「奉供養庚申 ○○○○ 八月二十六日」の銘が見られる庚申石塔。
年代が現認できなかった天理市下山田の庚申塔は祠の中に納められている。
傍らには前回に参られた杉の木の塔婆や竹の花立てが寄せられている。
年月が経過し朽ちてはいるが、「奉高顕供養者 青面金剛 庚申講中 五穀成就 家内安全祈攸」の文字が判読できる塔婆。
五つの梵字なども墨書されている。
下山田には五つの庚申講中があるという。清水、東村、広出垣内における5講中である。
5月の中旬の日曜日に「うる庚申」が行われると聞いてやってきた。
旧暦暦には閏月があり、それを新暦に充てれば今年は4月21日から5月20日まで。
その間であれば何時でも構わないと云う下山田の「うる庚申」。
相談の上に決めた日程で三つの垣内が揃って庚申塚に参る。
講中はかつて9組あったそうだが、前回は6組だった。
その名残の塔婆は庚申石塔の傍らにあったのだ。
この年は5組の講中。
世代交代等、年々解散する講中が増えていると話す。
それぞれのヤドで作った葉付きの杉の木の塔婆と竹で作った花立てを薬師寺に持参する5組の講中。
持ち寄った塔婆に一つずつ中山田の蔵輪寺の住職が、梵字、願文を墨書されるトーバツキをする。
トーバツキとは塔婆に願文文字を書いてもらうことである。
五つの塔婆はすべてにおいて同文の祈願文だ。
それなりの長さと幅が要る。
ある講中は削り取った部分が短かった、それでは書き込めないと削る長さを改められた。
ちなみに薬師寺の本尊には竹の花立てが置かれてあった。
そこにはコウヤマキが添えられている。
高野山に参ったときに買ってきたコウヤマキ。
それが育って使われることになったという行事は4月に営まれた「お大師さん」だ。
本来は21日であるが、その日に近い日曜日に行われるお大師さんは左端の石仏に向かって般若心経を唱えたという。
右側には木の棒とお札がある。
正月初めに行われた薬師寺のオコナイ。
版木で摺ったごーさんのお札だ。
木はウルシの棒。
先を三つに割ってお札を挿している。
そうこうしているうちに五つ講中のトーバツキを終えた。
杉の木の塔婆や竹の花立てを持って庚申石塔に参られる。
行列の順は特に決められたものではなく、それぞれの講中が列をなして歩いていく。
畑を抜けて坂道を登る。
その辺りには子どもたちが居る。
法要を終えたときに配られるゴクサンが目当てなのだ。
そのゴクサンは重箱に詰められて風呂敷に包んだ。
それぞれの講中のゴクサンだ。
講中のヤドの家が搗いたモチはそれぞれ三升と決まっている。
庚申石塔の前に並べられた。
石塔は屋形に納められている。
その屋根に立て掛ける花立て。
塔婆はそこに置くことなく後方の樹木にもたれ掛けさせた。
そうして始まったうる庚申講の法要。
蔵輪寺の住職が祈祷される。
回りを囲む講中たちは30人ほど。
静かに読経を見守る。
およそ15分の法要を終えれば供えたモチの重箱を抱えた。
一列に並んで子どもたちを呼んでゴクサン配り。
一人につき一個ずつ手渡される。
子守のおばあちゃんがおればもう一つ渡されるというが、この日の子どもは5人。
かつては子供が多くて順番待ちの行列ができたというが、少子化でしょうか、あっという間に終わってしまった。
ゴクサン配りを終えた講中はそれぞれのヤドに戻っていく。
東村にある一つのヤドでは古い掛軸があるという。
拝見の了承を受けてヤドにあがった。
ヤドの家の床の間には青面金剛童子の庚申さんが掲げられていた。
それには「和州小泉庚申堂」の文字がある。
以前に掲げていた掛軸は傷みが激しく掛けるに耐えられない状況になった。
そういうことから新しく買った掛軸は、昭和十四年一月二十四日の初庚申に大和郡山市の小泉金輪院で購入したそうだ。
その掛軸も拝見したが、期日は記されていなかった。
