雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

念仏ひとすじに ・ 今昔物語 ( 15 - 7 )

2021-12-29 11:02:12 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          念仏ひとすじに ・ 今昔物語 ( 15 - 7 )


今は昔、
三井寺の北に梵釈寺という寺があった。
その寺に兼算(ケンザン・伝不祥)という僧が住んでいた。心に瞋恚(シンイ・怒り恨むこと。仏教では善心をそこなう三毒の一つとする。)を起こすことが全くなく、諸々の人を見ては、必ず物を与えようと思う心があった。従って、自身は財産らしい物は何も持たず、僧房の内にはわずかな物も貯えず、自然と手に入る物は、親しい者親しくない者の区別することなく、欲しがる者に与えた。
また、兼算は幼い時から道心があって、弥陀の念仏を唱え、とくに不動尊を念じ奉っていた。

さて、兼算がまだ若い頃のことであるが、夢の中に尊い姿の人が現れて、「お前は、前世において阿弥陀仏にお仕えした乞食であった」と告げた。
その後、このお告げを信じて長年の間念仏を唱えて過ごしていたが、ある時、重い病にかかって苦しみ悩んでいたが、七日を経た後、兼算は急に起き上って床に座った。そばにいた人は、病が少しばかり良くなったのだと見ていると、兼算は気分の良さそうな顔つきで、弟子の僧を呼んで、「我が命はすでに終わろうとしている。今、急に空の中から妙なる音楽が聞こえてきた。お前たちも、その音楽が聞こえたのか否や」と尋ねた。弟子は、「いいえ、聞いておりません」と答えて、僧房の内にいる者たちに尋ねたが、誰も聞いていないという。
そこで兼算は弟子たちを呼び寄せて、一同と共に念仏を唱えてしばらくするうちに、兼算は再び横になった。そして、弟子たちに告げた。「お前たちはなお念仏を唱え続けて、やめてはならぬ」と。

その後、兼算は手に阿弥陀の定印を結んで、西に向かい、その印が乱れることなく息絶えた。
弟子たちはこれを見て、「我が師は、きっと極楽に往生されたに違いない」と言って、涙ながらにさらに念仏を唱え、悲しみ尊んだ。また、これを聞いた人は皆、尊ばない者はいなかった。
「不思議なことだ」と言って語り伝えた話を聞き継いで、
此(カ)く語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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念仏三昧 ・ 今昔物語 ( 15 - 8 )

2021-12-29 11:01:38 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          念仏三昧 ・ 今昔物語 ( 15 - 8 )


今は昔、
比叡山の横川(ヨカワ・東塔、西塔とともに比叡山三塔の一つ。)に尋静(ジンジョウ・伝不祥)という僧がいた。生まれつき心に邪見(ジャケン・よこしまな考え方。)がなく、正直で、物惜しみすることなく欲深い心がなかった。
人が訪ねてくるごとに、まず食事を用意して食べさせた。十余年間、比叡山から外に出ることなく籠居して、昼は金剛般若経を読んで日を暮らし、夜は弥陀の念仏を唱えて夜を明かし、このようにして極楽に往生することを熱心に願っていた。

さて、年月が積もり、尋静の年齢もすでに七十三歳となった年の正月、尋静は病気となり、数日苦しんでいたが、弟子たちを勧めて、一同そろって毎日三時(サンジ・早朝・日中・日没の三回。)に弥陀の念仏三昧(ネンブツザンマイ・一心不乱に阿弥陀仏の名号を唱える勤行。)を勤めさせた。
やがて、二月の上旬になり、尋静は弟子たちを全員呼び寄せて、「今、私は夢の中で、大きな光の中にたくさんの尊い僧がおいでになり、美しい財宝で飾られた一つの御輿を持って、妙なる音楽を奏でて西方からやって来て、虚空に留まっている。これは極楽からのお迎えだろうと思われる」と話した。
弟子たちは、これを聞いて、尊く思うこと限りなかった。

