雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

法華寺(未完) ・ 今昔物語 ( 巻11-19 )

2016-08-18 10:47:26 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          法華寺(未完) ・ 今昔物語 ( 巻11-19 )

  [ 本文 すべて欠文 ]

     ☆   ☆   ☆


* 本話は、「光明皇后建法華寺為尼寺語第十九」という表題があるのみで、本文は欠文となっている。破損などによるものではなく、もともと本文は書かれていなかったらしい。

     ☆   ☆   ☆
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法隆寺(未完) ・ 今昔物語 ( 巻11-20 )

2016-08-18 10:46:04 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          法隆寺(未完) ・ 今昔物語 ( 巻11-20 )

   [ 全文欠文 ]

     ☆   ☆   ☆


* 本話も、「聖徳太子建法隆寺語第二十」という表題があるだけで、本文はすべて欠文となっている。破損によるものというより、後日記載のつもりでいて、そのまま失念してしまったようである。

     ☆   ☆  ☆
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天王寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-21 )

2016-08-18 10:31:39 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          天王寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-21 )

今は昔、
聖徳太子がこの国にお生れになり、「仏法を広め、この国の人に利益(リヤク)を与えよう」と思われたので、太子の御伯父である敏達天皇の御代に、天皇に申し上げて、国内に仏法をあがめて堂や塔を建て、他の国から来朝した僧に帰依するようにしたところ、守屋大臣(モリヤノオオオミ)という者がいて、これに反対して、天皇に仏法をあがめることを中止するよう奏上した。

これにより、太子は守屋と不仲になった。蘇我大臣(ソガノオオオミ・曽我馬子)という人に相談し、守屋を誅罰して国内に仏法を広めようと策を練られた。その時、ある人が守屋に、「太子は蘇我大臣と同盟して、あなたを討とうとされています」と告げた。そこで、守屋は阿都の屋敷に籠って、戦の準備をした。中臣勝海(ナカトミノカツミ・伝不詳)という者もまた軍勢を集めて守屋を助けようとした。
そのうち、「この二人が、天皇を呪い奉っているぞ」ということが世間の噂として聞こえてきたので、蘇我大臣は、太子に申し上げて共に軍勢を率いて、守屋の屋敷に行き攻撃した。
守屋も軍勢を[ 破損による欠字。「出し、城砦を築いて防戦する。」といった文章か? 本巻第一話に同様の文章ある。]その軍勢は強く、太子方の軍勢は怖れおののいて三度退き[ 破損による欠字。「逃げた。この時、太子の御年は十六歳で」か?]あったが、軍勢の後方に立って、軍の司令官である秦川勝(ハタノカワカツ)に対して、「お前は直ちに木を取って来て、四天王の像を刻み、それを髪の上にさし、鉾の先に捧げよ」と命じられ、また、願をたてられて、「我らを、この戦いで勝たせてくだされば、必ず四天王の像をお造りし、寺塔を建立いたします」と仰せになられた。

蘇我大臣もまた、同じように願を立てられて戦っているうちに、守屋は大きな櫟(イチイ)の木に登って、物部の氏の大神に祈請して矢を放った。
その矢は、太子の鐙(アブミ)に当たって落ちた。太子もまた、舎人の迹見赤榑(トミノイチイ)という者に命じて、四天王に祈って矢を射させた。その矢は遥かに飛んで行き、守屋の胸に当たったので、守屋は木から逆さまに落ちた。それにより、守屋の軍勢は総崩れとなった。そこで、太子側の軍勢は攻め寄せて、守屋の首を斬った。
その後、屋敷の中に攻め入り、財宝をすべて寺のものとし、荘園をことごとく寺領とした。屋敷は焼き払ってしまった。
その後、ただちに玉造の岸の上に寺を建てられ、四天王の像を安置なさった。今の天王寺がこれである。

太子は、決して人を殺そうとされたわけではあるまい。遥々とわが国に仏法を伝えるためであった。あの守屋大臣が生きていれば、今に至るまでこの国に仏法が行なわれていただろうか。
その寺の西門に、太子自ら、
『 釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心 』(ここは釈迦如来が説法された所で、極楽浄土の東門の中心に当たる)
とお書きになった。
これによって、人々はこの西門において弥陀の念仏を唱えるようになった。それは、今も絶えることがなく、参らない人は無いほどである。

これを思うに、この天王寺は、必ず、人々が参るべき寺である。聖徳太子がまさしく仏法を伝えるためにこの国にお生れになり、心をこめて願を立ててお造りになった寺である。
心ある人は、この事を知っておかなくてはならない、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆








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本元興寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-22 )

2016-08-18 10:30:02 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          本元興寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-22 )

今は昔、
推古天皇と申す女帝の御代に、わが国に仏法が栄えて、堂塔を造る人が世に多く出た。
天皇も、銅(アカガネ)を以って丈六の釈迦の像を、百済から来朝した[ 意識的な欠字。「鞍作鳥(クラツクリノトリ)という人名らしい]という人に命じて鋳造させ、飛鳥の郷に堂を建てて、この釈迦仏を安置させようとお考えになり、まず堂をお建てになろうとしたが、その堂を建てるべき所に大きな槻(ツキノキ)があった。
「すぐに切り取って堂の壇を築くべし」との宣旨があり、行事官(ギョウジノツカサ)が任ぜられて工事を進めているうち、その行事官と木[ 破損による欠字。「木を切ったところ、木こりが怪我をしたとか死んだ」といった、かなり長文の奇異が記されていたらしい。]引きだせ」など大騒ぎして、皆逃げ去ってしまった。

その後、程を[ 破損による欠字。「しばらく時を置いた後に、この木を切ることになった」といった経緯が書かれていたらしい。]切るべきである、と決定され、また、他の人に命じて切らせることになったが、最初の時も斧や鐇(タツギ・ちょうな)を二、三度打ち込んだだけで死んでしまったので、今度は、恐る恐る近寄り切らせにかかったところ、また、前のように急死してしまった。共に仕事をしていた者たちは、皆これを見て斧・鐇を投げ棄てて、わが身がどうなるのかと怖れおののいて逃げ出してしまった。
それから後は、「どのような咎めを受けるとしても、もはや絶対にあの木の辺りに近寄ってはならない。命あってこそ、お上に仕えることも出来るのだ」と言って、怖れること限りなかった。

そうした時、ある僧が、「どういうわけで、この木を切ると人が死ぬのか」と不思議に思い、「何とかそのわけを知りたい」と思って、雨が激しく降る夜に、僧自ら、蓑笠をつけ道行く人が木陰に雨宿りするように、木の根元にそっと抜き足で忍び寄り、木の空洞の傍にひそんでいた。
真夜中になる頃、木の空洞の上の方で多くの人の声が聞こえる。聞いていると、「あのように何度も度々伐りに来る者を、伐らせずに皆蹴り殺してやった。そうとはいえ、最後まで伐られないというわけにはいくまい」と言っているようだ。また、別の声で、「どうあろうと、そのたびごとに蹴り殺してやる。この世に命の惜しくない者はいないのだから、近寄ってきて伐る者もいるまい」と言っている。
また別の声がして、「もし、麻苧(アサオ・麻の糸)の注連縄を引き廻らして、中臣祭(ナカトミノマツリ・朝廷の大祓を司った中臣氏の祭文)を読み、杣立の人(ソマダチノヒト・木こり)に墨縄をかけて伐らせたときには、我らの術もどうにもなるまい」と言う。
また別の声がして、「ほんとにその通りだ」と言う。さらに、様々な声で、嘆き言を言い合っていたが、鳥が鳴くと声はしなくなった。
僧は、「良いことを聞いた」と思って、抜き足でその場を離れた。

その後、僧はこの事を奏上したので、朝廷はお褒めになり喜んで、その僧が申し上げたように、麻苧の注連縄を木の根元に引き廻らし、そこに米をまき御幣を奉って、中臣の祓の祝詞を読ませ、杣立の者たちを召し、墨縄をかけて伐らしたところ、一人も死ぬ者はなかった。
木がしだいに傾いた頃、山鳥ほどの大きさの鳥が五つ、六つばかり、梢から飛び立っていった。そのあと、木が倒れた。
その木をすっかり斬り払い、御堂の土台を築いた。その飛び立った鳥たちは、南の山の辺りにいた。
天皇は、この事をお聞きになって、鳥たちを哀れみ、すぐに社を造りその鳥たちに与えられた。それは今も神社として残っている。竜海寺の南にあたる所である。

その後、堂は完成した。
その供養の日に、明け方に仏像をお運びしたが、仏像が大きく、堂の南の戸口が狭い。あと一、二寸広かったとしても、仏像をお入れする方法はない。
「どうしたものか。三尺ほども高さも広さも仏像の方が大きくていらっしゃる。どうしようもない。そばの壁を壊してお入りしようか。どうしよう」[ 破損による欠字。 相談し合う様子が書かれていたか? ]と、大声で騒ぎ合うばかりであった。