(H24. 5.13 EOS40D撮影)
年代が現認できなかった天理市下山田の庚申塔は祠の中に納められている。
傍らには前回に参られた杉の木の塔婆や竹の花立てが寄せられている。
年月が経過し朽ちてはいるが、「奉高顕供養者 青面金剛 庚申講中 五穀成就 家内安全祈攸」の文字が判読できる塔婆。
五つの梵字なども墨書されている。
下山田には五つの庚申講中があるという。清水、東村、広出垣内における5講中である。
5月の中旬の日曜日に「うる庚申」が行われると聞いてやってきた。
旧暦暦には閏月があり、それを新暦に充てれば今年は4月21日から5月20日まで。
その間であれば何時でも構わないと云う下山田の「うる庚申」。
相談の上に決めた日程で三つの垣内が揃って庚申塚に参る。
講中はかつて9組あったそうだが、前回は6組だった。
その名残の塔婆は庚申石塔の傍らにあったのだ。
この年は5組の講中。
世代交代等、年々解散する講中が増えていると話す。
それぞれのヤドで作った葉付きの杉の木の塔婆と竹で作った花立てを薬師寺に持参する5組の講中。
持ち寄った塔婆に一つずつ中山田の蔵輪寺の住職が、梵字、願文を墨書されるトーバツキをする。
トーバツキとは塔婆に願文文字を書いてもらうことである。
五つの塔婆はすべてにおいて同文の祈願文だ。
それなりの長さと幅が要る。
ある講中は削り取った部分が短かった、それでは書き込めないと削る長さを改められた。
ちなみに薬師寺の本尊には竹の花立てが置かれてあった。
そこにはコウヤマキが添えられている。
高野山に参ったときに買ってきたコウヤマキ。
それが育って使われることになったという行事は4月に営まれた「お大師さん」だ。
本来は21日であるが、その日に近い日曜日に行われるお大師さんは左端の石仏に向かって般若心経を唱えたという。
右側には木の棒とお札がある。
正月初めに行われた薬師寺のオコナイ。
版木で摺ったごーさんのお札だ。
木はウルシの棒。
先を三つに割ってお札を挿している。
そうこうしているうちに五つ講中のトーバツキを終えた。
杉の木の塔婆や竹の花立てを持って庚申石塔に参られる。
行列の順は特に決められたものではなく、それぞれの講中が列をなして歩いていく。
畑を抜けて坂道を登る。
その辺りには子どもたちが居る。
法要を終えたときに配られるゴクサンが目当てなのだ。
そのゴクサンは重箱に詰められて風呂敷に包んだ。
それぞれの講中のゴクサンだ。
講中のヤドの家が搗いたモチはそれぞれ三升と決まっている。
庚申石塔の前に並べられた。
石塔は屋形に納められている。
その屋根に立て掛ける花立て。
塔婆はそこに置くことなく後方の樹木にもたれ掛けさせた。
そうして始まったうる庚申講の法要。
蔵輪寺の住職が祈祷される。
回りを囲む講中たちは30人ほど。
静かに読経を見守る。
およそ15分の法要を終えれば供えたモチの重箱を抱えた。
一列に並んで子どもたちを呼んでゴクサン配り。
一人につき一個ずつ手渡される。
子守のおばあちゃんがおればもう一つ渡されるというが、この日の子どもは5人。
かつては子供が多くて順番待ちの行列ができたというが、少子化でしょうか、あっという間に終わってしまった。
ゴクサン配りを終えた講中はそれぞれのヤドに戻っていく。
東村にある一つのヤドでは古い掛軸があるという。
拝見の了承を受けてヤドにあがった。
ヤドの家の床の間には青面金剛童子の庚申さんが掲げられていた。
それには「和州小泉庚申堂」の文字がある。
以前に掲げていた掛軸は傷みが激しく掛けるに耐えられない状況になった。
そういうことから新しく買った掛軸は、昭和十四年一月二十四日の初庚申に大和郡山市の小泉金輪院で購入したそうだ。
その掛軸も拝見したが、期日は記されていなかった。
(H24. 5.13 EOS40D撮影)