そして、その後、五、六日を経て、尋静はあらためて沐浴し身を清めて、三日間、昼も夜も飲食を立って、一心に念仏を唱え続けた。再び弟子たちを呼んで、「お前たち、今日明日は私に飲食を勧めたり、あれこれと話しかけたりしてはならぬ。私は、一心に極楽を観念するので、余念が生ずるとその妨げになるからだ」と話すと、すぐに西に向かって、合掌して息絶えた。
弟子たちはこれを見て、涙ながらにいっそう念仏を唱えて、師が極楽に往生したことを尊び感動した。
比叡山じゅうの人もまたこれを聞いて、皆が尊び感動しない者はいなかった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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弥陀如来の使者 ・ 今昔物語 ( 15 - 9 )

2021-12-29 11:01:08 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          弥陀如来の使者 ・ 今昔物語 ( 15 - 9 )


今は昔、
比叡山の定心院(ジョウジンイン・比叡山東塔南谷の一院)という寺の供奉の僧で十禅師(ジュウゼンジ・宮中の内道場に奉仕し、天皇の安泰を祈念する十人の高僧。)である春素(シュンソ・伝不祥)という僧がいた。
幼い時に比叡山に上って出家し、[ 欠字。師僧の名前が入るが不詳。]という人を師として法文を学んだが、正直で身を清らかに保ち、戒律を破ることがなかった。そして、定心院の供奉の僧としてその院に住むようになった。春素は常に摩訶止観(マカシカン・天台宗の法華経三大注釈書の一つ。)という法文を開き見て、生死の無常を観念(精神を統一して深く考え悟ること。)し、また日夜に弥陀の念仏を唱えて、極楽に往生することを願っていた。

このようにして長年修行をしてきたが、いつしか年月を積んで、春素は七十四歳になった。
その年の十一月の頃、春素は弟子の温蓮(ウンレン・伝不祥)という僧を呼んで、「今、弥陀如来が私を迎えようとされて、その使いとして尊い僧一人と天童一人をここに指し向けられた。共に白い衣を着ている。その衣の上には花を重ねたような絵が描かれている。『明くる年の三、四月は、お前が極楽に参る時だ。今からただちに飲食を断つべし』とお示しになった」と話した。
温蓮はこれを聞いて、涙を流して尊び、「我が師に側近くお仕えするのも長くはない」と心細く悲しく思っているうちに、はや年が明けて、四月になった。

温蓮は、ようやく師の往生の時が来たことを喜ぶとともに、別れることを心細く思っていると、春素は温蓮を呼んで、「この前の弥陀如来のお使いが、またここにおいでになって、私の目の前にいらっしゃいます。私はがこの世界を去るのは間近に迫っている」と言って、一緒に念仏を唱えていたが、正午になると、春素は西に向かって端座し、合掌して息絶えた。
温蓮はこれを見て、「我が師は身に病もなく、『弥陀如来のお使いが来た』と言って、たちどころにお亡くなりになられた。疑いなく極楽に往生された人である」と知り、喜び尊んで、いよいよ念仏を唱えて、涙ながらに礼拝し敬った。
比叡山じゅうの人も皆この事を聞いて、尊ばないことはなかった。

これを思うに、まことに、弥陀如来のお使いが来たと告げて、その時期を違えず、いささかも病に苦しむことなく亡くなったのであるから、極楽往生は疑いないことだとして、
此く語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆




 

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弥陀の助けを求める ・ 今昔物語 ( 15 - 10 )

2021-12-29 11:00:26 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          弥陀の助けを求める ・ 今昔物語 ( 15 - 10 )


今は昔、
比叡山の[ 欠字。「東塔」らしい。]に明清(ミョウジョウ・明請が正しいらしい。)という僧がいた。俗称は藤原氏。
幼くして比叡山に上り、出家して[ 欠字。師僧名で、「智淵」らしい。]という人を師として、真言の密教(ここでは、天台系の台蜜)を習い、長年この山に住んで、密教の行儀と修法を修業して、怠ることがなかった。また、道心が深く、日夜に弥陀の念仏を唱えて、極楽に往生したいと心から願っていた。

このようにして修業していたが、年月がしだいに積もり、明清は老境に至り、軽い病気にかかった。
その時、明清は弟子の静真(ジョウジン・花山朝、一条朝の頃の人。)という僧を呼び寄せて、「地獄の火が遠くから現れてきた。私は、お前たちも見て来たように、長年の間ひたすら念仏を唱えて、極楽に生まれることを願っていたのに、期待に反して、今、地獄の火を見ている。そうとはいえ、やはり念仏を唱えて、弥陀如来のお助けを蒙るより外には、誰がこれを救ってくれようか。されば、私もお前たちも共に心を尽くして念仏三昧(ネンブツザンマイ・一心不乱に阿弥陀仏の名号を唱える勤行。)を行うべきだ」と言って、ただちに僧たちを招いて、明清の枕元において念仏を唱えさせた。

