「奉 造立庚申講供養」の名を刻んだ石造物に元禄七年(1694)五月二十三日の日付けが見られる。
それは天理市苣原の須賀神社の横にある。
傍らには石造物が立ち並ぶが判読はできない。
かつては薬師堂があったとされ地で五輪塔など名残の石造物が残されている。
その西側にある地を堂西と呼ぶ。
お堂の西にあるから堂西。
「ドウニシ」が訛って「ドノシ」と呼んでいるのはSさんとKさん。
小字が「ドノシ」なのであろう。
この日は旧暦閏年の庚申講のトアゲが行われる。
苣原の庚申講は北脇、中山脇、西脇、東脇、谷脇(2組)の6組。
朝8時、当番にあたるそれぞれのヤドで竹の花立てや杉の木を削った塔婆を作る。
作り終えれば須賀神社横の庚申塔に参る。
それぞれの講中ごとに参られるので一斉には揃わない。
めいめいが参ったあとは村の講中が揃うまで待つ。
それからバスに乗って出かける。
その先はといえばまちまちだ。
そんな話を聞いていたが、それぞれのヤドの住まいは伺っていなかった。
軽トラックでホウレンソウを出荷する東脇の男性。
「うちの組は10時ころから作り始める」という。
「あっちの組は昨日に採っておいた杉の木を庭に置いてある」というから尋ねていった。
それを見とどけて神社に向かおうとしたときだ。
「これから作る」という声に誘われて付いていった。
その講中は谷脇の4軒。
ケイチンや念仏講、大般若経の虫干し、念仏講の数珠繰り、十夜の法要などをお勤めしている本堂がある大念寺のすぐ傍だ。
竹を割って花立てを作りかけた。
長さ4mほどもある杉の木の塔婆は葉がある。
その木を削って庚申講の願文を書く。
願文はその講中で引き継ぎされてきた文書に記されている。
五つの梵字は読めないが奉文は明確だ。
「奉供養大青面金剛五穀成就講中家内安全攸祈 宿主 氏名 敬白」とある見本文。
それは昭和参年閏二月十五日建之から書き残されている『庚申講規定並塔上明細帳』にある。
「昭和参年改」とあるからそれ以前から行われているのは明白だ。
その年の閏庚申は二月十五日で新は四月五日とあった塔上げ入費。
西暦1928年の昭和3年は閏月が二月だった。
二月が二回あるのだ。
新暦4月5日は旧暦の閏二月(二回目の月)の十五日だ。
何故にその日を選んだのかは判らない。
その次の年は昭和5年。
閏月は六月だが、新暦の4月24日にあたる旧暦閏月の三月二十六日に行われている。
稀であろうか、昭和51年は6月6日。
それ以外は3月、4月の春の頃だった。
平成7年、10年、13年、16年、18年はいずれも4月29日とあるから、その頃から苣原の旧暦閏年の庚申講トアゲは毎年の日程が固定されたようだ。
塔婆作りを始めた講中が言うにはこの近くのヤドでも同じようにしていると話す。
「うちがまだ作っているときに通っていくんだ」と話す講中。
毎回遅れてしまうと話す。
もう一つのヤドの家を探し求めて付近を歩いてみた。
その家では既に作った花立てが置かれてあった。
家ではヤドのもてなしでお茶をいただいている。
そろそろ始めようかと塔婆作り。
木肌を鉈で削っていく。
こちらの講中は北脇の6軒。
講中の文書が残されており、記されている願文通りに書かれる。
梵字もあるが、その横に記されている文字は「佉 伽 羅 婆 阿」である。
翌月に天理市中山田の蔵輪寺住職に教えてもらった梵字は「キャ カ ラ バ ア」と詠み、「地 水 火 風 空」を意味すると話す。
願文は「奉供養 造大(下部に一文字)南無青面金剛童子 天下泰平五穀成就 万民豊楽講中家内安全 延命諸願満足祈祷」だ。
さきほどの講中と願文は異なる。
日付けや宿主の氏名も書かれる。
この講中の文書は明治三十四年 宿○○ 三月二日か?から継承してきた宿の覚書。
ヤドで振舞われた食材が書かれている。
