい。

それから大分日が経った頃、珍しくトラがチビの寝床に近づいていき、しきりに体を舐めだしたのである。
チビは、最初不思議そうにしていたが、そのうち少し喉を鳴らして、自分もトラの体を舐め始めた。見ていたボクは、何だか一人ぼっちにされているような気がして、二匹の間に割り込んでいった。
チビもトラも怒るようなことはなく、おざなりな感じではあったが、ボクの体も舐めてくれた。
そんなことかあった後、チビは見違えるほど積極的に動き回るようになった。
トラがチビに元気を与えたのか、たまたま元気を取り戻す頃になっていたのか分からないが、やはり、トラはすごい。

この後、チビは日ごとに元気になっていった。
まだ遠出はしないようであるが、テラスや庭に出ていくようになった。お母さんは、チビが遠くに行ってしまうのを怖がって、ガラス戸を開けないようにしていたが、チビの動きがしっかりしてきたことと、ガラス戸をガリガリ引っ掻き始めたため、以前のように外に出すようにした。
その時には、必ずといっていいほどトラもテラスに出たがった。トラはいつものように紐につながれるのだが、それでもチビを見張る役にはなるらしく、お母さんも安心らしい。
チビが外に出るときには、ボクも同じように外に出ることにした。外といっても、ボクはいつもトラと同じようにテラスが中心で、たいていはトラにひっついたり、その近くで寝ぞべることが多いが、チビが庭に出ていくときにはついていくことにした。

するとチビは、ボクガ庭に出ることが心配らしく、すぐにテラスに戻ってくる。ボクが心配してついて行ってやっていることを理解していないらしい。
それと、この頃からはっきりと分かってきたことだが、どうやらチビの左目は見えていないらしい。チビ自身も、片目が見えないということがどういうことだかよく分かっていなかったようだが、次第にそのことを認識してきたらしい。
まず、左目のせいだけではないかもしれないが、高い所に飛び上るのが不安らしい。隣家との一部にはブロック塀があるが、以前チビはその上に飛び上ってよく歩いていたが、何度か塀の下まで行くが、飛び上がろうとしなかった。
それと、庭を駆け回るスピードも前より遅くなっているように思う。家の中を走り回っているときには気が付かなかったが、これも、体とか足を痛めているというより、目の関係らしい。

そして、時間が経つにつれて、チビの左目は見ただけではっきり分かるほど変化してきて、見えていないことがはっきりしてきた。
お母さんは、そのことで何度かチビを医者に連れて行ったが、治療するというより、さらに悪くなっていかないかを心配してのことだったらしい。
しかし、チビは、見た目では片目が見えなくなっているのがはっきりしていくのとは反対に、片目で行動することに慣れてきたらしく、時々は外へ出て行くようになっていった。時には他所のネコと戦ってくるらしいが、片目になっても引けを取るようなことはないらしい。
お母さんやお姉さんは、チビを外に出すことには反対のようであったが、かといって、家に閉じ込めておくのは可哀そうで、少々危険があっても表を走り回っている方がチビらしいからということで、以前通りになっていった。

やがて三匹は、以前のペースの生活になっていった。
トラは食卓の下で悠々と寝そべり、チビは以前と同じような好き勝手な生活に戻っていった。怪我の後に買ってもらった寝床は気に入っているらしいが、そこを根城にしながらも、トラに甘えに行ったり、ボクの寝床を狙いに来たりする。
ボクも、この頃はチビのいない間にチビの寝床に潜り込んだりしているが、うっかり眠ってしまったりすると、チビはボクの寝床を占領してしまう。
このように、以前より少し変化はあるとしても、三匹それぞれに落ち着きを取り戻していった。
特に、チビが遠出することが少なくなった分、テラスで三匹一緒に過ごす時間が増えたみたいだ。テラスには箱が三つおかれていて、どれが誰の物とも決められていないが、チビはすぐにトラかボクが入っているところに割り込んでくる。

お天気の良い時は、三匹は並んで長々と体を伸ばしていることも多くなった。
お母さんたちもそうだが、特に訪ねてきた人たちは、ぼくたち三匹が長々と体を伸ばして寝ている姿が可笑しいらしい。
「幸せそうねぇ」
と、決まってその人たちは言う。
きっとそうなのだろうと、ボクたちも思う。

そんなある日、突然ボクは籠に入れられて、病院へ連れて行かれた。
「大丈夫よ。ちょっと検査をしてもらうだけだから」
と、お母さんはボクを安心させようとしているが、理由がよく分からない。
チビが大怪我をしてからもう大分経つが、チビは今でもたまに病院へ行っているが、ボクはどこも悪くないので、お母さんはチビとボクを間違えているのではないかと思った。でも、いくら何でもお母さんがボクをチビだと思うはずがないと思う。
ただ、このところ、食事があまり欲しくなくなっていて、食べ残したり、ほとんどチビに食べられてしまったりしているので、お母さんはそのことを気にしていたのかもしれない。
     ☆
病院の結果は、特別なことはなかったらしい。

ボクたちは、天気さえよければ、テラスで三匹並んで長々と体を伸ばしている。
「こんな時間が、ずっと続けばいいなあ」
と、ふと思う。

それと、いつもは顔を見せることなどほとんどないのに、夜中にお兄さんが話しかけてくることが時々ある。
それが、少し気にかかる。

     ☆   ☆   ☆


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キャットスマイル  ⑫ 旅立ち

2014-03-18 18:58:27 | キャットスマイル 微笑みをありがとう
          キャットスマイル
               ⑫ 旅立ち


穏やかな日が続いた。
ボクたち三匹は、それぞれ気ままに、それでいて、いつの間にかしっかりとした仲間になっていた。
仲間というより、トラはボクたちのお父さんのようで、チビはお兄さんみたいならしい。
お姉さんは、ボクを抱き上げた時には、そう話す。

確かに、そのような関係のようにも思うが、チビがボクの兄貴だというのは、どうもしっくりこない。
チビは、よくボクに甘えてくるからである。
     ☆
このところ、定期的にボクは病院に連れて行かれる。
自分では特に悪いところなどないと思っているのだが、いつも注射される。ボクは注射など怖くもなんともないが、あの病院の臭いが嫌だ。
それに白い台に乗せられて、体を押さえつけられる。
その時、いつもボクは、このままお母さんは帰ってしまい、この人たちに捕まえられたままになるのではないかと、不安に襲われる。

