雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

智證大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-12 )

2016-08-18 13:17:27 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          智證大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-12 )

今は昔、
文徳天皇の御代に、智證(チショウ)大師と申される聖(ヒジリ)がいらっしゃった。
俗称は和気氏(ワケノウジ)。讃岐の国、那珂の郡金倉の郷の人である。その父の家は豊かであった。母は佐伯の氏、高野山の弘法大師の姪に当たる。
その母が夢の中で、朝日が昇りはじめ、光り輝いて流星の(**この辺り、脱文、前後入り繰りがある様子。別文書から推定を記す)如くに口の中に入った。その後ほどなくして懐妊した。この大師は、幼くして成人のように、人に優れていた。

しだいに成長して八歳になった時、父に向かって、「仏典の中に因果経というお経があります。私は、何とかしてそのお経を読み習いたいと思います」と申し出た。父は驚き不思議に思ったが、さっそくその経典を捜してきて与えた。
その子は、この経典を与えられると、日夜読誦(ドクジュ・読経)してすっかり覚えてしまった。里の人はこれを聞いて、感心するとともに不思議に思った。
また、十歳になると、毛詩(モウシ・詩経)・論語・漢書・文選(モンゼン)(これらは、大学寮の必須課目)等の漢籍を読んだが、たった一度開いて見るだけで、すぐその後で声をあげて暗誦した。まったく不思議なことであった。

そして、十四歳になると家を出て京に行き、叔父に当たる仁徳という僧について、はじめて比叡山に上った。
仁徳はこの子に、「お前は、見るところただ者ではない。私は平凡な僧に過ぎない。従って、私はお前を弟子にすることは出来ない」と言って、第一の座主、義真(ギシン・最澄の弟子で、初代天台座主)という人の弟子にした。
義真は、この子の様子を見て喜び、心をこめて法華経・最勝王経などの経典に加えて、天台宗の法文を授けた。
十九歳にして出家し受戒を受けて、名を円珍(エンチン)と言う。
その後、比叡山に籠って、たゆむことなく仏法修行に励んだ。

こうしているうちに、天皇(仁明天皇)が円珍のことをお聞きになり、資金や糧食を下賜され深く帰依された。
ある時、岩屋の内に籠って修行していると、黄金の姿の人が現れ、「汝は我が姿を絵に描いて、ねんごろに帰依するがよい」と告げた。和尚(カショゥ)は、「あなたはどなたでしょうか」と尋ねると、「我は金色の不動明王なり。我は仏法を守護する故に、常に汝の身に付き添っているのだ。速やかに三蜜(サンミツ・身蜜、語蜜、心蜜の三つを指す)の法を極めて、衆生を導くべし」と仰せられた。
和尚はその姿を見て、この上なく尊く、また畏怖の念を受けた。そこで、うやうやしく礼拝して、絵師に命じてその姿を描かせた。
その絵像は今もある。

さて、和尚は、「私は宋(正しくは唐)に渡り、天台山に上り聖跡を礼拝し、五薹山に詣でて文殊菩薩にお会いしたい」と決心して、仁寿元年(851)四月十五日に京を出て鎮西(九州)に向かった。
仁寿三年八月九日、宋の商人良暉(リョウキ)が長年鎮西に滞在していたが、このほど宋に帰るというのに出合って、その船に便乗して出帆した。東風がにわかに激しく吹いて、船は飛ぶように進んだ。そして、十三日の申時(サルノトキ・午後四時頃)になると、今度は北風が吹き出し、それに流されて行くうちに、翌日の辰時(タツノトキ・午前八時頃)に琉球国に漂い着いた。
この国は、大海の中にあり、人を食う国である。

その頃には風が止んでいて、どこへも行きようがなかった。
遥か陸の方をみると、数十人の者が鉾(ホコ)を持ってうろついていた。良暉はこの様子を見て泣き悲しんだ。
和尚がそのわけを聞くと、「この国は人を食う所です。ああ、悲しいことだ。ここで命を落としてしまうのか」と答えた。
これを聞いた和尚は、すぐさま、心をこめて不動尊を祈念なされた。すると、金色の人が現れて舳先に立った。その姿は、先年日本でお告げを受けた黄金の人と同じお姿である。船中にいた数十人の者も皆そのお姿を見た。(この辺り欠字があり、推定を含む)

するとその時、にわかに辰巳(タツミ・東南)の風が吹き始め、戌亥(イヌイ・北西)の方角に指して飛ぶように進み、その翌日の午時(ウマノトキ・正午頃)に、大宋国嶺南道福州の連江県の辺りに着いた。
その州の長官が、和尚のこれまでの有様を聞いて感動したことから、その地の開元寺にしばらく滞在した。
やがて、そこからは陸上を行って王城(長安)に到着した。
国王もまた、和尚の高徳を聞いて、大いに尊び深く帰依なされた。

