雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

御指を埋める ・ 今昔物語 ( 巻11-29 )

2016-08-18 09:29:43 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          御指を埋める ・ 今昔物語 ( 巻11-29 )

今は昔、
天智天皇が近江国志賀郡の粟津の宮(大津宮)においでになった時、寺を建てようという願いがあり、「寺を建てるのに適した場所をお教えください」と祈願されたその夜の夢に、一人の僧が現れて告げた。「この戌亥(イヌイ・北西)の方角に勝れた場所がある。速やかに出かけてごらんなさい」と。
夢が覚めてすぐに出かけて見てみると、戌亥の方角に光が見えた。翌朝、使者を遣わして調べさせた。使者が行って、光るらしい山を捜し求めていると、志賀郡の篠波山(ササナミヤマ)の麓まで来た。谷に添って深くまで入って行くと、高い崖があった。

崖の下には深い洞穴があった。洞穴の入り口のそばに寄り、中を覗いてみると、帽子をかぶった年老いた翁がいた。その姿はすこぶる怪しい。普通の人とは思えず、目つきは賢げで、たいそう気高く感じられる。使者は近付いて尋ねた。「どなたがこのような所においでなのでしょうか。実は、天皇がご覧になられたところ、こちらの方角の山に光が見えました。そこで、『調べて参れ』との宣旨を承って来たのです」と。
翁は、全く何も答えない。
使者は大変困ってしまったが、「この翁は、何かわけのある人だろう」と思って、立ち帰って、その旨を天皇に奏上した。

天皇はこれをお聞きになって、驚き怪しまれて、「私が行幸して、自ら尋ねよう」と仰せられて、ただちにその場所に行幸された。
御輿をあの洞穴のそば近くに寄せておろさせて、御輿よりお降りになった。
洞穴の入り口に寄ってみると、確かに翁がいる。天皇の姿を見ても少しも畏れかしこまる様子がない。錦の帽子をかぶっていて、薄紫色の直衣を着ている。姿は、神々しく気高い。
天皇はお近付きになり、「このような所にいるのは、誰なのか」と尋ねられた。
すると、翁は袖を少し掻き合わせ、座を少しばかり退くようにして、「昔、いにしえの仙人がいた洞穴です。篠波や、長柄の山に」など言って、かき消すように見えなくなった。
そこで天皇は、[ 欠字があるらしい。人名と思われるが不詳。]召して、「翁は、『然々』と言って見えなくなった。それで分かったのだ。あの場所は、極めて尊い霊所なのだ。ここに寺を建てるべきである」と仰せになって、宮殿にお帰りになった。

その翌年の正月、はじめて大きな寺院を建立されて、丈六の弥勒菩薩の像を安置し奉った。供養の日になって、灯廬殿(トウロデン・灯明をともす殿舎。ここでは石製などの灯籠か?)を建て、天皇自ら右手の名無し指(くすり指)でもって御灯明をともされ、その指を付け根から切って石の箱に入れて灯楼(灯廬殿)の土の下にお埋めになった。これは、手に灯をともして弥勒菩薩に捧げ奉るという信心の心を示されたものである。また、この寺院をお造りになっている時、地ならしをしていると、三尺ばかりの小さな宝塔(七宝で荘厳された仏舎利を納めた仏塔)を掘り出した。その形を見ると、この世の物とは見えない。昔の阿育王が八万四千の塔を建てたという、その一つであると悟られて、いっそう深く誓いを立てられて、指をも切ってお埋めになったのである。

また、供養の後、天平勝宝八年という年の二月十五日、参議正四位下兼兵部卿である橘朝臣奈良麻呂という人がいて、この寺で伝法会(デンポウエ)という法会をはじめて行った。それは、華厳経を初めとして、諸々の大乗・小乗の経律論(経と律と論のことで、釈迦の教えをまとめたもの。これらを総称して「三蔵」という)や章䟽(ショウショ・三蔵の注釈)を講じさせた。その費用のために、水田二十町を寄進した。そして、「末永く法会を行おう」と言った。それより後、今もなお、橘氏の人が参詣して、この法会を行わせている。

