3月初めのことだ。
たまたま見ていたBS放送は「にっぽん原風景紀行」を映し出していた。
この回の行先は大阪の能勢だった。
日本百選に選ばれている能勢の長谷の棚田を巡る役者は能勢の人形浄瑠璃の関係者を尋ねていく。
そこで得た浄瑠璃の見台。
それを製作した人を知りたくて一軒の家を訪れた。
もしかして・・・とこのときよぎった。
能勢で思い起こすのが元会社で勤めていた若者のことだ。
親父さんが家業でしていた「らんま作り」を継ぐんだ云って退職した。
送別会でそう云っていた。
まさか、と思い画面展開して役者が上がり込んだ「らんま製作所」の工房に居たのは・・・彼だった。
15年以上も会っていないが、変わらぬ顔がアップされた番組。
懐かしい、の一言である。
彼の声が聞いてみたくなり、「らんま店」をネットで調べた。
大阪の電話帳は手元にない。
仕方なくネットで調べた。
彼の名前は覚えている。
手掛かりはそれだけだ。
あれやこれやと調べてみれば、あった。
ピッポッパと番号を押す。
ベルが鳴るから存在しているのだろう。
しばらくすると受話器があがった。
その声はまぎれもない彼の声。
名を名乗っても思い出せないという。
15年も経過しているだけに、そりゃそうだろう。
しばらく元会社の話をするうちに思い出したようだ。
お互い年齢も15歳も加齢したが声は変わらなかったのだ。
その彼に「オツキヨウカ」のことを尋ねてみたが知らないという。
地区が異なれば知らないようだが神社でオンダ祭があるという。
子どもが参加したことから知っているオンダ祭。
能勢の民俗行事取材も兼ねて伺うことにした5月8日。
奈良から能勢までは遠い。
どの道を行けばいいのやら。
前日に電話して聞いた道筋を走らせる。
第二阪奈道路経由して阪神高速道路をまっしぐら。
北上すればそのまま能勢に出るという。
案内された通りに車を走らせる。
豊中、伊丹、川西から木部まで一直線。
そこから173ご号線をさらに北上する。
能勢電と並行する路線だ。
道なりに進めてトンネルを抜けるとそこが能勢だった。
おおさか府民牧場がある地区が平野。
長谷はさらに北だが彼の住まいは手前。
ペーパーマップを手がかりに着いた「大石らんま製作所」。
ゴルフに出かけた彼は不在だったが両親にお会いできた。
能勢の人形浄瑠璃はオヤジ(家元制度)で成り立っている。
オヤジになるためには弟子をとらなければならない。
オヤジの下にはオオゼキ。
その段階で弟子を設ける。
後継者育成の弟子制度。
その段階を経てオヤジになる。
オヤジさんにならなかった親父さんであったが息子の彼は人形浄瑠璃支援の黒衣隊。
この件も取材したいが奥が深いだけに後日に・・・。
らんま職人は息子に譲った親父さんだが、母親が手伝いをしている工房を拝見させていただいた。
欄間の発注はずいぶんと少なくなったという。
家屋の建築の在り方、材木重要がここ何年かで変化しているのだと話す。
そういった需要が少なくなったが有形文化財の修復依頼が増えているという。
だんじりや御輿などの飾り彫りものもその一つにある。
製作中の仕事を見せてもらった。
15歳から65歳で息子に譲るまでらんま製作をされてきた親父さん。
らんま職人時代の最盛期は大阪万博の頃。
ひっきりなしの注文があった。
手伝いさんもきてもらって製作していたそうだ。
昼まで製作していた製品は宅急便で送った。
らんまは杉の一枚板。
それが「大阪らんま」だと話す。
ケヤキは神輿、だんじり、太鼓の飾り彫刻だそうだ。
現在は五反の稲作を勤めている親父さん。
半年間の米作りで一家が生活できるほどの収穫を得るという。
早生のキヌヒカリ、ナカテはキヌムスメを耕作している大石家。
ボコボコと湧き出る能勢の水が美味しいお米と酒米を作ってくれると笑顔で語る。
湧き出る水は山腹を流れるミクサヤマ(三草山)の水脈からだ。
