雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今しばらくご注意を

2023-08-15 18:40:15 | 日々これ好日

     『 今しばらくご注意を 』

    台風7号は 日本列島から離れようとしているが
    今現在も 多くの警報が出されている
    交通網も 広い範囲でズタズタの状態
    土砂災害などは かなり遅れて発生することもあるので
    今しばらくは ご注意を
    当地は 一時は台風の目に入り 小康状態の時間があったが
    今は 雨は少ないが 吹き返しの風が強くなっている
    このまま 無事過ぎ去ってくれることを 願っている

                      ☆☆☆  
    

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今昔物語 巻第十六 ご案内

2023-08-15 16:08:27 | 今昔物語拾い読み ・ その4

     今昔物語 巻第十六 ご案内


  巻第十六は 全体の中では 本朝付仏法 に位置します。

  観音霊験譚を中心とした物語が 四十話 掲載されています。
  観音信仰の影響が強いですが 読み物としても楽しめる物が沢山あります

 

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河辺の法師 ・ 今昔物語 ( 16 - 1 )

2023-08-15 16:07:45 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 河辺の法師 ・ 今昔物語 ( 16 - 1 ) 』


今は昔、
[ 欠字。「推古」と考えられる。]天皇の御代に、行善(ギョウゼン・伝不詳)という僧がいた。俗称は堅部氏(タテベノウジ・帰化人系の一族か?)である。
朝廷は、仏法を習い伝えさせるために、高麗国(コウライノクニ・高句麗のこと。朝鮮半島にあった国。)に派遣した。

そこで、行善は高麗国に渡ったが、その国はまさに他の国に滅ぼされようとしている時で、国中の人は皆王城(高麗国の都・平壌)に籠もり、国内には全く人の姿がない。行
善も慌てふためいて逃げていくうちに、大きな河に行きあたった。河岸まで来て、その河を渡ろうとしたが、河は深く、歩いて渡ることはとても出来ない。
「これは船で渡らねばなるまい」と思って、船を捜したが、船も皆隠してしまっているので見当たらない。橋は有るにはあるが、皆壊されていてとても渡れない。

そうしているうちに、「誰かが追ってくるのではないか」と思うと、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。
そこで、行善はどうしようもないままに、壊れた橋の上に立って、ひたすら観音を念じ奉っていた。すると、にわかに一人の老いた翁が、船に棹(サオ)をさして河の中に現れ、行善に告げた。「さあ、急いでこの船に乗りなさい」と。
行善は喜んで、船に乗って河を渡った。すぐに渡り終えて、岸に上がって振り返って見ると、翁の姿は見えず、船も見えなかった。
そこで、行善は、「これは観音がお助け下さったのだ」と思って、礼拝し、願を立てた。「私は、観音の像を造り奉って、恭敬供養(クギョウクヨウ)し奉ります」と誓って、その場所から逃げ去り、王城の方に行き、しばらく隠れているうちに戦乱も静まった。

「この国にいても、役立つことはない」と思って、そこからさらに足を伸ばし、唐に渡った。そして、[ 欠字。師僧の名が入るが不詳。]という人を師として仏法を学んだ。また、願を立てた、観音像を造り奉って供養し、日夜に恭敬(クギョウ・慎み敬うこと。)し奉ること限りなかった。
すると、唐の天皇(皇帝)が行善を召して訊ねられたが、あの高麗において、河を渡る時のことなどをお聞きになって、行善に深く帰依なさった。
また、世間では、行善を河辺の法師と名付けた。それは、観音が翁に化して河を渡らせなさったのを聞いて、名付けたのであろう。

このようにして、唐に留まっていたが、日本の遣唐使[ 欠字。「多治比真人県守」らしい。
]という人が帰朝するのに付いて、養老二年(718)という年に、日本に帰ってきたのである。
行善は、高麗において戦乱に遭って河を渡れなくなった時、老翁が現れて船で渡らせてくれたことなどを、詳しく語った。わが国の人々は、これを聞いて尊ぶこと限りなかった。
その観音像も共に持ち帰り、わが国に帰ってきてからは、興福寺に住んで、格別に恭敬供養し奉った。
わが国では、この人を老師行善と呼んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
☆☆☆

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丸木舟で脱出 ・ 今昔物語 ( 16 - 2 )

2023-08-15 16:07:14 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 丸木舟で脱出 ・ 今昔物語 ( 16 - 2 ) 』


今は昔、
[ 欠字。「斉明」か?]天皇の御代に、伊予国越智郡の大領(ダイリョウ・長官)の先祖にあたる、越智の直(アタイ)という者がいた。百済国が滅ぼされそうになった時、その国を助けるために、朝廷は大軍を派遣したが、この直もその一員として加わっていた。

直は百済国に着き、救援にあたったが、力が及ばず、唐軍に捕らえられて、唐に連れて行かれた。同じように派遣された者八人が一緒だった。そして、ある島に幽閉されたが、日本人八人は共に泣き悲しんだ。今となっては、日本に帰る望みは絶たれてしまったので、それぞれは父母や妻子を恋い慕っていたが、たまたまその所で、観音像一体を見つけ奉った。
八人は全員がこれを喜び、心を込めて念じ奉った。「観音様は、すべての衆生の願いを叶えて下さること、親が子を愛するが如くであります。どうぞ、これは至難のことではありますが、お慈悲をかけて下さいまして、私たちをお助け下さって、本国に帰らせて下さい」と、泣きながら申し上げた。そうして、それを
数日繰り返していた。