それ以外は、特別なこともなく、チビは片目が見えなくなってしまったようだが、最近は大して苦にならないらしく、外へ出て行っては、時々は他のネコと戦って帰ってくる。傷をして帰ってくることも少なくないが、それでも戦いには常に勝っているらしく、別に自慢話をするわけではないが、雰囲気でそれがわかる。チビは、ボクなどに対してはだらしないが、外で戦う時には勇ましいらしい。
トラは、部屋の中でも、テラスに出ているときでも、あまり動き回らない。まだ年寄りというほどの年齢ではないが、寝そべっていることが多い。それと、最近はボクに対してとても優しいような気がする。

それともう一つ気になることがある。
これまであまり構ってくれることなどなかったお兄さんが、時々話しかけてくることがあることだ。
お兄さんは、あまりボクたちの近くにくることはないし、お母さんやお姉さんと話をすることも少ない。
いつもはほとんど外出しているらしいが、家にいるときも二階の自分の部屋にいることが多いらしく、ほとんど姿を見せない。
ところが、最近、大体夜遅くが多いが、ボクの近くに来て話していくことがある。
たいていは、じっとボクを見つめてやさしい笑顔を見せているか、うん、うんと何かをボクに伝えていて、ただうなづいていることが多い。

体調が変だとボクが自分ではっきりと感じだしたのは、お兄さんの姿を見ることが多くなった頃からだった。
定期的に病院に連れて行かれていたので、どこか悪いらしいということは感じていたが、ボク自身はとても元気だったし、食事も以前と同じように食べていたから、病気だなんて自覚はなかった。
それが、時々、立ち上がる時に足がふらつくことがあるようになり、食事が全く欲しくなくなってしまうことがあるようになった。
チビがボクの食事を取りに来ても、前のように自分の食事を守る気持ちがしなくなり、簡単にチビが食べるのに任せるようになった。
二、三度はそのようなことがあったが、ボクが拒まないとなると、チビはボクの食事を取ろうとしなくなり、ボクがほとんど食べないで食器の所から離れても、残っているものを食べようとしなくなった。
変な奴だ、チビは。

ところが、そのため、ボクが時々食事をほとんど食べていない時があるのにお母さんが気付き、大騒ぎとなった。
わざわざ別の食事を用意をしたり、スープを作ったりしてくれるようになった。
もっとも、ボクが食事が欲しくなくなるのは毎日ではなく、一日おきぐらいなので、お母さんはボクのために二種類の食事を用意しなくてはならなくなった。
病院へ行く回数が多くなり、食事が満足に食べられなくなり、ボクは本当に病気らしい。

それは、暖かい日の事だった。
チビはどこかへ出かけて行っていて、トラはテラスに出ていた。
この頃ボクは、一日の大半を寝床で過ごしていたが、暖かそうな陽の光に浴びたいような気になって、そろそろとテラスに出ることにした。
お母さんは買い物にでも出ているらしく、家の中はとても静かだ。部屋からテラスに降りるのには、ほんの少しばかりの段差があるだけなのだが、今のボクにはそれさえ大変で、転がるようにしてテラスに出た。
どういうわけか、足が弱ってしまって、今ではトイレへ行くのさえ途中で二回ばかり休まなくては辿り着けない。

何とかテラスに出ると、すかさずトラが近寄ってきて、頭を舐めてくれた。
ボクは、トラに体を寄せてうずくまった。日差しがわずかにさしていて、頭をトラのお腹のあたりにつけると、とても暖かい。ボクはうとうとし始めた。トラも安心したように眼を閉じて寝そべっていた。
ボクは、何か、不思議な空間にいるような気がしていた。
なぜ、いまボクはここにいるのだろう。

気が付くと知らない公園でひとりぼっちにされていて、子供たちにぶたれたり追い回されたりして、この家の庭に逃げ込んだのはいつのことだったのか。
あれは、たまたまこの家に逃げ込んだことなのか、何かに導かれて逃げ込んできたことなのか、最近になって、考えるとがよくある。
大怪我をして木にすがりついていたボクを、この家のお姉さんとお母さんが見つけてくれて、助けられたのだ。
そして、威厳に満ちたトラと、ユーモラスで、大きな頭と、今思えば大きな心も持っているチビという仲間とともに、楽しい日を送らせてもらった。
でも、どうやら、それもぼつぼつ終わりにしなくてはならない時らしい。それがボクには分かるのだ・・。
ボクはそっと体を起こした。
今なら、まだ少しは体を動かせることができる。しかし、残されている時間はそう多くはない。今しかないのだ。

ボクは、テラスから庭に出た。やはり少し転げるような格好になってしまったが、それほどダメージはなかった。
庭を休み休み進んだ。それほど広い庭ではないが、考えてみれば、ボクはこの庭を駆け回ったことがほとんどなかった。それでも、ブロック塀ではなく、生け垣になっている隣家との境目には、少し隙間があることを知っていた。トラが時々そこから帰ってくるからだった。
そこから出て行けば、隣には植木が茂っている所が見えているので、身を隠すことができるはずだ。
ボクは、苦しくなるとうずくまり、また立ち上がって生垣に向かって進んだ。

ボクの動きに気が付いたらしいトラが、「ニャオー、ニャオー」と、大きな声を出し始めた。普段あまり泣かないトラだが、その声は威厳に満ちていて、ボクを励ましてくれているように聞こえる。
その声に励まされて、ようやく生垣に辿り着いた。あそこを通り抜ければ、あまり大きくない植木が集まっているので、潜り込める場所があるはずだ。そうすれば、あとは静かに時を待てばいいのだ。

ところが、ボクが隙間に入り込もうとすると、そこには大きな頭があった。片目は不気味な光を反射させ、片目は優しすぎる光をたたえている顔は、チビだった。
たまたま帰ってくるところだったのか、トラの声に異常を察して駆けつけてきたのか分からないが、隙間をふさいで動こうとしないのである。
「ウウッ・・」
と、ボクは渾身の声を振り絞って、チビに向かって威嚇の声を出した。「そこを退け ! 」と、ボクガ威嚇していることはチビに伝わっているはずだが、大きな体を動かそうとしない。
テラスでは、何時になくトラが激しく泣き続けている。