                                     (以下、(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆
 
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智證大師 (2) ・ 今昔物語 ( 第11-12 )

2016-08-18 13:16:17 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          智證大師 (2) ・今昔物語 ( 第11-12 )

     ( (1)より続く )

さて、それから和尚(智證大師)は、かねてからの念願通り、天台山に上り、禅林寺に至って定光禅師の菩提樹を礼拝し、また、その昔、天台大師(中国・隋の高僧)のご遺体を納めているお墓を拝せられた。禅林寺というのは、天台大師がその教えを伝えた所である。寺の東北の方に石の象を安置している堂がある。これは天台大師が修行されていた時、普賢菩薩が白象に乗って現れなさった所である。その白象は、石の象になったという。
その石の象の南に岩窟がある。そこに大師が座禅をされた椅子がある。その西の辺りに大きな岩がある。その表面は五鼓(ゴコ・呉の鼓のことか?)に似ている。昔、天台大師がこの山において仏法を説かれる時、この岩を打って人々を集められたが、石の音が、遥か山々に響き渡り、多くの人々がこれを聞いて集まってきたということである。

ところで、天台大師が亡くなられて後、ある人がこの石を打ったが、何の音もせず鳴らすことが出来なかった。それ以後、この石を打つことは久しく絶えていた。ところが、この日本の和尚(智證大師)がこの事をお聞きになり、試してみようとて小石でこの石をお打ちになると、その響きが山や谷に満ち満ちて、昔の天台大師の時のようであった。
そのため、天台山全体の僧は皆、「天台大師が生まれ変わっておいでになられたのだ」と思って、涙を流して日本の和尚を礼拝したという。

和尚は天台山を離れられ、青竜寺という寺においでになる法詮阿闍梨(ハッセンアジャリ)という人について、密教の伝授を受け学んだ。法詮は恵果和尚の弟子にあたる。天竺の那蘭陀寺(ナランダジ)の三蔵善無畏阿闍梨(サンゾウゼンムイアジャリ)の第五代目の正統の弟子である。
法詮阿闍梨は、日本の和尚を見て、笑みをたたえ、この上なく寵愛なさった。そして、密教の法を瓶の水を移すが如く、ことごとく伝授された。
また、和尚は、興善寺という寺にいた恵輪という人に会い、顕教の法を学んだが、理解しえないものはなかった。

このようにして、和尚は顕教・密教の法を学び終わり、天安二年(858)の六月に台州を発ち、商人李延孝(リエンコウ)が日本に渡る船に乗って、天安二年(天安三年か?)という年に帰朝した。
鎮西(九州)に着き、帰朝の旨を奏上申し上げた。天皇はたいそうお喜びになって、使者を遣わして出迎えなされた。(この後、欠文部分があるが内容不明)

その後、天皇は和尚に深く帰依された。比叡山の(欠字あるも内容不明)、千光院に住んでおられたが、ある時、急に弟子の僧を呼んで、「持仏堂にある香水(コウズイ・仏に供える清浄な水)を取って持ってきなさい」と言われた。弟子の僧は香水を取ってきた。和尚は散杖(サンジョウ・加持祈祷の時に香水をそそぎ散らすのに用いる棒状の仏具)を取って、香水に浸して、西に向かって空中に三度ふりかけられた。
これを見た弟子は不思議に思い、「どういうわけで、このようにふりかけられるのでしょうか」とお尋ねすると、和尚は、「宋の青竜寺は、私が留学中に住んでいた寺だ。ところが、たった今、その寺の金堂の妻戸に火がついたので、それを消すために香水をふりかけたのだ」と申された。弟子の僧は、これを聞いて、何事をおっしゃったのか理解できず、納得できないままであった。 

ところが、その翌年の秋の頃、宋の商人が日本にやって来たが、その商人に託されて、「昨年の四月某日、青竜寺の金堂の妻戸に火がついた。すると、東北の方角よりにわかに大雨が降ってきて、その火を消したので金堂は消失せずに済んだ」という手紙が、青竜寺から和尚に届けられたのである。
その時はじめて、あの香水を取って来た僧は、「和尚様が香水を空中にふりかけられたのは、その為であったのだ」と気がつき驚いて、他の僧たちにも話して和尚を尊んだのである。「此処においでになりながら、宋の事を感じ取り知ることが出来るのは、まことに和尚様は仏の化身であられるに違いない」と言い合って、感激し尊んだ。
こればかりでなく、このような不思議なことが多くあったので、世の人々はこぞって尊ぶこと限りなかった。