この捕らわれている島は、どの方角にも逃げることが出来ないように人が配置されていた。ただ、後ろの方は深い海になっていて、海岸には木が茂っていた。
そこで、八人は集まって相談し、計画を立てた。「密かにこの後ろの海の海岸にある大きな松の木を伐って、それを船の形にくりぬいて、それに乗って密かにここを逃げ出して、人も通わぬ海とはいえ、その大海原で死んだとして良いではないか。ここで死ぬよりましだ」と相談がまとまり、八人でその木を伐り、大急ぎでくりぬいた。
そして、出来上がった丸木舟に乗って、あの観音像を舟の中に安置し奉って、めいめいが願を立て、涙ながらに心を込めて念じた。

その国の見張りたちは、後ろの海の方は逃げられないと思っていて、八人が逃げ出したことを全く知らなかった。そのうちに、自然に西風が吹き出し、丸木舟を矢を射るかのようにまっすぐに筑紫に吹き着けた。
「これは、ひとえに観音様がお助け下さったのだ」と思い、喜びながら上陸し、それぞれの家に帰ったので、妻子はその姿を見て喜び合うこと限りなかった。八人はそれぞれにこれまでのことを語り、観音の助けを尊んだ。

その後、朝廷でもこの事をお聞き及びになり、召し出して事の次第を聞き取ると、起きた事を詳しく申し上げた。
天皇もこの事をお聞きになり、感激し尊く思われて、望みのままの賞を与えると仰せられると、越智の直は、「この国に一つの郡を設けて、お堂を造ってこの観音像を安置し奉りたいと思います」と申し上げた。
すると、天皇は、「申し出通りにせよ」と仰せられたので、直は願い通りに、一郡を設け、お堂を造り、その観音像を安置し奉った。
それから後、今に至るまで、その子孫が相伝して、この観音を恭敬し奉ること絶えることがない。また、その国の越智郡は、これに始まったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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身代わり観音 ・ 今昔物語 ( 16 - 3 )

2023-08-15 16:06:34 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 身代わり観音 ・ 今昔物語 ( 16 - 3 ) 』


今は昔、
周防の国、玖珂の郡に住んでいる人がいた。その国の判官代(ハンガンダイ・国守の代官。土地の有力者が任命された。)である。
幼い頃から三宝(仏・法・僧)を信じて、常に法華経の第八巻の普門品(フモンボン・いわゆる観音経)を読誦して、観音に仕えていた。毎月の十八日には、自ら精進潔斎して、僧を招いて、普門品を読誦させた。
また、その郡のうちに一つの山寺があった。三井寺(山口県にあり、現在の極楽寺。)という。観音の霊験あらたかな寺である。
判官代は、常にこの寺に詣でていて、その観音を長年恭敬(クギョウ)し奉っていた。

ところで、この判官代にはその国の内に敵がいて、隙を窺っては判官代を殺そうと思っていた。
ある時のこと、判官代は国府に参り、公務を勤め終えて家に帰る途中で、その敵が多くの兵を引率して、待ち受けていた。そこへ判官代がやって来たので、敵は喜んで、判官代を殺そうとした。敵とその引き連れてきた軍勢は、判官代を見つけると喜んで馬から引きずり落として、刀でもって切り、弓矢でもって射、鉾でもって貫き、足を切り、手を折り、目をえぐり、鼻を削り、口を裂き、ズタズタに殺して放り出した。
敵は、長年の望みを遂げたことを喜び、飛ぶようにして逃げ去った。

ところが、判官代は、敵をはじめ敵兵たちが自分を馬から引きずり落とし、切ったり射たりしたが、全く体には当たることなく、一分ほどの傷も負わなかった。とはいえ、怖ろしいことはこの上なく、心も肝も消え失せて、前後不覚になってしまったが、気を取り戻すと、ともかく無事であることを喜んで、家に帰った。
この国や郡内の人は、誰もが「判官代は殺されてしまった」と聞かされた。敵も、殺してしまったので安心していたが、判官代が生きていて家にいるらしいと聞いて、敵は信用できず、大変不思議に思った。
そこで、密かに判官代の家に人を遣って見させると、使いは帰ってきて報告した。「昨夜ずたずたにして殺したはずの判官代は、一分の傷も負わないでいる」と。
敵はそれを聞いて、いぶかしく思うこと限りなかった。

その後、判官代の夢に、貴く気高い僧が現れて告げた。「我は汝の身に代わり、たくさんの傷を受けた。これは汝の急難(緊急の災難)を救うが為である。もし、この虚実を知りたいと思うなら、三井寺の観音を見奉るべし」と。そこで夢から覚めた。
明くる朝、判官代は急いで三井寺に詣でて、観音を拝み奉ると、その首からはじめ足の裏に至るまで、傷のない所は一分としてないほど、観音の御身は傷だらけである。御手は折って前に棄てられ、御足は切って傍らに置かれ、御眼はえぐり取られ、鼻は削られていた。
判官代はこれを見て、涙を流し、声を挙げて泣き感激すること限りなかった。