その後しばらくすると、また明清は静真を呼び寄せて、「私が前に話した地獄の火は、これまで目の前に現れていたが、今はその火はすっかり消えていて、西方より月の光のようなものが差して照らしている。これを思うに、念仏三昧を行ったことによって、弥陀如来が私をお助けになりお迎えくださる兆しのようだ」と言って、涙を流しながらいっそう念仏を唱えた。
静真はこれを聞いて、喜び尊んで、招いている僧たちにこの事を告げて、一同は共に念仏を唱えた。

そののち数日たって、明清は自分の命が終わる時を知って、沐浴して身を清め、西に向かって端座して、合掌して息絶えた。
弟子の静真はこれを見て、師がその言葉通りに往生したことを喜び尊んで、いっそう念仏を唱えた。比叡山じゅうの人は皆これを聞いて、尊ばない人はいなかった。

これを思うに、往生はただ念仏によるものである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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極楽往生の人 ・ 今昔物語 ( 15 - 11 )

2021-12-29 10:58:14 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          極楽往生の人 ・ 今昔物語 ( 15 - 11 )


今は昔、
比叡の山の西塔(サイトウ・東塔、横川とともに比叡山三塔の一つ。)に仁慶(ニンキョウ・伝不詳)という僧がいた。俗称は[ 欠字あり。氏名が入るが不詳。]の氏。越前国の人である。

幼くして比叡山に登り、出家して住鏡阿闍梨(ジュウキョウアジャリ・伝不詳)という人を師として、顕密(ケンミツ・顕教と密教。)の法文を受け学んで、師に仕えて長年比叡山にいたが、その間、少しでも時間があれば法華経を読誦し、真言の行法を学び続けた。
やがて、壮年に至り、比叡山を離れて京に出て住むようになった。そして、ある人の依頼で、経を読んで尊ばれると、その人に付いて京に居り、ある時は仏道を修行するために京を出て、あちらこちらの霊場を求めて流浪した。ある時には、国司に付いて遠い国々を廻り歩いた。
このようにして世を渡っていたが、必ず毎日欠かすことなく法華経一部を読誦し続けた。それを自らのための功徳にしていた。

やがて、流浪の末に京に留まるようになり、大宮と[ 欠字あり。地名が入ると思われるが不詳。]とに定住するようになった。そして、次第に年老いて老齢になるに従い、世の中が儚くつまらないもののように思われて、ことさらに道心が起きたのであろうか、少しばかりあった僧房の道具などを投げ棄てて、両界(金剛界と胎蔵界)の曼陀羅を書き奉り、阿弥陀仏の像を造り奉り、法華経を書写し奉り、四恩法界(別記ご参照)のために供養した。
その後、いくばくもしないうちに、仁慶は病気になり、数日の間病床で苦しんだが、自ら法華経を誦して中断することがなかった。また、他の僧を招いて、法華経を読誦させて心を尽くしてそれを聞いた。

このようにして数日過ごした後、遂に亡くなったので、その身を葬った。

その後、隣の人が夢を見た。「大宮大路に五色の雲が下りてきて、微妙(ミミョウ・妙なる)の音楽が聞こえてきた。その時、仁慶が頭を剃り、法服を着て、香炉を持って西に向かって立っていた。すると、空から蓮華の台が下りてきた。仁慶はそれに乗って、空に昇り遥かな西を指して去って行った。その間にある人が『これは、仁慶持経者が極楽に往生するのだ』と言った。」というものである。

その人は、仁慶の僧房にこの事を話した。僧房の弟子たちは、尊び感激した。
また、七々日(ナナナヌカ・四十九日)の法事が終わったあと、その夜、ある人が前の夢と全く同じような夢を見て、それを話した。
これを聞いた人は皆、仁慶はきっと極楽往生した人だと言って尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 文中の「四恩法界」とは、四恩(シオン)と法界(ホウカイ)を指す。
四恩は、人間がこの世で受ける四種の恩のこと。四種については経説により違い、「父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩」、あるいは「父の恩・母の恩・如来の恩・説法法師の恩」とされている。
法界は、一切の世界。全宇宙といった意味。