その時、年八十[ 破損による欠字。 老翁の容姿などが描かれていたか? ]ついたのが出てきて、「さあさあ、あなた方は、皆退きなされ。そして、この翁の申す通りになさい」と言って、仏像の顎を引き廻すようにして、御頭の方を前にしていとも簡単に中に引き入れた。
その後で、「あの翁は誰なのか」と問い尋ねたが、かき消すように姿がなかった。その行方も全く分からなかった。それで、人々は驚き怪しんで、大騒ぎすること限りがなかった。
なお捜すようにとの仰せがあり、東西を走り回ったが、知っている人がいない。それで、あの人は化人(ケニン・神仏が化した人)だったのだと皆思った。

その後、時が来て、供養が行われた。
その講師、[ 僧名などの欠字があったか? ]その時に、仏像の眉間から白い光が発せられ、それが中の戸から出て、堂の上を暈(カサ)のようになって覆った。「これは、まことに不思議なことだ」と人々は尊びあった。
供養の後は、この寺の事は聖徳太子が引き受けられて行われたので、仏法はたいそうな繁栄をした。

本の元興寺(飛鳥に所在する旧寺を指す)というのは、この寺である。その仏は今もおいでになる。心ある人は、必ずお参りして礼拝申し上げるべき仏である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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仏像を守る ・ 今昔物語 ( 巻11-23 )

2016-08-18 10:28:34 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          仏像を守る ・ 今昔物語 ( 巻11-23 )

今は昔、
敏達天皇の御代に、河内国和泉郡の前の海の沖に楽器の音が聞こえた。筝(ショウノコト・十三弦の琴)、琴(キンノコト・七弦の琴。和琴)、箜篌(クウゴ・ハープに似た楽器)などの音のようであった。また、雷が鳴り響く音のようでもあった。
また、光があった。日の出の光のようであった。
昼は鳴り、夜は輝いた。それが、東をさして流れて行く。

その頃、文部屋栖野(フミベノヤスノ)という人がいた。
彼は、この事を天皇に奏上したが、天皇は全くお信じになられなかった。そこで、皇后(額田部皇女。のちの推古天皇)に申し上げた。
皇后はこれを聞き、栖野に「お前はそこに行き、その光る所を見てきなさい」と仰せになった。栖野は仰せを承って、行って見ると、噂に聞いたように光があった。船に乗り、漕いで行って見ると、大きな楠が海の上に浮かんでいた。その木がまさしく光っている。
帰ってその旨を申し上げ、「これは、きっと霊木でありましょう。この木を以って仏像を造るべきと思います」と進言した。皇后はこれを聞いて、「速やかに、お前が申すように、仏像を造るのがよい」と仰せられた。
栖野は仰せを承って、喜んで、蘇我の大臣(蘇我馬子)に仰せを伝え、池辺直氷田(イケベノアタイヒタ)という人に仏菩薩三体の像を造らせ、豊浦寺(トヨラデラ・飛鳥川西岸にあった、わが国最初の尼寺)に安置した。多くの人が詣でて、敬い供養することこの上なかった。

ところが、守屋大臣(モリヤノオオキミ・物部氏。正しくは大臣ではなく大連)が皇后に申し上げた。「およそ、仏の像を国内に置いてはいけません。遠くに棄ててしまいなさい」と。
皇后はこの進言を聞き入れて、栖野に[ 破損による欠字。「{早くこの仏像をお隠し}とあったらしい。]申せ」と命じられた。そこで、栖野は池辺直氷田を使いとして行かせ、[ 破損による欠字。「仏像を稲の中に隠した。」とあったらしい。『霊異記』にある。]すると、守屋大臣は堂に火を放って焼き、仏像を取り出して難波の堀江に流した。しかしながら、この仏像は稲の中に隠していたので、見つからなかった。
守屋大臣は栖野を責めて、「今、我が国に災いが起こっているのは、隣国(百済を指している)からの外来の神を国内に置いているからである。早々にその外来神を取り出して、豊国(トヨノクニ・・豊前・豊後辺りを指すとも、朝鮮半島の国を指すとも)に流してしまうべきなのだ」と言った。しかし、栖野は固く拒んで、この仏像を取り出さなかった。