国内の近くの人も遠くの人も、これを聞いて集まってきて、その傷を拝み奉って、尊び感激した。
その後、多くの人々が力を合わせて、観音像をもとの姿に修復し奉った。
それから後は、国内の上中下の人々は、この判官代を冗談に「金判官代」と名付けた。そのわけは、多くの軍勢にただ一人で立ち向かい、ずたずたに切られたり射られたりしたが、塵ほどの傷も受けなかったからである。
また、敵はこの事を聞いて、長い間の悪心を止めて、道心を起こして、判官代と親交を結び、もとの恨み心を捨て去ったのである。
また、この事を聞く人は、熱心にこの観音を崇拝するようになった。

これを思うに、観音の霊験の不可思議なることは、天竺震旦をはじめとしてわが国に至るまで、今に始まったことではないが、これはまさしく人の身代わりになって傷をお受けになったことは、貴く感慨深いことである。
されば、この世に生を受けた人は、熱心に観音を祈念し奉るべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆  ☆ 

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御身体を食わせる ・ 今昔物語 ( 16 - 4 )

2023-08-15 16:06:00 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 御身体を食わせる ・ 今昔物語 ( 16 - 4 ) 』


今は昔、
丹後国に成合寺(成相寺のこと。京都府宮津市に現存。)という山寺がある。観音の霊験あらたかな寺である。
その寺を成合といういわれを尋ねると、昔、仏道を修行する貧しい僧がいて、その寺に籠もって修行をしていた。その寺は、高い山の上にあり、その国の中でも雪が高く降り積もり、風が激しく吹く所である。
ところで、ある冬のこと、雪が髙くまで降り積もって、誰もやってこなくなった。そのため、この僧の食糧が絶えて数日が過ぎ、何一つ食べることが出来ず餓死するほどになった。雪が髙く積もっているため、里に出て托鉢することも出来ない。また、食べられそうな草木さえない。
しばらくの間は、じっと我慢して堪えていたが、それも十日ばかりにもなると、力が弱り起き上がる気力もなくなった。そこで、堂の東南の隅に蓑の破れた物を敷いて寝ていた。力も尽きて木を拾ってきて火を焚くこともしない。寺の建物も破損していて風を防ぎ切れていない。風雪が激しくてとても怖ろしい。
気力も無くなっていて、経も読まず、仏を祈る事もしない。

「もう少し辛抱すれば、やがて食べ物も手に入るだろう」とも思えないので、心細いことこの上なかった。こうなれば、もう死ぬだろうと覚悟して、この寺の観音に「助け給え」と念じて申し上げた。「只一度、観音様の御名を唱えるだけでも、諸々の願いを叶えて下さいます。私は長年にわたり観音様に帰依しておりながら、仏前において飢え死にしてしまうのがとても悲しい。私が、高い官位を求めていたり、多くの財宝を望んでいるのであれば難しいでしょうが、ただ、今日の命をつなぐだけの食べ物をお恵み下さい」と念じながら、寺の西北の隅の破れ目から外を覗くと、狼に喰われた猪が見えた。

「あれは、観音様が与えて下さった物だろう。あれを食べよう」と思ったが、「長年仏様を頼みとし ておりながら、今更どうしてあれを食べることが出来ようか。聞くところによれば、『生ある者は皆、前世のの父母』だとか。私は飢えて死なんと[ 欠字。「しているが、どうして父母の」といった文章らしい。]肉を裂いて食べることが出来ようか。いわんや、生き物の肉を食べる者は成仏への道が断たれ、悪道(地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。)に堕ちることになるのだ。だから、どの獣でも人を見れば逃げていくのだ。これを食べる者を、仏も菩薩もお見捨てになるのだ」と 何度も何度も思ったが、人間の心は情けないもので、後世で苦しむことを思わず、今日の飢えの苦しみに堪えられず、刀を抜いて、猪の左右の股の肉を切り取って、鍋に入れて煮て食べた。その味のうまいことはこの上なかった。飢えの苦しみはすっかり消え、満足感に包まれた。

しかしながら、重い罪を犯したことを悔い、泣き悲しんでいるうちに、雪もようやく消えたので、里の人が大勢やってくる声が聞こえた。
その人たちが、「この寺に籠もっている僧は、どうしているだろう。雪が髙く積もって、人がやって来た様子がない。何日も経っているので、今頃は食べ物もなくなっているだろう。人の気配もしないから、死んでしまったのだろうか」などと言い合っているのを、僧は聞いて、「とりあえず、この猪の煮散らした物を、何とか隠さねば」と思ったが、すでに里人たちが近くまで来ているので、どうすることも出来ない。まだ食べ残した肉も鍋に残っている。それを思うと、とても恥ずかしくて、悲しい。
そのうち、里の人々が皆入ってきた。
人々は、「どのようにして、過ごしておられたのか」などと言いながら、寺の中を見て回ると、鍋に檜を切って入れて、煮て食い散らかしている。
人々はこれを見て、「お坊様、いかに飢えたとはいえ、いったい誰が木を煮て食べますか」と言って哀れがっていたが、その人たちが仏像を見てみると、仏像の左右の股の辺りが新しく切り取られていた。