その時、お母さんが走ってきた。
買い物にでも行っていたはずだが、帰ってきてトラの激しい鳴き声が聞こえたのに違いない。走ってくると、ボクを抱き上げた。
「チロ君、どうしたの? 何処へ行くつもりなの? 」
と、お母さんはボクに頬ずりし、
「チビ、チロを守ってくれていたんだね」
と、チビにも声をかけた。

その日の夜、お父さん、お母さん、お姉さんが集まって、何かを相談していた。
トラは、三人が集まっている食卓の下で寝そべっていて、チビとボクはそれぞれの寝床に入っていた。いつもと変わらぬ状況である。
「チロは、きっと最後の場所を求めに行ったのだろうよ・・。もう、あまり辛い治療は、やめた方がいいと思う」
と、お父さんの声が聞こえてきた。
三人はなおしばらく話し合っていたが、そのあとお姉さんはボクの所へ来ると、ボクの体を撫でながら、
「チロ君、あなたは、何処へも行かなくてもいいのよ。だって、ここがあなたのおうちなんだから・・」
と、繰り返し話しかけてくれた。
そのうち、ボクは眠ってしまった。

目が覚めたのは翌朝早くだったが、起き上がろうとしたが、もう立ち上がることができなかった。
息が苦しく、遠くから全速力で走ってきたような苦しさだった。
近くには、お母さんとお姉さんがいて、少し離れたところにお父さんもいた。
トラとチビも少し離れて寄り添っているみたいだが、はっきりと見えなくなっていた。

その時、お兄さんの声が聞こえた。
「チロ。もういいんだよ。もう、頑張らなくていいんだよ。あとは僕についてくるだけでいいんだからね」 
「ああ、そうだったのか、この時のために、お兄さんはボクに話しかけてくれていたんだ」
とボクは思った。
そうすると、今までの息苦しさは消えてゆき、手足を存分に伸ばして眠られるような気がしてきた。幸せな気持ちに、頬が緩んだ。
「ほら、見て。チロ、微笑んでいるよ・・」
お姉さんの声が、かすかに聞こえていた。
     ☆
トラとチビがテラスで眠っている。それぞれがお気に入りの箱に入っている。箱は今も三つおかれている。
ボクは、チビの頭を舐めてやり、トラの体に身を寄せて少し甘える。
チビもトラもボクの気配を感じているはずだが、何の反応も示さない。

今日はお休みらしく、食卓にはお父さんもお母さんもお姉さんもいる。お兄さんも来ているらしい。
トラとチビと同じように、ボクも空いている箱に入ってみる。
何も、変わっていないんだ・・。

                                             ( 完 )

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運命紀行  森の下草

2014-03-16 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               森の下草

「新古今和歌集」に小馬命婦(コマノミョウブ)の歌が一首のみ採録されている。

『 露の身の消えばわれこそ先立ため 後れんものか森の下草 』

歌意は、「露のような身であなたが亡くなられるのであれば、わたしが先立ちましょう。あなたに後れることなど決してございません、たとえ森の下草のようなこの身であっても」といった、実に激しく切ないものである。
この歌は、「返し」となっていて、その前には、小馬命婦に贈った歌が載せられている。

「わずらひける人のかく申し侍りける」
『 長らへんとしも思はぬ露の身の さすがに消えんことをこそ思へ 』
歌意は、「生き長らえるとは思っていない露のような身だが、やはり、露のように消えていくことを悲しく思う」と、うったえているものである。

この二首は、「小馬命婦集」に載せられていたものをそのまま「新古今和歌集」が採録したものなので、他にもこのような例は多い。
従って、後の和歌の添え書きがこのような形になっているのは、小馬命婦が書き添えたものをそのまま採録されたためである。
この歌の贈り主は、「新古今和歌集」では「読み人知らず」とされているが、小馬命婦集から、藤原兼通の子である阿闍梨からだということがわかっている。
当時の阿闍梨は、女性との交際が禁断の世界ではなかったような例がたくさん見受けられるが、それにしても、たった二首の和歌が、二人の関係を様々に思い描かせてくれるもののように思われる。

小馬命婦は、次のような歌も残している。
『 数ならぬ身は箸鷹の鈴鹿山 とはぬに何の音をかなせむ 』
歌意は、「物の数にもあたらないこの身は、箸鷹(ハシタカ・小型のタカの一種)の足に付けた鈴のように、鈴鹿山を越えるあなたから便りがないのに、わたしがどんな音信をすればよいのでしょうか」と、恨み言のような内容の一首である。
この歌は、「伊勢に下った男性から、「鈴鹿山を越えるというのに、あなたから何の音信もないのは悲しいことだ」と言ってきたことに対する「返し」の歌と添え書きがある。
この相手が、先の阿闍梨と同一人物なのかどうかは分からない。また、この歌には、「鈴鹿と鈴と音信」「箸鷹と はした(身分が低いこと)」などの縁語といった技巧がなされているようであるが、それはともかく、先の歌とともに、自分をずいぶん卑下しているように感じられてならないのである。
当時の歌や物語などによく見られるような、単なる言葉の綾なのか、実際にそのような環境にあったのか、あるいは必要以上にそのようなことを感じる女性であったのか、それを知りたいと思ったのである。

しかし、小馬命婦の残されている消息は極めて少ない。
「小馬命婦集」という家集があり、勅撰和歌集には全部で七首採録されている一流の歌人なのにである。また、「何々命婦」という呼び名は、当時の文献にたくさん登場してくるが、平安時代の頃になると、「従五位下以上の位階を有する女性、あるいは官人の妻」が付けることが多く、内侍司に仕える女性だったようである。但し、命婦は官職ではなく、ある程度身分を表す称号のようなものであったようだ。
従五位下以上ということは、概ね殿上人に当たる位で、命婦と呼ばれる女房は、いわゆる中臈クラスだったと考えられる。
摂関家や、公卿階級とは明らかな差はあるとしても、天皇や中宮の側近くに仕える身分に不足はなかったはずと考えられる。
さらに言えば、元良親王(陽成天皇第二皇子)・藤原高遠(正三位太宰大弐)・清原元輔(肥後守、清少納言の父)といった身分のある歌人と贈答歌を交わしているのである。