その年は菓子、ザコ、ゑい、シイタケ、ユバ、コウヤ、酢、トウフ、アゲ、キラズ・・・。
明治36年うる5月は餅米、うる(粳)、あづき(小豆)、まめ(豆)、醤油・・・。
明治39年うる4月は餅米、うる(粳)、あづき(小豆)、まめ(豆)、醤油・・・。
明治40年うる2月は砂糖、菓子、あげ、ドやホ(ジャコ)、ゆば、酢、酒・・・。
明治44年うる拾弐月は砂糖、菓子、阿げ、豆腐、じゃホ(じゃこ)、ぶし、酒、餅米、うるち米、大豆、小豆。
大正3年5月の砂糖、菓子、あげ、とうふ、じゃホ(こ)、生ぶし、酒、たけのホ(こ)、高や、ゆば、こんにゃく、餅米、白米、大豆、醤油、野菜。
大正6年3月は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、とうふ、ざホ(ジャコ)、酒、酢、高や、うるめ、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
大正8年9月は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、豆腐、雑魚、酒、高野、ゆば、さば、酢、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
大正11年5月閏(新暦4月30日)は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、豆腐、雑魚、酒、高野、ゆば、鯖、酢、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
大正14年4月閏(新暦4月25日)は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、豆腐、雑魚、酒、生ぶし・・餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
昭和3年2月閏(新暦4月5日)は砂糖、菓子、あげ、こんにゃく、豆腐、雑魚、さし雑魚、ゆば、清酒、生ぶし、酢、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
ここで先ほどの講中の日程と一致したのである。
その後の昭和5年6月閏(新暦4月24日)、昭和8年育閏(新暦5月17日)、昭和11年3月閏(新暦4月26日)、昭和13年7月閏(新暦4月10日)、昭和16年7月閏(新暦4月27日)、昭和22年2月閏(新暦3月27日)まではほぼ変わらない献立だったが、昭和59年の4月29日では大きな変化が見られる。
マグロ、たこ、紋交いか、かますご、えび、みがきにしん、すし、砂糖、高野トーフ、きうり、茄(なすび)、南瓜、焼豚、ウインナ、菓子、キャラメル、豆腐、す揚、厚揚、こんにゃく、清酒、ビール、酢である。
その後の記帳はなく平成10年は4月29日に飛んでいた。
献立はパック詰め料理や寿司盛りに移り替っていた。
なお、前述した昭和38年3月31付けの谷脇文書塔上入費によれば、みそ汁、ひらき、いた、いか、御供用菓子、砂糖、清酒、天ぷら油、キャベツ、りんご、まかろに、マヨネーズ、キウリ、うすあげ、味ノ素とある。
昭和49年4月7日付けでは春雨、しいたけ、キャベツ、菓子、清酒・・・。
昭和51年6月6日は折が20個で魚切り身は20切。
講中によっては時期が前後するが、こうした食材を年代別に並べてみればその変遷が見えてくる。
二つの講中の宿帳に欠損がみられるのは、実際に実施されなかったかも知れないが、昭和の年代の後半ころから新暦の4月29日に固定されたと思われる。
その頃から変革された講中の献立。
いつしかヤドで会食をすることなく料理屋に出かけることになったのであろう。