「これは、僧が切り取って食べたに違いない」と、驚きあきれて、「お坊様、どうせ木を食べるのなら、寺の柱でも切って食べなさい。どうして、仏の御身を切り取ったのですか」と言うので、僧は驚いて仏像を見奉ると、里人たちが言うように、左右の御股が切り取られている。
その時はじめて、「さては、あの煮て食べた猪は、観音様が私を助けるために、猪に姿をお変えになったに違いない」と思うと、尊さに感激して、人々に向かって事の次第を語ると、これを聞いた者は皆、涙を流して感激し尊ぶこと限りなかった。

そこで僧は、仏前に座り、観音に向かって申し上げた。「もしこの事が、観音様がお示しに成られたことであるならば、本のようなお姿にお戻り下さいますように」と。
すると、そう申し上げると同時に、人々の目の前で、その左右の股は本のように完全な姿になった。見ていた人々は皆、涙を流して感激しない者はいなかった。
それで、この寺のことを成合寺(ナリアイデラ・成合は、接合してもと通りになることをいう。)と言うのである。 (このあたり、欠字・欠文が多いが、一部推定しました。)

その観音像は、今も安置されている。心ある人は必ず詣でて拝み奉るべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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射貫かれた仏師 ・ 今昔物語 ( 16 - 5 )

2023-08-15 16:05:34 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 射貫かれた仏師 ・ 今昔物語 ( 16 - 5 ) 』


今は昔、
丹波国、桑田郡に住んでいる郡司(グンジ・国司の監督下にあつて、郡の政務を担当した。)は、長年の宿願である観音像を造り奉ろうと思って、京に上り、一人の仏師と相談して、その制作費を渡して、懇切に依頼した。
仏師は、造ることを約束して制作費を受け取った。郡司は喜んで国に帰った。

この仏師には、もともと慈悲の心があり、仏像を造って世を渡っていたが、幼い時から観音品(カンノンボン・普門品、観音経とも。)を信奉し、必ず日毎に三十三巻を読誦していた。また、毎月十八日には持斎(ジサイ・戒律の一つで、正午以降は食事を取らないことを守る。)して、熱心に観音にお仕えしていた。
ところで、この仏師は郡司の依頼を受けて後、三月ばかりのうちに、郡司が思っていたより早く、観音像を美麗に造り奉って、仏師自ら仏像を持って郡司の家にお届けした。このような約束は、仏像作成の費用を受け取っていても、約束を守らず遅延することは、常のことであった。ところが、思いもかけず、これほど早くに造り奉ったうえに、思い通りの美麗さに造って仏師自ら届けてくれたので、郡司は大いに喜んで、「この仏師にどのような御礼を与えれば良いのか」と思ったが、あまり豊かでもないので、与えられそうな物がない。持っている物といえば、ただ馬一頭だけである。

その黒い馬は年が五、六歳ほどであるが、丈は四尺八寸ばかりである。(標準的な馬は四尺とされている。)性格はおとなしく、足は強い。道をよく歩き、走るのが速い。物に驚くことがなく、疲れを知らない。多くの人がこの馬を見て欲しがったが、郡司はこの馬を掛け替えのない宝と思って、長年持っていたが、この仏師の対応が嬉しくなって、「されば、この馬を与えよう」と思って、自ら引き出して与えた。
仏師はたいへん喜び、鞍を置いて乗り、乗ってきた馬は供の者に引かせて、郡司の家を出て京に上った。

郡司は、これまであの馬を身近において飼っていたので、その馬がいなくなり、厩に草などが食い散らかされているのを見るにつけ、恋しさに悲しくなり、今更のように馬を渡してしまったことが悔やまれてきた。そして、片時も我慢が出来なくなり、身を焼かれもまれるように[ 欠字。]思ったが、どうにも諦めきれず、遂に親しい[ 欠字。この後、欠字、欠文多いが、そのままにさせていただきました。]徳のために、この馬を当てたけれど、更に為[ 欠字。]惜[ 欠字。]我を思うならば、あの馬を取り返してきてくれぬか。盗人のような振りをして、仏師を射殺して、必ず取ってきてくれ」と。
郎等は、「お安い事です」と言って、弓矢を帯びて、馬に乗って走らせていった。

さて、仏師は表街道を行く。郎等は近道を通って先回りして、篠村(山陰道の要衝の地。現在の京都府亀岡市の辺り。)という所に行き、栗林の中で待ち伏せていた。
しばらくすると、仏師があの馬に乗って、やって来た。郎等は、「つらい仕事をしなければならないなあ」と思ったが、頼りにしていた主人の命令に背くことは出来ず、弓に尖り矢をつがえて、仏師の真正面に馬を走らせて仏師と向かい合い、弓を強く引き、四、五丈(一丈は約三メートル)ほどの距離から矢を放ったので、はずすはずもなく、へその上あたりから背中に矢尻が突き抜けた。
仏師は、仰向けざまに矢と共に落馬した。馬は手綱から放れて走り出すのを、追いかけていって捕らえ、主人の家に連れ帰った。
郡司はこれを見て大喜びした。前と同じように、傍らに置いて、可愛がって飼った。