しかし、小馬命婦は、自らを「森の下草」とたとえているのである。


     ☆   ☆   ☆

小馬命婦の生没年、両親の名前は不詳である。
当時の女性の名前や生没年が詳らかでないことは珍しいことではない。しかし、歌集に名を残したり政権の側近くにあった人の、血縁について全く分からないという人はあまりない。

実は、本稿を書くにあたって、主人公として考えた「小馬命婦」は、清少納言の娘のことだったのである。
清少納言の娘については、「上棟門院小馬命婦」として、本稿の小馬命婦と区別されていることが多いが、現在でもこの二人が混同されている文書もある。さらに言えば、小倉百人一首にも採録されている歌人である周防内侍の母親も、「小馬内侍」と呼ばれた女性らしいので、少々ややこしい。
「加賀」とか「伊勢」といった名前であれば、紛らわしい人物が登場してきても不思議でないが、「小馬」という名前も、当時としてはありふれていたのだろうか。

それはともかく、明らかになっている足跡を追ってみよう。
小馬命婦が最初は藤原兼通に仕え、後に円融天皇のもとに入内した媓子(コウシ)に仕えた女房であったことは確かとされる。
藤原兼通は、西暦925年から977年まで生きた人物で、藤原北家九条流を率いて関白・太政大臣を務めている。妹の安子は、第六十二代村上天皇の中宮となり、第六十三代冷泉天皇・第六十四代円融天皇を儲けている。
天皇家とのつながりを背景に、兼通は絶大な権力を握り、関白に就任するとその翌年、天禄四年(973)二月に娘の媓子を円融天皇のもとに入内させた。
この時、媓子は二十七歳になっていた。当時の公卿の姫としては異例なほど遅い結婚で、何らかの事情があったと考えられるが、媓子は大変優れた人柄であったとも伝えられているので、兼通が皇室に入れる機会を待ち続けていたというのがその理由のように思われる。

二十七歳の媓子に対して、円融天皇は十二歳下で、満年齢でいえば十四歳になる直前にあたり、まだ少年の面影を残していたかもしれない。二人は、いとこにあたる関係でもあるが、入内の年の七月には媓子は中宮となり、その仲はとても睦まじかったとされる。
しかし、入内後六年にして媓子は世を去った。享年三十三歳である。
その死にあたって、円融天皇の悲しみはとても大きく、その時詠んだ歌が残されている。
『 思ひかね眺めしかども鳥辺山 果てはけぶりも見えずなりにき 』 (鳥辺山は葬送の地)

さて、小馬命婦であるが、何歳の頃、どういう経緯で藤原兼通の女房として出仕したのか分からない。
たとえ宮中でなくても、摂関家への出仕であるから、その素性などは当然問われたはずである。おそらくは、藤原氏か妻女などと何らかの縁故があったと考える方が自然と思われる。さらに、命婦と名付けられるからには、実家は中級貴族、例えば地方長官を務めるほどの家柄であったと考えられる。例に挙げるのが適切か否か分からないが、清少納言や紫式部の実家というのがその階級にあたる。

やがて媓子が入内するにあたって、小馬命婦は宮中に移り媓子に仕えることになったと思われる。もちろん官職としての出仕ではなく、女御(後に中宮)媓子に仕える女房としてであり、その際多くの女房が集められたと思われるが、実家から送り込まれた女房たちの役割は重視されていたと考えられる。
また、小馬命婦の年齢であるが、全く勝手な想像であるが、媓子といくつも違わない年齢であったと思われるのである。
小馬命婦が兼通・媓子以外に仕えたという記録が見当たらないので、媓子没後間もなく、宮中を去ったのではないか。
その頃には兼通も世を去っているので、藤原家に戻って出仕したという可能性も低い気がする。結局小馬命婦は、媓子と同じように、六年ばかりだけ華やかな宮中生活をしただけで、その後は、再びいずれかの家に出仕したのか、結婚生活に入ったのかは分からないが、歴史の光が届く場所からは消えてしまったのではないだろうか。

しかし、そのごく限られた中で、冒頭に挙げたような激しい恋をし、それでいながら「森の下草」と自らをたとえるような控え目な人柄が、今日その姿を謎めかせることになってしまったように思うのである。
残念ながら、小馬命婦については、ごく一般的な情報源にある以上の事実も、推定も手にすることができなかったが、冒頭の二首を味わうだけでも、魅力あふれる平安王朝の女房のように思われてならないのである。

                                                  ( 完 )





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運命紀行  夢のうちにありながら

2014-03-10 08:00:50 | 運命紀行
          運命紀行
               夢のうちにありながら

『 旅の世にまた旅寝して草枕 夢のうちにも夢をみるかな 』

これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて大僧正までも昇り詰めた僧・慈円の和歌で「千載和歌集」に採録されているものである。

「新古今和歌集」は、八代集とも呼ばれる勅撰和歌集の最後のもので、後鳥羽院の下命により藤原定家ら六名が撰者に選ばれているが、この和歌集編纂にあたっては、後鳥羽院自らや和歌所に属した多くの歌人などが加わったとされている。慈円もその一人である。
「新古今和歌集」には、1978首の和歌が採録されているが、採録されている数の多い順に歌人を挙げてみると、
第一位・西行 94首。 第二位・慈円 92首。 第三位・藤原良経 七十九首。 第四位・藤原俊成 72首。 第五位・式子内親王 49首。 となる。
西行、慈円という僧籍にある人物が上位二人になっているのである。当時、和歌の世界では西行の存在は極めて大きかったとされるが、「新古今和歌集」の採録数でみる限り、慈円は西行に肩を並べるほどの評価を受けていたことになる。

歌人としての慈円は、「新古今和歌集」ばかりでなく、勅撰和歌集に採録されている数は269首といわれており、そのほかに歌集もあり伝えられている和歌の数は極めて多い。その中から代表的なものを選び出すのは至難の事であり、ここでは、「新古今和歌集」の中から何首か選んでみる。

『 みな人の知り顔にして知らぬかな かならず死ぬるならひあるとは 』
歌意は、「だれも皆、知っているような顔をしているが、何と知らないことか、必ず死ぬという、定められた習わしがあるということを」