その水は棚田を構築して盛り土をする。
棚田は人工的に造られた石垣擁壁で、ところどころに水が流れ出る出口が見られる。
それは四角い石組だ。室町時代に構築されたようだ。
ミクサヤマは石英閃緑岩から成り立っている山。
その内部は隙間があるらしく、石組みの排水口を「ガマ」と呼んでいる。
つまり棚田を構築するにあたり、横穴式に暗渠した石組みの地下排水溝を、その上に盛土をして水田を造成した農業土木だ。
その築造年代は、文禄年代以前に遡るとされている。
およそ四百年前に築かれた「ガマと」呼ばれる農業用水の地下排水溝は300カ所も残っているそうだ。
ガマが分布する谷は、「山田の谷」、「宮の谷」、「中西」、「溝谷」、「土井谷」の五つ。
その一部が発掘調査された。
その際に出土した瓦器、土師器、白磁等の遺物によれば少なくとも室町時代の範囲であったとうとされるが、石垣積みの技術が戦国の織田・豊臣時代に石垣造りが広まったと解釈される説もある。
野面積み(のづらづみ)であったという調査結果から考えれば織田・豊臣時代の城郭造りと一致する時代。
野面積みで思い起こした有名な穴太(あのう)積みがある。
それはさておき野面積みは自然石を加工せずにそのまま積みあげる工法。
鎌倉時代から戦国時代にかけてだ。
奈良の郡山城にもその工法が見られる個所もある。
その石組み工法が畑作の生産技術に応用されたのではないだろうか。
「ガマ」は1591年の太閤検地帳に記されているとすれば、その点においても符合する。
確かなことはいえないが、農業土木の文化遺産には違いない。
「ガマ」は棚田の灌漑だけでなく、洪水調節機能も合わせもっている。
大雨の場合には「ガマ」に水を集めて素早く下に流し去る技術は、文化遺産とは言い難く、今でも村の豊作と安全を構築した先人たちの知恵と尽力があったおかげだということを忘れてはならない。
能勢の村では40年ほど前に耕運機が導入された。
それまでは「カラスキを用いて牛を追っていた。牛遣いがうまくできんときは、ウーと云って牛は横に行きよった」と話す。
この日は「オツキヨウカ」の日。
能勢の天道花(テントバナ)をされている家があると聞く。
その家を紹介すると案内されて伺った長谷の地。
H家のカド(門)に高く揚げられている。
この日は八阪神社で行われるオンダ祭がある。
それが始まるまでは時間は長い。
丁度昼どき時間。
能勢の焼き肉を食べに行こうとご両親のご厚意を受けた。
誘ってくださったお店は焼肉・ホルモンの「新橋亭」。
能勢中植牧場で育てた黒牛が味わえる直営店は地元だけでなく郊外からも多くの客がくる有名なお店だそうだ。
夜は貸し切り団体も入るようだ。
ときおりどころかしょっちゅう焼き肉を食べにくるという。
ありがたくいただいた昼食はご飯、汁物、香物、サラダ、小鉢がついた焼き肉ランチはボリュームたっぷりの能勢黒牛肉。
ジューシーで美味しい。
食後にはコーヒーかシャーベットを選べるサービスもある。
どれもこれもあまりの美味さに驚いてしまった。
この場をお借りしまして厚く御礼申しあげます。
ご両親の話によれば、能勢にもイノコがあるという。
11月の初めの頃。夕方から子どもたちが平野の集落を巡ってツチノコと呼ばれるワラ棒で庭先の地面を叩く。
その際には「いおとけ いおとけ」と外に出てもう一度叩く。
平野は30戸。
一軒、一軒回っていく。
イノコをすれば祝儀を貰えるからと元気よく叩く子どもたちは小学生から中学2年生まで。
およそ16人にもあるという。
平野のイノコは獅子が二人。
カラクサ模様の風呂敷に身を包んで舞うという。
平野からは遠く離れている能勢町の天王(てんのう)でもイノコがあるという。
そこでは「キツネオイ」と呼ぶ。
収穫した稲藁でツチノコを作るようだ。
(H24. 5. 8 EOS40D撮影)