     ☆   ☆   ☆

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法華経の功徳 ・ 今昔物語 ( 15 - 12 )

2021-12-29 10:57:46 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          法華経の功徳 ・ 今昔物語 ( 15 - 12 )


今は昔、
比叡の山の横川(ヨカワ・東塔、西塔とともに比叡山三塔の一つ。)に境妙(キョウミョウ・伝不詳)という僧がいた。俗性は[ 欠字あり。氏名が入るが不詳。]氏、近江の国の人である。
幼くして比叡山に登って出家し、師について法華経一部を学んだ後、日夜に読誦しているうちに、暗(ソラ)に誦することが出来るようになった。そこで、長年にわたって余念なく法華経を受持して、すでに二万部を読誦した。

その後、行願寺(ギョウガンジ・京都市中京区に現存。)という寺に行って住みつき、静かに法華経を書写し奉り、三十座(サンジュゥザ・法華三十講のこと。法華経二十八品に、無量義経、観音賢経を加えて三十品として、三十日間かけて講説する法会。)の講会を設けて、この経を講じさせた。その講の結願の日には、十種類の供物を用意して、法式通りに行った。

やがて、自分の命の終わる時を察して、比叡山に登り、諸所の堂舎を廻って礼拝し、昔の仲間に会い、気にかかることなどを言い置いてから、「これが、お目にかかる最後の時です」と言った。これを聞いた人は不思議に思った。
境妙はもとの行願寺に帰った後、いくばくもしないうちに病気となったが、「これが境妙の最後の病だ。この度は必ず死ぬだろう」と言うと、沐浴し清浄な衣を着てお堂に入り、阿弥陀仏の御手に五色の糸をつけて、それを自分の手に持ち、西に向かって念仏を唱えた。また、多くの僧を招いて、法華経を読誦させ懺法(センポウ・ここでは法華懺法。六根の罪過を懺悔する修法。)を行わせ、念仏三昧を修しさせた。そうしているうちに、境妙は尊い様子で息絶えた。

その後、ある聖人の夢に、境妙聖人が金の車に乗り、手に経を捧げ持ち、多くの天童(テンドウ・仏法を守護する諸天の一族である童形の天人。)に囲まれて遥かに行くのを見た。その時、一人の人が「今、境妙聖人が極楽に往生しようとしているが、なんとすばらしいものか」というのを聞いたところで、夢から覚めた。

この事を人に話すと、これを聞いた人は、境妙聖人は自分の死期を予知して人に告げ、尊い姿で息絶えたが、その聖人の夢のお告げは疑うべくもなく、きっと往生した人であるとして尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


 

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真言僧浄土へ ・ 今昔物語 ( 15 - 13 )

2021-12-29 10:57:11 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          真言僧浄土へ ・ 今昔物語 ( 15 - 13 )


今は昔、
石山(石山寺。現存している。)という所がある。東寺(現存している。正式には、教王護国寺。)の末流の寺で、真言の教えを崇めている寺である。
その寺に、真頼(シンライ・生没年未詳。真言宗の僧。)という僧がいた。幼くして出家して、この寺に住み、淳祐内供(シュンユウナイグ・真言宗の僧。菅原道真の曾孫にあたるらしい。953年没。)という人を師僧として真言の密法を受け学んで後、毎日三時(サンジ・早朝、日中、日没の三回。)に行法(ギョウホウ・密法僧が行う修行。)を行い、一時をも欠かすことがなかった。

このようにして修行しているうちに、年月は過ぎ、真頼は老齢となり病をえて、もはや命が終わろうとする日、弟子の長教(チョウキョウ)という僧を近く呼び寄せて、「私は必ず今日死ぬだろう。だが、お前は未だに学んでいない金剛界の印契と真言呪がある。それを速やかに教えよう」と言って、ただちに授け終わった。
その後、沐浴して、弟子たちに告げた。「私は長年この寺に住んでいたが、もはや死のうとしている。今、この寺の内から出て山の辺りに移ろうと思う」と。弟子たちはこれを聞いて、師との別れを惜しみながらも、師の最後の言葉にそむくまいと思って、輿に乗せて山に連れて行った。
真頼は山に行くと、すぐに西に向かって端座して、手を合わせて念仏を唱えながら息絶えた。弟子たちはそれを見て、尊び感激すること限りなかった。