『 昨日見し人はいかにと驚けど なほ長き夜の夢にぞありける 』
歌意は、「昨日会ったばかりの人が、どうして儚くなってしまったのかと驚くばかりだが、やはり、『長き夜の夢』とたとえられるような、無常のなかをさまよっているのだなあ 」

『 なにゆゑにこの世を深くいとふぞと 人の問へかしやすく答へん 』   
歌意は、「 どういうわけで、この世をそれほど嫌うのかと、どなたか訊ねてください。即座にお答えしましょう」

『 思ふべきわが後の世はあるかなきか なければこそはこの世には住め 』
歌意は、「思い慕うような後の世(極楽浄土)は、あるのかないのか、ないからこそ、この世に住んでいるんだよ」

『 極楽へまだわが心ゆき着かず 羊の歩みしばしとどまれ 』
歌意は、「修業が足らず、わたしの心は極楽浄土へ行き着くまでになっていない。羊が屠所に向かうように、死に近づいている命の歩みよ、しばらくとどまっていてくれ」

恋の歌も一首加えておく。
『 わが恋は松を時雨の染めかねて 真葛が原に風騒ぐなり 』
歌意は、「わたしの恋は、時雨が松を紅葉させることができないように、想う人をなびかすことができず、真葛が原に風が葛の葉の白い裏を見せているように、恨みの心が騒いでいます。(裏見と恨みを結んでいる)」

以上は、いずれも「新古今和歌集」に載っているもので、特別にこのような性格のものを選んだわけではないが、いかにも僧侶を連想させるような内容ばかりのような気がする。恋の歌とされるものでさえ、説法ではないとしても理屈っぽい気がしてならない。
これらの歌が、当時の人々に、特に宮中や著名な歌人たちから高い評価を受けたらしいというのは、少々不思議に思う。
ただ、現代の私たちから見ると、ほとんどの歌が、そのまま大体の意味を理解できる内容のような気もする。
そして、何よりも、慈円という人物を、新古今時代を代表する歌人という切口だけで見てしまうと、人物像を見誤る気がするのである。


     ☆   ☆   ☆

慈円は、久寿二年(1155)の誕生である。保元の乱勃発の前年のことである。
保元の乱は、天皇家、摂関家、そして次第に力をつけてきていた武家が、それそれれの勢力拡大のために入り乱れた動乱である。
天皇家は後白河天皇と崇徳上皇、摂関家は藤原忠通と藤原頼長、武家は源義朝・平清盛らと源為義・平忠正らが互いの思惑を秘めて激突した戦いであった。結局、後白河・忠道・義朝・清盛らの連合体が勝利し、敗れた側は散っていったが、四年後には、今度はむしろ武家が中心ともいえる平治の乱が起こった。この二つの戦乱は、武家が大きく飛躍するきっかけとなったと言える。
その後、平清盛の全盛の時代となり、やがて源平合戦を経て源頼朝が鎌倉に幕府を開くことになる、武士が激しく戦った時代であるが、同時に、政権の中心が公家勢力から武士階級へと移っていく時代でもあった。
慈円が生きた時代は、まさにそのような時代であった。

慈円の父は藤原忠通。摂政・関白・太政大臣を務め、公家社会の頂点にあった。
しかし、母の加賀局は二歳で他界し、父も十歳の時に亡くなっている。
慈円は、幼い頃に青蓮院に入寺しているので、まだ父が健在な時であったと思われる。
僧籍に入った理由などは伝えられていないが、慈円は忠通の十一男にあたることや、当時天皇家や摂関家から有力寺院に入ることは珍しいことではなかったので、特別異例なことではなかったようだ。

仁安二年(1167)、天台座主・明雲について受戒、十三歳の頃のことである。
以後、当然ながら相当の修養を積んだと考えられるが、摂関家の子息らしい順調な立身を続けたようである。仏教界においても、公家社会と同様の家柄による身分制度は濃厚に守られていたからである。そのうえ、慈円の場合は、若くして学問の非凡さを示していたようであるが、その一方で、紛争の絶えない当時の延暦寺に嫌気をさし、隠居を同母兄である藤原兼実に申し出たりしていて、苦労も小さくなかったようだ。

文治二年(1186)、平家が滅亡し源家の時代が到来すると、源頼朝の支持を得て兄・兼実が摂政に就くと、その後は、平等院執印、法成院執印など大寺の管理を委ねられ、文治五年には後白河院により宮中に招かれるなど、慈円は仏教界で存在感を高めていった。
そして、建久三年(1192)に三十八歳で天台座主に就任し、権僧正に叙されている。
この天台座主の地位は、建久七年(1196)に兼実が失脚し、慈円もその地位を辞している。
しかし、建仁元年(1201)に再び天台座主に復帰し、和歌所寄人にもなっているが、翌年には座主を辞している。その翌年には、大僧正に任じられているので、この時の辞任は失脚ではなかったらしい。
大僧正も三か月ほどで辞しているが、この後は、前大僧正と呼ばれることが多かったようだ。

さらに、建暦二年(1212)には、後鳥羽院の要請で三度目の天台座主となり、翌年三月には辞任するも、同年十一月には四度目の天台座主となり、健保二年(1214)まで在任している。
結局慈円は、第六十二代・六十五代・六十九代・七十一代と、実に四代の座主を務めているが、これは初めてのことであった。
後世、土御門天皇の皇子である尊助法親王が八十二代・八十五代・九十一代・九十五代の四代を務め、伏見天皇の皇子である尊園法親王が百二十一代・百二十六代・百三十一代・百三十三代と四代務めている。
天台宗の長い歴史の中で、四代座主を務めたのはこの三人であるが、後の二人が法親王であることを考えれば、慈円の存在の大きさが浮かび上がってくる。