たまたま見ていたBS放送は「にっぽん原風景紀行」を映し出していた。
この回の行先は大阪の能勢だった。
日本百選に選ばれている能勢の長谷の棚田を巡る役者は能勢の人形浄瑠璃の関係者を尋ねていく。
そこで得た浄瑠璃の見台。
それを製作した人を知りたくて一軒の家を訪れた。
もしかして・・・とこのときよぎった。
能勢で思い起こすのが元会社で勤めていた若者のことだ。
親父さんが家業でしていた「らんま作り」を継ぐんだ云って退職した。
送別会でそう云っていた。
まさか、と思い画面展開して役者が上がり込んだ「らんま製作所」の工房に居たのは・・・彼だった。
15年以上も会っていないが、変わらぬ顔がアップされた番組。
懐かしい、の一言である。
彼の声が聞いてみたくなり、「らんま店」をネットで調べた。
大阪の電話帳は手元にない。
仕方なくネットで調べた。
彼の名前は覚えている。
手掛かりはそれだけだ。
あれやこれやと調べてみれば、あった。
ピッポッパと番号を押す。
ベルが鳴るから存在しているのだろう。
しばらくすると受話器があがった。
その声はまぎれもない彼の声。
名を名乗っても思い出せないという。
15年も経過しているだけに、そりゃそうだろう。
しばらく元会社の話をするうちに思い出したようだ。
お互い年齢も15歳も加齢したが声は変わらなかったのだ。
その彼に「オツキヨウカ」のことを尋ねてみたが知らないという。
地区が異なれば知らないようだが神社でオンダ祭があるという。
子どもが参加したことから知っているオンダ祭。
能勢の民俗行事取材も兼ねて伺うことにした5月8日。
奈良から能勢までは遠い。
どの道を行けばいいのやら。
前日に電話して聞いた道筋を走らせる。
第二阪奈道路経由して阪神高速道路をまっしぐら。
北上すればそのまま能勢に出るという。
案内された通りに車を走らせる。
豊中、伊丹、川西から木部まで一直線。
そこから173ご号線をさらに北上する。
能勢電と並行する路線だ。
道なりに進めてトンネルを抜けるとそこが能勢だった。
おおさか府民牧場がある地区が平野。
長谷はさらに北だが彼の住まいは手前。
ペーパーマップを手がかりに着いた「大石らんま製作所」。
ゴルフに出かけた彼は不在だったが両親にお会いできた。
能勢の人形浄瑠璃はオヤジ(家元制度)で成り立っている。
オヤジになるためには弟子をとらなければならない。
オヤジの下にはオオゼキ。
その段階で弟子を設ける。
後継者育成の弟子制度。
その段階を経てオヤジになる。
オヤジさんにならなかった親父さんであったが息子の彼は人形浄瑠璃支援の黒衣隊。
この件も取材したいが奥が深いだけに後日に・・・。
らんま職人は息子に譲った親父さんだが、母親が手伝いをしている工房を拝見させていただいた。
欄間の発注はずいぶんと少なくなったという。
家屋の建築の在り方、材木重要がここ何年かで変化しているのだと話す。
そういった需要が少なくなったが有形文化財の修復依頼が増えているという。
だんじりや御輿などの飾り彫りものもその一つにある。
製作中の仕事を見せてもらった。
15歳から65歳で息子に譲るまでらんま製作をされてきた親父さん。
らんま職人時代の最盛期は大阪万博の頃。
ひっきりなしの注文があった。
手伝いさんもきてもらって製作していたそうだ。
昼まで製作していた製品は宅急便で送った。
らんまは杉の一枚板。
それが「大阪らんま」だと話す。
ケヤキは神輿、だんじり、太鼓の飾り彫刻だそうだ。
現在は五反の稲作を勤めている親父さん。
半年間の米作りで一家が生活できるほどの収穫を得るという。
早生のキヌヒカリ、ナカテはキヌムスメを耕作している大石家。
ボコボコと湧き出る能勢の水が美味しいお米と酒米を作ってくれると笑顔で語る。
湧き出る水は山腹を流れるミクサヤマ(三草山)の水脈からだ。
