積雪をもたらした低気圧も遠ざかり春近しを思わせるような気温にあがった奈良。
その「なら」でもなく天理市の楢町。
楢は「なら」と読むが奈良とは違った発音であると楢大明神社の氏子たちは口を揃えていった。
銅製の大きな鳥居の前は桜井から奈良へ行き交う街道である上街道だ。
北は奈良市の京終から元興寺、興福寺、そして奈良坂へと続く一本の道。
帯解を下っていけば天理市の蔵之庄町。
この辺りからの街道筋は宿場町の様相をみせる。
楢町もさらに南の櫟本町もその町並み景観は変わらない。
江戸時代、京都から奈良街道を経て、古都奈良から桜井を結び初瀬参拝の道として発展したとされる。
その後は生活や流通の街道になったのであろう。
ちなみに古代の幹道であった中ッ道はこの上街道から西方の1km先にあった。
上ッ道はといえば東だった。
古代の道は痕跡もなく消え、西に500mほど膨らんでぶれた街道が上街道なのだ。
この辺りの集落を東西に外れると田園が広がる。
近年では畑作もしなくなった土地も散見される。
生活基盤が変わってきたのであろう。
楢町でもその状況は著しく専業農家は1軒になったそうだ。
兼業農家を入れてもたかだか十数軒。
少なくなったと話される。
その農家にとっては欠かせない行事が御田祭りだ。
豊作を祈って春初めに神事を行う。
祭壇に供えられたのはお札を括り付けた松苗だ。
それにはネコヤナギの枝が添えられている。
白淡く芽吹いたネコヤナギが美しい。
山中で採ってきたそうだ。
その横には昨年の秋祭りの際に供えられた新穀の籾がある。
楢神社の本殿は春日大社の式年遷宮に払い下げられた旧社殿。
威風堂々としている。
傷みが激しくなってきたことから造宮の話題がでているそうだ。
拝殿に登った氏子たち。
敬神講の法被を着用している。
その拝殿は能の舞台だったそうだ。
そういえば造りに面影が残っている。
神饌を供えて神事が始まった。
祓えの儀を済ませると神主は境内に下りて、摂社の恵比寿神社へ参った。
この日はエビス祭も含んでいるのだ。
氏子たちも並んで拝礼した。
再び拝殿に登った氏子たち。
御田祭りの祝詞を奏上する。
豊作の願いは田植えの所作へと移る。
拝殿前には小さな四角い型がある。
そこは田んぼに模した神聖な場所なのだ。
神主は供えた籾を皿から取り出しては田んぼに撒く。
放物線を描くように撒く。
苗代に籾を撒いている所作であろう。
次に松苗を一つ一つ置いていく。
これは田植えの所作である。
この日は36本の松苗を植えられた。
整然と並んだ苗は美しい。
10数年前はもっと大きく、境内中央に田んぼを象っていたそうだ。
徐々に農家が少なくなって田んぼも小さくなったという。
農家がすべてなくなれば御田祭りも意味がなくなってしまうことだろうと呟かれた。
以前の御田祭りでは農家の人がこの松苗をもらいに来ていたそうだ。
いつしかそれは農家組合の人が一軒、一軒配ることになったようだ。
5月のゴールデンウイークのころ、苗代の水口にいったい幾つの松苗が見られることであろう。
(H23. 2.17 EOS40D撮影)
その「なら」でもなく天理市の楢町。
楢は「なら」と読むが奈良とは違った発音であると楢大明神社の氏子たちは口を揃えていった。
銅製の大きな鳥居の前は桜井から奈良へ行き交う街道である上街道だ。
北は奈良市の京終から元興寺、興福寺、そして奈良坂へと続く一本の道。
帯解を下っていけば天理市の蔵之庄町。
この辺りからの街道筋は宿場町の様相をみせる。
楢町もさらに南の櫟本町もその町並み景観は変わらない。
江戸時代、京都から奈良街道を経て、古都奈良から桜井を結び初瀬参拝の道として発展したとされる。
その後は生活や流通の街道になったのであろう。
ちなみに古代の幹道であった中ッ道はこの上街道から西方の1km先にあった。
上ッ道はといえば東だった。
古代の道は痕跡もなく消え、西に500mほど膨らんでぶれた街道が上街道なのだ。
この辺りの集落を東西に外れると田園が広がる。
近年では畑作もしなくなった土地も散見される。
生活基盤が変わってきたのであろう。
楢町でもその状況は著しく専業農家は1軒になったそうだ。
兼業農家を入れてもたかだか十数軒。
少なくなったと話される。
その農家にとっては欠かせない行事が御田祭りだ。
豊作を祈って春初めに神事を行う。
祭壇に供えられたのはお札を括り付けた松苗だ。
それにはネコヤナギの枝が添えられている。
白淡く芽吹いたネコヤナギが美しい。
山中で採ってきたそうだ。
その横には昨年の秋祭りの際に供えられた新穀の籾がある。
楢神社の本殿は春日大社の式年遷宮に払い下げられた旧社殿。
威風堂々としている。
傷みが激しくなってきたことから造宮の話題がでているそうだ。
拝殿に登った氏子たち。
敬神講の法被を着用している。
その拝殿は能の舞台だったそうだ。
そういえば造りに面影が残っている。
神饌を供えて神事が始まった。
祓えの儀を済ませると神主は境内に下りて、摂社の恵比寿神社へ参った。
この日はエビス祭も含んでいるのだ。
氏子たちも並んで拝礼した。
再び拝殿に登った氏子たち。
御田祭りの祝詞を奏上する。
豊作の願いは田植えの所作へと移る。
拝殿前には小さな四角い型がある。
そこは田んぼに模した神聖な場所なのだ。
神主は供えた籾を皿から取り出しては田んぼに撒く。
放物線を描くように撒く。
苗代に籾を撒いている所作であろう。
次に松苗を一つ一つ置いていく。
これは田植えの所作である。
この日は36本の松苗を植えられた。
整然と並んだ苗は美しい。
10数年前はもっと大きく、境内中央に田んぼを象っていたそうだ。
徐々に農家が少なくなって田んぼも小さくなったという。
農家がすべてなくなれば御田祭りも意味がなくなってしまうことだろうと呟かれた。
以前の御田祭りでは農家の人がこの松苗をもらいに来ていたそうだ。
いつしかそれは農家組合の人が一軒、一軒配ることになったようだ。
5月のゴールデンウイークのころ、苗代の水口にいったい幾つの松苗が見られることであろう。
(H23. 2.17 EOS40D撮影)