雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第百七十二回

2015-08-17 11:13:51 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 二十一 )

その夜は、亡き御所さまの御四十九日のことに加えて、御父上の大納言様のことが思いだされたご様子で、姫さまは、側に仕える者にまでいつにない悲しみをお見せになられました。

思えば、御父上の大納言様もご逝去なさいましたのは八月のことで、秋の露と儚さを競うような頃でございました。
この度の御所さまの御崩御も、秋の霧となって立ち上られましたので、空の姿もしみじみと感じられていたご様子で、姫さまは、「雨になられたのであろうか、雲になられたのであろうか」と、御所さまの御旅立ちをとてもご心配されるのでした。
『 いづかたの雲路ぞとだに尋ねゆく などまぼろしのなき世なるらむ 』
( 御所さまは、生まれ変わられて、何処の雲路にいらっしゃるとつきとめて、お尋ねしてゆく道士がなぜいない世なのか。)(まぼろし=道士)

さて、姫さまは、かねてより大集経の残り二十巻を、書写申し上げていないことを気にされておりました。
何としても、御所さまの御百箇日までに書写を終えたいとお考えでございましたが、この頃には、姫さまのもとにはほとんど財というものがなかったのでございます。
もともと蓄財などには全くご関心が無く、仕える身などからすれば気が遠くなるような金銀や財貨なども、惜しげもなく人に差し上げたり御布施に使われてきたのでございます。
日々の費えなどは、仕える者がそこそこ備えておりますし、ご心配いただく筋もあるにはあるのですが、姫さまがお手元の中から御布施に回す物となれば、身にまとう衣さえ墨染の物以外にはなくなっていたのでございます。

側に仕える者がお預かりしている資財は、下々の者なら何十度でも何百度でも御布施に当てられる物なのですが、姫さまがお考えの御布施にはとても及ぶものではございません。
それに、さすがに姫さまも仕える者が申し出ましてもそれに手を付けるお気持ちはなく、むしろ、とても大切なものを手放される決意を固められたのです。御両親の形見の品を手放すと申されるのです。
姫さまの御母上様がお亡くなりになる時、「この子に与えよ」と言って、平らな手箱で、鴛鴦(オシ・おしどり)の丸い文様を蒔絵にして、付属品や鏡まで同じ文様で仕立てたそれは立派なのを形見にされたのでございます。
さらに、今一つは、梨地(蒔絵の一種)に仙禽菱(センキビシ・鶴を菱型にした文様で、久我家の家紋)を高蒔絵にした硯蓋の中には、「嘉辰令月」(カシンレイゲツ・和漢朗詠集から引用)と、亡き御父上の大納言様が御自身でお書きになった文字を金で彫らせた硯が納められているものでございます。
姫さまは、これらの形見の品々を御布施にと決心されたのでございます。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十三回

2015-08-17 11:13:02 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十二 )

かねがね姫さまは、たとえ一期は尽きるとも、御両親の形見であるこの二品だけは失わないように努めて来られておりました。
この世に別れを告げて荼毘に付される時にもあの世までもともなおうと考えておられました。
度々の修行の旅に立たれます時にも、まるで気がかりな赤子をあとに残していくようなお気持になられていて、信頼できる御方に預けて旅立ち、帰ってきては一番に取り寄せられて、まるで御両親にお会いになるかのようなお気持ちになられて、手箱は四十六年、硯は三十三年の歳月を過ごされてきたのでございます。

姫さまのお気持ちは察するに余りあるものでございましたが、姫さまは静かに首を振られるのでございます。
「いかに大切な品々だとはいえ、今生にあって、人の命に勝る宝などありますまい。わたくしは、その命さえ御所さまの御為に投げ出そうと決意したのです。いわんや、いかに形見の品々とはいえ、しょせん煩悩の種となる宝に過ぎず、伝えるべき子供もないのと同様の身なのです。この形見の品々は、いずれ人の家の宝となるはずなのです。そうであれば、三宝に供養して、亡き君の御菩提にも回向して、二親のためにもその菩提を祈るために役立てたいと思うのです」
と、申されるのです。
とは申せ、事あるごとに慣れ親しんできた名残の品でございますから、姫さまの御心中はいかばかりでございましたでしょうか。