その後、守屋は謀反を企て、すきを窺って皇位を崩壊させようとした。だが、天神地祇(アマツカミクニツカミ)の罰をこうむり、用明天皇の御代に守屋はついに誅罰されてしまった。その後になって、この仏像は取り出されて、世に伝わるようになったのである。
今、吉野郡の現光寺に安置し奉っている。安置するその時、仏像は光を放たれた。阿弥陀像がこれである。
窃(ヒソカ)に稲の中に隠していたので、現光寺のことを窃寺(ヒソデラ)と言うのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 本話については、「日本書紀」などでは欽明天皇の御代、「聖徳太子伝暦」では推古天皇の御代となっている。

     ☆   ☆   ☆





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久米の仙人 ・ 今昔物語 ( 巻11-24 )

2016-08-18 10:26:58 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          久米の仙人 ・ 今昔物語 ( 巻11-24 )

今は昔、
大和国吉野郡に竜門寺という寺があった。
寺に二人の人が籠って仙人の術を修業していた。その仙人の名は、一人はアズミと言い、一人を久米(クメ)と言った。ところが、アズミは先に修業を成就させ、すでに仙人となり飛んで空に昇っていった。

それから後に、久米も同様に仙人となり、空に昇って飛び回っていたところ、吉野川の岸に、若い女が立って着物を洗っていた。着物を洗うために、女はふくらはぎのあたりまで着物の裾をたくし上げたが、そのふくらはぎの真っ白なのを見て、久米は心が乱れてその女の前に落ちてしまった。
その後、久米はその女を妻として暮らすようになった。その仙人として修業していた様子は、今、竜門寺の扉にその形が残され、菅原道真が御文章(漢文による賛)として書かれている。それは消えることなく今も残っている。
その久米の仙人は、並の人になってしまったが、馬を売った時の売渡し証文に「前の仙(サキのセン)、久米」と書いて渡したという。

さて、この久米の仙人がその女と夫婦として暮らしていた頃、天皇(天皇名未詳。聖武天皇の御代か?)がその国の高市郡に都をお造りになろうとして、国内から夫役として人々を集めて労務に当たらせた。それで、久米もその労務に駆り出された。労務に当たる者たちは、久米を「仙人、仙人」と呼んだ。行事官(ギョウジノツカサ・担当の役人)の仲間がこれを聞いて、「お前たちは、なぜ彼のことを仙人と呼ぶのか」と尋ねた。労務者たちは、「あの久米は、先年、竜門寺に籠って仙人の術を修業し、すでに仙人になって空に昇って飛び回っていましたが、吉[ 破損による欠字。「(吉)野川の辺りに、若い」といった文章か。]女が立って着物を洗っていました。その女が着物をたくし上げたふくらはぎの真っ白なのを見下ろして、[ 破損による欠字。「心が乱れて、女の」といった文章か。]前に落ちて、そのままその女を妻にしているのです。そういうわけで、仙人と呼んでいるのです」と答えた。

行事官たちはこれを聞いて、「それならば、もとは偉い人だったのだな。もとは、仙人の術を修業して、すでに仙人になった人なのだ。その修業の効はきっとまだ失ってはいないはずだ。それならば、この材木を大量に各自が持ち運ぶより、仙人の術で空を飛ばせるのがよかろう」と冗談ごとに言い合っているのを、久米が聞き、「私は仙人の術を忘れて、長い時間が経っています。今は、並の人になっている身です。そのような霊験を行うことは出来ません」と言った。
しかし、心のうちでは、「我は仙人の術を習得したとはいえ、凡夫の愛欲によって、女人に心を乱してしまい、再び仙人になることは叶うまいが、長年修業した術であるので、もしかすると本尊が助けてくれるかもしれぬ」と思って、行事官に向かって、「そういう事であれば、出来るかどうか、試しに祈ってみましょう」と言った。
これを聞いた行事官は、「馬鹿なことを言う奴だ」と思いながら、「それはなかなか尊いことだなあ」と答えた。

それから、久米はある静かな道場に籠り、心身を清め断食して、七日七夜の間絶えることなく礼拝をし続け、心をこめてこの事を祈った。
やがて、早くも七日が過ぎた。行事官たちは、久米が姿を見せないことを笑ったり、また不審に思ったりしていた。すると、八日目の朝、にわかに空がかき曇り、闇夜のようになった。雷が鳴り雨が降り出し、何も見えなくなった。
これは怪しいと思っていると、しばらくすると雷が止み空が晴れてきた。その時、見ると、大中小の大量の材木が、ことごとく南の山の辺りの山林から空を飛んで、都を造営しようとしている所に向かって来たのである。