ところで、この寺では供養の後、あの御指が霊験をお示しになるとのことで、少しでも穢れのある者どもを谷に投げ棄てたので、人々の参詣が絶えてしまった。そこで、少し昔の頃になって、何という名の僧であったか、別当(大寺で寺務を統括する僧)になってこの寺を運営するようになったが、「この寺には少しも人が参詣しないので、とても物足りない。この御指のせいであろう。早速これを掘り出して棄ててしまおう」と言って、掘らせると、たちまち雷が鳴り雨が降り風が吹き荒れたが、別当はますます腹を立てて掘り出してしまった。
見てみると、御指はたった今お切りになったように、白い光があって、鮮やかな色をしていた。掘りだした後、すぐに水になって消え失せてしまった。その後、別当の僧はいくらも経たないうちに狂い死にしてしまった。

その後は、この寺には何の霊験も無くなっている。「呆れたことをした別当だ」と、死んだ後までも世の人々は皆憎んでいた。
崇福寺(シュフクジ・平安初期までは十大寺の一つとされていたが、その御衰退して廃寺となった)というのはこの寺である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



* 文中にある阿育王は、古代インドのマガダ国の王で、アショーカ王ともいう。阿育王が建立した八万四千の塔は、多くの衆生を救うためとも、殺害した八万四千の后の供養のためとも伝えられている。

     ☆   ☆   ☆


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笠置寺創建 ・ 今昔物語 ( 巻11-30 )

2016-08-18 09:28:16 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          笠置寺創建 ・ 今昔物語 ( 巻11-30 )

今は昔、
天智天皇の御代に、一人の御子(天智天皇の第一皇子。大友皇子)がおいでになられた。聡明で学問に優れていた。特に文章道を好んでおられた。詩賦(シフ・詩と賦。共に漢文体の韻文)を作ることは、この御子の時からわが国に始まったのである。
また、狩猟を好まれ、猪や鹿を殺すことを日夜仕事とされていた。常に、身に弓矢を帯び、軍勢を率いて、山や[ 欠字有り。「谷を」か? ]取り巻いて、獣を狩らせていた。

ある時、山城国相楽郡賀[ 欠字有り。「茂」か? ]の郷の東にある山の辺りを狩って行かれたが、山の斜面になっている所を、皇子は駿馬に乗って鹿を追って駆け上られたが、鹿は東に向かって逃げて行くので、皇子は鹿の後ろについて馬を走らせ、鐙(アブミ)を踏みしめて弓を引くと、鹿は突然消えてしまった。
射倒したのであろうと辺りを見たが、鹿の姿は見つからない。「さては、崖から落ちたのかな」と思って、弓を投げ棄てて手縄(タヅナ)を引いたが、勢いづいて走っている馬なので、急には止まらない。なんと、遥かに高い崖から鹿は落ちてしまっていたのである。

皇子の乗っている馬も、気負って走っていて、鹿のようにまさに崖から落ちそうになったが、四つの足を一ヶ所に踏み留めて、少し突き出した岩の先端で立ち留まった。
馬を引き返させるにもその場所はなく、馬から下りようとしても鐙の下は遥かに深い谷なので、下りるべき足場もない。馬が少しでも動けば、谷に落ちてしまう。
谷を見下ろすと、十余丈ばかりある下[ 欠字あるも推定できず。]である。見ると目まいがして谷底も見えない。東西の方角も分からない。魂おいつき(魂がどこかへ行ってしまう、と言った意味か?)心臓はどきどきとして、まさに、馬と共に死んでしまいそうであった。  
皇子は嘆きながら「もし、ここにおいでであるならば、山の神々よ、我が命を助け給え。お助け下されば、この岩のそばに弥勒菩薩の像を刻んで奉りましょう」と誓いを立てられると、たちまちその霊験があり、馬は後退りして広い所に立った。

