第五章 ( 十一 )
奈良に居を定められ、嘉元二年(1304)となり、姫さまは四十七歳となりました。
都の方から伝わって参ります噂によりますと、正月の始めの頃でございましたでしょうか、御所さま(後深草院)の妃・東二条院殿がご病気だというのです。
どのようなご様子なのかと、姫さまもお気になされておられましたが、お尋ねする手立てがございません。僅かなご縁をたどってご様子を求められましたが、どうやら、もはやどうすることも出来ないご容態とのことで、すでに富小路の御所をお出になられて、伏見殿にお移りになったというのです。(御所が死の穢れを忌むため、死期が近付くとこのようなことが行われていたらしい。)
無常はこの世の習いと申しますが、いくら病が重篤とはいえ、住み慣れていらっしゃる御所をお出になられるとは、どういうご事情なのかと姫さまはご立腹のご様子でございました。姫さまにとりましては、東二条院殿は、何かと辛く当たられる御方でありました。姫さまが御所さまのもとを去ることになった直接の原因ともいえる御方なのです。
しかし、時を経た今となりましては、いかなるご事情があるとしましても、后として御門の玉座にお並びになられ、朝政さえも補佐され、夜も共にご一緒される御身でいらっしゃる御方なのですから、今は御臨終という場合でも変わることなく御所においてお世話申し上げるべきだと、姫さまは去りし日の東二条院殿の面影を思い浮かべつつ、ご同情申し上げ、昼も夜も懸命に御祈願に励まれたのでございます。その姫さまのお姿には、御所にお仕えしていた頃の恩讐などみじんも見受けられず、念仏に没頭されておられました。
しかし、姫さまの懸命の御祈願の効はなく、「はや、お亡くなりになられた」ということが伝わって参り、世間は大騒ぎとなりました。
ご薨去は、一月ニ十一日の事とか。七十三歳の御旅立ちでございました。
☆ ☆ ☆
奈良に居を定められ、嘉元二年(1304)となり、姫さまは四十七歳となりました。
都の方から伝わって参ります噂によりますと、正月の始めの頃でございましたでしょうか、御所さま(後深草院)の妃・東二条院殿がご病気だというのです。
どのようなご様子なのかと、姫さまもお気になされておられましたが、お尋ねする手立てがございません。僅かなご縁をたどってご様子を求められましたが、どうやら、もはやどうすることも出来ないご容態とのことで、すでに富小路の御所をお出になられて、伏見殿にお移りになったというのです。(御所が死の穢れを忌むため、死期が近付くとこのようなことが行われていたらしい。)
無常はこの世の習いと申しますが、いくら病が重篤とはいえ、住み慣れていらっしゃる御所をお出になられるとは、どういうご事情なのかと姫さまはご立腹のご様子でございました。姫さまにとりましては、東二条院殿は、何かと辛く当たられる御方でありました。姫さまが御所さまのもとを去ることになった直接の原因ともいえる御方なのです。
しかし、時を経た今となりましては、いかなるご事情があるとしましても、后として御門の玉座にお並びになられ、朝政さえも補佐され、夜も共にご一緒される御身でいらっしゃる御方なのですから、今は御臨終という場合でも変わることなく御所においてお世話申し上げるべきだと、姫さまは去りし日の東二条院殿の面影を思い浮かべつつ、ご同情申し上げ、昼も夜も懸命に御祈願に励まれたのでございます。その姫さまのお姿には、御所にお仕えしていた頃の恩讐などみじんも見受けられず、念仏に没頭されておられました。
しかし、姫さまの懸命の御祈願の効はなく、「はや、お亡くなりになられた」ということが伝わって参り、世間は大騒ぎとなりました。
ご薨去は、一月ニ十一日の事とか。七十三歳の御旅立ちでございました。
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