貴重な両講中の宿帳を拝見させていただき、この場を借りて厚く御礼申しあげる次第だ。
明治三十四年から綴られていた宿帳を拝見した講中はヤドに掛軸を掲げている。
お供えはモチ。
寄り合うのはこの日だけだという。
先ほどまではご飯、モチ、ゴマシオのアズキメシも供えていたと話すK婦人。
60日に一度の庚申講の日は掛軸を回すだけだという。
かつて念仏寺が苣原の庚申講の始まりだったという。
堂寺什物文書に謂れが書いてある文書が見つかったそうだ。
それによればおばあちゃん講がしていたとあるらしい。
どのような意向があったのか定かでないが、五つの垣内の組単位でするようにしたようだ。
出来あがった塔婆、花立て、御供、お神酒などを持って須賀神社に向かう講中。
最初に拝見していた谷脇講中はまだ作業中だった。
接近遭遇する作業場を通り抜けて畑道の近回り。
9時20分、「うちが一番乗りや」と言って庚申塚後方に立て掛ける。
その講中が話すには西脇が塔婆を作っているころだという。
その講中は須賀神社からすぐ近く。
ヤドでは既に塔婆も花立てもできあがった直後だった。
西脇は5軒。
かつては2組の講中があったそうだ。
現在は一つの組になったが解散されたドノシの講中の掛軸とともにヤドに掲げている。
供える御膳は一つ。
ご飯の椀にサトイモ、アスパラガス、ニンジンの煮もの椀、豆の椀、ワカメとカマボコの吸い物椀と香ものの五つの椀だ。
当講中には文書はない。
記録は掛軸を仕舞っている箱の蓋に書いてあるという。
「大正九年八月弐拾弐日 箱寄附者 ○○○○」と記されている。
Kさんのおじいさんにあたるそうだ。
西脇の塔婆願文はその蓋に書かれてある見本通りに書かれる。
「奉供養 造立南無青面金剛童子 祈祷天下泰平五穀成就 万民豊楽講中家内安全諸願満足 宿 ○○○○」である。
そこには宿の当主名も書かれる。
揃ったところで出発する講中も出来あがった塔婆、花立て、御供、お神酒などを持って須賀神社に向かう。
須賀神社が存在する地は薬師堂があったとされる。
到着したときには塔婆や花立ての数が増えていた。
中山脇や谷脇も到着していたのであった。
このように苣原では一斉に揃うのではなく、まちまちの時間にやってくるのだ。
それを拝見する西脇の講中。
ちなみに両講中の願文は次の通りであった。
一つは「奉供養 大青面金剛講中 安全五穀成就祈 敬白 時テ 平成二十四年四月二十九日建之 講中宿○○○○」。
もう一つは「奉供養 大青面金剛五穀成就講中家内安全攸祈 ○○○○ 敬白」である。
参ったあとはめいめいの講中はその場で待機する。
そうこうしているうちに同じように東脇もやってきた。
予定より早くできあがった花立て、塔婆などを立てる。
「奉供養 造立南無青面金剛童子 天下泰五穀成就 万民豊楽講中家内安全 天堂延命諸願満足祈祷 平成二十四年四月二十九日 講中宿 ○○○○敬白」である。
苣原は谷脇にもう一つの組がある。
村の講中全員が集まるのは待ってられないと一同揃っての記念撮影会。
赤ちゃん、幼児も入れて47人も勢ぞろい。
解散された庚申塔の前はひっそりと佇む。
それからおよそ5分後。
ようやく到着したもう一つの谷脇講中。
「奉供養 大青面金剛 五穀成就講中安全祈修 平成二十四年四月二十九日 宿主○○○○」の願文を寄せて手を合わせる。
これで6組の塔婆が全て揃った。
庚申トアゲを終えた講中はそれぞれが思い思いのヤドに出かける。
昭和後半から平成にかけて集まっていたヤドでの会食は施設利用になった。
谷脇や中山脇、北脇は福住の福祉センターへ向かう。
一台の迎えの車に同乗して出かけるが部屋はそれぞれだ。
東脇は伊賀上野のかんぽの宿。
私も家族で泊ったところだ。
もう一つの谷脇は多武峰のホテル。
毎年、談山神社の蹴鞠行事を見ているという。
それぞれの講中は出かけていった。