その後、何日か経って、仏師の所から問合せもないので、不審に思って、あの郎等を上京させて、仏師の家を訪ねさせた。
「『どうしていらっしゃぃますか。長らくご無沙汰しておりますので、ご様子を伺いに参りました』と言うように」と教えて行かせたので、郎等は京に上り、さりげなく仏師の家に入っていった。
その家は、門口から奥に入って造られていたが、前庭に梅の木があり、その木にあの馬を繋いでいて、二人の人が撫でたり草を食わせたりしていて、仏師は縁に座ってその様子を見ている。馬は、前より色艶がよく、肥えている。
郎等はその様子を見て、不審に思うこと限りなかった。射殺したはずの仏師が居り、取り換えしたはずの馬もいるので、「もしかすると、見間違いか」と思って、立ったまま目をこらして見直したが、間違いなくあの仏師であり、馬も間違いないので、仰天して「怖ろしいことだ」と思ったが、郡司から命じられていた言葉を述べた。
仏師は、「何事もございません。この馬を多くの人が欲しがり、『買いたい』と申してきますが、この馬はたいした逸物ですので、売らずに持っております」と言う。

郎等は、なおも不思議でたまらず、この事を早く主人に報告するために、飛ぶようにして返り下った。そして、主人のもとに急いで行き、見てきたことを話した。
郡司もそれを聞いて、「奇態な
ことだ」と思って厩に行ってみると、いつの間にかあの馬がいなくなっている。郡司は怖れをなして、観音の御前に参って、「この事を懺悔しよう」と観音を見奉ると、その観音の御胸に矢が突き立っていて、血が流れていた。
すぐに、あの郎等を呼び、これを見せて、共に五体を地に投げて(五体投地)、声を挙げて泣き悲しむこと限りなかった。
その後、二人とも、すぐさま髻(モトドリ)を切って出家した。そして、山寺に行き、仏道を修行したのである。

その観音の御矢の跡は、今も開いたままで塞がらないでいる。人々が大勢参ってこれを拝み奉っている。仏師が慈悲深い人であったが故に、観音が身代わりになって矢を受けて下さったということは、観音の御誓願の通りなので、貴く感慨深いことである。
心ある人は、必ず参詣して拝み奉るべき観音で在(マ)します、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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鷹取りの男と観音の霊験 ・ 今昔物語 ( 16 - 6 )

2023-08-15 16:05:04 | 今昔物語拾い読み ・ その4

     『 鷹取りの男と観音の霊験 ・ 今昔物語 ( 16 - 6 ) 』


今は昔、
陸奥国に一人の男が住んでいた。長年、鷹の子を巣から捕ってきて、必要とする人に与え、その代価を得て生活をしていた。
長年、鷹が巣を作る所を見つけておいて、取り下ろしていたが、母鷹はこれを辛いことだと思っていたのか、本の所に巣を作らず、人が行けそうもない所を探し求めて、巣を作り卵を生んだ。
そこは、巌が屏風を立てたようになっている先端で、下には底も知れない大海の荒磯になっている。その巌の先端から遙か下に垂れ下がって生えている木の先に生んだのである。確かに、とても人が寄りつけるような所ではなかった。

この鷹取りの男は、鷹の子を取り下ろす時期になったので、いつも巣を作っている所に行ってみたが、どうして、あるはずがあろうか。しかも、今年は巣を作った跡もない。
男は嘆き悲しみながら、そのあたりを捜しまわったが、どこにも見当たらないので、「母鷹は、死んでしまったのかもしれない。あるいは、別の所に巣を作ったのだろうか」と思って、数日かけて、あちらこちらの山々や峰々を捜し歩くうちに、遂にこの巣の所を遠くから見つけて、喜びながら近付いてみると、とても人が行けそうな所ではなかった。
上から降りて行くにも、掌を立てたような巌の先端であり、下から登るにも、底知れぬ大海の荒磯である。せっかく鷹の巣を見つけはしたが、とても力の及ぶものではなく、家に帰り、これから先の生活の道が絶えてしまったことを嘆くばかりであった。

そこで、隣に住んでいる男にこの事を話した。
「自分は、いつも鷹の子を捕らえて、それを国の人に売って一年分の蓄えとして、長年過ごしてきたが、今年は、鷹が巣をあのような所に作って卵を生んだので、とても鷹の子を捕らえる術がなくなってしまった」と嘆くと、隣の男は、「何か工夫すれば、何とか捕らえることが出来るかもしれんぞ」と言って、その巣の所に二人連れだって出かけていった。
その所の様子を見て、隣の男が教えた。「巌の頂上に大きな杭を打ち立てて、その杭に百尋(ヒャクヒロ・150mほど。尋は長さの単位で、1尋は大人が両手を左右に広げた長さ。)の縄を結びつけ、その縄の先に大きな籠をつけ、その籠に乗って巣の所まで降りて捕るといい」と。