そこで、皇子は馬より下りて、泣く泣く伏し拝み、後で来て捜す目印として被っていた藺笠(イガサ・藺草で編んだ笠。狩猟用の笠)を脱いで置いて帰った。
その後、一両日して、置いておいた所の笠を捜して行った。山の頂から下り、岩の中ほどを廻って麓に着いた。上を見上げると、目も及ばぬほどで、雲を見ているようであった。皇子は思い悩み、山の斜面の岩肌に弥勒菩薩の像を彫り奉ろうとされたが、とても出来そうもない。
その時、天人がこれを哀れに思い、皇子に力を貸して、たちまちのうちにこの仏像を彫刻し奉った。その間、にわかに黒い雲が覆い、闇夜のようになった。その暗闇の中を、小さな石がたくさん飛び交う音が聞こえていた。しばらくして、雲が去り霧が晴れて、明るくなった。
その時、皇子が岩の上を仰ぎ見られると、弥勒菩薩の像が、鮮やかなお姿で彫られていた。皇子はこれを見て、涙を流して恭敬礼拝して、お帰りになった。
それより後、これを笠置寺というようになった。笠を印しに置いたからであり、笠置つまりカサオキというべきであるが、それを和らげて、カサギというのである。

まことに、末世において稀有の仏さまであられる。世の中の人は、心から崇め奉るべきである。「ほんの少しでも足を運び頭を下げる人は、必ず兜率天の内院(トソツテンのナイイン・弥勒の浄土)に生まれ、弥勒菩薩がこの世に出現される時にあう[ 破損による欠字。他の文献から、「種を」らしい。]植えたのである」と期待すべきである。
この寺は、弥勒菩薩を彫り顕し奉って後、大分経ってから、良弁僧正(ロウベンソウジョウ・大仏開眼供養の時の東大寺別当)という人が見つけられ、その後よりここでの修業が始まったのだ、と人々は言っている。その後に、多くの堂を建て僧房を造り加え、僧たちが多く住んで修業するようになった、
とぞ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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長谷観音 ・ 今昔物語 ( 巻11-31 )

2016-08-18 09:27:04 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          長谷観音 ・ 今昔物語 ( 巻11-31 )

今は昔、
世間に大洪水があった時、近江国高島郡の岬に、大木が流されてきて打ち寄せられた。
その郷のある人が、その木の端を伐り取ったところ、その人の家が焼けてしまった。また、その家をはじめとして、その郷村に病が発生して、大勢の人が死んだ。そこで、その家で、祟りの原因を占わせたところ、「ただ、この木のせいである」と占ったので、それから後は、世間の人は一人としてその木に近寄る者はいなかった。

やがて、大和国葛城の下の郡に住む一人の男が、たまたま用事があって例の木のある郷にやって来たが、この木のいわれを聞くと、心の内で「私はこの木で十一面観音の像をお造りしよう」と願を立てた。しかし、その木を簡単に自分の家に持って行く方法もないので、そのまま故郷に帰って行った。
その後、その男にお告げがあり、男はご馳走を用意し、何人かの人を連れて、また例の木の所に行ってみたが、まだ人数が足らないので、どうすることも出来ないまま帰ろうとした。だが、ふと試しに縄をつけて引いてみようと思い、引いてみると、軽々と引けたので、喜んで引いて行くと、道行く人も手助けしてくれて、一緒に引いて行くうちに、大和国葛城の下の郡の当麻の郷(タイマのサト)まで引いてきた。
しかしながら、心の内に立てた願を遂げることなく、長らくその木をそのまま置いている間に、亡くなってしまった。そのため、その木は、またその所において徒に八十余年の時を経た。