西脇はどうなのかと言えば、今でも講宿の家。
掛軸2幅を掲げた家で会食をされる。
(H24. 4.29 EOS40D撮影)
それは天理市苣原の須賀神社の横にある。
傍らには石造物が立ち並ぶが判読はできない。
かつては薬師堂があったとされ地で五輪塔など名残の石造物が残されている。
その西側にある地を堂西と呼ぶ。
お堂の西にあるから堂西。
「ドウニシ」が訛って「ドノシ」と呼んでいるのはSさんとKさん。
小字が「ドノシ」なのであろう。
この日は旧暦閏年の庚申講のトアゲが行われる。
苣原の庚申講は北脇、中山脇、西脇、東脇、谷脇(2組)の6組。
朝8時、当番にあたるそれぞれのヤドで竹の花立てや杉の木を削った塔婆を作る。
作り終えれば須賀神社横の庚申塔に参る。
それぞれの講中ごとに参られるので一斉には揃わない。
めいめいが参ったあとは村の講中が揃うまで待つ。
それからバスに乗って出かける。
その先はといえばまちまちだ。
そんな話を聞いていたが、それぞれのヤドの住まいは伺っていなかった。
軽トラックでホウレンソウを出荷する東脇の男性。
「うちの組は10時ころから作り始める」という。
「あっちの組は昨日に採っておいた杉の木を庭に置いてある」というから尋ねていった。
それを見とどけて神社に向かおうとしたときだ。
「これから作る」という声に誘われて付いていった。
その講中は谷脇の4軒。
ケイチンや念仏講、大般若経の虫干し、念仏講の数珠繰り、十夜の法要などをお勤めしている本堂がある大念寺のすぐ傍だ。
竹を割って花立てを作りかけた。
長さ4mほどもある杉の木の塔婆は葉がある。
その木を削って庚申講の願文を書く。
願文はその講中で引き継ぎされてきた文書に記されている。
五つの梵字は読めないが奉文は明確だ。
「奉供養大青面金剛五穀成就講中家内安全攸祈 宿主 氏名 敬白」とある見本文。
それは昭和参年閏二月十五日建之から書き残されている『庚申講規定並塔上明細帳』にある。
「昭和参年改」とあるからそれ以前から行われているのは明白だ。
その年の閏庚申は二月十五日で新は四月五日とあった塔上げ入費。
西暦1928年の昭和3年は閏月が二月だった。
二月が二回あるのだ。
新暦4月5日は旧暦の閏二月(二回目の月)の十五日だ。
何故にその日を選んだのかは判らない。
その次の年は昭和5年。
閏月は六月だが、新暦の4月24日にあたる旧暦閏月の三月二十六日に行われている。
稀であろうか、昭和51年は6月6日。
それ以外は3月、4月の春の頃だった。
平成7年、10年、13年、16年、18年はいずれも4月29日とあるから、その頃から苣原の旧暦閏年の庚申講トアゲは毎年の日程が固定されたようだ。
塔婆作りを始めた講中が言うにはこの近くのヤドでも同じようにしていると話す。
「うちがまだ作っているときに通っていくんだ」と話す講中。
毎回遅れてしまうと話す。
もう一つのヤドの家を探し求めて付近を歩いてみた。
その家では既に作った花立てが置かれてあった。
家ではヤドのもてなしでお茶をいただいている。
そろそろ始めようかと塔婆作り。
木肌を鉈で削っていく。
こちらの講中は北脇の6軒。
講中の文書が残されており、記されている願文通りに書かれる。
梵字もあるが、その横に記されている文字は「佉 伽 羅 婆 阿」である。
翌月に天理市中山田の蔵輪寺住職に教えてもらった梵字は「キャ カ ラ バ ア」と詠み、「地 水 火 風 空」を意味すると話す。
願文は「奉供養 造大(下部に一文字)南無青面金剛童子 天下泰平五穀成就 万民豊楽講中家内安全 延命諸願満足祈祷」だ。
さきほどの講中と願文は異なる。
日付けや宿主の氏名も書かれる。
この講中の文書は明治三十四年 宿○○ 三月二日か?から継承してきた宿の覚書。
ヤドで振舞われた食材が書かれている。