鷹取りの男はこれを聞いて、喜んで家に帰り、籠・縄・杭を準備して、二人そろって巣の所に行った。そして、計画していたように杭を打ち立てて、縄をつけ籠を結びつけて、鷹取りの男はその籠に乗り、隣の男は縄を持って少しずつ降ろした。やがて籠は遙か下の巣の所に着いた。
鷹取りの男は籠より降りて巣のそばに座り、まず鷹の子を捕らえて
翼を結んで籠に入れて、先にそれを上にあげた。自分は残っていて、次に降ろしてもらった籠で昇ろうと思っていたが、隣の男は籠を引き上げて、鷹の子を取ると、もう一度籠を降ろすことはせず、鷹取りの男を見棄てて家に帰ってしまった。
そして、鷹取りの家に行き、妻子に、「あなたの夫は、籠に乗せて鷹の子を捕らえるために降ろしている途中で、縄が切れて海の中に落ちて死んでしまった」と伝えた。妻子は、これを聞いて泣き悲しむこと限りなかった。

一方、鷹取りの男は、巣のそばに座って、籠が降りてくれば昇ろうと思って、今か今かと待っていたが、籠は降りてくることなく数日が過ぎた。
狭くて少し窪んだ岩の上に座っているので、ほんの少しでも身体を動かせると、遙か下の海に落ちてしまいそうである。そのため、ただ死ぬのを待つだけであったが、この男は、長年
このような罪深い
仕事をしてきているが、毎月十八日には、精進して、観音品(観音経)を読誦し奉っていた。
そこで、この場に臨んで、「わしは長年、飛び翔(カ)ける鷹の子を捕らえて、足に緒をつけて繋いでおいて放たず、鳥を捕らえさせていました。その罪によって、この世で報いを受け、今まさに死のうとしています。願わくば、大慈大悲の観音様、長年、観音経を信じ奉っておりますことにより、この世はこうして死んでしまいますが、後生では三途(サンズ・地獄、餓鬼、畜生の三悪道のこと。)に堕ちることなく、必ず浄土にお迎え下さい」と念じていると、大きな毒蛇が、目を鋺(カナマリ・金属製のおわん)のように光らせ、舌なめずりをしながら大海より現れ、巌をよじ登ってきて、鷹取りの男をひと呑みにしようとした。

鷹取りの男は、「蛇に呑まれるよりは、海に落ちて死のう」と思って、刀を抜き、蛇が自分に向かってきている頭に突き立てた。
すると、蛇は驚いて上の方に這い上がって行くので、鷹取りの男がその背に飛び乗ると、いつの間にか巌の上に昇っていた。その後、蛇は掻き消すように姿を消した。
その時はじめて、「さては、観音様が蛇の身となって、わしをお助けくれたのだ」と知り、涙ながらに礼拝して家に帰った。
長い間、何も食べていないので、飢えと疲れで、ようやく家に帰り着き、門を見ると、今日は自分の初七日に当たっていて、物忌みの札を立てて門が閉じられていた。
門を叩いて、開けて入ると、妻子は涙を流して、なによりも帰ってきたことを喜んだ。その後で、事の次第を詳しく話した。

やがて、十八日になり、鷹取りの男は沐浴精進して観音品を読み奉るため、経箱を開けてみると、経典の軸に刀が突き立っていた。自分があの巣において、蛇の頭に打ち立てた刀であった。
「観音品が蛇になって、わしをお助け下さったのだ」と知ると、貴く感激すること限りなかった。そして、たちどころに道心を起こして、髻(モトドリ)を切って法師になった。
その後は、ますます修行に勤め、悪心をすっかり断った


遠くの人も近くの人も、誰もがこの事を聞いて、尊ばない者はいなかった。ただ、隣の男は、どれほど恥ずかしかったことだろうか。だが、鷹取りの男は、その男を恨み憎むことはなかった。
観音の霊験の不思議なことは、このようでおわした。世間の人はこれを聞いて、専ら心を込めて祈念し奉るべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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観音の加護を受けた女 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 16 - 7 )

2023-08-15 16:04:31 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 観音の加護を受けた女 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 16 - 7 ) 』


今は昔、
越前国の敦賀という所に住んでいる人がいた。財産というほどの物を蓄えてはいなかったが、何とかやりくりして暮らしていた。
子供は娘一人だけで、他にいなかった。そこで、その娘を格別に大切に可愛がっていて、「将来に不安がないように」と思って結婚させたが、その夫は娘のもとを去り帰ってこなかった。
このようなことを何度も繰り返し、遂に寡婦(ヤモメ)暮らしになるのを父母は嘆いて、その後は夫を持たせるのを諦めた。

そして、住んでいる家の後ろにお堂を建て、この娘をお助けいただくために、観音を安置し奉った。供養し終ってから、いくらも経たないうちに父が死んでしまった。娘はたいそう悲しんだが、ほどなくして、今度は母も死んでしまった。
娘は、いよいよ嘆き悲しんだが、どうすることも出来ない。所有している土地が少しもない状態で生活してきていたので、寡婦である娘一人が残されては、どうして良いことなどあるはずがなかった。親の蓄えがほんの少しある間は、使用人も何人かいたが、その蓄えを使い果たした後は、使用人は一人もいなくなった。