そして、慈円という人物の足跡を見てみると、歌人としての偉大さ、僧籍における存在感だけではないのである。実は、政界に対する影響力も、見過ごせない実績を残しているのである。
慈円がそのような立場になりえた一番の理由は、父・藤原忠通の存在であった。
保元の乱で勝利し公家の頂点に立った忠通は、また、多くの子供に恵まれていて、一族の基盤を強固なものにしていた。
忠道の実質的な後継者である慈円の同母兄・六男兼実は摂政・関白・太政大臣となり、九条家始祖とされる人物である。慈円の、仏教界あるいは政治の世界での活躍に最も寄与が大きかった人物と考えられる。
同じく同母兄の十男兼房も太政大臣に就いている。
あとは異母の兄弟姉妹であるが主な人物を挙げれば、四男基実は近衛家の始祖であり、五男基房は松殿家の始祖である。
また、長女聖子は崇徳天皇の中宮であり、次女育子は二条天皇の中宮である。(異説もある)
このような一族を背景に持ち、しかも慈円自身が再三天台座主に就任する実力者であり、和歌所の有力者となれば、節目節目に政治的な尽力を求められるというのも、当然といえば当然と言える。

政治的な面で最も大きな働きといえば、兼実の孫の道家の後見役を務め、摂政・関白・太政大臣の地位を務められる人物にしたことであろうが、鎌倉政権とのつながりも強く、京都朝廷と鎌倉幕府の協調を理想として尽力し、後鳥羽上皇の挙兵に反対したとされる。
道家の子・藤原頼経が頼朝直系の途絶えた鎌倉将軍の後継者として鎌倉に下向するのにも少なからぬ影響を与えたと考えられる。

これは、政治面とは少し違うが、当時異端視されていた専修念仏を唱えていた法然の教義を厳しく批判する一方で、その弾圧には反対し、法然やその弟子である親鸞を庇護したとされている。なお、親鸞は、九歳の時に慈円について得度している。慈円が仏教界全体に影響力を持っていたことが窺える話である。
また、藤原俊成・定家・為家と続く御子左家は、当時の歌壇の中心を担う家柄であるが、父や祖父の名声に押しつぶされそうになったのか、為家が出家を決意したことがあり、慈円が出家を思いとどまらせて、無事名門の跡を継がせたとも伝えられている。

このように、ごく断片的な資料を求めただけでも、慈円という人物が、単なる歌人とか、単なる僧侶とかという観点からではその偉大さを知ることができないことがわかる。
しかし、同時に、それほどの人物であってもなお、冒頭に挙げた和歌にあるように、「夢の中で夢をみているようだ」と詠んでいるのを思えば、生きることの難しさをつくづくと感じさせられてしまう。
最後に、「捨玉集」にある歌を紹介しておく。

『 わが心奥までわれがしるべせよ わが行く道はわれのみぞ知る 』

                                                     ( 完 )




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苦みの女王 ・ 心の花園 ( 55 )

2014-03-07 08:00:08 | 心の花園
          心の花園 ( 55 )
               苦みの女王

春まだ浅いこの季節は、時には冬の顔を見せ、特に北国ではまだまだ雪の季節ともいえます。
しかし、寒い地方も含めて、草花たちは春の訪れを知り、活動が活発になってきています。
身体的にも、そして何よりも精神的に、大きく羽ばたく季節の訪れです。

心の花園にも、新しい生命の活動が見られます。
今回は、山すそで静かに芽吹いている草花をのぞいてみましょう。「センブリ」もその一つです。
漢字では「千振」と書きますが、草花というよりは、薬草として知られている植物です。植物園などでも、山野草というより、薬草として区分けされていることが多いようです。

「センブリ」は、わが国では、北海道南西部より南の広い地域で自生しています。
草丈は5~30cmで、夏の終わりから秋にかけて白い花を咲かせます。「センブリ」は、リンドウ科センブリ属の植物ですが、その花もリンドウに似た実に可憐なものです。
変種に「ヒロハセンブリ」と呼ばれるものがあり、近縁種に「ムラサキセンブリ」「イヌセンブリ」と呼ばれるものがあり、紅花を付けるものもあるそうです。これらは、「センブリ」より少し大きくさらに可愛い花を付けるようですが、自生地は限定的のようです。

「センブリ」が、その存在感を示すのは薬効にあります。胃腸を中心に優れた薬効を発揮するようで、ゲンノショウコ・ドクダミとともに、わが国の三大民間薬とされています。また、漢方薬としては使われておらず、わが国固有の生薬なのです。
「センブリ(千振)」の名前の由来は、「千回振り出してもまだ苦い」ということから来ているそうですが、かつては、苦い物の代表とされていました。

わが国に広く分布し、民間薬として大きな働きをしてきた「センブリ」ですが、近年、自生地は減少の一途をたどり、すでに、絶滅したり、絶滅危惧種とされている地域もあるようです。
個人の園芸種としては一般的ではありませんが、山野草として根強い愛好者も少なくないそうです。
「センブリ」の花言葉には「はつらつとした美しさ」というのがあります。花から受ける印象は、「楚々とした美しさ」といった感じですが、その苦味から「はつらつさ」を感じ取っているのでしょうか。
そうだとすれば、「センブリ」を、「苦みの女王」と表現するのも決して大げさではないと思うのですが。

     ☆   ☆   ☆
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運命紀行  大輪の花

2014-03-04 08:00:54 | 運命紀行

          運命紀行
               大輪の花

平安王朝における女性ナンバーワンは誰なのか。
これは、なかなか難しい課題である。政治面、文化面、あるいは容姿などのどの面に重点を置くかによって変わってこようが、伝えられるところの容姿や、知性・教養などを中心として、最も魅力的な女性を選ぶとすれば、どのような女性が上位に名を連ねるのであろうか。
文学という面から見れば、清少納言や紫式部が上位に位置するように思われるが、彼女たちが容姿端麗面で抜きんでていたという記録は、どうやら無いらしい。

個人的には、容姿端麗、文学面で優れ、華やかな話題性を兼ね備えた和泉式部がナンバーワンだと考えているのであるが、これは個人的な思い込みが強いことも認めざるを得ない。このようなことを考えること自体にどれほどの意味があるかはともかく、この時代の歴史や文学などに興味がある人なら、数人の候補者を挙げるのは簡単だと思われる。
さて、その中に、「馬内侍」という女性を加える人はどれほどいるのだろうか。
「馬内侍」は、当時一流の人たちに仕えた女房であり、一流の人物たちと数多くの浮名を流したとされる女性であり、和歌に関しても一流の足跡を残しているのだが、現代の私たちには、馴染みが薄い人物といえる。