その年は菓子、ザコ、ゑい、シイタケ、ユバ、コウヤ、酢、トウフ、アゲ、キラズ・・・。
明治36年うる5月は餅米、うる(粳)、あづき(小豆)、まめ(豆)、醤油・・・。
明治39年うる4月は餅米、うる(粳)、あづき(小豆)、まめ(豆)、醤油・・・。
明治40年うる2月は砂糖、菓子、あげ、ドやホ(ジャコ)、ゆば、酢、酒・・・。
明治44年うる拾弐月は砂糖、菓子、阿げ、豆腐、じゃホ(じゃこ)、ぶし、酒、餅米、うるち米、大豆、小豆。
大正3年5月の砂糖、菓子、あげ、とうふ、じゃホ(こ)、生ぶし、酒、たけのホ(こ)、高や、ゆば、こんにゃく、餅米、白米、大豆、醤油、野菜。
大正6年3月は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、とうふ、ざホ(ジャコ)、酒、酢、高や、うるめ、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
大正8年9月は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、豆腐、雑魚、酒、高野、ゆば、さば、酢、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
大正11年5月閏(新暦4月30日)は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、豆腐、雑魚、酒、高野、ゆば、鯖、酢、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
大正14年4月閏(新暦4月25日)は砂糖、菓子、あげ、ホ(こ)んにゃく、豆腐、雑魚、酒、生ぶし・・餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
昭和3年2月閏(新暦4月5日)は砂糖、菓子、あげ、こんにゃく、豆腐、雑魚、さし雑魚、ゆば、清酒、生ぶし、酢、餅米、白米、大豆、小豆、醤油、野菜。
ここで先ほどの講中の日程と一致したのである。
その後の昭和5年6月閏(新暦4月24日)、昭和8年育閏(新暦5月17日)、昭和11年3月閏(新暦4月26日)、昭和13年7月閏(新暦4月10日)、昭和16年7月閏(新暦4月27日)、昭和22年2月閏(新暦3月27日)まではほぼ変わらない献立だったが、昭和59年の4月29日では大きな変化が見られる。
マグロ、たこ、紋交いか、かますご、えび、みがきにしん、すし、砂糖、高野トーフ、きうり、茄(なすび)、南瓜、焼豚、ウインナ、菓子、キャラメル、豆腐、す揚、厚揚、こんにゃく、清酒、ビール、酢である。
その後の記帳はなく平成10年は4月29日に飛んでいた。
献立はパック詰め料理や寿司盛りに移り替っていた。
なお、前述した昭和38年3月31付けの谷脇文書塔上入費によれば、みそ汁、ひらき、いた、いか、御供用菓子、砂糖、清酒、天ぷら油、キャベツ、りんご、まかろに、マヨネーズ、キウリ、うすあげ、味ノ素とある。
昭和49年4月7日付けでは春雨、しいたけ、キャベツ、菓子、清酒・・・。
昭和51年6月6日は折が20個で魚切り身は20切。
講中によっては時期が前後するが、こうした食材を年代別に並べてみればその変遷が見えてくる。
二つの講中の宿帳に欠損がみられるのは、実際に実施されなかったかも知れないが、昭和の年代の後半ころから新暦の4月29日に固定されたと思われる。
その頃から変革された講中の献立。
いつしかヤドで会食をすることなく料理屋に出かけることになったのであろう。
貴重な両講中の宿帳を拝見させていただき、この場を借りて厚く御礼申しあげる次第だ。
明治三十四年から綴られていた宿帳を拝見した講中はヤドに掛軸を掲げている。