そうしたわけで、衣食にもたいそう不自由するようになり、たまたま手に入った時には自ら調理して食べ、手に入らない時は空腹のままでいたが、常に観音に向かい奉って、「わが親がわたしに良い夫を持たせようと願っておりましたが、どうぞその甲斐がありますように、わたしをお助け下さい」と申し上げていたが、ある夜の夢に、観音の後ろの方から老僧が現れて、「大変気の毒なので、夫となる男を会わせようと思って呼びにやっているので、明日にはここに来るだろう。されば、そのやって来た人の言うことに従いなさい」と言うのを聞いたところで夢から覚めた。
「観音様が、わたしをお助け下さるのだ」と思って、すぐさま沐浴して、観音の御前に詣でて、礼拝した。その後は、この夢を頼みとして、翌日になると、家を掃除して、お告げのことを待った。
家はもともと広く造られているので、両親が亡くなってからは、娘は家全体を使うことなく、がらがらの家の片隅で生活していた。

やがて、その日の夕方になると、多くの馬の足音が聞こえ人がやって来る。覗いてみると、宿を借りようとして、この家に来た人たちであった。
すぐに宿を貸すことを承知する旨を言うと、全員が家に入ってきた。「良い所に宿ることが出来た。これだけ広いのが何よりよい」などと言い合っている。
娘が覗いてみると、主人は三十ばかりの男で、なかなかの好男子である。従者、郎等、下男など全部で七、八十人ほどいる。それらが皆座っていた。畳はないので敷いていない。主人は皮行李(カワコウリ・周囲に皮を張った行李。衣服などを入れる。)を包んだ筵(ムシロ)を敷皮に重ねて敷いて座っている。周りには、幕を引き廻らしている。

日が暮れると、旅籠(ハタゴ・旅行用の携帯籠。)の中の食物を調え、持ってきて食べた。
その後、夜になると、この宿を借りた人が娘のいる所に忍んできて、「そこにおいでのお方に、お話し申したい」と言って近寄ってきた。これといった隔てている物もないので、入ってくると娘の手を取った。
「何をなさいます」とは言ったが、夢のお告げを頼みにして、言うことに従ってしまった。

この男は、美濃国の権勢も財力もある豪族の一人っ子であったが、その親が死んで多くの財産を相続し、親にも劣らぬほどの者であった。
ところが、深く愛していた妻が死んでしまった後、独り身であったので、多くの人から、「婿になってほしい」「妻になりたい」と言ってきて
いたが、「亡き妻に似た人でなければ」と言って独身を通していた。
そうした時、若狭国に所用があって行くことになった。そして、たまたま昼間に宿を借りた時、「どうした人が住んでいるのだろう」と思って覗いたところ、家主の女は死んだ妻にまるで生き写しであった。「まさに、亡き妻にそっくりだ」と思うと、目もくらみ胸が騒いで、「早く日が暮れるといいのに、そばに寄って近くから顔を見たい」と思って、宿を借りたのである。

すると、その女は、物を言う様子をはじめ、すべてが亡き妻と露ほども違う所がなかった。そこで、嬉しく思いながら深い契りを結んだのである。
「若狭国へ行かなければ、この人を見つけることはなかったのだ」と、繰り返し喜び、やがて夜も明けたので、若狭に向かうことになった。
女に着物がないのを見て、いろいろの着物を着せてから、国境を越えていった。その家には、郎等や四、五人の従者に加えて、二十人ほどを残していった。
女は、その者たちに食べさせる手立てがなく、馬たちに飼い葉を与えることも出来ないので、思案にくれていると、以前親が使っていた女の娘で、どこかにいるとは聞いていたが訪ねてくることなどなかったのが、思いがけずその朝早くにやって来た。

「誰が来たのだろう」と思って尋ねると、訪ねてきた女は、「私は、親御様に使われていた女の娘でございます。長い間お訪ねもしないことを気にはしておりましたが、毎日の生活に追われて失礼いたしました。今日は、何もかも捨て置いて参りました。このようにご不自由にお過ごしなら、むさ苦しい所ではありますが、わたしが住んでいる所に通っておいで下さいませ。お世話させていただくつもりではございますが、離れて暮らしていて朝夕お伺いするのでは、行き届かないことも多くなります」などと、細々と話してから、「それにしても、ここにおいでの人々は、どなたですか」と訊ねると、「ここに宿られた人たちで、今朝若狭に向かわれましたが、明日ここに返ってきますので、一部の人が残っているのです。その人たちにも食べていただく物がなく、日が高くなってきましたのに、どうしようもないままにいるのです」と答えた。

すると、訪ねてきた女は、「おもてなしせねばならないお方のお供の人々なのですか」と訊ねた。家主の女は、「そうまですることはないと思うのですが、ここに宿られた人に、食事をしていただけないのも情けないのです。それに、構わないで放っておける人でもないのです」と答えた。
訪ねてきた女は、「何ともあいにくなことでございましたね。でも、都合よくお訪ねしたものです。それでは、家に帰りまして、その段取りをつけてきましょう」と言って出て行った。
「きっと、これも観音様がお助け下さったのだ」と思って、手をすり合せていっそう祈念申し上げていると、すぐさま先ほどの女が、食物などを人に持たせてやって来た。見てみると、食物など様々にたくさんある。馬の飼い葉もある。
「何ともありがたいことだ」と思って、思い通りにこの人たちをもてなした。