その頃、その郷にはやり病が発生し、郷の人皆が病み苦しんだ。そのため、また、「この木のせいである」と言い出し、郡司や郷司たちが集まって、「あの亡くなった某々が、どうでもよい木を他国から引いてきて、そのため病が流行るようになったのだ」ということになった。そこで、その木を運んできた男の子である宮丸を呼び出して、その罪を責めたが、宮丸一人でこの木を取り棄てることなど出来ない。どうにもしようがないので、困り果てて、その郡の人を駆り集めて、その木を敷上郡(シキノカミノコオリ)の長谷川の岸に引いていって棄ててしまった。
その場所で、さらに二十年の時を経た。

その当時、一人の僧がいた。名を徳道(トクドウ)という。
徳道は、この事を聞いて、心中密かに、「この木[ 破損による欠字。「いわれを」と言った意味の言葉か? ]を聞くに、きっと霊木であろう。私はこの木で十一面観音の像をお造りしよう」と思って、今の長谷の地に引き移した。
しかし、徳道一人の力では、とてもお造りすることが出来ない。徳道は、泣く泣く七、八年の間、この木に向かって礼拝し、「この願いを遂げさせてください」と祈請し続けた。すると、飯高の天皇(第四十四代元正天皇)がこの事を伝え聞かれて、ご助力をなされた。また、房前(藤原氏)の大臣も協力なさって、神亀四年という年に仏像を完成させた。高さ二丈六尺の十一面観音の像である。

そうした時、徳道の夢の中に神が現れて、北の峰を指して、「あの山の下に大きな岩がある。速やかに掘り出して、その上にこの観音像を安置申し上げよ」と仰せられた。夢覚めて、ただちに行って掘ってみると、夢のお告げの通り大きな岩があった。幅も長さも同じ八尺である。岩の表面は平らで、まるで碁盤の面のようであった。
夢のお告げのように観音像をお造りして後、この岩の上にお立て申し上げた。供養の後、その霊験は国の外にまで及び、こぞって参詣する人は、誰一人として、ご利益を得ないということがない。それは、わが国だけに限らず、震旦(シンダン・中国)の国まで霊験を施し給う観音であられます。

今の長谷(ハツセ)と申す寺がこれである。ぜひとも足を運び信仰奉るべし、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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清水寺建立(1) ・ 今昔物語 ( 11-32 )

2016-08-18 08:52:34 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          清水寺建立(1) ・ 今昔物語 ( 11-32 )

今は昔、
大和国高市郡八多の郷に小島山寺という寺がある。その寺に賢心(ケンシン)という名の僧がいた。報恩大師(奈良時代の終わりから平安時代初期の高僧)という人の弟子である。ひたすら聖の道を求めて苦行を怠ることなく勤めていた。

そうした時、夢の中に一人の人が現れて、「南(南都。奈良を指す)を去って北(北都。京都を指す)に赴け」と告げた。
夢が覚めて、賢心は北に行こうと思った。それは、「新しい都を見よう」という気持ちがあったからで、長谷の都(ナガタニノミヤコ・長岡京)に着くかと思うころ、淀川に金色の水が一筋流れているのを見た。それは、賢心にだけ見えたもので、他の人には見えないものであった。
「これは、私の為に瑞相(ズイソウ・ここでは吉兆の意味であるが、吉凶いずれにも使われる)を現されたものに違いない」と思って、この流れの水源を求めて行くと、新しい都の東の山に至った。

山の様子を見ると、険しくて木々が暗いばかりに繁っている。山の中に滝があった。朽ちた木を山の中の道のようにして、それを踏みしめて滝の下に降りた。
賢心は杖を手にしてただ一人立ち尽くしていた。辺りを見ていると、心の奥深くまで染みてくるものがあり、少しも俗念が起きなかった。
よく見ると、滝の西の岸の上に一つの草庵がある。その中に、一人の俗人がいた。年老いて髪は白い。その様子から七十余歳ほどに見える。
賢心は近寄って、その老爺に尋ねた。「あなたは、どういうお方でございますか。そして、ここにお住みになって何年になられますか。また、お名前は何と申されますか」と。