折しも、東国に縁を定めて移って行く人が、そのような貴重な宝物を探し求めているということで、三宝の御憐れみも加わったのでしょうか、姫さまがお考えになられていたよりはるかに多額な金子で引き取りたいと申し出がありました。
大乗経の書写の宿願が成就することが出来るのは有り難いことではございますが、いざ、御母上の形見である手箱を手放すとなれば、姫さまは込み上げてくるお気持ちを鎮めようとなされているご様子が、まことに痛々しく伝わってくるのでございます。

その時お詠みになられた御歌でございます。
『 二親の形見と見つる玉くしげ 今日別れゆくことぞ悲しき 』
( 二親の形見と見てきた玉くしげが、今日わたくしと別れていくのが悲しい。)

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十四回

2015-08-17 11:12:18 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十三 )

九月十五日より、姫さまは東山双林寺というあたりにて懺法(センポウ・罪を懺悔する法)というお勤めに入られました。かねてより宿願の内の前の二十巻である大集経までの書写を続けられました。

姫さまは、御所さまと過ごされました昔をしのび、御所を出てから今日までの様変わりの日々の中でも、お忘れ申し上げることなどなくお慕い続けて来られたことなどに思いを馳せながら、今はただ一筋に「過去聖霊成等正覚」(カコショウリョウジョウトウショウガク・死者の霊魂が迷いを去って悟りにつくようにという祈りの句)と、寝ても覚めても唱えられる日々をお過ごしになられました。
まことに、今生では様々なことがありながら、御所さまと姫さまの間こそ宿縁と申すものなのでございましょう。

清水山に鳴く鹿の音がかすかに聞こえて参りますと、姫さまはふと御手を止められて、「ああ、あの鹿もわが身の上と同じなのだろうか」などとつぶやかれ、垣根にすだく虫の声々にも、わが涙を尋ねてきたのかと寂しく微笑まれるのでした。
後夜の勤行のために夜更けて起きられました姫さまは、夜風が冷たさを感じさせる中を外に出られ、西に傾く月影をじっと眺めておられました。寺々の後夜の勤めも終わった頃と思われるのに、双林寺の峯でただ一人勤行をしている聖の念仏の声が、もの寂しく聞こえてくるのです。

『 いかにして死出の山路を尋ね見む もし亡き魂(タマ)の影やとまると 』
( どのようにして死出の山路を尋ねましょうか。もしかすると、亡き御魂の影が止まっているかもしれませんから。)

手助けしてくれる聖を雇い、料紙と写経のための水を取りに横川へ遣わしてから、姫さまは東坂本に向かわれ日吉社に参詣なさいました。
この御社は、姫さまの祖母であられた御方(久我の尼上。父方の祖父の後室)が、「神恩をこうむった」と申されて、いつもお参りされていたとのことでございます。

  ( この後、原本は切られていて、一部内容が不明、とされている。)

「どのような人であっても、居てくだされば・・」
と、申されていた人のことを、姫さまはたいそう同情されておられました。

後深草院の御陵に写経したものなどを奉納し申し上げようと姫さまは考えておられましたが、人目について怪しまれることでもあり、特に御所さまの御信仰が深かったことを思いだされて、春日の御社に参って、本宮の峰にお納め申し上げられました。
峯に鳴く鹿も、いかにも姫さまの悲しみに満ちたお気持ちを知っているかのように、ひときわ寂しく聞こえて参りました。
『 峯の鹿野原の虫の声までも 同じ涙の友とこそ聞け 』
( 峯に鳴く鹿や野原にすだく虫の声までも、わたくしと同じ悲しみに涙する友と聞きます。)

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十五回 

2015-08-17 11:11:21 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十四 )

さて、早いものでございまして、今年は姫さまの御父上であります故大納言殿の三十三年にあたります。
姫さまは、定められた通りの仏事を執り行われ、大事の時にお願いする聖のもとに諷誦文(フジュモン・追善のために、布施物を記し読経を僧に請う文)を遣わされましたが、それには次のような御歌が添えられておりました。
『 つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ 十(トオ)づつ三つに三つ余るまで 』
( つれなくも命長らえて、御父上に死別してから十年を三つと、さらに三年を越えて、三十三回忌を迎える年にめぐり逢ってしまいました。)