                    ( 以下( 2 )に続く )

     ☆   ☆   ☆

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観音の加護を受けた女 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 16 - 7 )

2023-08-15 16:04:01 | 今昔物語拾い読み ・ その4

      『 観音の加護を受けた女 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 16 - 7 ) 』

     ( ( 1 ) より続く )

その後、家主の女は、訪ねてきた女に、「これは、いったいどうしたことなのでしょう。『わたしの親が生き返っておいでなのか』と思ってしまいます。まことに恥をかかずに済みました」と言って泣くと、訪ねてきた女も泣きながら、「長い間、日々の生活に追われている者の常とは申せ、失礼しておりましたが、まことに良いあんばいに今日お伺いできましたことを、決しておろそかには思われません。ところで、若狭よりお返りの方は、いつ返ってこられるのでしょうか。お供の人は何人ぐらいでしょうか」と尋ねると、「さあ、本当かどうか『明日の夕方、ここに返って来る』と聞いています。お供の人、ここに残っている人、全部で七、八十人ほどでした」と言うと、訪ねてきた女は、「そのお支度を準備いたしましょう」と答えた。
家主の女が「今日のことだけでも思いがけないことですのに、そこまではとてもお願いできません」と言うと、訪ねてきた女は「どのような事でも、これからは、おっしゃられるようにお仕えいたします」と言いおいて出て行った。

その日も暮れた。そして、次の日となり、申時(サルノトキ・午後四時頃)頃、若狭に行っていた人が返ってきた。
すると、あの女が多くの食物などを人に持たせてやって来た。そして、上下すべての人をもてなした。
主人の男は、いつの間にか入ってきて、女のそばに臥し、明日には美濃に連れていく、などと話す。女は、「どういう事か」と思ったが、ひたすら夢のお告げを頼みとして、男の言うままになっていた。
訪ねてきた女は、早朝に出発する支度などをしていたが、家主の女は、「思いがけずこのような恩を受けることになった。この女に何かお礼をしたい」と思いをめぐらしたが、何一つ与える物がない。ただ、「もしもの時のために」として、紅の正絹(スズシ)の袴を一腰持っていたので、「これを与えよう」と思って、自分は男が脱いでおいた白い袴を着て、その女を呼んで、「何年もの間、このような人がいるとは思いもしませんでしたが、思いがけず、このような時に来ていただいて、恥をかかないで済みましたことを、世々(セゼ・生々世々のこと。生まれ変わり死に変わり、いつまでも。)にも忘れがたく思っています。この気持ちを、何とかあなたにお伝えしたくて、志だけですが、これを」と言って袴を与えようとした。

すると、その女は、「あのお方がご覧になられますのに、そのお着物はあまりにみすぼらしく、わたしの方から何かを差し上げようと思っておりましたのに、とてもこのような物を頂戴することは出来ません」と言って、受け取ろうとしなかったが、「わたしは長い間、『誘う水あらば』と思っておりましたが、思いもかけず、あの人が『連れて行こう』と言ってくれましたので、明日はどうなるか分かりませんが、付いていくつもりですので、形見と思って下さい」と涙ながらに与えると、「そのように形見だとおっしゃるのであれば、ありがたく頂戴いたします」と言って受け取り、去って行った。

二人が話していた所はすぐ近くだったので、この男は眠ったふりをして横になったままこの話を聞いていた。
やがて、出立の時となり、あの女が用意しておいた物などを食べ、馬に鞍を置いて引き出し、この女を乗せようとしたが、女は「人の命は定めのないものだから、この観音様をまた拝み奉ることは難しいかもしれない」と思って、観音の御前に詣でて、見奉ると、御肩に赤い物がかかっている。不審に思ってよく見ると、あの女に与えた袴であった。
これを見て、「さては、あの女と思っていたのは、観音様が姿を変えてお助け下さったのだ」と気がつき、涙を流し身もだえして泣くのを、男はその様子を見て、「どうしたのか」と思って、近寄り、「何があったのか」と見回してみると、観音の御肩に紅の袴が掛かっていた。それを見て、「これは、どうしたことか」と訊ねると、女は、初めからの事の経緯を泣きながら話した。
男は、「その話は、寝たふりをして横になって聞いていたが、その時にあの女に与えた袴に違いない」と思うと感動して、同じように泣いた。郎等の中にも、心ある者はこれを聞いて、尊く思い感動しない者はなかった。
女は、何度も何度も礼拝して、観音を堂内に納め扉を閉じて、男に連れられて美濃に向かって行った。

その後、夫婦として、他に心を移すことなく仲睦まじく過ごしているうちに、多くの男女の子を生んだ。敦賀にもしょっちゅう出かけて、懇ろに観音にお仕えした。
あの訪ねてきた女は、近くや遠くを捜し求めたが、そのような女は見つからなかった。
これはひとえに、観音がお誓いになったことを違えることがないというお陰である。世の人はこれを聞いて、ひたすら観音にお仕えすべきだと言い合った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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