マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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蛇穴の汁掛・蛇綱曳き祭

2012年07月13日 08時07分53秒 | 御所市へ
立夏のこの日は暑い日になった。

昨日の風は冷たく強く吹く日。

気温は20度に達しなかったが、この日は一挙に26度へ上昇した。

毎日が入れ替わる天候不順の日々だが行事に待ったはない。

御所市蛇穴で行われている野口行事。

蛇穴(さらぎ)の汁掛祭・蛇綱曳きの名称がある野口行事は「ノグチサン」、或いは「ノーグッツアン」と呼ばれることもある。

「ノグチサン」、若しくは「ノーグッツアン」とは不思議な名称だが、橿原市地黄町で行われる行事は「ノグッツアン」と呼ばれる。

「野口」が訛ったと思われる「ノグッツアン」は5月5日の朝。

まだ夜が明けない時間帯に野神の塚に参って帰り路に「ノーガミさん、おーくった。ジージもバーバも早よ起きよ」と囃しながら帰路につく子どもたちの行事だ。

桜井市の箸中で行われている野神行事も「ノグチサン」と呼ばれる。

同市の小綱町で行われている行事も「ノグチサン」だ。

なぜに「ノグチサン」と呼ぶのか判らないが、藁で作ったジャ(蛇)やムカデを野神さんに奉る。

ジャは水の神さんとされる蛇穴の蛇綱。

雨が降って川へと流れる。

貯えた池の水を田に張って田植えができる。

水の恵みは農耕にとって大切なこと。

奈良県内ではこうした蛇を祀る野神行事を「大和の野神行事」として無形民俗文化財に指定されている。

その一つにあたる蛇穴の汁掛祭・蛇綱曳き行事は毎年5月5日に行われている。

朝3時半ころに集まってくる青年団。

この日に行われる行事を村に知らせる太鼓打ち。

朝4時から出発して蛇穴の集落全域を巡っていく。

5時とか、5時半ころに聞こえてきたという人もいるから相当長い時間を掛けて振れ回るのだろう。



6時過ぎには青壮年会やトヤ(頭屋)家を手伝う隣組の人たちが自治会館に集まってくる。

今年の当番は9、10組の北口垣内の人たち。

接待するご馳走作りに心を尽くして料理される。

この日を楽しみにしていた子どもたちは7時前だというのにもうやって来た。

小学3、4年生の女児たちだ。

家で作ってきたオニギリをほうばっている。

女児の一人が話したカケダイに興味をもった。

おばあちゃんの家でしているというその地は「かもきみの湯」がある大字の五百家(いうか)であろうか。

正月の膳もしているという。

そんな話を提供してくれた子どもたちは朝から元気がいい。

法被を着た青年団の人たちと気易くしゃべりまくる。

役員たちは揃いの法被に豆絞りを受け取って自治会館にあがる。

そのころやってきた三人の男性。



座敷に座る区長や青壮年会、青年団らに向かって、お神酒を差し出し、口上を述べる。

「よろしくお願いします」と、前年5月5日の蛇曳きを終えてトヤ受けされた9、10組の北口垣内のトヤの代表挨拶(3人)である。

一日かけて行われる蛇穴の行事の始まりである。

口上を受けたあとはこの日の朝まで神さんを祀っていたトヤ家に向かう。

自治会館から200m北の北口垣内までは黙々と歩く役員たち。

「野口神社」の名がある高張提灯を掲げたトヤ家の直前になれば手拍子が始まった。

伊勢音頭である。

「枝も栄えてよーいと みなさん 葉も繁る~」に手拍子しながら「そりゃーよー どっこいせー よーいやな あれわいせ これわいせ こりゃーよーいんとせえー」と高らかに囃しながら座敷にあがる。

