野口行事、或いはノグチサンとも呼ばれていた行事を行っている御所市の蛇穴(さらぎ)。
戦前までは野口講中と呼ばれる座で営まれていた。
戦後の昭和22年に村の行事に移されたそうだ。
大和郡山市の額田部に住むSさんは蛇穴で生まれ育った。
生家は野口神社のすぐ前にあったという。
家を新築された際に親族は、その生家を村に譲った。
その建物は村の自治会館として利用されている。
Sさんが額田部に嫁入りするまでは生家で暮らしていた当時。
その頃は、村の行事を行う前日にモチを搗いていたという。
「村の手伝いさんが大勢来てくれて手伝ってくれた。手伝いさんには食べてもらわなあかんから接待していた」と話す。
その日に訪れた蛇穴の地。
夕刻近くには、生家であった自治会館に男性たちが集まっている。
当番の垣内の人らが朝からモチを搗いていた。
蛇頭を作ってトヤ(頭屋)の家に奉ったばかりだという。
行事役員たちは同家で祝い唄の伊勢音頭を歌っていたそうだ。
蛇穴のトヤは野口神社の分霊とされる蛇を一年間祀る。
前年の5月5日にトヤを受けてから翌日の5日の朝まで祀っている。
床の間に掛軸を掲げて祭壇を設える。
お供えや一石搗いた紅白のゴクモチを供えて神事を行っていたという北口垣内のS家。
一石のゴクモチはコモチにすれば6万個にもなるという。
代表役員の紹介を経て撮影承諾を得たトヤ家。
「神さんやから、2礼2拍手の1礼をしてからや」と伝えられて、頭を下げて手を合わせる。
赤い目、赤い舌の愛くるしい顔の蛇頭は餅藁で作った。
実に印象的なお顔である。
祭壇の一番上には桶に載せられた神さんがいる。
その形はまさに龍であるが、蛇穴では「蛇」と呼んでいる。
掛軸の姿は神社。
トヤの奥さんが云うには野口神社だと思うと話す。
その言葉通りの配置で描かれている本社や末社に鳥居である。
朝にお水と洗い米や塩を供えて毎日手を合わせていたトヤ家。
盗難や火事になってはならんから旅行もしなかった。
喧嘩はもってのほか、火が出ないようにガスの元栓は閉めたか、家の鍵を掛けたかなど、一年間は毎日が緊張の連続であったと話す。
野口神社の分霊神とされるご神体の龍を納める箱がある。
その箱には「明治十九年五月新彫 野口神社資祭霊蛇壱軀 崇敬者供有」と墨書されている。
まさにご神体であるが「新彫」の表記。
新しく彫られたのであろう。
明治19年(1886)以前に龍の神さんがあったのか、なかったのか。さてさて・・・。
蛇穴のトヤは6年に一度に回ってくる。
回ってくると言っても組単位である。
蛇穴には1組から12組まである。
6年に一度であるから二つの組単位での回りだ。
現在のトヤの組は9組と10組。
二つの組で相談し合って受けたトヤ家。
前回されたトヤ家だからと遠慮される家もあれば、家庭の事情で辞退される場合もある。
一年間も神さんを受けるのはたいへんなことだと話す。
今日、明日は一大行事。
所帯道具も別室に移動してシートを敷いた。
土足でも上がれるようにしているという。
一年間、トヤの家を守ってきた神さんは明朝に神社へ祀られる。
今夜は眠れそうにもないと話す。
自治会館前には旧家野口本家だという大きな家がある。
家の中には掘りがある。
外にあるのは本家が祀る地蔵さん。
彩色が僅かに残っている。
本家には嘉永七年(1854)『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。
それには野口行事の絵図があるらしい。
江戸時代に行われていた様相である。
複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。
元々は野口家を中心とする宮座行事であったと思われる野口行事。
トヤ家で祀るようになったのは本家が手放し(野口講の解散かもしれない)、村行事として継承されたのではないだろうか・・・。
トヤ家の役目は神さんを祀るだけでなく、野口神社を毎日のように清掃する。
1日、15日には供えるサカキも作りなおすという。