御父上を荼毘に付されました神楽岡という所を、姫さまはお尋ねになられました。
そこは、古びた苔がむして露が深く、道を埋めた木の葉の下を分けて行きますと、石の卒塔婆が、いかにも形見だと言っているかのように残っているのが、姫さまのお心をひとしお苦しくさせたようでございます。
「それにしても、この度の勅撰集(新後撰集)に亡き父が作者から漏れられたのは、まことに悲しい。わたくしがもし宮中に居て申し入れするならば、載せられないことなどなかったでしょうに。続古今集以来、久我家は代々の勅撰集の作者であったのです。また、わたくし自身の昔を思うにつけても、具平親王から八代伝えられてきた和歌の伝統が、虚しく絶えてしまうのかと思うと・・」
と、姫さまは涙を流されるのでございました。

『 古(フ)りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に 身はいたづらに海人(アマ)の捨て舟 』
( 古びてしまった久我源氏の家名が惜しゅうございます。この身は、和歌の浦になす術もなく打ち捨てられた海人の捨て舟のような存在です。)

その夜は、姫さまは悔しさにほとんど眠られぬご様子でございました。
亡き御父上の最期終焉の時の言葉などを思いだされているご様子でございました。
夜更けて、姫さまのまどろみの中に御父上の大納言殿が、昔のままの姿で現れたそうでございます。
姫さまも昔の姫さまに戻られて、その悔しさを述べられますと、御父上は、
「わが祖父である久我太政大臣通光(ミチテル)公は、『落葉が峯の露の色づく』という歌言葉を述べ、私は『おのがこしぢも春のほかかは』と詠んで以来、代々の勅撰集の作者である。そなたの外祖父兵部卿藤原隆親は、文永元年の後嵯峨院の鷲尾の臨幸の際に、『今日こそ花の色は添へつれ』とお詠みになった。そなたは、父方、母方のいずれの側からいっても、捨てられて良いはずの身ではない。具平親王以来、久我家は久しいものになるが、和歌の浦波は絶えたことはない」
などと話された上で、立ち去る際に、
『 なほもただかきとめてみよ藻塩草 人をも別かずなさけある世に 』
( やはり、ただ一心に歌を読み書きとどめていなさい。人を区別せずに情けをかけてくれるこの御代であるから。)
と詠まれて立ち去られた時に、姫さまは目覚めされたそうでございます。
  
   (父の話の中の歌は、次の歌を指している。)
    『限りあればしのぶの山の麓にも 落葉が上の露ぞ色づく』新古今集・久我通光
    『何ゆゑか霞めば雁の帰るらむ おのがこしぢも春のほかかは』続後撰集・源雅忠
    『ふりにける代々のみゆきの跡なれど 今日こそ花に色は添へつれ』続古今集・藤原隆親 

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十六回

2015-08-17 11:10:23 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十五 )

姫さまは、夢の中で亡き御父上の鮮明なお姿とお逢いになられました。
それも、とても夢の中とは思われないようなお話があり、久我家の誉れを様々に語られたそうでございます。

姫さまが和歌の道に秀でていることは、御所にある頃は広く知られておりましたし、墨染の姿になっての旅路においても、お会いする方々の多くが姫さまの御歌に感銘されたことが数多くございました。
さらに、今回の亡き御父上とのことがあってからは、姫さまはこれまで以上に歌の道に深く心をこめられるようになられたのです。
そのようなことから、この機会に人丸(人麻呂)のお墓を参拝することを思い立たれました。

姫さまは、早速に大和国の柿本人麻呂の歌塚に向かわれ七日間参籠なされ、その七日目にあたる夜は、夜通し参籠なさっておりました。
『 契りありて竹の末葉にかけし名の 空しき節にさて残れとや 』
( 前世からの因縁があって、柿本の御神は竹園(親王家)の子孫につながるわたくしに、願っても虚しいと思われる歌の道に残れと思し召しなのでしょうか。)