梨壺の五歌仙と称せられる女房たちがいる。
これは、平安王朝絵巻の頂点ともいえる一条天皇の御代、藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房たちのうち特に優れた五人を選んだものである。
一条天皇には、先に定子という美貌・教養共に特に優れた中宮がいて、そこには清少納言など多くの才媛が集められていた。道長は、政務の実権を握ると長女である彰子を入内させ、仕える女房たちには定子の女房に負けない才媛たちを数多く集めていったのである。
梨壺の五歌仙とは、その女房たちの中から選ばれた女房たちのことである。
さて、その五人とは、赤染衛門、和泉式部、紫式部、伊勢大輔、そして、馬内侍なのである。
いずれも当時一流の歌人であり、教養豊かな女房として、宮廷内に知れ渡った人物であり、馬内侍も、その中に加わって何の遜色もない女房だったはずであるが、なぜか、現代の私たちには正当な評価がなされていないように思われる。
今回は、この大輪の花ともいえる女房の生涯の一端を覗いてみる。

馬内侍(ウマノナイシ)の生没年は未詳である。
一部の説や、交際相手の年齢などから推定すれば、西暦950年頃の誕生で、没年は1011年頃と推定される。正しくはなくとも、そう大きな差異のない推定と考えられる。
名前の由来であるが、内侍というのは、天皇に近似する内侍司の女官の総称で、この時代の女房には「何々の内侍」という名前が多く登場する。内侍には、内侍司に仕えている女官のほかにも、斎宮寮や齋院司などにもいたが、大半は官職に就いていたと考えられる。「何々納言」とか「何々式部」と呼ばれる女房たちは、父親などの官職から付けられたものがほとんどで、官職ではなく、女院や中宮など身分の高い人物に私的に雇われていることになる。
ただ、「馬」というのはよく分からない。ウマ年生まれということも考えられるが、その場合は「午」の字が使われるはずである。命名には、個別な理由によるものが多いので、由来を求めるのに意味がなさそうである。

西暦950年は、第六十二代村上天皇の御代で、平安王朝が比較的落ち着いており、武士の台頭は今少し先で、公家政治が絶大な力を持っていた。
馬内侍は、文徳源氏の家柄に生まれた。父は、源時明であるが実父は時明の兄・致明(ムネアキ)といわれている。
第五十五代文徳天皇の皇子能有が源氏の姓を賜り臣籍降下したが、時明はその玄孫にあたる。暦とした天皇家の血筋であるが、すでに時明の時代には、皇室とは遠い存在で中流貴族の家柄ぐらいであったようだ。

馬内侍がこの時代の超一流の女房であったことを、いくつかの切り口から見てみよう。
まず、当人の家柄については上記したように、天皇直系からは遠くなっており、摂関家でもないことから、超一流というわけではない。
しかし、馬内侍は次々と出仕先を変えているが、いずれも一流人物ばかりなのである。
出仕したと伝えられている人物を列記してみると、
斎宮女御徽子女王(村上天皇女御) ・ 円融天皇中宮媓子(別名 堀川中宮) ・ 賀茂斎宮院選子内親王(村上天皇皇女) ・ 東三条院詮子(円融天皇女御・一条天皇生母) ・ 一条天皇皇后定子(清少納言も仕えていた) ・ 一条天皇中宮彰子(藤原道長娘。後一条・後朱雀天皇生母)
という人たちである。

また、定子に仕えていた頃、掌侍に昇進している。内侍司の三等官で暦とした役職に就いているのである。
因みに、内侍司は、四等官までの役職があり、一等官である長官を尚侍(ナイシノカミ/ショウジ)といい定員二名。二等官である次官を典侍(ナイシノスケ/テンジ)といい定員四名。三等官の判官を掌侍(ナイシノジョウ/ショウジ)といい定員四名。四等官は主典(サカン)というが、実際には設置されなかったらしい。
内侍司の女官は、天皇ばかりでなく皇后・中宮・女御など後宮の女性に仕える人も加えれば相当の数と思われ、さらに私的に抱える女房の数はそれ以上とも考えられる。
その中で、掌侍となれば、上位十人に入るわけであるから、馬内侍は女官としても相応の能力があったと考えられる。


     ☆   ☆   ☆

馬内侍が梨壺の五歌仙に加えられていることはすでに述べたが、中古三十六歌仙にも女房三十六歌仙にも加えられている。つまり、多くの場面で一流の歌人として認められているのである。
勅撰和歌集には三十八首採録されているが、そのほかにも「馬内侍集」などの歌集にも多くの和歌を残している。
そのうち「新古今和歌集」には八首採録されているので、見てみよう。

「斎宮女御のもとにて、先代の書かせ給へりける草子を見侍りて」
『 尋ねても跡はかくてもみづぐきの ゆくへも知らぬ昔なりけり 』
歌意は、「お探しして、先帝の御筆跡はこのように拝見いたしましたが、その御代の行方も分からない昔になってしまいました」
なお、先代とは村上天皇のこと。
この歌に対する「返し」として、女御徽子女王の和歌が載せられている。
『 いにしへのなきにながるる水茎の 跡こそ袖のうらに寄りけれ 』
歌意は、「昔の帝はいなくなったので、残されている御筆跡に泣いて流れる(亡くなって流れる)涙の跡は、御筆跡と共に私の袖の奥に残ることでしょう」

「五月五日、馬内侍に遣はしける」として、前大納言公任の歌が載せられている。
『 時鳥(ホトトギス)いつかと待ちしあやめ草 今日はいかなる音(ネ)にか鳴くべき 』
歌意は、「ほととぎすよ、いつ来てくれるのかと待っているうちに五月の節句となってしまった。待ちわびた今日は、どのような声で鳴いてくれるのだろう」
これに対する「返し」の馬内侍の歌は、
『 五月雨は空おぼれする郭公(ホトトギス) 時に鳴く音は人もとがめず 』
歌意は、「五月雨の季節には、そらとぼけて鳴くほととぎすですから、どうかすると、その鳴く声を誰も気にしてくださらないのですよ」