お供えはモチ。
寄り合うのはこの日だけだという。
先ほどまではご飯、モチ、ゴマシオのアズキメシも供えていたと話すK婦人。
60日に一度の庚申講の日は掛軸を回すだけだという。
かつて念仏寺が苣原の庚申講の始まりだったという。
堂寺什物文書に謂れが書いてある文書が見つかったそうだ。
それによればおばあちゃん講がしていたとあるらしい。
どのような意向があったのか定かでないが、五つの垣内の組単位でするようにしたようだ。
出来あがった塔婆、花立て、御供、お神酒などを持って須賀神社に向かう講中。
最初に拝見していた谷脇講中はまだ作業中だった。
接近遭遇する作業場を通り抜けて畑道の近回り。
9時20分、「うちが一番乗りや」と言って庚申塚後方に立て掛ける。
その講中が話すには西脇が塔婆を作っているころだという。
その講中は須賀神社からすぐ近く。
ヤドでは既に塔婆も花立てもできあがった直後だった。
西脇は5軒。
かつては2組の講中があったそうだ。
現在は一つの組になったが解散されたドノシの講中の掛軸とともにヤドに掲げている。
供える御膳は一つ。
ご飯の椀にサトイモ、アスパラガス、ニンジンの煮もの椀、豆の椀、ワカメとカマボコの吸い物椀と香ものの五つの椀だ。
当講中には文書はない。
記録は掛軸を仕舞っている箱の蓋に書いてあるという。
「大正九年八月弐拾弐日 箱寄附者 ○○○○」と記されている。
Kさんのおじいさんにあたるそうだ。
西脇の塔婆願文はその蓋に書かれてある見本通りに書かれる。
「奉供養 造立南無青面金剛童子 祈祷天下泰平五穀成就 万民豊楽講中家内安全諸願満足 宿 ○○○○」である。
そこには宿の当主名も書かれる。
揃ったところで出発する講中も出来あがった塔婆、花立て、御供、お神酒などを持って須賀神社に向かう。
須賀神社が存在する地は薬師堂があったとされる。
到着したときには塔婆や花立ての数が増えていた。
中山脇や谷脇も到着していたのであった。
このように苣原では一斉に揃うのではなく、まちまちの時間にやってくるのだ。
それを拝見する西脇の講中。
ちなみに両講中の願文は次の通りであった。
一つは「奉供養 大青面金剛講中 安全五穀成就祈 敬白 時テ 平成二十四年四月二十九日建之 講中宿○○○○」。
もう一つは「奉供養 大青面金剛五穀成就講中家内安全攸祈 ○○○○ 敬白」である。
参ったあとはめいめいの講中はその場で待機する。
そうこうしているうちに同じように東脇もやってきた。
予定より早くできあがった花立て、塔婆などを立てる。
「奉供養 造立南無青面金剛童子 天下泰五穀成就 万民豊楽講中家内安全 天堂延命諸願満足祈祷 平成二十四年四月二十九日 講中宿 ○○○○敬白」である。
苣原は谷脇にもう一つの組がある。
村の講中全員が集まるのは待ってられないと一同揃っての記念撮影会。
赤ちゃん、幼児も入れて47人も勢ぞろい。
解散された庚申塔の前はひっそりと佇む。
それからおよそ5分後。
ようやく到着したもう一つの谷脇講中。
「奉供養 大青面金剛 五穀成就講中安全祈修 平成二十四年四月二十九日 宿主○○○○」の願文を寄せて手を合わせる。
これで6組の塔婆が全て揃った。
庚申トアゲを終えた講中はそれぞれが思い思いのヤドに出かける。
昭和後半から平成にかけて集まっていたヤドでの会食は施設利用になった。
谷脇や中山脇、北脇は福住の福祉センターへ向かう。
一台の迎えの車に同乗して出かけるが部屋はそれぞれだ。
東脇は伊賀上野のかんぽの宿。
私も家族で泊ったところだ。
もう一つの谷脇は多武峰のホテル。
毎年、談山神社の蹴鞠行事を見ているという。
それぞれの講中は出かけていった。
西脇はどうなのかと言えば、今でも講宿の家。
掛軸2幅を掲げた家で会食をされる。
(H24. 4.29 EOS40D撮影)