このような姫さまのご心境が届いたのでしょうか、その七日目の通夜の時に、一人の老翁が夢の中に現れたそうでございます。
そして姫さまは、この老翁の面影を絵に写し留めて、お示しになられた言葉を記され、これを『人丸講の式』と名付けられました。
「先師(柿本人麻呂を指す)のお心にかなう所があるならば、歌の道に精進するという宿願は成就することでしょう。宿願成就のその時には、この講式を用いて、写し留めた御影の前で供養を執り行いましょう」
と、姫さまは思い定められました。

姫さまは、この御影を大切に箱に納めておいででしたが、しばらくはそのままになり、宿願成就というわけではないのでしょうが、次の年の三月八日、この御影を供養なさいまして、ささやかではございましたが歌会などの御影供というものを執り行われたのでございます。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十七回

2015-08-17 09:25:41 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十六 )

そうこうしているうちに五月の頃になりました。
亡き御所さま(後深草院)の御命日が近付いてきたこともあり、姫さまはかねてからの宿願のことをお気にされておりました。宿願である五部の大乗経書写供養は、すでに三部は終えられていて、あと二部残っておりました。

姫さまは、「明日が必ずあるわけでもない」などと申されて、残りの二部の完成を急がれるご様子でございました。
ただ、まことにおいたわしいことではございますが、御布施の掛りなどが不如意で、その準備が必要となっておりました。
姫さまの大切な御形見のうち、御母上の手箱は昨年手放されていますので、残る宝物らしきものといえば、御父上から頂かられた硯が残されているだけだったのです。

「二つあった形見の品の一つを供養し奉り、父上からの物を残しておいてもどうしようもありますまい。幾世残したとて、あの世への旅に伴うことなど出来ますまい」
などと姫さまは申されて、この御硯を手放す覚悟を固められたのでございます。
そうとは申せ姫さまは、やはり、赤の他人の物にするよりも、近縁の者に引き取ってもらうことを考えられたようでございますが、思案なされているうちに、ご自分の心の内を知らないで、この世を渡って行く資力も尽き果てて、大切な形見の品まで手放すのかと思われるのもつまらないことだと考え直されたりしておりました。

ちょうどその頃、筑紫の小卿(太宰府少弐であった者か。氏名不詳)という者が、鎌倉から筑紫へ下るということで京に居りましたのが、聞き伝えて求めて参られました。
御母上の形見はすでに東国へ下っており、この度は、御父上の形見が西海をさして下って行くことになり、姫さまは悲しくも複雑な御気持ちであるかに見えました。
『 する墨は涙の海に入りぬとも 流れむ末に逢ふ瀬あらせよ 』
( する墨はわたくしの涙の海に入っていったとしても、流れていった先でいつか廻り合うことがあるようにしてほしい。・なお、「するすみ」には「無一物である身」といった意味もある)
この時のご心境を詠まれたものでございます。

そして、宿願の経供養は、五月の十日過ぎに思い立たれ、この度は河内国の聖徳太子の御墓の近くのお知り合いのもとに参られ、そこで大般若経二十巻を書写されまして、御墓に奉納されたのでございます。

     ☆   ☆   ☆




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十八回

2015-08-17 09:24:51 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十七 )

七月の始めに姫さまは、京にお戻りになりました。
御所さま(後深草院)の御命日を迎えましたからで、深草の御陵にお参りしてから伏見殿の御所へ参られますと、御仏事はすでに始まっておりました。

石泉院(シャクセンイン・比叡山の院家。現存せず)の忠源僧正が御導師で、院の御方(伏見院。後深草院の第一皇子で第九十二代天皇)が願主となられての御仏事でございました。
亡き御所さまの御筆跡の料紙を漉(ス)き返されて、院の御方が自ら書写あそばされた御経であると伺いましたので、姫さまはご自分と同じ思いなのだと院の御方のお気持ちを察せられて、畏れ多いこととは申せ、ひときわ悲しみが増しておられるご様子でございました。

次には、遊義門院(後深草院の皇女)の御布施ということで、憲基法院の弟にあたる人(覚守・比叡山の高僧)が御導師で、それも亡き御所さまの御手跡の裏に書写されたという御経こそ、多くのことの中でも姫さまのお心にしみておりました。