その水は棚田を構築して盛り土をする。
棚田は人工的に造られた石垣擁壁で、ところどころに水が流れ出る出口が見られる。
それは四角い石組だ。室町時代に構築されたようだ。
ミクサヤマは石英閃緑岩から成り立っている山。
その内部は隙間があるらしく、石組みの排水口を「ガマ」と呼んでいる。
つまり棚田を構築するにあたり、横穴式に暗渠した石組みの地下排水溝を、その上に盛土をして水田を造成した農業土木だ。
その築造年代は、文禄年代以前に遡るとされている。
およそ四百年前に築かれた「ガマと」呼ばれる農業用水の地下排水溝は300カ所も残っているそうだ。
ガマが分布する谷は、「山田の谷」、「宮の谷」、「中西」、「溝谷」、「土井谷」の五つ。
その一部が発掘調査された。
その際に出土した瓦器、土師器、白磁等の遺物によれば少なくとも室町時代の範囲であったとうとされるが、石垣積みの技術が戦国の織田・豊臣時代に石垣造りが広まったと解釈される説もある。
野面積み(のづらづみ)であったという調査結果から考えれば織田・豊臣時代の城郭造りと一致する時代。
野面積みで思い起こした有名な穴太(あのう)積みがある。
それはさておき野面積みは自然石を加工せずにそのまま積みあげる工法。
鎌倉時代から戦国時代にかけてだ。
奈良の郡山城にもその工法が見られる個所もある。
その石組み工法が畑作の生産技術に応用されたのではないだろうか。
「ガマ」は1591年の太閤検地帳に記されているとすれば、その点においても符合する。
確かなことはいえないが、農業土木の文化遺産には違いない。
「ガマ」は棚田の灌漑だけでなく、洪水調節機能も合わせもっている。
大雨の場合には「ガマ」に水を集めて素早く下に流し去る技術は、文化遺産とは言い難く、今でも村の豊作と安全を構築した先人たちの知恵と尽力があったおかげだということを忘れてはならない。
能勢の村では40年ほど前に耕運機が導入された。
それまでは「カラスキを用いて牛を追っていた。牛遣いがうまくできんときは、ウーと云って牛は横に行きよった」と話す。
この日は「オツキヨウカ」の日。
能勢の天道花(テントバナ)をされている家があると聞く。
その家を紹介すると案内されて伺った長谷の地。
H家のカド(門)に高く揚げられている。
この日は八阪神社で行われるオンダ祭がある。
それが始まるまでは時間は長い。
丁度昼どき時間。
能勢の焼き肉を食べに行こうとご両親のご厚意を受けた。
誘ってくださったお店は焼肉・ホルモンの「新橋亭」。
能勢中植牧場で育てた黒牛が味わえる直営店は地元だけでなく郊外からも多くの客がくる有名なお店だそうだ。
夜は貸し切り団体も入るようだ。
ときおりどころかしょっちゅう焼き肉を食べにくるという。
ありがたくいただいた昼食はご飯、汁物、香物、サラダ、小鉢がついた焼き肉ランチはボリュームたっぷりの能勢黒牛肉。
ジューシーで美味しい。
食後にはコーヒーかシャーベットを選べるサービスもある。
どれもこれもあまりの美味さに驚いてしまった。
この場をお借りしまして厚く御礼申しあげます。
ご両親の話によれば、能勢にもイノコがあるという。
11月の初めの頃。夕方から子どもたちが平野の集落を巡ってツチノコと呼ばれるワラ棒で庭先の地面を叩く。
その際には「いおとけ いおとけ」と外に出てもう一度叩く。
平野は30戸。
一軒、一軒回っていく。
イノコをすれば祝儀を貰えるからと元気よく叩く子どもたちは小学生から中学2年生まで。
およそ16人にもあるという。
平野のイノコは獅子が二人。
カラクサ模様の風呂敷に身を包んで舞うという。
平野からは遠く離れている能勢町の天王(てんのう)でもイノコがあるという。
そこでは「キツネオイ」と呼ぶ。
収穫した稲藁でツチノコを作るようだ。
(H24. 5. 8 EOS40D撮影)