老爺は答えた。「姓はすでに失くしてしまった。名は行叡(ギョウエイ)という。わしは、ここに住んで二百年になる。その間、長年そなたを待っていたが、いっこうにやって来ない。今になって、幸いにもやって来た。まことに嬉しい。わしは、心に観音の威力を念じ、口に千手の真言(千手観音の功徳を説いた梵語の呪文)を唱えながら、ここに隠れ住んで長い年月を経た。わしには、東国修行の志がある。速やかに行きたいと思っている。そなたは、わしに替わって、その間ここに住んでいてくだされ。この草庵のある所は、堂を立てるべき所である。この前の林は、観音をお造りする用材である。わしが帰って来るのがもし遅くなるようであれば、そなたが、速やかにこの願いを果たしてくだされ」と言い終わるか終わらないうちに、老爺はかき消すように姿が見えなくなってしまった。

賢心は、「不思議なことだ」と思うとともに「ここは霊地であったのだ」と悟り、とりあえず帰ろうとして、もと来た道を捜したが、やって来た道は跡が消えてしまっていて、どこが道なのか見当もつかない。空を仰ぎ見ても、どちらが東なのか西なのかも分からない。「事の子細を聞こう」と思っても、老爺は消えてしまっている。恐ろしさが増してきた。
そこで賢心は、自らの心を奮い立たせて、真言を唱え、心に観音を念じ奉った。
そうしているうちに、やがて日が暮れてきたので、宿る所を探し求めた。そして、ある樹の下を居場所として、ますます観音を念じ奉った。

やがて夜が明けたが、帰る方法もなく、ただ樹の下にそのまま居た。食物はないが、谷の水を飲んでいると、自然にひもじい思いがしない。
そうして、毎日老爺の帰りを待っていたが帰って来ない。恋い悲しむ心に堪えられなくなって、山の東の方を探してみると、東の峰に老爺の履物が落ちていた。賢心はこれを見て、恋い悲しんで泣く声が山いっぱいに響き渡った。
このようにして、この場所で三年を過ごした。
                                         ( 以下(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆

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清水寺建立(2) ・ 今昔物語 (11-32 )

2016-08-18 08:51:42 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          清水寺建立(2) ・ 今昔物語 ( 11-32 )

     ( (1)より続く )

当時、大納言坂上田村麻呂(サカノウエノタムラマロ・奈良時代から平安時代初期の武官。後に征夷大将軍となる)という人が近衛将監(コノエノショウゲン・近衛府の三等官。少将の下位)であったが、新都造営使として、右京の地の住人となり、居所を新京の西の地区に賜った。(文脈から新都・新京は平安京を指すと思われるが、田村麻呂が新都造営使になったかは未詳)
田村麻呂は、公務の合間に、京を出て、東の山に行き、産後の妻に食べさせるために一匹の鹿を捕え切り裂いている時に、不思議な水が流れ出ているのが目についた。自らその水を飲んでみると、体中が清々しくなり、心も楽しくなってきた。

そこで、「この水の源を尋ねてみよう」と思って、流れに沿って歩いて行くと、滝の下に着いた。
田村麻呂がしばらく辺りを歩き回っていると、ほのかに経を誦(ジュ)する声が聞こえてきた。聞いてるうちに、鹿を殺した懺悔の気持ちがわいてきたので、また、経の声を尋ねていくと、ついに賢心と出会った。
田村麻呂が、「そなたの姿を見るに、只の人ではありますまい。きっと神仙(シンセン・仙人)であろう。誰の子孫ですか」と尋ねた。
賢心は、「私は、小島[ 欠字あり。「山寺の報」らしい ]恩大師の弟子です」と言って、この山に来たことの経緯を詳しく語った。まず、夢に見たこと、[ 欠字あり。「金の色の」らしい ]水が流れていたこと、次に翁が依嘱したこと、翁が姿を隠してしまったこと、寺を建て観音を造って安置申し上げるべきこと、東の峰で翁の履物を見つけたこと、これらをみな詳しく語った。
田村麻呂は事の経緯を詳しく聞きながら、帰ることも忘れていたが、賢心に末長い親交を約束して、「私は心を励まして、その願いを果たそうと思います。そなたの長年の様子を聞くにつけ、まことに仏のように尊い思いがします」と話した。
賢心は喜んで、庵室の内に帰って行った。田村麻呂は、返す返す深い契りを約束して礼拝し、新京の家に帰った。