7時半までにトヤ家へ到着するよう進められたお渡りだ。

野口神社とされる掛軸を掲げて祭壇を設えたトヤ家。

昨日に納められた蛇頭や紅白のゴクモチがある。

土足で上がってもいいようにブルーのシートを敷いていたが靴は脱ぐ。

隣組の垣内の人たちに迎えられて座敷にあがった。

一同は揃って一年間祀ってきたトヤの神さんに向かって頭をさげる2礼2拍手の1礼。



今日のお祝いに一節と歌われる謙良節(けんりょうぶし)。

北海道松前、青森津軽の民謡を伊勢音頭風にアレンジして歌詞をつけたという区長が歌う。

「あーよーいなー めでた めでたいな (ヨイヨイ」 この宿座敷 (ヨーイセコーリャセ)・・・」。



酒を一杯飲みほして、トヤ家の御礼挨拶が述べられたあとは蛇を運び出す。

青年団が担ぐ太鼓を先頭に、桶に入れられたご神体の龍(当地ではジャと呼ぶ)を頭に上に掲げる団長、提灯、蛇担ぎの一行。



ドン、ドン、ドンドンドンの拍子に合わせてお渡りをする。

北口垣内から中垣内への集落内の道を通り抜けて旧家野口本家が建つ道をゆく。



ぐるりと回って野口神社に着くころには法被姿にポンポンを持つ子どもたちも合流した。

提灯は鳥居に括りつけて、龍のご神体は本殿前に置かれた。

トヤ家を一年間も守ってきた神さんは一年ぶりに納められたのだ。



拝殿内には蛇頭も置かれた。

そうしてからの3時間余りは蛇の胴作り。

櫓を組んだ場所に蛇頭を置いて長い胴を三つ編に結っていく。

長さは14mぐらいになるという共同作業である。



その間の自治会館ではご馳走作り。

作業を手伝ってくれた人たちに振舞うトヤ家のご馳走である。

煮もののタケノコにカラアゲやタマゴ焼き。

漬物もある。

オニギリの量は相当だ。

一個、一個のオニギリは手でおむすび。

黒ゴマを振りかけてできあがる。

ご馳走作りの諸道具(鍋、ゴミバコ、バケツ、コジュウタなど)は北口垣内やトヤ家の名が記されている。

汁掛祭に掛けられるワカメ汁は大釜で作られる。

蛇穴で生まれ育った85歳のSさんは23歳のころに大和郡山市の額田部に嫁入りした。

生家の母屋は村に譲った自治会館。

そこは村人が集まる会場になった。

子供のときは毎日のように神社の清掃をしていたという。

蛇穴はかつて秋津村と呼ばれていた。

昔も今も5月5日は「ジャ」と呼ぶ藁で作った蛇綱を曳いていた。

当時は子供が曳いていたという。

当時のトヤは垣内単位でなく、村全体で決めていた。

受ける家があればトヤになった。

嫁入り前に2回、嫁入り後も2回のトヤをしたという実家のN家。

行事の手伝いは垣内がしていたと話す。

ご馳走のタケノコは季節のもの。

たくさん積んで荷車で運んだ。

ドロイモもあったように思うという。

モチゴメもどっさり収穫してモチを搗いた。

トヤ家の竃は大忙しだった。

苗代ができたらモチツツジを添えてお盆に入れてキリコを供えたともいう生家の暮らし。

蛇頭は弟が作っていた。

年老いたが、生家が継いで今でも作っているという。

ワカメ汁は味噌汁仕立て。

タケノコともども味加減はほどよい。



融けてしまうからワカメを入れたら火を止める。

できたご馳走料理はそれぞれ運ばれる単位に盛られる。

丁度そのころが汁掛祭の始まる時間となる。

四方竹で囲われた神事の場に大鍋。

そこでできたてのワカメ汁が注がれる。

それを見届ける神職は鴨都波神社の宮司。

神社本殿前に集まった氏子たちとともに神事が行われる。

蛇曳く前に村内を巡行する蛇体をお祓いする。

そしておもむろに持ちあげた蛇体。