その後、独自の一派(三井寺を再興して、天台宗寺門派を樹立した)を立てて、顕密の法を広められた。その仏法の流れは大いに繁栄して、今も盛んである。
しかし、慈覚大師の門徒とは対立して常に争っている。(慈覚大師を祖とする一派は山門派。天台宗は、比叡山延暦寺を本山とする山門派と、三井寺を本山とする寺門派が激しく対立した)
もっとも、このようなことは、天竺でも震旦でも同じようにある、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆




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東大寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-13 )

2016-08-18 13:14:32 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          東大寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-13 )

今は昔、
聖武天皇は東大寺を建立なされた。
銅(アカガネ)で座高○○丈(正確に記すためか意識的な欠字になっている。正しくは五丈三尺五寸とも)の廬舎那仏(ルシャナブツ・毘盧遮那仏ともいう)の像を鋳造させられた。それとともに、大きな堂を造って大仏を覆われた。
また、講堂、食堂(ジキドウ)、七層の塔二基、様々の堂、僧房、戒壇別院、諸門、皆様々にお造りになった。

初め、御堂の壇を築くにあたって、天皇は鋤をお持ちになって土をすくわれた。皇后(光明皇后)は土を袖に入れてお運びになった。このようなことから、大臣をはじめ誰がこの造営に力を尽くさない者があろうか。
堂塔はすべて完成した。大仏はすでに鋳造して安置し奉ったので、その上塗りの材料に大量の黄金が必要であった。わが国は金を産出していないので、震旦(シンタン・中国の古称)に買いに行かせた。遣唐使に託して様々の財宝をたくさん持って行かせた。
翌年の春、遣唐使が帰国して、多くの[ 破損による欠字。金を購入した経緯が書かれていたか?]、その金を得て急いで塗らせたが、その色は練色(ネリイロ・薄い金色)であった。御[ ]下不足(破損の為欠字になっている。御顔辺りだけで下の部分が塗れない、といった意味か)。いわんや、多くの堂塔には金を塗らなければならない器物が数多くある。

天皇はたいそう歎き悲しんだ。そして、当時の高僧たちを召されて、「どうすれば良いか」とお尋ねになった。
「大和国吉野郡に大きな山があります。名を金峰(カネノミタケ)といいます。その名前から考えますと、きっとその山には金が有るでしょう。また、その山には山を護る神霊がおいでになるでしょう。その神霊にお願いするのが良いと思います」と申し上げた。
天皇は、「まことにもっともなことである」と思われて、この東大寺造営の行事官(最高責任者)である良弁僧正(ロウベンソウジョウ)という人を召して、この人に命じて、「今、この世の衆生の為に寺を建立したが、多くの黄金が必要である。わが国にはもともと黄金を産出しない。伝え聞くに、その山には黄金があるという。何とかそれを分かち与えてください」と神霊に伝えさせた。

良弁は宣旨を承って、七日七夜お祈り申し上げると、その夜の夢に一人の僧が現れて、「この山の黄金は、弥勒菩薩が私に預けられたものであるので、弥勒菩薩がこの世に出現される時に始めて世に出されるはずです。その前に分かつことは出来ない。私はただ護るだけなのだ。近江国の志賀郡田上という所に、離れた小山がある。その山の東側を椿崎という。様々の形にそびえ立つ岩石がある。その中に、昔魚釣りをしていた翁がいつも座っていた岩がある。その岩の上に如意輪観音を造って安置し奉り、その上に堂を造り、黄金のことを祈請なさるがよい。そうすれば、祈請している所の黄金は、自然に思いのままに出てくるであろう」とのお告げがあった。

良弁は夢から覚めると、この事を朝廷に申し上げ、宣旨を承って、かの近江国の勢田(セタ)に行き、そこから南を指して椿崎という所を訪ね、人に教えられ通りにその山に入って見ると、まことに奇岩がそびえて並んでいる。その中に、あの夢のお告げにあった魚釣りの翁が座っていたという岩があった。
これを見つけて帰り、参内して結果を申し上げると、天皇は、「速やかに、夢のお告げ通りに如意輪の像を造り安置申し上げ、黄金のことを祈請申すべし」と仰せられた。
そこで、良弁はその所に居を構え、堂を建て仏像を造り、その供養の日から黄金のことをお祈りした。

その後、いくばくも経たないうちに、陸奥国と下野国(シモツケノクニ)から黄金色の砂が献上されてきた。
鍛冶の者どもを召して製錬させてみると、まことに色美しく、濃い黄色の黄金になった。朝廷は喜び、重ねて陸奥国に取りに行かせたところ、大量に献上された。
その黄金をもって大仏を塗り奉った。その黄金が多く余ったので、それで[ 破損による欠字。多くの堂塔の器物など、か?]みな塗り終わった。かの震旦の黄金は練色で輝きが無く、陸奥国の黄金が優れていることは明らかであった。(一部、欠字部分を推定した)
これが、わが国で黄金が産出された最初である。

その後、天皇は心をこめてこの寺の供養をなされた。
その講師は興福寺の隆尊律師という人である。その人は、化人(ケニン・神仏が化した人)であった。かの椿崎の如意輪観音は、今の石山寺の観音である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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山階寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-14 )

2016-08-18 13:13:07 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          山階寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-14 )

今は昔、
大織冠(ダイショクカン・藤原鎌足を指す。冠位の最高位であるが、授与されたのは彼のみ)がまだ内大臣にもなっておらず、ただの臣下であられた頃のこと、それは皇極天皇と申される女帝の御代であったが、その皇子で後に天皇(天智天皇)となられた方がまだ春宮(トウグウ・皇太子)であられたが、この大織冠と心を一つにして蘇我入鹿(ソガノイルカ)を討とうとなされた。
その時大織冠は、心の内で、「私は今日まさに重い罪を犯して、悪人を殺そうと思います。思いの通りに討ち果たせましたら、その罪を詫びるために、丈六(ジョウロク・仏像の高さのことで、立像で一丈六尺(約485cm)座像で八尺)の釈迦像と、脇侍(キョウジ)の二菩薩の像を造り、寺院を建立して安置いたします」と祈念された。

その後、思い通り討つことが出来たので、祈願したように、丈六の釈迦並びに脇侍の二菩薩の像を造り、自分の山階の陶原(スエハラ)の家に堂を建てて安置し、深く敬って供養なされた。
その後、大織冠は内大臣に出世なさってお亡くなりになったので、長男である淡海公(タンカイコウ・藤原不比等)が、父の御跡を継いで朝廷に仕え、左大臣にまでなられた。

さて、元明天皇と申し上げる女帝の御代、和銅三年という年、天皇に申し上げて、かの山階の陶原の家にある堂を、現在の山階寺のある所に移して建てられた。
同七年三月五日に供養が行われた。天皇の勅願として厳粛なことこの上なかった。淡海公は氏の長者(ウジノチョウジャ・氏族の統率者)として出席した。
その講師は元興寺の行信僧都という人であった。その日の賞として大僧都になられた。呪願(シュガン・呪願文を読む僧)の役は同じ寺の善祐律師という人であった。この人は小僧都になられた。残りの七人の僧には、みな僧綱(ソウゴウ)の位が与えられた。それ以外の僧は五百人、音楽を演奏し、供養の儀式の荘厳なことは言い尽くすことが出来ない。

その後、しだいに諸々の堂舎、宝塔を造り加え、回廊、門楼、僧房を造り重ね、多くの僧侶を住まわせて、大乗の法を学び、法会を行った。
何といっても、仏法繁盛の地としては、この寺に勝る所は無い。
もとは、山階に造った堂なので、所は変わっても山階寺というのである。また、興福寺というのは、
是也となむ。

     ☆   ☆   ☆


* 最後の部分が、『となむ語り伝へたるとや。』となっていない、珍しい章です。

     ☆   ☆   ☆
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元興寺建立(1) ・ 今昔物語 ( 巻11-15 )

2016-08-18 10:57:52 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          元興寺建立(1) ・ 今昔物語 ( 巻11-15 )

今は昔、
元明天皇は、奈良の都の飛鳥の郷に元興寺(ガンゴウジ)を建立をなさいました。(正しくは、奈良には飛鳥という地は無く、本元興寺は飛鳥、新元興寺は奈良にあったので、誤ったと思われる)
堂や塔を建てられ、金堂には○○丈の弥勒菩薩の像を安置された。(○○は意識的な欠字。二丈一尺とも一丈六尺とも)
その弥勒菩薩は、わが国で作られた像ではなかった。

昔、東天竺に生天子国(ショウテンシコク・所在未詳)という国があった。その王は長元王(チョウガンオウ)といった。
その国は、五穀豊かにして、何不足がなかった。ところが、その国はもともと仏法という名さえ聞いたことがなかった。長元王は、「世の中に仏法というものがあるそうだ」と初めて聞き、「私の治世中に何とか仏法というものを知りたいものだ」と思い、国中の諸々の人に「仏法を知っている者を捜し出せ」と宣旨を下した。

その頃、海辺に小さな船が一艘、風に吹かれて流れ寄った。その国の人は、これを見て怪しく思い王に申し上げた。
この船には、僧がただ一人だけ乗っていた。国王は、この僧を召して、「お前はいかなる者か。いずれの国から来たのか」と訊ねた。僧は、「私は北天竺の法師です。以前は仏法の修行をいたしました。今は女人を得て、多くの子供を儲けました。この身は貧しく何の蓄えもありません。たくさんいる子が魚を食べたいというのですが、銭が無いので、暗い夜に船に乗って海に出て魚を釣っていますと、にわかに風が吹き出し、思いもかけずこの海岸に漂着したのです」と答えた。

国王は、「しからば、お前は、仏法のことを話してみよ」と言った。僧は、最勝王経を読誦(ドクジュ)して、その大意を説いた。
国王はこれを聞いて、喜んで言った。「私は今や仏法を知った。仏像を造り奉らんと思う」と。僧は、「私は仏像を造る者ではありません。王様が仏像を造ろうとお思いなら、心をこめて三宝に祈請なさいますれば、自然に仏像を造る者が現れるでしょう」と申し上げた。
国王は僧の言うことに従って、この事を祈請し、諸々の財宝を僧に与えた。

そのお蔭で、僧は何不足ない身となった。しかし、僧は常に故郷ばかり懐かしんで満足していなかった。
王はこれを聞いて僧に言った。「お前は、なぜ喜ぼうとしないのか」と。僧は答えて、「私は、ここにおいて楽しい生活をさせていただいていますが、故郷の妻子のことがいつも恋しくてなりません。それ故に喜ぶことが出来ないのです」と言う。
王は、これを「もっともなことだ」と言って、「速やかに帰るがよい」と、船に諸々の財宝を積んで、故国に送り返してやった。

その後、また海辺に小さな船が一艘流れ着いた。その船には童子が一人だけ乗っていた。
その国の人がこれを見つけて、前のように国王に申し上げた。王は童子を召して、「お前はいずれの国より来たのか。何が出来るのか」と訊ねた。童子は、「私には、外には能がありません。ただ、仏像を造ることが出来るだけです」と答えた。
王は玉座を下り、童子に礼拝して、「私の願いは今満たされた。お前は速やかに仏像を造るように」と涙を流して、我が[ 願いを果たすよう懇願した。] 童子は、「ここは仏像を造るには適していません。静かな[ 場所が必要 ]です」と言った。( [ ]部分の二か所は破損による欠字。推定の文章を加えた)
王は、それを聞くと、歌舞を催す場所のうちの静かな所を見せると、童子はその場所を作業場とした。

そして王は、必要な道具などや仏像を造る御木を、童子の言う通りに送り届けた。
そこにおいて、童子は門を閉じ、人を寄せ付けずに仏を造り始めた。その国の人が、密かに門の外かに中の様子を窺うと、「童子が一人で造っている」と思っていたのに、四、五十人ほどで造っている音が聞こえてきた。
「不思議なことだ」と思っていると、九日目に童子が門を開き、仏像が出来上がったことを王に申し上げた。
王は急いで作業場に行き、仏像に礼拝して尋ねた。「この仏は何という名前の仏なのか」と。童子は、「仏はあらゆる場所にいらっしゃいますが、これは当来補処(トウライフショ・釈迦入滅後に現れるといった意味。弥勒菩薩は釈迦入滅後、五十六億七千万年後にこの世に現れるとされている)の弥勒菩薩の像をお造り申し上げたのです。第四兜率天の内院(ダイシトソツテンのナイイン・仏の世界の一つで、弥勒の浄土)にいらっしゃいます。一度(ヒトタビ)この仏を拝む人は、必ずその兜率天に生まれ変わって弥勒仏にお会いできるのです」と申し上げたが、その時、仏像は眉間から光を発せられた。
王はこれを見て、涙を流して歓喜し、礼拝した。
                                       ( 以下は(2)に続く )

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元興寺建立(2) ・ 今昔物語 ( 巻11-15 )

2016-08-18 10:56:38 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          元興寺建立(2) ・ 今昔物語 ( 巻11-15 )

     ( (1)より続く )

国王は童子に言った。「この仏像を安置し奉るために、速やかに伽藍を建てるように」と。
そこで、童子はまず伽藍の周囲の外郭を廻らせた。その中に二階の堂を建て、そこにこの仏像を安置して、「東西二町(一町は百米余りか?)に外郭を廻らすことは、菩提・涅槃(ボダイ・ネハン・・ともに仏教修行で得ることが出来る悟りの境地)の二果を証する相を表すもの。南北が四町であるのは、生老病死の四苦を離れることを表すものです。末代悪世に至るまで、この仏を一称一礼(イッショウイチレイ・一度仏の名号を唱え、一度仏を礼拝すること)する人を、必ず兜率天内院に生まれて、永久に三途(サンズ・地獄・餓鬼・畜生の三悪道)の苦しみを離れ、三会(サンエ・竜華三会のこと。弥勒が出現し、竜華樹の下で成仏し、三度に渡って衆生に説経する法会)により悟りを開かせ給え」と誓うと、童子はたちまちかき消されるように消えてしまった。
国王をはじめ人民に至るまで、これを見て、涙を流して礼拝し奉ると、仏像は眉間より光を放たれた。

その後、この伽藍に僧徒数百人が住んで仏法を広めた。
また、国の大臣、百官、人民に至るまで、この仏をあがめること限りなかった。長元王(チョウガンオウ)は願いの通りに、ついに現世の身で兜率天に生まれた。そればかりでなく、仏を深く敬い供養し奉る上下全ての人で、兜率天に生まれる者は数多くあった。
その後、この国には悪王が現れ、その寺院や仏法はしだいに衰滅して、僧徒も皆いなくなった。人民もしだいに滅びてしまった。

ところで、白木の国(新羅国をあえてこの文字を使ったのか?)に一人の国王がいた。
国王は、この仏像の霊験(レイゲン)を伝え聞いて、「何とかしてわが国に移し奉って、日夜に恭敬供養したいものである」と願っていたが、その国に一人の宰相がいた。大変賢く思慮深い人物で、国王に申し出て、宣旨を受けて彼の国に渡った。
そこで、うまく計略を立てて、密かにあの仏像を盗み出して船に積み、またこの伽藍の[ 破損による欠字。「絵図面も手に入れた」といった内容か?]
その帰途に着いた航海の途中、にわかに暴風が吹き出し、波高くして海面[ 破損による欠字。船が難破しそうな様子が書かれていたか?]船に積んでいた財宝を海中に投げ棄てた。それでも風が止まないので、命だけでも助かろうと思い、あの仏像の眉間の珠を取って海に入れた。
竜王が手を差し出してその珠を取った。

すると、たちまち風も波も静まった。宰相は、「竜王に珠を差し出して命は助かったが、このまま帰れば、国王に必ず首を召し取られるであろう」と思い、「それならば、帰っても良いことなどない。ただこの海上で年月を送ろう」と決心し、海面に向かい涙を流しながら、「竜王よ、あなたは三熱(サンネツ・竜蛇が受ける三種の苦しみ。熱風熱砂で身を焼かれる苦しみ、暴風で居所を失う苦しみ、金翅鳥に喰い殺される苦しみ)の苦しみから逃れるためにその珠を手に入れられた。だが、私はその玉を失った咎により、私の国の国王に首を切られようとしている。それゆえ、その珠を返して下さって、私をこの苦しみから救ってください」と訴えた。

すると、竜王は宰相の夢に現れて、「竜の一族には九つの苦しみがある。だが、この珠を得て後、其の苦しみが消滅した。お前が、その苦しみを消滅させよ。そうすれば、珠を返してやろう」と言った。
夢覚めて、宰相は喜んで海に向かって、「珠を返して下さるとのこと、ありがたいことです。必ずその苦しみを取り除きます。そこで、諸々の経典の中で、金剛般若の経典は、懺悔滅罪に優れた経典です。そのお経を書写し供養して、九つの苦しみを取り除いて差し上げましょう」と言った。そして、ただちに書写し供養をした。
すると竜王は、海の中からその珠を船に返し入れた。但し、珠の光だけは竜王が取ったので、光は失われてしまった。
その後、竜王がまた夢に現れて、「我が蛇道の苦しみは、この珠を手に入れることによって消滅した。また、金剛般若経の力によって苦しみはすべて無くなった。大変ありがたい」と告げて、夢が覚めた。

そこで、その珠を仏像の眉間にお入れして、故国に帰り国王に献上した。
王は喜び、仏を礼拝し、もとの堂の絵図をもって速やかに伽藍を建立し、この仏像を安置した。その後、僧徒数千人が集まって住み、仏法が栄えた。
ただ、仏像の眉間の光はなかった。
それより数百年が経過し、その寺院の仏法がしだいに衰えていった頃、堂の前の海岸に、名も知らぬ鳥が近寄ってきて、波が堂の前まで打ち寄せてきた。僧徒はこの波を恐れ、皆逃げ去ってしまった。
寺には誰も住まなくなってしまった。
                                        ( 以下(3)に続く )

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元興寺建立(3) ・ 今昔物語 ( 巻11-15 )  

2016-08-18 10:55:40 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          元興寺建立(3) ・ 今昔物語 ( 巻11-15 )

     ( (2)より続く )

ところで、わが日本の元明天皇は、この仏像の利益(リヤク)・霊験があることを伝え聞かれて、これをわが国にお移しして、「伽藍を建立して安置し奉ろう」と思い願われていたところ、天皇の外戚に一人の僧(人物未詳)がいた。仏道の修業をする人であった。また、賢くて思慮深い人であった。
その僧が天皇に、「私が天皇の宣旨を賜って、彼の国に行って、その仏を取って参ります。よくよく三宝(サンポウ・・仏・法・僧を指す。ここでは「仏の力」と言った意味か)に祈請してください」と申し上げた。天皇はお喜びになった。

僧は彼の国に行き、暗夜に彼の寺の堂の前に船を漕ぎ寄せて、三宝に祈請して、密かに仏像を持ち出し、船にお入れして漕ぎ去り、遥かに[ 破損による欠字。 航海の様子、到着日などが書かれていたか?]いう時に、わが国に仏像をお運びした。
天皇は、[ 破損による欠字。 寺院建立の経緯が書かれていたか?]もって今の元興寺を建立して、金堂にこの仏像を安置された。

その後、この寺に僧徒数千人が集まり住んで、仏法が栄えた。
この寺院では、法相と三論の二宗を兼学し、長い年月を経過したが、寺の僧が末代になってから、「かの東天竺の長元王の命日を供養すべきだ」と相談し、毎年欠かすことなく勤めていた。ある時一人の荒僧が現れた。大変非常識な、無道な僧であった。
その僧が、「何の理由があって、わが国の元興寺において天竺の王の命日の供養を勤めるのか。これから後は、決して勤めてはならない」と、理不尽に言いたてた。寺院の僧たちは、「いや、いかなることがあろうとも、仏像の本願主の命日の供養を勤めないわけにはいかぬ」と主張したが、激しい議論となり、双方の争いとなった。

荒僧には多くの一門がついていて、「命日供養を勉めるべし」という意見の寺全体の僧を皆追い出してしまった。そこで、多くの僧は東大寺に移った。それで、何かにつけて二つの寺は不和になってしまった。
にわかに合戦となり、戦は老僧のする振る舞いではないが、いつの間にか悪に引かれて、鎧兜をつけ、法文も聖教も持たずして、諸々の堂を棄てて、あちこちに散ってしまった。
若い僧は、「我が師が逃げ去ったからには、我らもこの寺に残るべきではない」と言って、泣く泣く四方に散っていった。その結果、五日間のうちに、千余人の僧が皆いなくなってしまったのである。
それより、元興寺の仏法は絶えてしまったのである。

しかしながら、かの弥勒菩薩の像は今もなおおいでになられる。化人(ケニン・神仏が化した人)がお造りになった仏像なのでまことに尊い。また、天竺、震旦、本朝の三国を渡られた仏像である。まさしく、度々光を放ち、深く信仰する人は皆兜率天に生まれている。世の人は、格別に拝み奉るべきである。
奈良の元興寺というのはこれである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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大安寺縁起 ・ 今昔物語 ( 巻11-16 )

2016-08-18 10:54:11 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          大安寺縁起 ・ 今昔物語 ( 巻11-16 )

今は昔、
聖徳太子が熊凝(クマゴリ)の村(現在の奈良県大和郡山市)に寺をお造りになった。だが、まだ造り終えぬうちに太子がお亡くなりになったので、推古天皇が引き継がれた。およそ、推古天皇から聖武天皇に至るまで、九代の天皇が受け継がれてお造りになった寺である。
欽明天皇の御代(正しくは舒明天皇の御代)に、百済河(奈良にある川)のほとりに広い土地を選び、かの熊凝の寺を移し造られた。これを百済大寺という。

その寺を造る時、行事官(ギョウジノツカサ・造営を司る役人)が、そばの神社の木をこの寺の用材に多く切って使ったので、神が怒って火を放って寺を焼いてしまった。天皇(皇極天皇)は大変恐れられたが、寺は造営された。
また、天暦天皇(天智天皇の誤記)の御代に、丈六の釈迦像を造り、心に祈願をこめられたその夜の暁に、夢の中に三人の[ 破損による欠字。「天女が現れ、この像を拝み奉って」といった内容か?]美しい花で供養し敬い称えていたが[ 破損による欠字。褒め称える続きが書かれていたか?]「この仏は、霊鷲山の本当の仏と変わることなく、お姿も少しも違う所が無い。この国の人々は、心をこめて崇め奉りなさい」と言って空に昇っていった、そこで夢から覚めた。
開眼供養の日、紫の雲が空に満ちて、妙なる音楽が天から聞こえてきた。

また、天武天皇の御代に、高市(タケチ)郡に地を選びこの寺を改めて移築した。これを、大官大寺という。天皇(文脈としては天武天皇を指すが、史実としては文武天皇という説もある)は、また塔を建てられた。また、天皇は古い釈迦の丈六の像を写し造り奉らんという願を立てられ、「優れた工(タクミ)をお与えください」と祈られた夜の明け方、夢の中に一人の僧が現れて、天皇に「前にこの仏をお造りになった者は化人(ケニン・神仏が化した人)である。再び来ることは難しいと思われる。優れた工(彫刻師)といえども、やはり刀の失敗が無いわけではない。優れた絵師といえども、彩色に必ずどこかに欠点があるものだ。されば、ただ、この仏像の御前に大きな鏡をかけて、その御姿を写して拝むべし。模造するのでもなく、模写するのでもなく、自ずから三身(サンジン・仏がこの世に示現する三種の身相)を備えるであろう。鏡に写った仏像を見れば応身仏(オウジンブツ)である。鏡に写った影を見れば報身仏(ホウシンブツ)である。それが虚像であると悟れば法身仏(ホウシンブツ)である。功徳の勝ること、これ以上のものはない」と仰せられた。そこで天皇は夢から覚めた。
天皇は喜ばれ、夢の中で教えられた通りに、大きな鏡を仏像の御前にかけ、五百人の僧を堂内に召して、盛大な法会を営んで供養をなされた。

また、元明天皇の御代、和銅三年という年、この寺を移して奈良の京に造られた。聖武天皇は、これを受け継がれて完成させようとされたが、その頃道慈(ドウジ)という僧がいた。大変聡明で、世間で重んじられ尊ばれていた。
以前、大宝元年という年に仏法をわが国に伝えるために震旦(中国)に渡り、養老二年に帰朝したが、その時天皇に、「私が唐に渡る時、『帰朝して大きな寺を建立しよう』と心に決めておりました。そのため、西明寺(サイミョウジ・塔の長安の大寺院。インドの祇園精舎を模して建造したとされる)の建築様式を写し取ってきています」と奏上した。

天皇はこれをお聞きになって喜び、「我が願いが叶えられた」と仰せになり、天平元年という年、道慈にこの寺(大官大寺)の改築を命じられた。そして、道慈にすべて取り仕切らせた。
中天竺の舎衛国の祇園精舎は、兜率天の宮殿を模倣して造られている。震旦の西明寺は、祇園精舎を模して造られている。本朝の大安寺は西明寺を模したものである。
十四年間で造り終え、盛大な法会を営んで供養なされた。天平七年という年に、大官大寺を改称して大安寺となったのである。

また、[ 破損による欠字。「道慈のいうところによれば」といった文章か?]この寺が最初に焼けたのは、高市郡の子部の[ 破損による欠字。「神社の木を切って」といった文章か?]用材としたからである。その神は雷神であって、怒りの心から火を出したのである。その後、九代の天皇が、あちらこちらへと移築されたが、その費用は莫大である。
従って、神の心を喜ばせて、寺を・・・ ( この後、欠文となっている。)

     ☆   ☆   ☆

 
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薬師寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-17 )

2016-08-18 10:50:44 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          薬師寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-17 )

今は昔、
天武天皇が即位なさった。その次に、女帝である持統天皇が即位なさった。
高市郡(タケチノコオリ)[ 欠字 ]という所に寺を建て、この薬師如来の像を安置なさった。その後、奈良に都があった時、元明天皇と申す女帝が、西京(ニシノキョウ)の六条二坊、今の薬師寺の所に移築されたのである。

その天皇(最初に建立した持統天皇のことか?)の御師といわれる僧がおり、入定(ニュウジョウ・禅定。精神を統一して、真理を観想すること)して竜宮(竜王の宮殿。海底にあるとされる)に行き、その竜宮の建築様式を見て、天皇に申し上げ、[ 破損による欠字。「それと同様に建築」といった文章か?]行なったが、現在に至るまで仏法が栄えている。
[ 破損による欠字 ]また、この寺の薬師仏[ 破損による欠字 ]受けた人は、この寺に参って祈請すれば、その御利益を頂けないということがない。心から崇め奉るべき仏でおわします。

その寺の内には、たとえ高僧といわれる人でも入ることが出来ない。ただ、堂童子という在俗の者だけが入り、供え物や灯明を奉ることになっている。尊いことである、
と語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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西大寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 巻11-18 )

2016-08-18 10:49:16 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          西大寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 巻11-18 )

今は昔、
高野姫天皇(称徳天皇)は聖武天皇の御娘でおわします。
女の身でいらっしゃるが、たいそう学問に優れ、漢詩漢文の道を極めていらっしゃった。また、仏道を尊ばれ、「何とか仏道修業の道場を建立しよう」と願っておられた。
未だ天皇の位に就かれておらず、姫宮であられた時に、初竜寺(未詳)という寺・・・
  [ 以下欠文 ]

     ☆   ☆   ☆


* 本話は、大部分が欠文となっているが、表題が「高野姫天皇造西大寺語」となっていることから、西大寺建立に関する物語と推定される。
大部分が欠文で要を得ないが、破損というより、書き掛けであった可能性が高いようである。

     ☆   ☆   ☆
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