マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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祝いの聴講

2011年04月17日 07時48分51秒 | 民俗を聴く
博士になられたお祝いにお食事を誘っていった食事処は「吾妻」。

外からのお店を見る限り単なる仕出し料理屋だと思っていた。

店内へ入るとそこは異空間。

私の生活感には現れない処だ。

なんでも取材調査の折りに通りがかったときに発見された食事処。

超高級料理亭(私にとってのことだが)のお店は「ごっつぉゃ」とある。

接待にもってこいの和風感の個室は掘りごたつ。

膝の傷みが増してきた私にとってはありがたい座敷だ。

豪華な器で盛られた御所車。

なんと三段もある。

お勧めのお店に数えられるようになったが私一人で行くこともないが・・・かーさんには伝えておこう。

その足で葛城歴史博物館の講演会場に出向いた。

フィールド取材ばかりでは民俗を収集するものにとては広がりはもてない。

たまには座学も必要であると思い聴講した。

村共同体で行われてきた伝承文化の研究が民俗学。

歴史があるということは変遷していることだという。

江戸時代の中頃、中世の葛城地方の村落はどうであろうか。

この地には宮座がみられないという。

祭りの場は明治以前と以後を境に大きな変化があった。

明治元年に発布された神仏分離令。

いわゆる廃仏毀釈だ。

村落の気持ちとは別に祭りの動きに大きな変化があった時代。

林堂村は年貢がかからなかった除地。

疋田村は柳澤家郡山藩。

享保九年に村を把握していた。

新庄の疋田調田坐一事尼古(つくだにいますひとことねこ)神社は明治以前までは春日大明神と呼ばれていた。

燈籠にその名が消されている。

しかも明治以前に神宮寺だったお寺もなくなった。

享保二十一年、並河儒学者が延喜式神名帳と照合し現地調査した。

そこに神社名の変化がみられたという。

為志(ためしか、いしと呼ぶのか)神社は林堂村に。

そこも十二社権現社になった。

博西(はかにし)神社(古文書では博仁資大明神)には西之坊と呼ばれる神宮寺があったそうだ。

笛吹神社には上之坊があった。

当時は神仏習合の時代だった。

神社にお寺があるのは奈良(五畿内)では普遍的だった。

明治元年(1868年)を境目に大きな変化。

古文書によれば雨乞いをするに宮本、名当、社人、僧の名を連ねていた。

宮本の上には地頭がある。

それは願主人のことである。

社人は交替で勤める村の神主だ。

幕末の嘉永三年(1850年)に新庄の人が商売で行った先の水戸で見聞きしたことを綴っている。

江戸時代の1750年、賀茂真淵によって確立した国学(思想哲学)が発達した。

その後、古事記、日本書紀を当時の本居宣長(1730年~1801年)インテリらが神社にお寺が存在するのはおかしいと言い出した。

当時は僧と社人が祭りを行っていた。

古文書に記載されている順を見れば僧が社人よりも先にある。

まさしく祭りは僧が主体で、村の人が勤める社人(神主)がつく。

一年神主など現在でも村の祭りに勤めている地域は数多くみられる奈良。

それは宮座の証しである。

それはいつしか京都の吉田神社から免許を授かった神職が勤めるようになった。

なぜか。

前述した国学の流れだそうだ。

林羅山(天正11年(1583年)~明暦3年(1657年))、寛文年間(1661年)・・祝詞奏上の「カシコミ、カシコミ」、吉田家(吉田兼倶)・・・などなど私の頭はついていけないお話。

神道家の活動の結果が村落へ大きな影響を与えたそうだ。

そして明治の大変革。

祭りを勤める形態は大きく変化した。

1500年前後、葛城地方になにが起こったのか。

あくまで推定だがと前置きされて講師は語る。

山を越えた向こう・・・・・畠山氏。

応仁の乱のことである。

土地の実力者が政争のなかに引き込まれた。

記録によれば地域は焼かれて散々になった。

抵抗できなかったという。

村人は心の拠り所を失って記録が残らない永い年月が経った。

そうして葛城から宮座組織が消えていった。

講演席の後方からちらほら聞こえてきた、あーとか、ほーとか、なるほどとか感嘆の声が。こういうことを始めて聞く人なのであろう。

歴史の変遷を辿っていくと民俗文化の変貌が見えてくる。

(H23. 3. 5 SB932SH撮影)