お神酒を注いでいく。

潤った赤い目、赤い口にたっぷりと注がれる。

そして神事の場はワカメ汁の大鍋に移る。

白紙をミズヒキで括った笹の葉を持つ宮司。



シャバシャバと大鍋に浸けて一気に引き上げる。

ワカメの汁はそれにつられて一本の線のように曳き上がる。

上空まで曳き上げば途切れるワカメ汁。

僅か2秒で行われる一瞬の作法だ。

汁掛祭の神事はこうして終えた。

その様相は県内各地で見られる邪気祓いの湯立て神事である御湯(みゆ)と同じように感じたのであるが、実は平成2年より形式を整えた神事である。

そのあとは直会。

トヤの接待する振る舞い食をたくさんよばれる。

社務所内では宮司や役員たち。



神社拝殿内でもよばれる。

先ほどまでに作られていたご馳走だ。



ワカメ汁をカップに注ぐ手伝いさんは忙しい。

食べる余裕もない。

蛇綱曳きが出発してようやく食事となる。

寄ってきた村人らにも食べてもらうトヤの接待食は大賑わい。

昨今はパックを持ってきた観光客がオニギリを詰めていくと話す。

「持ち帰る人が居ることも判っている。遠慮してほしいと思うのだが、マツリの日に騒動を起こしたくないから見て見ぬふりをしているのだ」という。

そうこうしている時間になれば音花火が打ち上がった。

出発時間の合図で蛇綱曳きの巡行が始まる。

ドン、ドンと打つ太鼓とピッピの笛の音に混じって「ワッショイ、ワッショイ」。

先頭を行くのは胴巻きにいただいたご祝儀を詰め込んだ青年団。

太鼓打ちも団員だ。

現在の青年団は3人。

少なくなってきたという。

後方から聞こえてくるピッピの笛の音。

それとともに囃したてる「ワッショイ、ワッショイ」は蛇綱曳きの子どもたち。

かつては子どもだけだったが大人も一緒に曳く。

胴体そのまま担ぐわけではなく蛇に取り付けられた「足」のような紐を持つ。

巡行は野口神社を出発したあとは北から東へぐるりと周回する。



その道筋は旧家野口本家を回って自治会館となる。

そのあとの行先は南口を一周。

太鼓、笛、掛け声が遠くから聞こえてくる。

一軒、一軒巡って太鼓打ちが祝儀を貰う。



ピピピピーにドドドドドの太鼓打ちが門屋を潜って玄関から家になだれ込む。

回転しながら連打で太鼓を打つ。

祝儀を手に入れればピッピの音とともに立ち去る。



そのあとに続く蛇綱曳きは門屋の前で、ヨーイショの掛け声とともに蛇を三度も上下に振り上げる。

「昔は二階まで土足で上がっていきよった。暴れたい放題の好き放題で壁まで穴が開いた」と話すK家の婦人たち。

南口、東口、垣内、北口、西垣内、中垣内の六垣内を巡行する。



およそ100軒の旧村があるという蛇穴の集落全域を巡るには3時間半もかかるから、何度かの休憩を挟みながら蛇綱を曳く。

トヤ受けをする11、12組のトヤ家も上がっていった太鼓打ち。

ピー、ピーの笛とともに三周する。

トヤ受けのN家では既に旧トヤから掛軸が回されていた。

祭壇を設えてお供えも調えている。

昔は蛇綱も家のカドにも入ってきたという。

カドは現在で言う家の内庭。

「カドボシ(干し)」をしていた場所だ。

米を採りいれて天日干し。

ハサガケをして米を乾燥させる場所を「カド」と呼ぶ。

当地ではないが、素麺業を営む家の天日干しをする作業をカドボシと呼んでいる。

太鼓はトヤ渡しの際に受けトヤに戻ってくる。

そのときに置かれる太鼓台。

それには「昭和拾四年四月三十日新調 野口神社社用」とある。

太鼓は神社の什物なのである。

蛇綱の原材料はモチゴメ。

垣内の田んぼで栽培する。

