マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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関西文化の日

2011年12月29日 06時45分38秒 | 民俗を聴く
クリーンキャンペーンの日と重なった関西文化の日。

町内の掃除を済ませて終わるわけではない。

集めたゴミは回収されてようやく班長の役目を終える。

車が来るのはいつも昼からだ。

回収場所は自宅近くだけにときおり玄関先からのぞいてみる。

いつもはその近くで町内の人たちと食宴をして待っているのだが・・・。

それはともかく午後1時半にやっと来た。

大急ぎで向った先は県立民俗博物館。

この日は「大和郡山の歴史と文化」をテーマに大和郡山市文化財審議会会長の長田光男先生の講演がある。

大和郡山に住まいしておよそ30年にもなるが、知らないことばかりだ。

講演の話はそれを少しでも埋めてくれるであろうと思って聴講してきた。

普段の入館料は200円。

それがこの日はなんと無料である。

大和郡山の歴史と文化が一挙に聞ける無料の日。

ありがたい日にありがたい話を聞くのである。

長田光男先生はいつも歩きで探訪している。

85歳の高齢であるにも関わらず足は健脚。

足取りは実に軽やかなお人である。

史跡、文化財、考古と範囲は広い学識をもつ。

あっちこちに出かけては現地で解説をされている。

『奈良点描』など著書も多い。

三の丸歴史愛好会の講義はなんと380回も越えたとされ、その期間といえば18年間。

すごいの一言しか浮かばない。

さて、肝心かなめの講演会はといえば聴講者はおよそ70数人。

会場はあふれる一歩手前であった。

大和郡山の歴史と文化を物語るには時間に限りがある。

近世までは到達できるべくもなく今回は黎明期から中世までで、石の時代の黎明期と寺の時代の花開く文化を話された。

<黎明期の郡山時代>
饒速日尊が登場する旧事本紀や日本書紀。それは矢田の郷ではないかという学説がある。
天の磐船から放たれて落ちたとされる矢田。一ノ矢、二ノ矢、三ノ矢それぞれの地がそこにあるという伝承の地は卑弥呼の里だというのだが、発掘されたものはなく学界では無視されているという。

その矢田の近くになる小泉の地。火災にあったまま放置された弥生時代中期の住居跡が見つかっている慈光院裏山遺跡。土の屋根やパオ状の板壁が発見されたそうだ。石室はドーム状で大陸系の古墳だったとされる。4世紀後半に築造されたそうだ。

古墳内からは長さ50cmぐらいの舟形埴輪があった。その形は外洋航海にも耐えうる構造船を模した埴輪であろうとされる。遥かなる国からやって来たと思われる人たちは船団で日本海を渡り瀬戸内を航行してきた。それは難波津から大和川を遡上し富雄川へと。そこは大倭国の鳥見の地。住み着いた人が築造したのではないかという。

尤も現在の富雄川は城(じょう)、外川上流辺りから小泉までは江戸時代に築造して繋げたものだけにその時代の様相は大きく異なる。その古墳からは鉄器や砥石、武具も出土したそうだ。

鉄の文化がそこにあったわけだが、鉄製の農具はいつから始まったのだろうか。稲作は条里制とも関連すると先生は地図を広げて話題を展開する。

大化の改新(646年)以後の稲作は大宝律令が発布(701年)される50年前。稲作生産は食料や経済の主食である。慈光院裏山遺跡は丘。丘陵地では稲作は難しいから平地に移っていったという。

そういえば大和中央道を作る際に発掘されたのは弥生遺跡の東城(ひがしんじょ)遺跡。平成16年にオープンしたアピタショッピングセンターの開発前に畑地を発掘された田中垣内遺跡。それも弥生後期の遺跡である。
郡山はどこから開けていったのかということだ。

(H23.11.20 記)
映像はH23. 1.16 EOS40D撮影の矢田三ノ矢塚。