「兵衛佐(ヒョウエノスケ・兵衛府の次官)に侍りける時、五月ばかりに、よそながらもの申し初めて、遣はしける」 法成寺入道前摂政太政大臣(藤原道長)
『 ほととぎす声をば聞けど花の枝(エ)に まだふみなれぬものをこそ思へ 』
歌意は、「ほととぎすのように、あなたの声は聞きましたが、ほととぎすが花の枝にまだとまり慣れていないように、わたしもまた手紙を差し上げるのに慣れていませんので、一人思い悩んでいます」
これに対する馬内侍の「返し」の歌は、
『 郭公忍ぶるものを柏木の もりても声の聞えけるかな 』
歌意は、「忍び音で鳴くほととぎすのように、密やかな声で話しておりましたのに、ほととぎすの声が柏木の森から漏れて聞こえるように、私の声が聞こえてしまったのでしょうか」
なお、柏木は、皇居守衛の兵衛・衛門の異称である。

「『時鳥の鳴きつるは聞きつや』と申しける人に 馬内侍
『 心のみ空(ソラ)になりつつ時鳥 人頼めなる音(ネ)こそ泣かるれ 』
歌意は、「わたしの心は、うわの空になり続けていて、お尋ねになったほととぎすのように、頼みがいのないあなたが恨めしくて、声を出して泣いてしまいました」

「人にもの言ひはじめて」 馬内侍
『 忘れても人に語るなうたた寝の 夢見てのちも長からじ世を 』
歌意は、「わたしのことを忘れてしまっても、決して人には話さないでください。うたた寝のような儚い一夜を過ごした後も、長くはないと思われる命なのですから」
 
「左大将朝光(アサテル)、久しうおとづれ侍(ハベ)らで、旅なる所に来あひて、枕のなければ、草を結びてしたるに」 馬内侍
『 逢ふことはこれや限りの旅ならん 草の枕も霜枯れにけり 』
歌意は、「あなたと逢うことは、これが最後となる旅なのでしょうか。草の枕も、それを予言するように、霜枯れてしまっています」

「男の久しくおとづれざりけるが、『忘れてや』と申し侍りければよめる」 馬内侍
『 つらからば恋しきことは忘れなで 添へてはなどかしづ心なき 』
歌意は、「もしあなたが薄情であるのなら、わたしがこのように、恋しいことを忘れることなく、それどころか落ち着いた心でさえいられないのはなぜなのでしょうか」

「昔見ける人、『賀茂祭りの次第司(シダイシ・道の往来や行列などを取り仕切る役)に出で立ちてなんまかりわたる』と言ひて侍りけれは」 馬内侍
『 君しまれ道の往き来を定むらん 過ぎにし人をかつ忘れつつ 』
歌意は、「何とまあ、あなたが道の往き来を取り締まっているのですか。めぐり逢った人を片っ端から忘れてしまうあなたが・・」

以上が「新古今和歌集」にある馬内侍の歌であるが、最初の一首を除き残りは「恋歌」として載せられている。馬内侍の面目躍如と言える。
このうちの、藤原道長との贈答歌は、その職掌から道長二十歳の頃と判断できる。馬内侍の年齢は不詳であるが、おそらく三十五歳前後であったと考えられる。
当時の貴族層の姫の結婚適齢期は、十五歳前後と推定されるので、三十五歳というのは全盛を過ぎつつある頃と考えられるが、時代を背負って立つことになる若き藤原道長を惹きつけてやまない容色を保っていたことが窺えると思うのである。

真偽のほどはともかく、馬内侍との恋の噂が伝えられている人物は多く、しかもその身分の高さに驚く。
名前と最高位を列挙してみよう。
藤原朝光、大納言。
藤原伊尹(コレタダ/コレマサ)、摂政・太政大臣。
藤原道隆、摂政・関白・内大臣。
藤原通兼、関白・右大臣。
藤原実方、左近中将・陸奥守。
藤原道長、摂政・関白・太政大臣。
藤原公任(キントウ)、和歌の大家。大納言。
と、いった具合である。

さらに加えるならば、これはいささか江戸時代の春本を見るようではあるが、第六十五代花山天皇が即位の時、高御座(タカミクラ)の帳を掲げる役についていた馬内侍を、高御座の内に引き込んで事に至ったというのである。
何とも信じがたくきわどい話ではあるが、当時の文献の中から「天皇高御座の内に引き入れしめ給ひて忽ち以って配偶す」という一文を見つけ出すのは簡単にできるのである。
花山天皇の即位は、永観二年(984)のことで、天皇十七歳。馬内侍はすでに三十五歳前後になっていて、上記の道長との贈答歌の時と二年ほどの差なので、いかに馬内侍と言えども忙しすぎる感じはする。
伝承にも、馬内侍は二人いたとして、花山天皇の行動は否定していないが、本稿主人公の馬内侍とは別人としているものもある。

馬内侍は、女房生活の後半、一条天皇の中宮(後に皇后)定子に仕えていて掌侍に昇進したことはすでに述べた。その時期は分からないが、定子を敬愛してやまない枕草子の著者清少納言と一緒であった時期があったと考えられる。
定子は、父の死と道長の台頭により、次第に道長の娘である彰子にその座を奪われ、二十五歳の若さで世を去っている。長保二年(1000)のことである。
その後、馬内侍は彰子に仕え梨壺の五歌仙と称される存在にいたっている。
激しいライバル関係にあった定子から彰子に出仕を変えたのが何時のことなのか興味深いが未詳である。
定子没後のことなのか、それ以前に権力の潮目を見て移ったのであれば残念な気もするが、若き道長があこがれた馬内侍を、今度はわが娘のためにと懸命に口説いた可能性も極めて高いような気もする。

馬内侍は、ほどなく宮中を去っている。
「この世をば我が世とぞ思ふ・・」とまで歌われた道長の絶頂期の頃である。
その後は出家して宇治院に住んだと伝えられている。
没年は不詳であるが、寛弘八年(1011)の頃とも伝えられている。享年は、六十余歳と思われる。
平安王朝の絶世期の大輪の花・馬内侍の生涯を伝えられることが余りにも少ないのが、重ね重ねも残念である。
最後に、馬内侍歌集から一首挙げておきたい。

『 飛ぶ蛍まことの恋にあらねども 光ゆゆしき夕闇の空 』

                                            ( 完 )

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