手伝いさんがイネコキもすると受けトヤがいう。

昔はトヤが村の人にワカメ汁を掛けていたと話す婦人。

「昭和の時代やった。かれこれ40年も前のこと。そのときは子どもだけで蛇綱を曳いていた」のは男の子だけだったという。

それだけ村には子どもが大勢いた時代のことだ。

本家には『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。

それには野口行事のあらましを描いた絵図があるそうだ。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

その中の一部に不可思議な光景がある。



桶に入った龍の神さんを頭の上にあげて練り歩く姿は当時の半纏姿。

紺色の生地に白抜きした「野口講中」の文字がある。

男たちは草鞋を履いている。

その前をゆく男は道具を担いでいる。

その道具は木槌のように思える。

同絵には場面が転じて家屋の前。

木槌を持つ男は、なんと壁を打ち抜いているのだ。

当時の家は土壁。

木の扉は閉まったままだ。

もろくも崩れて土壁がボロボロと落ちている。

打たれた部分は穴が開いた。

そこは竹の網目も見られる。

まるで打ち壊しのような様子が描かれている絵図。

壁に穴を開けるということは、どういうことなのだろうか・・・。

この日は快晴だったが、雨天の場合であっても決行する蛇綱曳き。

千切れた曳行の縄を持って帰る子どもたちが居る。

家を守るのだと話しながら持ち去っていった。

蛇頭を北に向けてはならないという特別な決まりがある蛇綱曳き。

北に向ければ大雨になるという言い伝えを守って綱を曳く。

それゆえ集落を行って戻っての前進後退を繰り返す。



蛇穴の家々を巡って邪気を祓った蛇は野口神社に戻ってきた。

太鼓打ちは何度も境内で打ち鳴らす。



青年団に混じって若者たちも交替して打ち鳴らす。

オーコを肩に載せたまま回転しながら打つ太鼓妙技に見入る蛇。



戻った蛇は蛇塚石に巻き付けて納められた。

蛇曳きの間はご神体の龍が本殿で待っていた。

蛇は龍の化身となって村全域を祓ってきたのである。

ありがたい村行事の蛇綱曳きだったのだ。

ご神体はすぐさま新頭屋となる受けトヤには向かわない。

村にご祝儀をいただいた会社関係にお礼としてご神体を見て貰う法人対応が含まれる村行事でもある。

そうして戻ってきたご神体を頭の上に掲げる旧トヤを先頭に受けトヤ家にやってきた。

西日が挿す時間帯の行列だ。

先に座敷へあがりこむ太鼓打ち。

何度も何度も回って連打で鳴らす。

受けトヤを祓い清める意味なのであろうか。

行列はご神体、提灯、宮司、青壮年会、青年団たちだ。

伊勢音頭を歌いながら座敷に入っていく。

青壮年団の人たちも太鼓を打つ。

左肩にオーコをかたげて右手で打つ太鼓は昔とった杵柄。

慣れたもので年老いても身体は柔らかい。



野口神社の分霊(わけみたま)神を祀った横に座った受けトヤ。



拝礼、祓えの儀、祝詞奏上など、厳かに神事が進められた。

こうしてトヤ渡しを終えた蛇穴の村行事。

区長や青壮年会代表がこの日の行事が無事に、また盛大に終えたことを述べられた。

滞りなく終えて受けることができた受けトヤも御礼を申しあげる。

目出度い唄の伊勢音頭を歌って締めくくる。

村の行事はそれで終わりではない。



最後にトヤの振る舞いゴクマキ。

群がる村人たちの楽しみだ。

こうして一日かけて行われた蛇穴の行事をようやく終えた。

(H24. 5. 5 EOS40D撮影)