(H24. 5. 4 EOS40D撮影)
戦前までは野口講中と呼ばれる座で営まれていた。
戦後の昭和22年に村の行事に移されたそうだ。
大和郡山市の額田部に住むSさんは蛇穴で生まれ育った。
生家は野口神社のすぐ前にあったという。
家を新築された際に親族は、その生家を村に譲った。
その建物は村の自治会館として利用されている。
Sさんが額田部に嫁入りするまでは生家で暮らしていた当時。
その頃は、村の行事を行う前日にモチを搗いていたという。
「村の手伝いさんが大勢来てくれて手伝ってくれた。手伝いさんには食べてもらわなあかんから接待していた」と話す。
その日に訪れた蛇穴の地。
夕刻近くには、生家であった自治会館に男性たちが集まっている。
当番の垣内の人らが朝からモチを搗いていた。
蛇頭を作ってトヤ(頭屋)の家に奉ったばかりだという。
行事役員たちは同家で祝い唄の伊勢音頭を歌っていたそうだ。
蛇穴のトヤは野口神社の分霊とされる蛇を一年間祀る。
前年の5月5日にトヤを受けてから翌日の5日の朝まで祀っている。
床の間に掛軸を掲げて祭壇を設える。
お供えや一石搗いた紅白のゴクモチを供えて神事を行っていたという北口垣内のS家。
一石のゴクモチはコモチにすれば6万個にもなるという。
代表役員の紹介を経て撮影承諾を得たトヤ家。
「神さんやから、2礼2拍手の1礼をしてからや」と伝えられて、頭を下げて手を合わせる。
赤い目、赤い舌の愛くるしい顔の蛇頭は餅藁で作った。
実に印象的なお顔である。
祭壇の一番上には桶に載せられた神さんがいる。
その形はまさに龍であるが、蛇穴では「蛇」と呼んでいる。
掛軸の姿は神社。
トヤの奥さんが云うには野口神社だと思うと話す。
その言葉通りの配置で描かれている本社や末社に鳥居である。
朝にお水と洗い米や塩を供えて毎日手を合わせていたトヤ家。
盗難や火事になってはならんから旅行もしなかった。
喧嘩はもってのほか、火が出ないようにガスの元栓は閉めたか、家の鍵を掛けたかなど、一年間は毎日が緊張の連続であったと話す。
野口神社の分霊神とされるご神体の龍を納める箱がある。
その箱には「明治十九年五月新彫 野口神社資祭霊蛇壱軀 崇敬者供有」と墨書されている。
まさにご神体であるが「新彫」の表記。
新しく彫られたのであろう。
明治19年(1886)以前に龍の神さんがあったのか、なかったのか。さてさて・・・。
蛇穴のトヤは6年に一度に回ってくる。
回ってくると言っても組単位である。
蛇穴には1組から12組まである。
6年に一度であるから二つの組単位での回りだ。
現在のトヤの組は9組と10組。
二つの組で相談し合って受けたトヤ家。
前回されたトヤ家だからと遠慮される家もあれば、家庭の事情で辞退される場合もある。
一年間も神さんを受けるのはたいへんなことだと話す。
今日、明日は一大行事。
所帯道具も別室に移動してシートを敷いた。
土足でも上がれるようにしているという。
一年間、トヤの家を守ってきた神さんは明朝に神社へ祀られる。
今夜は眠れそうにもないと話す。
自治会館前には旧家野口本家だという大きな家がある。
家の中には掘りがある。
外にあるのは本家が祀る地蔵さん。
彩色が僅かに残っている。
本家には嘉永七年(1854)『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。
それには野口行事の絵図があるらしい。
江戸時代に行われていた様相である。
複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。
元々は野口家を中心とする宮座行事であったと思われる野口行事。
トヤ家で祀るようになったのは本家が手放し(野口講の解散かもしれない)、村行事として継承されたのではないだろうか・・・。
トヤ家の役目は神さんを祀るだけでなく、野口神社を毎日のように清掃する。
1日、15日には供えるサカキも作りなおすという。
(H24. 5. 4 EOS40D撮影)