マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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白土町の興正菩薩叡尊生誕祭

2012年07月24日 12時02分39秒 | 大和郡山市へ
叡尊さんは西大寺中興の祖として広く知られる。

生誕地は大和郡山市の白土町だったとされる。

かつて添上(そうのかみ)郡箕田(みた)ノ里と呼ばれていた地だ。

生まれて800年目。

それを祈念して行われた生誕祭は平成13年だった。

それより以前から行われていた生誕祭は村の住民たちだけで営まれていたようだがはっきりとしない。

804年祭を営まれた平成17年に訪れたことがある。

そのときに聞いた話では15回目だと云っていたことを思い出した。

その年代を数えてみれば平成2年辺りが初回ではなかったろうか。

昨年は叡尊さんが生まれて810年目にあたる。

西大寺執事長の佐伯快勝氏らを招いて盛大に記念祭が行われたそうだ。

叡尊さんは鎌倉時代の1201年~1290年を生きてきた。

享年が90歳だったというから当時としてはそうとうな長命であった。

地元では保存会を立ち上げ、この日も811年目を迎えた22回目の生誕祭を営まれる。

800年祭を迎える前年の平成12年。

西大寺は祈念の2体の叡尊像を造立された。

1体は同寺で、もう1体を生まれ故郷である白土(村)に置くこととなった。

当時は集落南の幹道沿い辺りにしてはどうかと意見もあったが、「それでは雨風に打たれてしまう。地域集落のお寺さんは浄福寺だが、宗派が異なる。同寺には観音堂や薬師堂があるが納めるには狭すぎる。空いていた観音堂の傍にお堂を建てて安置してはどうか」という案がでて収める場が決まった。

お堂の中にはトウ(燈)がある。

村の人たちが寄進したトウである。

その数は100基。

すべてをお堂に並べるには入りきらない。

およそ40(実際は39)基のトウを叡尊像両脇に納めた。

寄進したトウに加えて寄付も募った。

そのお金で叡尊堂を建てたのであった。

そういうことだと話す住民たち。



叡尊像が収められたお堂に入った浄福寺住職が法要をされる生誕祭。

その前にはテントを立てた。

来賓や村の人たちはそこで手を合わせる。

村の行事はこうして始まった。

読経のさなか、次々と参拝者は焼香をされる。

叡尊さんは地域の誇りの人物。

遺徳を偲んで永く守られていくことだろう。

(H24. 5.13 EOS40D撮影)