その後、同じ寺に真珠(シンジュ・伝不詳)という僧がいたが、その僧の夢に、大勢の高僧や天童が現れて、真頼を迎えて西に去って行った、というところで夢から覚めた。そこで、夢から覚めた後に、寺の僧たちにもれなくこの夢のことを話した。
これを聞いた人は皆、真頼はきっと極楽に往生した人だと知って尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 

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末世に入っても ・ 今昔物語 ( 15 - 14 )

2021-12-29 10:56:42 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          末世に入っても ・ 今昔物語 ( 15 - 14 )


今は昔、
醍醐(ダイゴ・醍醐寺のことで現存してる。)に観幸入寺(カンコウニュウジ・伝不詳。似た名前の人物はいるらしい。)という僧がいた。幼くして出家して、仁海僧正(ニンカイソウジョウ・第二十三代東寺長者。第六十二代東大寺別当。1046年没。)という人を師として、真言の密法を受け学んだ後、行法を修行して怠ることがなかった。

その努力によって、密教における名声が高まり、東寺の入寺僧(ニュゥジソウ・入寺の位の僧。入寺は真言宗で阿闍梨に次ぐ階位。)になった。

ところが、観幸はどういう事情があったのか、強い道心が起こったので、東寺を出て、真っすぐに土佐の国に行き、ひたすら俗世の名声や欲望を棄てて、一聖人として長年修行を続けた。
そして、ある時、突然観幸は弟子の僧に告げた。「私は明日の未時(ヒツジノトキ・午後二時頃)に死ぬだろう。お前たち一同は、只今より明日の未時まで、念仏を唱えて声を断ってはならぬ」と。そう命じると、自らは沐浴して清浄な衣を着て、念仏を唱え始め、一晩中座り続けた。

やがて夜が明けて、はや午時(ウマノトキ・正午頃)になる頃、観幸は持仏堂(ジブツドウ・守り本尊として身近に信仰する仏像を安置する堂。)に入り内から錠をさして籠った。

弟子が隙間から覗いてみると、仏の御前に端座して祈っていた。しばらくしてから、弟子が戸を叩いて呼んでみたが何の音もしないので、戸を開けて入ってみると、手を合わせて端座したまま死んでいたのである。
弟子たちはこれを見て、涙を流して悲しみ尊んで、ますます心を込めて念仏を唱えた。
その辺りの多くの人がこの事を聞き伝えて、集まって来て礼拝し尊んだのである。

末世であっても、このような珍しいことがあるのだと、これを見た人が語り伝えたものを次々に聞き継いで、
此く語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 「末世」とは、末法の世のことで、仏法が衰える世のことですが、諸説はありますが、わが国では1052年に末法の世に入ったとされているようです。
観幸の没年は不詳ですが、師の仁海の没年は1050年なので、観幸の没年も末法の世に入って間もない頃と推定できます。
本話の最後の部分に、「末世」という言葉をわざわざ加えているのには、当時の世相の影響があるように思われます。

     ☆   ☆   ☆

 

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門付け乞食 ・ 今昔物語 ( 15 - 15 )

2021-12-29 10:56:13 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          門付け乞食 ・ 今昔物語 ( 15 - 15 )


今は昔、
比叡山の東塔(比叡山三塔の一つ)に長増(チョウゾウ・伝不詳)という僧がいた。
幼くして山に登って出家して、名祐律師(ミョウユウリッシ・伝不詳。よく似た人物あるもよく分からない。)という人を師として、顕密(ケンミツ・顕教と密教)の法文を学んだが、理解力に優れ聡明で、仏道を極めた。