それを見た多くの行事官たちは、久米を敬い尊んで礼拝した。その後、この事を天皇に奏上した。天皇もこれをお聞きになって、尊び敬い、さっそく免田(メンデン・納税義務を免除された田)三十町を久米に布施として与えられた。久米は喜び、この田をもって、その郡に一つの寺院を建立した。久米寺というのは、この寺のことである。

その後、高野の弘法大師が、その寺に丈六の薬師三尊仏を、銅(アカガネ)で鋳造して安置なされた。弘法大師は、この寺で「大日経」を見付け、それを本にして、「即座に成仏できる教えである」ということを知り、唐へ真言を習いに渡られたのである。
されば、この寺は大変尊い寺である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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弘法大師入定の地 ・ 今昔物語 ( 巻11-25 )

2016-08-18 10:25:53 | 今昔物語拾い読み ・ その3
         弘法大師入定の地 ・ 今昔物語 ( 巻11-25 )

今は昔、
弘法大師は、真言の教えを諸所に広め置かれたが、しだいに老齢になられたので、多くの弟子たちに、あちこちの寺をお譲りになった。その後、「私が唐にいる時投げた三鈷(サンコ・密教の法具)の落ちた場所を捜そう」と思って、弘仁七年(816年。弘法大師「空海」四十三歳)という年の六月に、都を出て捜し求めるうちに、大和国宇智郡まで来たところで一人の猟師にあった。
その姿は、顔は赤く、身の丈は八尺ばかりある。青い色の小袖を着ていて、筋骨逞しい。身に弓矢を帯び、大小二匹の黒い犬を連れている。
この人は、大師を見て、通り過ぎて行く時に、「何と申される聖人が行こうとされているのでしょうか」と言った。
「私は唐にいる時に三鈷を空に向かって投げ、『禅定(ゼンジョウ・精神を統一して真理に達すること)の霊穴に落ちよ』と誓願しました。今、その所を捜し求めているのです」と答えた。猟師は、「私は南山(ナンザン・比叡山を北嶺と呼ぶのに対する言葉で、高野山の別称)の犬飼猟師です。私はその場所を知っています。早速お教えいたしましょう」と言って、犬を放って走らせると、犬は見えなくなった。

大師は、そこから紀伊国の国境にある大きな川(吉野川)のほとりまで来て宿泊した。そこで一人の山人(ヤマビト・山で暮らす人のことらしい)に会った。大師が三鈷の落ちた場所のことを尋ねると、「ここから南の方に、平原の沢(ヒラハラのサワ・平らな湿原)があります。そこがお尋ねの所です」と答えた。
翌朝、山人は大師と共にそこへ行く途中、密かに話した。「私はこの山の王なのです。早速この領地を差し上げましょう」と。
やがて、山の中に二百町ばかり入った。山の中は、きちんと鉢を伏せたような形をしていて、周囲には八つの峰がそびえていた。とてつもない檜の大木が、まるで竹林のように並び立っている。その中の一本の檜に枝が二股に分かれた物があり、そこに三鈷が突き刺さっていた。

大師はこれを見て、この上なく喜び感激すること限りなかった。「こここそ、禅定の霊崛(レイクツ・霊穴に同じ。神聖な岩穴)である」と思われたのである。
「あなたはどなた様ですか」と、大師がこの山人に尋ねると、「丹生の明神(ニフのミョウジン・丹生津比売命のことで、高野山の地主神)と申す」と答えた。今の天野の宮は、この方をお祭りする。
そして、さらに、「あの犬飼猟師は、高野の明神(高野山の鎮守神の一つ)と申される」と言うと、姿を消した。

大師は都に帰り、様々な役職をすべて辞して、弟子たちに諸所の寺を任せた。
東寺を実恵僧都に任せ、神護寺を真済僧正に任せ、真言院を真雅僧正に任せ、自身は高雄を去って南山(高野山)に移られた。
そこには、数多くの堂塔や僧房を造られた。中でも、高さ十六丈の大塔を造り、丈六の五仏(ゴブツ・密教の曼陀羅で、大日如来とそれを囲む四仏を言う。)を安置して、それを大師の御本願寺として金剛峰寺(コンゴウブジ)と名付けられた。
また、入定(ニュウジョウ・禅定に入ること)の場所を造り、承和二年(835)という年の三月二十一日の寅の時(午前四時頃)に、結跏趺坐(ケッカフザ・座法の一つで、禅定を修する時に用いられる)して大日如来の定印を結んで、その中で入定なされた。御年六十二。
その時御弟子たちは、ご遺言に従って、弥勒菩薩の名号を唱えた。