田村麻呂の妻は三善高子命婦(ミヨシノタカコノミョウブ・命婦は五位以上の女性、または五位以上の官人の妻)といった。
田村麻呂は帰ると、妻に、鹿を殺した時、山の中で賢心に出会ったことをつぶさに語った。妻は、「私は、自分の病を治すために命あるものを殺してしまいました。その罪による後の世の報いは、どうしても償いようがありません。なにとぞ、その罪を免れるために、わが家をもってそのお堂を建てて、女の身の計り知れない罪を懺悔しようと思うのです」と答えた。
田村麻呂はこれを聞いて喜び、白壁天皇(光仁天皇)に賢心の有様を申し上げ、度者(ドシャ・年分度者のこと。毎年一定数、諸宗・諸大寺に割り当てられた得度者)一人分を賜り、賢心を得度させて、名を延鎮(エンチン)と改めた。その年(宝亀十一年(780)か)の四月十三日に、東大寺の戒壇院において、具足戒(グソクカイ・比丘、比丘尼が守るべき戒律の総称)を受けた。

そうして、延鎮と田村麻呂は心を一つにし、力を合わせて、かの所の崖を崩して谷を埋め、そこに寺院を創建した。高子命婦は、女官を集め、多くの上中下各層の人に勧め、その力を合わせて、金色(コンジキ)の八尺の十一面四千手(ジュウイチメンシセンジュ)の観音の像を造り奉った。
まだ造り終わらぬうちから、様々な霊験をお示しになった。いわんや、落成供養の後は、世の人はこぞって崇め奉ること限りなかった。
この寺にお参りに来るさまは、風になびく草のようであった。時は末世に臨んでいるが、人に願い求めることがあって、この観音に心を尽くしてお祈り申すなら、霊験を施しなさらないということがない。それゆえに、今も都[ 欠字あり。「の内」か?]の上中下(カミナカシモ)の人々で、頭を垂れてこの寺に足を運ばないという者は一人もいない。

今の清水寺というのは、この寺である。田村の将軍の建立した寺である、
となむ語り伝へたるとや。

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広隆寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 11-33 )

2016-08-18 08:50:33 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          広隆寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 11-33 )

本話は、「秦川勝始建広隆寺語第三十三」という表題があるだけで、本文はすべて欠文である。
おそらく、原本から欠文となっていたらしい。

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法輪寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 11-34 )

2016-08-18 08:49:38 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          法輪寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 11-34 )

本話は、「[欠字]建法輪寺語第三十四」という表題のみで、本文はすべて欠文になっている。
おそらく、原本から欠文になっていたらしい。

     ☆   ☆   ☆
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鞍馬寺建立 ・ 今昔物語 ( 11-35 )

2016-08-18 08:48:45 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          鞍馬寺建立 ・ 今昔物語 ( 11-35 )

今は昔、
聖武天皇の御代に、従四位である藤原伊勢人(フジワラノイセヒト)という人がいた。賢明にして智力に富んでいた。その頃、天皇は東大寺を造営なさった。
( 実際は桓武天皇の御代のことで、東大寺とあるのは、東寺が正しく、これを誤ったため天皇の御代も違ってしまったらしい。 )