一周忌なので、悲しさも今日を締めくくりとされると思われ、姫さまはあれほど厳しい日差しもさして苦しいとは感じられないご様子で、がらんとしてしまった御庭に残っておられました。
御仏事が終わりますとともに、還御ということで大勢の人たちで混雑してきましたので、姫さまは、そのお心のうちをどなたに訴えることも出来ず、切なげなご様子でございました。
『 いつとなく乾く間もなき袂かな 涙も今日を果てとこそ聞け 』
( いつということなく、涙で乾く間もないわたくしの袂です。人々の涙は一周忌の今日を果てとすると聞いておりますが。 )

持明院の御所(院の御方、伏見院のこと)と新院(後伏見院。伏見院の第一皇子、第九十三代天皇)が、御聴聞所にお渡りになっておられました。
そのお姿が御簾に透けて見えておりましたが、持明院様の鈍色(ニビイロ・濃い鼠色)の御直衣が、特に黒く見えているのも今日限りのことと悲しさを増しているかに見えました。
また、後宇多院(第九十一代天皇、遊義門院が妃となっている)の御幸があって、同じ御聴聞所へお入りになっていらっしゃるご様子を拝見しますと、御所さま(後深草院)の亡き御跡までもご子孫のご繁栄が続いていることに、姫さまの感慨はひとしおのようでございました。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百七十九回

2015-08-17 09:22:46 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 二十八 )

御所さま(後深草院)の一周忌を迎える頃からだったのでしょうか、法皇様(亀山法皇。後深草院の弟で第九十代天皇)が御病気だという噂がございました。
皇室関係の御不幸がそうそう続くものでもない、と姫さまは申され、御病気ということはいつもあることで大騒ぎすることでもありますまい、とも申されておりましたが、そのうちに、とてもお助かりになりそうもないということで、嵯峨亀山殿に御幸されたという噂が伝わって参りました。
去年、今年と続く皇室の御不幸は、どうしたことなのでしょうと、姫さまはどうすることも出来ない身の上とはいえたいそうご心配のご様子でございました。

大乗経奉納のご宿願は、河内国の聖徳太子の御墓に奉納されましたが、姫さまには、般若経の残り二十巻を今年中に書き終わりたいという願いも抱いておられました。
常々それは熊野にて果たしたいとお考えだったので、ひどく水が凍りつく前にと思われ、九月十日に熊野に向けて出立いたしました。
法皇さまの御病状は変わらず御危篤との噂でしたが、ほんとうはどのようなご状態なのかお伺いするすべもなく、気にかけながらのご出立でございました。ただ、去年の御所さまの御隠れの時の悲しみほどの苦しさは感じられないご様子で、「情けないことですが、これを愛別離苦というのでしょうね」と寂しく微笑まれるのでした。

熊野では那智の御山に参り、いつものように、宵や暁の垢離(コリ)の水を精進潔斎にみなして、その水を使って般若経を書写なさいました。
九月も二十日過ぎのことなので、峯の嵐もやや烈しくなり、滝の音も涙と競い合うような心地となり、このうえなく哀れな風情でございました。
『 物思ふ袖の涙をいくしほと せめてはよそに人の問へかし 』
( 物を思い流した袖の涙の紅を、どれほど染めたのでそのように深いのか、せめてよそごととしてでも、人は尋ねてください。)
この時の姫さまの御歌でございます。

形見の品を総て売り払われ、そのお金をかけて経供養をなさいます姫さまのお志は、み熊野の権現様も納受されますことと、仕える身ではありますが祈るばかりでございました。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百八十回

2015-08-17 09:21:46 | 二条の姫君  第五章
              第五章  ( 二十九 )

熊野での書経の日数も残り少なくなった頃のことでございます。
どちらの旅先でも感じることですが、この度は写経という宿願を抱えてのお籠りでしたので、御山を出る日が近付きますと、名残惜しい気持ちが積もってくるものです。
姫さまは、そのようなお気持ちを抱きながら夜もすがら参拝などのお勤めに励んでおられましたが、少しまどろまれた暁の頃に、夢をみられたそうでございます。

故御父上の大納言殿が姫さまのお側に現れまして、「御所さまの出御の最中であるぞ」と告げられたそうです。
姫さまは、そのお言葉を聞き見回してみますと、御所さまは鳥襷(トリダスキ・尾長鳥二羽を用いた模様)を浮織物に織った柿色の御衣を召して、御体は右の方へ少しばかり傾いているご様子で、姫さまは左の方の御簾から出てお迎え申し上げられました。
御所さまは、証誠殿(ショウジョウデン・熊野本宮の第三殿)の御社にお入りになって、御簾を少し上げられて微笑んでおられ、とてもご機嫌うるわしいご様子です。