その後しばらくして、この入定の洞窟を開いて、御髪を剃り、御衣を着せ替え申し上げたが、それ以後はそのような事も久しくしなかったが、般若寺の観賢僧正という人、この人は大師の曽孫弟子に当たるが、東寺の権の長者であった時、高野山に詣でて大師の入定の洞を開いたところ、霧が立ち込めていて暗夜のようで何も見えないので、しばらくして霧が薄くなってから見ると、何と、御衣が朽ちていたものが風が吹き込んだため塵となり霧のように見えたものであった。
その塵が静まると大師のお姿が見えた。御髪は一尺ばかり伸びていらっしゃったので、観賢僧正自ら、水を浴び浄衣を着て入り、新しい剃刀で以って御髪をお剃り申し上げた。水晶の御数珠の緒が朽ちて、御前に落ち散らばっているのを拾い集め、新しい緒に通して、御手にお懸け申し上げた。御衣も清浄な物をお作りしてお着せ申し上げ、祠を出た。

僧正ご自身は、祠を出る時、今はじめてお別れするように思われ泣き悲しまれたが、その後は畏れ多くて、誰も祠を開く人はいない。
但し、人が詣でる時は、上にある堂の戸が自然に少し開き、山に鳴るような音がしたり、ある時は鉦(カネ)を打つ音がする。このような様々な不思議なことがある。
ここは、鳥の声さえまれな山の中であるが、少しも恐ろしい気がしない。

坂の下に、丹生・高野の二柱の明神が鳥居を並べて鎮座なされている。誓願されたように、この山を護っておられるのである。
霊妙なる所として、今も、お参りする人が絶えない。ただ、女は登ることが出来ない。
高野の弘法大師と申し上げるのはこのお方である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 大師の入定の祠とあるのは、現在の、高野山奥の院の弘法大師廟の地である。また、入定という言葉は、亡くなることを指すことも多いが、真言宗においては、弘法大師は死んだのではなく、今も「定に入られている」とされている。

     ☆   ☆   ☆



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伝教大師比叡山を開く ・ 今昔物語 ( 巻11-26 )

2016-08-18 09:34:12 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          伝教大師比叡山を開く ・ 今昔物語 ( 巻11-26 )

今は昔、
伝教大師(最澄)は比叡山を建立し、根本中堂に自ら薬師如来の像を造り安置し奉った。
天台宗を立て、智者大師(天台大師とも。中国の人)の教えを広められたが、かねてからの念願であった。
その後、弘仁三年(812)という年の七月に、法華三昧堂(ホッケサンマイドウ)を造り、法華一乗経を昼夜絶えることなく読誦させ、一日中法螺(ホラ)を吹かせた。灯明を仏前にかかげて、今に至るまで消えたことがない。

また、弘仁十三年という年、天皇に奏上して、官符を賜って、初めて大乗戒壇を建てた。
昔、わが国に声聞戒(ショウモンカイ・小乗戒のこと)が伝えられた時、東大寺に戒壇院が建てられた。しかし、伝教大師が唐に渡り菩薩戒(大乗戒)を習い伝えられて帰朝し、「わが宗の僧は、この戒を受けるべきです。南岳・天台(共に中国の人)の二人の大師は、この菩薩戒を受けられました。それゆえ、この山に別の戒壇院を建てようと思います」と朝廷に申し上げたが、許可されなかった。そこで、大師は渾身の筆を振るって、顕戒論三巻を著して天皇に奉った。證文は多くその意図は明らかで、ついに勅許をえて戒壇は建てられたのである。

その後、毎年の春秋に受戒を行う。
梵網経(ボンモウキョウ)に、「菩薩戒を受けない者は、畜生に異ならない。これを外道と名付ける」とある。また、「もし僧が、一人の人を教えて菩薩戒を受けさせたならば、その功徳は八万四千の塔を建てるより優る」とある。そうであれば、大師が、一人や二人ではなく大勢の人を受戒させ、一年や二年ではなく長年にわたって受戒させられた功徳は、どれほどのものになるだろう。
心ある者は、何よりも、この戒を受けるべきである。

また、大師は毎年の十一月二十一日に、講堂において、多くの僧を招いて法華経を講じて、五日間の法会を行った。これは、唐の天台大師の命日に当たる。比叡山全体の営みとして、今も絶えることなく行われている。
大師が比叡山を建立して天台宗を開いたのは、ひとえにあの天台大師の後を追ったものである。それゆえ、その恩に報いるためこの法会を始めたのである。