さて、この藤原の伊勢人はその行事官であったが、心中密かに、「私は宣旨を承って寺院造営の指揮を執っているが、未だ私個人の寺を建てておらず、仏像もお造り申し上げていない。とりわけ、私は長年観音の像を安置したいと思い続けている。この願いが空しいものでないならば、願わくば寺院を建立すべき場所をお示しください」と思っていて、その願いを祈りながら寝た夜に夢を見た。
それは、「王城より北に深い山がある。その姿を見ると二つの山がそびえ、その間から谷の水が流れ出ている。絵に描かれた蓬莱山(ホウライサン・中国における想像上の霊山。仙人が住み、不老不死の地とされる島山)に似ている。山の麓に添って川が流れている。そこに年老いた翁が現れ、『お前はこの地を知っているのかどうか』と尋ねた。伊勢人が知らないと答えると、翁は、『お前、よく聞け。此処は霊験あらたかなこと、他の山に優れている。我はこの山の鎮守である貴布禰明神(キフネノミョウジン)という者である。この地に長年住み続けている。北の方に峰があり、絹笠山(衣笠山とも。但し、方角は、貴船の地からは南西に当たる)という。前方に険しい丘があり、松尾山(マツノオヤマ・松尾大社の背後の山)という。西に川があり賀茂川という』と教えて去って行った」という夢であった。

その後、夢の中で教えられたといっても、その地に容易く行くことできなかった。そこで、伊勢人は長年乗っている白馬に鞍を置き、馬に言い含めた。「私は、『昔、天竺より仏法を震旦に伝えられてきた時には、白い馬の背に負わせてきた』と聞いている。そこで、私の願いが空しくなることなく遂げられるものであるならば、お前は私が夢に見た所にきっと行き着いてくれるだろう」と言い含めて、馬を放った。
馬は家を出ると、見えなくなった。伊勢人は、「私の願いが実現されるものであれば、きっとあの馬は夢に見た所に行き着くだろう」と思って、従者を一人だけ連れて、馬の足跡をたどりながら行くと、自然に夢に見た所に辿り着いた。
谷に添って上ってゆくと、馬の足跡がたくさんある。喜びながらさらに進み、ようやく峰に登って見ると、あの馬が北に向いて立っていた。
伊勢人は、まず掌を合わせて「南無大悲観音」と唱えて礼拝した。すると、萱(カヤ)の中に白檀造りの毘沙門天の像がお立ちになっているのが見えた。見てみると、わが国で造られたものに似ておらず、「きっと、他の国の人が造り奉ったもの」と思われた。
これらのことをよく見て置いて、喜んで家に帰った。

その後、「私は長年心から観音の像を造り奉ろうと念願していたが、今、毘沙門天の像を見つけ奉った。この事の意味を、今夜[ 欠字あり。「夢に」といった文字か? ]お示しください」と心中祈念して寝たその夜の夢に、年十五、六歳くらいの姿形が端正な童子が現れて、伊勢人に告げて、「汝(ナンジ)、未だ煩悩を棄てずして、因果を悟ることがないから、そのように疑いをいだくのだ。汝、よく聞け、観音は毘沙門である。我は、多聞天の従者であるゼンニシ童子だ。観音と毘沙門とは、例えて言えば、般若経と法華経との関係のようなものである」と仰った。そして、やがて夢から覚めた。

その後、伊勢人は心を乱すことなく信心して、大工や木こりを雇い、それらを連れて奥山に入り、材木を造って運び、たちまちその地に堂を造り、あの見つけ奉った毘沙門天を安置し奉った。
今の鞍馬寺というのは、これである。馬に鞍を置き、道案内として先に立て、その足跡を目印にして尋ね当てた所なので、鞍馬というのであろう。
まことに夢の教えの如く、この山の毘沙門天は霊験あらたかであり、末世まで人の願いをよくお聞きとどけになられる。

貴布禰明神は、お誓い通りに、今もその山をお護りになっている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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信貴山縁起 ・ 今昔物語 ( 11-36 )