こうして、比叡山に住んで年月を過ごしたが、長増は道心を起こして、「我が師の名祐律師も極楽に往生なされた。自分も何としても極楽に往生したいものだ」と強く思って、他の人にもこのことを言っていた。
ある時、長増が僧房を出て厠(カワヤ)へ行き、しばらく経っても帰って来ないので、弟子は不審に思って行ってみると、見当たらないので、「どこか外の知っている僧房に行ったのか」と思ったが、「いや、ふつうはいったん僧房に帰り、手を洗って、念珠や袈裟など持ってからどこなりへと行くはずだ。どうもおかしい」と思って、あちらこちらと尋ね歩いたが、どこにもいない。僧房には多くの経文や持仏が残っていたが、放りっぱなしのままで、いなくなってしまったのは、わけが分からない。どこにおいでであるとしても、これらのものを始末をつけておかれるでしょうに、まるで、突然亡くなった人のようにいなくなってしまったので、弟子たちは泣き惑って探し回ったが、その日は見つからなかった。
その後、数日経ってもどうしても見つからずに終わったので、弟子たちはその僧房に住むことになった。多くの法文などは同門の弟子である清尋供奉(ショウジングブ・「静真」が正しいらしい。)という人が、全部自分の所に運んでしまった。
その後、数十年が経ったが、遂に行方が分からないままになった。

さて、清尋供奉も六十歳ほどになった頃、藤原知章(フジワラノトモアキ・1013年没。藤原道長の家司)という人が伊予の守になって任国に下ることになったが、ある事情からこの清尋供奉を祈祷の師として頼んでいたので、清尋供奉は守に随って下って行った。
清尋供奉が伊予国に着くと、別棟に僧房を新しく造って住まわせた。修法などもその僧房の内で行わせた。
守はこの清尋を尊い者として、その国の人に宿直して夜警にあたらせたり、特別に食事担当者を指定したりして帰依したので、その国の人々は挙って清尋をたいそう敬った。
僧房の辺りには、蠅一匹さえ飛び回らせないように、清尋は口やかましく仕えている人を追い使った。僧房の縁先には、持って来させた菓子(果物のこと)や野菜などが隙間なく並べられていた。

そうした時、僧房の前に立て渡している切懸(キリカケ・目隠しの板塀)の外を見てみると、色が真っ黒で田植え笠という物の半分破れたのを着た老法師がやって来た。腰にはぼろぼろの蓑をまとい、身にはいつ洗ったかも分からないような汚れた手作りの単衣を二枚ばかり着ているらしく、藁沓を片足だけに履き竹の杖をついている。
その老法師が、僧房の内にずかずかと入ってきたので、宿直していた土地の者たちはそれを見て、「あの門付け乞食め、御坊(清尋)の御前に行こうとしているぞ」と言って、大声で追い払う。
清尋は、「何者が来て、追い払っているのか」と思って、障子を引き開いて、顔を指し出して見てみると、何ともひどい姿の門付け乞食が来ていた。その門付け乞食が近寄って来て笠を脱いだ顔を見ると、自分の師で、山で厠に行ってそのまま行方知れずになった長増供奉ではないか。
よく見るにつけ、紛れもなく師に間違いなく、清尋は驚いて縁から飛び降りて、地面にひざまずいた。門付け乞食に続いて、棒などを持って追い払おうとしてやってきた土地の者たちは、清尋が地面にひざまずいているのを見て、ある者はぼんやりと立ちすくみ、ある者は走って戻り、「あの門付け乞食、坊様の御前に行ったので、『追い払おう』と思って追って行ったところ、坊様があの門付け乞食を見て、大あわてで縁から飛び降りて地面にお座りになっている」などと言って大さわぎになった。
 
長増は、清尋が地面に下りたのを見て、「早くお上がりください」と言って、共に縁に上って、長増は蓑と笠を縁に脱ぎ置いて、障子の内ににじり入った。
清尋も続いて入り、長増の前に身を投げ出して泣き続けた。長増もまた激しく泣いた。
しばらくして、清尋が訊ねた。「いったいどうして、このようなお姿でいらっしゃるのですか」と。
長増は、「私はあの時、厠に入っている間に心静かに思いをめぐらしているうちに、世の無常を悟り、この生活を棄ててひたすら後世の往生を祈ろうと思い至り、『ただ、仏法が行き届いていない所に行って、身を捨てて門付け乞食をして何とか命をつないで、ひたすら念仏を唱えることによって極楽に往生しよう』と思いついたので、厠から僧房にも立ち寄らず、下駄をはいたまま山を走り下り、その日のうちに山崎に行き、伊予国に向かう船に乗せてもらって、この国に下ってからは、伊予・讃岐の両国を物乞いをしながら長年過ごしてきたのです。この国の人は、私を般若心経さえ知らない法師だと思っています。ただ日に一度、人の家の門前に立って物乞いをしますので、門付け乞食という名がついたのです。しかしながら、『このようにあなたにお会いしたので、皆が私のことを知ってしまうでしょう。知られた後は、門付けをしても相手にしてくれなくなるので、お会いするまい』と何度も思っていたのですが、昔の関係が睦まじかったために懐かしく、心弱くもこのようにお目にかかってしまったのです。されば、ここを去った後は、誰もが自分の事を知らない国にまた行こうと思っています」と言って、走って出て行ったので、清尋は、「せめて今夜だけでもここにいてください」と言って止めたが、「無駄なことをおっしゃいますな」とだけ言って、出て行ってしまった。
その後、消息を尋ねたが、まことにこの国を去って跡をくらましてしまった。