そして、弘仁十三年という年の六月四日、大師は入滅した。御年五十六であった。
伝教大師と申されるのは、この人である。実名は最勝(サイショウ・正しくは最澄)。入滅の時を前もって多くの弟子に知らせていた。その当日は、不思議な雲が長い間峰を覆っていた。遠くの人がこれを見て怪しみ、「今日、比叡山できっと大事があったに違いない」と疑ったという。
その後も、堂塔を造り、東西南北の谷に僧房を造って、多くの僧を住まわせ、天台の法文を学ばせて、比叡山の仏法は栄え、その霊験は特に優れていた。
女はこの山に登ることは出来なかった。
この寺は延暦寺と名付けられ、天台宗はこの時からわが国に始まったのである。

あの宇佐八幡宮から賜った小袖(本巻第十話に由緒が書かれている)の脇の縫い合わせていない隙間に、薬師仏をお彫りした時の削りくずが付いたまま、今も根本中堂の御経蔵に納められている。また、大師がご自身でお書きになった法華経は、箱に入れて禅唐院にお置きしている。
代々の和尚(カショウ)は、清浄にしてこれを礼拝し奉るのである。もし女に少しでも触れた人は、永久にこれを礼拝し奉ることは出来ない、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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横川の慈覚大師 ・ 今昔物語 ( 巻11-27 )

2016-08-18 09:32:54 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          横川の慈覚大師 ・ 今昔物語 ( 巻11-27 )

今は昔、
慈覚大師は伝教大師(最澄)の入室写瓶(ニュウシツシャビョウ・師僧の部屋に入り瓶の水を他の容器に移すように、親しく師僧の教法を習得すること)の弟子として、比叡山を受け継ぎ、仏法興隆の志が特に深かった。

それで、根本中堂とは別に首楞厳院(シュリョウゴンイン)を建立し、中堂を建て、観音、不動尊、毘沙門の三尊を安置し奉った。
また、宋(実際は唐)より多くの仏舎利を持ち帰った。貞観二年(860)という年、惣時院を建てて舎利会を始めて行い、長くこの山に伝えるようにした。その折、多くの僧を招き、音楽を奏するのを後々の伝統とした。舎利会を行う日は定められていないが、ただ、山の花の盛りの頃と決められている。
また、貞観七年という年、常行堂を建て、不断の念仏を修すること七日七夜に及んだ。八月十一日から十七日の夜に至るまでだが、これは、極楽の聖衆(ショウジュ・聖人衆。仏・菩薩の方々)が阿弥陀如来を称え奉る声である。引声(インジョウ/インセイ・引声阿弥陀経のこと。天台宗で毎日の夕べの勤行で唱えられる)というのはこれである。大師が唐から伝えてきて、長くこの山に伝えるようにしたもので、身には常に仏を迎え、口には常に経を唱え、心には常に極楽浄土を思い浮かべる。三業(サンゴウ・身・口・心の三つに基づく行為により生ずる罪障)を消滅すること、これに過ぎるものはない。

また、唐に赤山(セキザン)という神がおいでになった。この神が大師を護ろうと誓い、大師についてこの国に来た。そして、この山に留まって、今も楞厳院の中堂のそばにおいでになっている。「比叡山の仏法を護ろう」という誓いを立てられて、長くこの山に留まっておられるのである。
また、大師は、この山に大きな杉の木があるが、その木の洞に住み、法の通りに精進して、法華経を書写された。すべて書き終った後、堂を建て、この経を安置なさった。如法経(ニョホウキョウ・一定の方式に従って経を書写すること)ということはこれに始まったのである。
その時、わが国の多くの尊い神々が、「順番を決めて、この経を守護しよう」と誓いをお立てになったのである。

今もその経は堂に安置されている。また、杉の洞もある。心ある人は、必ずお参りして拝礼申し上げるべきである。
横川(ヨカワ)の慈覚大師と申し上げるのはこのお方である、
となむ語り伝へたるとや。

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三井寺再興 ・ 今昔物語 ( 巻11-28 )

2016-08-18 09:31:29 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          三井寺再興 ・ 今昔物語 ( 巻11-28 )

今は昔、
智證大師(チショウダイシ・円珍)は比叡山の僧として、千光院という所に住んでおられた。しかも、天台座主(テンダイザス・天台宗の最高位。円珍は第五代天台座主)としてその院に住んでおられたが、天皇をはじめとして世間のすべての人が尊敬することこの上なかった。

