天王寺建立 ・ 今昔物語 ( 巻11-21 )
今は昔、
聖徳太子がこの国にお生れになり、「仏法を広め、この国の人に利益(リヤク)を与えよう」と思われたので、太子の御伯父である敏達天皇の御代に、天皇に申し上げて、国内に仏法をあがめて堂や塔を建て、他の国から来朝した僧に帰依するようにしたところ、守屋大臣(モリヤノオオオミ)という者がいて、これに反対して、天皇に仏法をあがめることを中止するよう奏上した。
これにより、太子は守屋と不仲になった。蘇我大臣(ソガノオオオミ・曽我馬子)という人に相談し、守屋を誅罰して国内に仏法を広めようと策を練られた。その時、ある人が守屋に、「太子は蘇我大臣と同盟して、あなたを討とうとされています」と告げた。そこで、守屋は阿都の屋敷に籠って、戦の準備をした。中臣勝海(ナカトミノカツミ・伝不詳)という者もまた軍勢を集めて守屋を助けようとした。
そのうち、「この二人が、天皇を呪い奉っているぞ」ということが世間の噂として聞こえてきたので、蘇我大臣は、太子に申し上げて共に軍勢を率いて、守屋の屋敷に行き攻撃した。
守屋も軍勢を[ 破損による欠字。「出し、城砦を築いて防戦する。」といった文章か? 本巻第一話に同様の文章ある。]その軍勢は強く、太子方の軍勢は怖れおののいて三度退き[ 破損による欠字。「逃げた。この時、太子の御年は十六歳で」か?]あったが、軍勢の後方に立って、軍の司令官である秦川勝(ハタノカワカツ)に対して、「お前は直ちに木を取って来て、四天王の像を刻み、それを髪の上にさし、鉾の先に捧げよ」と命じられ、また、願をたてられて、「我らを、この戦いで勝たせてくだされば、必ず四天王の像をお造りし、寺塔を建立いたします」と仰せになられた。
蘇我大臣もまた、同じように願を立てられて戦っているうちに、守屋は大きな櫟(イチイ)の木に登って、物部の氏の大神に祈請して矢を放った。
その矢は、太子の鐙(アブミ)に当たって落ちた。太子もまた、舎人の迹見赤榑(トミノイチイ)という者に命じて、四天王に祈って矢を射させた。その矢は遥かに飛んで行き、守屋の胸に当たったので、守屋は木から逆さまに落ちた。それにより、守屋の軍勢は総崩れとなった。そこで、太子側の軍勢は攻め寄せて、守屋の首を斬った。
その後、屋敷の中に攻め入り、財宝をすべて寺のものとし、荘園をことごとく寺領とした。屋敷は焼き払ってしまった。
その後、ただちに玉造の岸の上に寺を建てられ、四天王の像を安置なさった。今の天王寺がこれである。
太子は、決して人を殺そうとされたわけではあるまい。遥々とわが国に仏法を伝えるためであった。あの守屋大臣が生きていれば、今に至るまでこの国に仏法が行なわれていただろうか。
その寺の西門に、太子自ら、
『 釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心 』(ここは釈迦如来が説法された所で、極楽浄土の東門の中心に当たる)
とお書きになった。
これによって、人々はこの西門において弥陀の念仏を唱えるようになった。それは、今も絶えることがなく、参らない人は無いほどである。
これを思うに、この天王寺は、必ず、人々が参るべき寺である。聖徳太子がまさしく仏法を伝えるためにこの国にお生れになり、心をこめて願を立ててお造りになった寺である。
心ある人は、この事を知っておかなくてはならない、
となむ語り伝へたるとや。
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