やがて、その守の任期が終わって上京した後、三年ばかり経ってから、門付け乞食がまたこの国にやって来た。
すると、今
度は、その国の人々は、「門付け乞食様がいらっしゃった」と言って、たいそう尊び敬っていたが、それからいくらも経たないうちに、その国にある古寺の後ろにある林の中で、門付け乞食が、西に向かって端座し合掌して、眠っているように死んでいた。
この国の人々は、これを見つけて感激し尊んで、それぞれに法事を営んだ。讃岐・阿波・土佐の国においても、この事を聞き伝えて、五、六年後までも、この門付け乞食のために法事を営んだのである。

されば、この国々は、少しばかりの供養も造らない所であるのに、この事があってから、このように功徳を行うようになったので、「この国々の人を導くために、仏が仮に門付け乞食の身となって現れてやって来られたのだ」と、このようにまで言って、感激し尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



 


 

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弥陀の和讃を誦す ・ 今昔物語 ( 15 - 16 )

2021-12-29 10:55:41 | 今昔物語拾い読み ・ その4

          弥陀の和讃を誦す ・ 今昔物語 ( 15 - 16 )


今は昔、
比叡の山の[ 欠字あり。「西塔」らしい。]に千観内供(センカンナイグ・983没。著作もある人物。)という人がいた。俗姓は橘氏である。

その母は、はじめ子が無く、密かに心を込めて観音に子を授けてくれるよう祈願したところ、夢の中で一茎の蓮華を手にしたが、その後幾らも経たないうちに懐妊して、千観を生んだのである。
その後、その子は次第に成長して、比叡山に上って出家して名を千観という。

その後、[ 欠字あり。師僧名が入る。「運照内供」らしい。]という人を師として、顕密(顕教と密教)の法文を共に学んだが、聡明であり理解力に優れていて、顕密の二道において修得しえない物はなかった。食事の時と大小便の時を除いては、一生を通して、法文に向かわない時はなかった。
また、阿弥陀の和讃を二十四行作った。京や田舎の老少貴賤の僧は、この讃を見て喜んで手に取り、常に誦している間に、皆が極楽浄土と縁を結ぶことが出来た。しかも、千観はもともと慈悲の心が深く、人を導き畜生をたいそう可愛がった。

また、千観は仏に対する八亊の起請文を作った。これは僧が修行すべき行いを規定するものである。また、十の願を立てたが、これは衆生を救済するためのものである。
そうした時、千観の夢の中に、高貴な人が現れて、「お前は道心が非常に深い。必ず極楽の蓮華に迎えられるだろう。また、この上ない善根を積んでいる。きっと弥勒菩薩がこの世に出現なさる時に会えるであろう」と告げたが、そこで夢から覚め、涙を流して感激し尊く思った。

また、権中納言藤原敦忠卿(943没。三十六歌仙の一人。)という人に長女がいたが、長年、千観と師と檀家の関係にあったが、千観を深く尊敬していた。
ある時、その女人が千観に頼んだ。「御師さま、ご寿命が尽きた後、必ず、生れ変られた所をお教えください」と。千観は、それを聞いた後、年月を経て、遂に命が終わろうとする時に臨んで、手に自分の作った願文を握り、口に弥陀の念仏を唱えて息絶えた。

その後、かの女人は夢の中で、千観が蓮華の船に乗り、昔作った弥陀の和讃を誦して、西に向かっていくのを見た。
夢から覚めて後、女人は、「昔、生まれる所を教えてくださいと約束したので、これを告げるためだったのだ」と思って、涙を流して尊んだのである、
となむ語り伝へたるとや。

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