ところで、大師には自分の門徒(モント・門弟。ここでは流派といった意味)を別に立てようとの考えがあり、「我が門徒の仏法を伝えて行く所はどこが良いか」と、あちらこちらと捜し歩いていたが、近江国の志賀に、昔、大伴の皇子(大友皇子。天智天皇の皇太子)が建てられた寺があった。その寺においでになり、寺の様子を見ると、極めて尊いことこの上なかった。東に近江の江(琵琶湖)を擁しており、西は深い山である。北は林で南は谷である。
金堂は瓦で葺かれている。二階建てで、裳層(モコシ・装飾用に取り付けられた庇のような屋根)が造られている。その中に、丈六の弥勒菩薩が安置されている。寺のそばに僧坊がある。寺の下に石筒を立てた井戸が一つある。
一人の僧が出てきて、「私はこの寺の僧でございます」と名乗り、「この井戸は一つですが、三井(ミイ)と言います」と大師に言った。大師がそのわけを聞くと、「それは、三代の天皇(天智・天武・持統を指すらしい)がお生れになった時の産湯の水をこの井戸から汲んだので、三井と申すのです」と僧は答えた。

大師は、このように聞いた後、先ほど見た僧坊に行ってみたが、人の気配がない。ただ、荒れ果てた一つの僧坊があり、大変年老いた僧が一人いた。よく見てみると、魚の鱗や骨を食い散らかしている。その臭いがたまらなくくさい。
これを見て、大師はそばの僧坊にいる僧に尋ねた。「この老僧は一体何者ですか」と。聞かれた僧は、「この老僧は、長年この湖の鮒を取って食うのを仕事にしている者です。それ以外に仕事は何もしていません」と答えた。
大師はこれをお聞きになっても、なお老僧の姿を見ていると、尊い人のように見える。「きっと何かわけがあるのだろう」と思って、その老僧を呼び出してお話をされた。

老僧は大師に語った。「私が此処に住むようになってから、すでに百六十年が経ちました。この寺は作られてから[ 意識的な欠字。「百八十余年」とも ]年になります。この寺は、弥勒菩薩がこの世に出現なさいますまで存続すべき寺なのです。ところが、この寺を維持すべき人がいなかったのですが、今日、幸いにも大師がおいで下さいました。そこで、この寺は永く大師にお譲り奉ります。大師をおいて外には維持すべき人はおりません。私は年老い、心細く思っておりましたので、このようにお譲りすることが出来ますのは、嬉しい限りでございます」と言って、泣く泣く帰って行った。

その時、見てみれば、唐車(牛車の一種で高級車)に乗った貴げな人が現れた。
大師を見て喜びにあふれた様子で、「私はこの寺の仏法を守護しようと誓った者です。それが、今ようやく、聖人にこの寺をお任せすることが出来て、これから仏法を広めていただけるわけですから、今後は深く大師を頼りといたしましょう」と、約束して帰って行った。
この人が誰なのか、分からない。そこで、共にいた[ 破損による欠字。「供の人」か? ]、大師が、「今の方はどなたですか」と尋ねると、「あの方は、三尾の明神(三井寺が建立される前からのこの地の地主神)がおいでになったのです」と答えた。「やはりそうでしたか。あの方は只の方ではないとお見受けしました。あの老僧の様子を、なお詳しく見たいものだ」と思って、その僧坊に戻ってみると、初めは臭かったのに、今度はたいそう香しい。「思った通りだ」と思って入って見ると、鮒の鱗や骨だと見えていた物は、蓮華のしぼんだ物や色鮮やかな物を鍋に入れて煮て、食い散らかしていたのである。

驚いて隣の僧坊に行ってこのことを聞くと、一人の僧が、「この老僧は、教題和尚(キョウダイカショウ・教待とも。長寿の神仙で、清水寺の地の神仙らしい)と申される方です。人の夢には、弥勒菩薩のお姿にお見えになるといいます」と答えた。
大師はこれを聞いて、いよいよ敬い尊び、深い契りを結んで帰った。その後、経論や仏典を持ち、多くの弟子を率いてこの寺に移り、仏法を広められた。今も、その仏法は栄えている。
今の三井寺の智證大師と申すのは、この方である。かの宋(正しくは唐)において伝え受けられた大日如来の宝冠は、今もこの寺にある、
となむ語り伝えたるとや。

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