2016-08-18 08:47:39 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          信貴山縁起 ・ 今昔物語 ( 11-36 )

今は昔、
仏道を修業する僧がいた。名を明練(ミョウレン)という。常陸の国の人である。
心に深く仏道成就の願いを抱いて、故郷を出でて、諸国の霊験ある所々を修行して行くうちに、大和国までやって来た。[ 欠字あり。「平群(ヘグリ)」か? ]郡(ゴウリ)の東の高い山の峰に登って見渡すと、西の山の東斜面に添って一つの小山があった。その山の上に、五色の不思議な雲が覆っていた。

明練はこれを見て、「きっとあそこは、霊験あらたかな地であろう」と思って、その雲を目印にして尋ねて行くと、やがて、その山の麓に着いた。
山に登ろうとしたが、人の足跡もない。そこを草を分け木に取りすがって登って行くと、山の上になおあの雲がある。その所を目指して登り頂上に立って眺めると、東西南北は遥かに深い谷なっていて、峰が一つあった。その峰にあの雲が覆っていた。
「此処にどういうことがあるのだろうか」と疑念を抱いて、近寄って見たが何も見えない。ただ、こうばしい香りだけが山いっぱいに満ちていた。
そこで明練はますます不思議な気がして、霊験のもとを尋ね求めようと見て歩くも、木の葉が一面に積もっていて地面も見えず、ただ表に突き出ているものは、大きくそばだった岩だけであった。

ところが、降り積もった木の葉を 掻き除けてみると、木の葉の下の岩の間に一つの石櫃があった。長さ[ 二尺 ]ばかり、幅[ 三尺 ]ばかり、高さ[ 三尺五寸 ]ばかりである。 ( [ ]内は欠字部分で、他の文献からの推定。)
櫃(ヒツ・大形の箱)の様子を見ると、この世の物とは見えない。櫃の面の塵をぬぐってみると、「護世大悲多聞天」という銘がある。これを見るや、この上なく貴くありがたく思った。
さては、この櫃が此処にお在りになっていたので、五色の雲が覆い、すばらしい香りがしたのだと思うと、嬉しさに涙が落ちること雨の如くで、泣く泣く礼拝して、「私は長年仏道を修業しながら、諸々の所を歩き回ったが、未だこのような霊験の地を見たことがない。ところが、今此処に来て、稀有の瑞相(ズイソウ・吉相)を見、多聞天の御利益をこうむることになった。それゆえ、今や私は、他の所へは行くべきではない。此処において仏道を修業して命を終わろう」と思い、すぐさま柴を折って庵を造り、そこに住みつくようになった。
そしてまた、人を呼び集めて、その石櫃の上に堂を造って覆った。

大和と河内の両国の辺りの人が、いつしかこの事を聞き伝えて、みな協力してこの堂を建てたので、容易く出来上がった。
明練は、その庵に住んで修業していたが、世間の人は皆彼を尊び、供養した。また、供養する人が訪ねない時には、明練は鉢を飛ばして食物を得、瓶を遣って水を汲ませて修業していたので、何の不自由もなかった。
( 飛鉢(ヒハチ)という仏教語があり、長年の修業により通力を得た行者や聖などは、托鉢の鉢を飛ばせて食などを得る秘法を習得できたとされる。)

今の信貴山というのは、この寺である。
霊験あらたかにして、堂舎落成供養の後は、今に至るまで多くの僧がやって来て住み、僧房を造り連ねて住んでいる。
他の所からも、頭を垂れ、足を運んで参詣する人が多い、
となむ語り伝へたるとや。

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竜門寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 11-37 )

2016-08-18 08:46:26 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          竜門寺建立(未完) ・ 今昔物語 ( 11-37 )

本話は、「[欠字]始建竜門寺語第三十七」という表題のみで、本文はすべて欠文になっている。

原本には本話があったとも言われている。

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