さらに、「遊義門院(後深草院の皇女)の御方もおいでになられたぞ」と告げられました。
姫さまがご覧になられますと、白い御袴に小袖ばかりで西の御前と申す社の中に、こちらも御簾を半ば上げて、白い衣二枚を左右から取り出されて、「二親の形見を東と西にやったそなたの志を、忍び難く思われます。それでこれを取り合わせて与えましょう」とおっしゃられ、姫さまはお受けされたそうでございます。
姫さまはもとの座に戻られて、御父上の大納言殿に向かって、「御所さまは、十善の床を踏みましましながら(天子に即位なされたようなご果報でありながら)いかなるご宿縁にて右の御肩をあのようにご不自由であられるのですか」とお尋ねになられました。
「あの御肩には、御腫物があるからだ。この腫物と申すは、私たちのような無知の衆生を家来として多く従えていらっしゃって、これを憐れみ、はぐくまれようとお思いになるゆえである。まったくご自身の御過ちではない」
と、父上の大納言殿が答えられたそうです。

姫さまは、御父上のご返答を聞いて、再びおいたわしげな表情で御所さまの方を拝見なさいますと、御所さまは相変わらずご機嫌のよいお顔で、「近く参れ」と仰せのような表情をなさいました。
姫さまは立ち上がってお側に参り、御殿の前にひざまずかれました。
すると、白い箸のようで、元は白々と削っていて、先端には梛(ナギ・熊野の神木とされる常緑樹)の葉が二枚ずつ付いている枝を二つ取り揃えて下賜されたと思われたそうですが、その時姫さまは目覚められて、如意輪堂(青岸渡寺の本堂)の懴法(センポウ・仏前で自ら犯した罪を告白する儀式)が始まっていたそうです。
そばには、檜の骨の白い扇が一本あったのです。夏でもないのに、とても不思議で、めったにない有り難いことだと思われ、姫さまは写経の場に置かれたそうでございます。

このことを姫さまがお話なさいますと、那智の御山の師の僧である、備後の律師覚道と申される方は、「扇は千手観音の御体というようである。きっと権現の御利益であるのでしよう」と申されたのです。

     ☆   ☆   ☆



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第百八十一回

2015-08-17 09:20:55 | 二条の姫君  第五章
               第五章  ( 三十 )

夢の中でお逢いされた御所さまの御面影は、目覚められた後も強く姫さまのお心に刻まれたご様子でございました。
書経も終わりましたことから、かつて御所さまから賜った三枚の小袖のうちの特に残されていた最後の一枚を、「いつまでもち続けることが出来ようか」と申されて、涙を抑えきれないご様子なのに御布施として差し出されたのでございます。
『 あまた年馴(ナ)れし形見のさ夜衣 今日を限りと見るぞ悲しき 』
( 長年にわたって、この身に馴れた御所さまの形見の夜の御衣をみるのも、今日が限りと思うと悲しい。)
姫さまの、何ともおいたわしい御歌でございます。

そして、那智の御山にすっかり納めてしまって帰ることになりましたが、次のような御歌もお詠みになられました。
『 夢覚むる枕に残る有明に 涙伴ふ滝の音かな 』 
( 夢から覚めた枕に有明の月の光が残っています。そして、涙を誘う滝の音だけが聞こえてきます。)

あの夢の中で賜った扇を、いまは御所さまの形見にしようと慰めておられましたが、京に戻ってみますと、はや亀山法皇様が崩御なされたというお話が伝わって参りました。
姫さまは、打ち続く皇室の御不幸に、有為無常の情けない人の世の習いとはいえ、とても憂いておられました。
内裏や皇室の方々とは疎遠となって久しいとは申せ、華々しかった頃の後深草院や亀山院との様々な思い出は、姫さまのお心から消し去ることなど出来ることではございませんでしょうに、ただ遠くから思い出を噛みしめておいでのようでございました。
そして、やがて、この年も暮れてゆきました。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする