智證大師 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-12 )
今は昔、
文徳天皇の御代に、智證(チショウ)大師と申される聖(ヒジリ)がいらっしゃった。
俗称は和気氏(ワケノウジ)。讃岐の国、那珂の郡金倉の郷の人である。その父の家は豊かであった。母は佐伯の氏、高野山の弘法大師の姪に当たる。
その母が夢の中で、朝日が昇りはじめ、光り輝いて流星の(**この辺り、脱文、前後入り繰りがある様子。別文書から推定を記す)如くに口の中に入った。その後ほどなくして懐妊した。この大師は、幼くして成人のように、人に優れていた。
しだいに成長して八歳になった時、父に向かって、「仏典の中に因果経というお経があります。私は、何とかしてそのお経を読み習いたいと思います」と申し出た。父は驚き不思議に思ったが、さっそくその経典を捜してきて与えた。
その子は、この経典を与えられると、日夜読誦(ドクジュ・読経)してすっかり覚えてしまった。里の人はこれを聞いて、感心するとともに不思議に思った。
また、十歳になると、毛詩(モウシ・詩経)・論語・漢書・文選(モンゼン)(これらは、大学寮の必須課目)等の漢籍を読んだが、たった一度開いて見るだけで、すぐその後で声をあげて暗誦した。まったく不思議なことであった。
そして、十四歳になると家を出て京に行き、叔父に当たる仁徳という僧について、はじめて比叡山に上った。
仁徳はこの子に、「お前は、見るところただ者ではない。私は平凡な僧に過ぎない。従って、私はお前を弟子にすることは出来ない」と言って、第一の座主、義真(ギシン・最澄の弟子で、初代天台座主)という人の弟子にした。
義真は、この子の様子を見て喜び、心をこめて法華経・最勝王経などの経典に加えて、天台宗の法文を授けた。
十九歳にして出家し受戒を受けて、名を円珍(エンチン)と言う。
その後、比叡山に籠って、たゆむことなく仏法修行に励んだ。
こうしているうちに、天皇(仁明天皇)が円珍のことをお聞きになり、資金や糧食を下賜され深く帰依された。
ある時、岩屋の内に籠って修行していると、黄金の姿の人が現れ、「汝は我が姿を絵に描いて、ねんごろに帰依するがよい」と告げた。和尚(カショゥ)は、「あなたはどなたでしょうか」と尋ねると、「我は金色の不動明王なり。我は仏法を守護する故に、常に汝の身に付き添っているのだ。速やかに三蜜(サンミツ・身蜜、語蜜、心蜜の三つを指す)の法を極めて、衆生を導くべし」と仰せられた。
和尚はその姿を見て、この上なく尊く、また畏怖の念を受けた。そこで、うやうやしく礼拝して、絵師に命じてその姿を描かせた。
その絵像は今もある。
さて、和尚は、「私は宋(正しくは唐)に渡り、天台山に上り聖跡を礼拝し、五薹山に詣でて文殊菩薩にお会いしたい」と決心して、仁寿元年(851)四月十五日に京を出て鎮西(九州)に向かった。
仁寿三年八月九日、宋の商人良暉(リョウキ)が長年鎮西に滞在していたが、このほど宋に帰るというのに出合って、その船に便乗して出帆した。東風がにわかに激しく吹いて、船は飛ぶように進んだ。そして、十三日の申時(サルノトキ・午後四時頃)になると、今度は北風が吹き出し、それに流されて行くうちに、翌日の辰時(タツノトキ・午前八時頃)に琉球国に漂い着いた。
この国は、大海の中にあり、人を食う国である。
その頃には風が止んでいて、どこへも行きようがなかった。
遥か陸の方をみると、数十人の者が鉾(ホコ)を持ってうろついていた。良暉はこの様子を見て泣き悲しんだ。
和尚がそのわけを聞くと、「この国は人を食う所です。ああ、悲しいことだ。ここで命を落としてしまうのか」と答えた。
これを聞いた和尚は、すぐさま、心をこめて不動尊を祈念なされた。すると、金色の人が現れて舳先に立った。その姿は、先年日本でお告げを受けた黄金の人と同じお姿である。船中にいた数十人の者も皆そのお姿を見た。(この辺り欠字があり、推定を含む)
するとその時、にわかに辰巳(タツミ・東南)の風が吹き始め、戌亥(イヌイ・北西)の方角に指して飛ぶように進み、その翌日の午時(ウマノトキ・正午頃)に、大宋国嶺南道福州の連江県の辺りに着いた。
その州の長官が、和尚のこれまでの有様を聞いて感動したことから、その地の開元寺にしばらく滞在した。
やがて、そこからは陸上を行って王城(長安)に到着した。
国王もまた、和尚の高徳を聞いて、大いに尊び深く帰依なされた。
(以下、(2)に続く )
☆ ☆ ☆
今は昔、
文徳天皇の御代に、智證(チショウ)大師と申される聖(ヒジリ)がいらっしゃった。
俗称は和気氏(ワケノウジ)。讃岐の国、那珂の郡金倉の郷の人である。その父の家は豊かであった。母は佐伯の氏、高野山の弘法大師の姪に当たる。
その母が夢の中で、朝日が昇りはじめ、光り輝いて流星の(**この辺り、脱文、前後入り繰りがある様子。別文書から推定を記す)如くに口の中に入った。その後ほどなくして懐妊した。この大師は、幼くして成人のように、人に優れていた。
しだいに成長して八歳になった時、父に向かって、「仏典の中に因果経というお経があります。私は、何とかしてそのお経を読み習いたいと思います」と申し出た。父は驚き不思議に思ったが、さっそくその経典を捜してきて与えた。
その子は、この経典を与えられると、日夜読誦(ドクジュ・読経)してすっかり覚えてしまった。里の人はこれを聞いて、感心するとともに不思議に思った。
また、十歳になると、毛詩(モウシ・詩経)・論語・漢書・文選(モンゼン)(これらは、大学寮の必須課目)等の漢籍を読んだが、たった一度開いて見るだけで、すぐその後で声をあげて暗誦した。まったく不思議なことであった。
そして、十四歳になると家を出て京に行き、叔父に当たる仁徳という僧について、はじめて比叡山に上った。
仁徳はこの子に、「お前は、見るところただ者ではない。私は平凡な僧に過ぎない。従って、私はお前を弟子にすることは出来ない」と言って、第一の座主、義真(ギシン・最澄の弟子で、初代天台座主)という人の弟子にした。
義真は、この子の様子を見て喜び、心をこめて法華経・最勝王経などの経典に加えて、天台宗の法文を授けた。
十九歳にして出家し受戒を受けて、名を円珍(エンチン)と言う。
その後、比叡山に籠って、たゆむことなく仏法修行に励んだ。
こうしているうちに、天皇(仁明天皇)が円珍のことをお聞きになり、資金や糧食を下賜され深く帰依された。
ある時、岩屋の内に籠って修行していると、黄金の姿の人が現れ、「汝は我が姿を絵に描いて、ねんごろに帰依するがよい」と告げた。和尚(カショゥ)は、「あなたはどなたでしょうか」と尋ねると、「我は金色の不動明王なり。我は仏法を守護する故に、常に汝の身に付き添っているのだ。速やかに三蜜(サンミツ・身蜜、語蜜、心蜜の三つを指す)の法を極めて、衆生を導くべし」と仰せられた。
和尚はその姿を見て、この上なく尊く、また畏怖の念を受けた。そこで、うやうやしく礼拝して、絵師に命じてその姿を描かせた。
その絵像は今もある。
さて、和尚は、「私は宋(正しくは唐)に渡り、天台山に上り聖跡を礼拝し、五薹山に詣でて文殊菩薩にお会いしたい」と決心して、仁寿元年(851)四月十五日に京を出て鎮西(九州)に向かった。
仁寿三年八月九日、宋の商人良暉(リョウキ)が長年鎮西に滞在していたが、このほど宋に帰るというのに出合って、その船に便乗して出帆した。東風がにわかに激しく吹いて、船は飛ぶように進んだ。そして、十三日の申時(サルノトキ・午後四時頃)になると、今度は北風が吹き出し、それに流されて行くうちに、翌日の辰時(タツノトキ・午前八時頃)に琉球国に漂い着いた。
この国は、大海の中にあり、人を食う国である。
その頃には風が止んでいて、どこへも行きようがなかった。
遥か陸の方をみると、数十人の者が鉾(ホコ)を持ってうろついていた。良暉はこの様子を見て泣き悲しんだ。
和尚がそのわけを聞くと、「この国は人を食う所です。ああ、悲しいことだ。ここで命を落としてしまうのか」と答えた。
これを聞いた和尚は、すぐさま、心をこめて不動尊を祈念なされた。すると、金色の人が現れて舳先に立った。その姿は、先年日本でお告げを受けた黄金の人と同じお姿である。船中にいた数十人の者も皆そのお姿を見た。(この辺り欠字があり、推定を含む)
するとその時、にわかに辰巳(タツミ・東南)の風が吹き始め、戌亥(イヌイ・北西)の方角に指して飛ぶように進み、その翌日の午時(ウマノトキ・正午頃)に、大宋国嶺南道福州の連江県の辺りに着いた。
その州の長官が、和尚のこれまでの有様を聞いて感動したことから、その地の開元寺にしばらく滞在した。
やがて、そこからは陸上を行って王城(長安)に到着した。
国王もまた、和尚の高徳を聞いて、大いに尊び深く帰依なされた。
(以下、(2)に続く )
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