御湯の神事が始まる1時間ほど前。
設えた八つの湯釜に雑木を寄せて火を点ける。
予め湯を沸かす焚きあげである。
湯釜には刻印が見られる。
「大正十四年七月吉辰 五井堂 鑄物元祖 津田三郎平 鑄之」とある。
八つの湯釜すべてにある刻印であることから一斉に寄進されたのであろうが、寄進者の名はそれぞれだ。
「三輪 檜垣嘉蔵」、「三輪 奥山周隆」、「三輪 岡田熊吉」、「三輪 今西秀三平」、「三輪 池田峯市郎」、「大坂 宇田辰蔵」、「大坂 白羽善太郎」、「大坂 □村嘉安衛」の名が判読できた。
この日に行われる桜井市の三輪恵比須神社の御湯神事。
実に11年ぶりである。
そのときの御湯の作法を撮らせてもらったが、気になっていた湯釜を詳しく知りたくて再訪したのである。
御湯の作法をされるのは巫女さんだが、数年おきに換わるようだ。
この年に作法された巫女さんは11年前に拝見したときとは年齢差がかなりある。
その後に若くなって、一人、一人の顔ぶれは年ごとに換わっていると思われる。
何隣におられた男性曰く、今宮戎神社でも見たと云う巫女さん。
三輪の女性だと思われるが聞き取りはできず仕舞いだった。
湯釜に刻印があった。
「大正十四年七月吉辰 五井堂 鑄物元祖 津田三郎平 鑄之」である。
刻印は八つの湯釜ともすべてが同じであった。
御湯の神事は幣鈴振りから始まった。
最初に座って幣を持つ。
なにやら祝詞のように感じたが、詞章ではなく、なにやら心の中で呟いているように思えた。
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次に、鈴も手にして幣とともに高く揚げて舞う。
いわゆる神楽舞である。
次は皿に盛った塩を湯釜に投入するかと思えば、そうではなく前方に向かってばらまいた。
その量といえばおっとろしいと思えるほどの量である。
頭の髪の毛、衣服どころか、カメラ、レンズが塩まみれになった作法である。
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次は洗い米だ。
それを湯釜に投入する。
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次はお酒だ。
瓶子からとくとくと注いでいく。
八つの湯釜それぞれに入れていく。
その順は前列左から2番目、1番目、3番目、4番目と続く。
後列に移って同じように左から2番目、1番目、3番目、4番目と続いた作法である。
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次は幣を湯釜に入れて右、左、前、後の釜に縁を打つように作法した瞬間に湯を飛ばした。
11年前に拝見したときの作法と同じであるのか、ここら辺りは記憶がない。
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次は柄杓と桶を持ちだして、それぞれの湯釜から湯を汲みあげる。
神前に供えるようだ。
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それからが二本の笹束を手にして湯をしゃばしゃばする。
もうもうと立ち上がる湯煙。
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神さんの勧請、祈りを捧げるような所作である。
そして湯飛ばしに移った。
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いきなり右方向へ、次に左方向へ飛ばしていく作法である。
前方に数回、右、左、・・・何度かして、またもや前方に数回した。
八つの釜をそれぞれ同じように湯飛ばしをされる。
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その回数・量は大和郡山市田中町の甲斐神社で行われた御湯の作法と同じようだと思ったが、「シトギ」はなかったように感じた。
3年前に三輪恵比須神社へ赴任された宮司は大和郡山市小泉町の小泉神社の璒美川勉宮司の兄の娘婿と聞いている。
璒美川宮司家と関係があった三輪恵比須神社。
小泉神社の璒美川家に嫁いだ花枝さん(明治三十二年生)は橿原市十市の出身である。
父方の叔母のなおが巫女として勤めていたのは大神神社(桜井市三輪町)であった。
その叔母が嫁入りした大和郡山市小泉町の藤井家の養女となって、同家から璒美川家に嫁入りしたのである。
叔母から習った御湯や神楽は、花枝さんは璒美川勉宮司婦人の清子さん・妹の明美さんが今尚伝えていたと鹿谷勲が書き記した『ソネッタンの御湯-大和の湯立神楽-』にある。
甲斐神社で行われている御湯の作法は明治・大正に亘って大神神社で行われていた三輪の作法を引き継いでいたのである。
「大正十四年七月吉辰」に寄進された湯釜から考えるに、理由は判らないが、大神神社から移って三輪恵比須神社で継がれたのでは、と推測されるのである。
田中町甲斐神社の御湯調査をしたときのことだ。
村の人が書き残した『氏子総代と年中行事』を拝見した。
その史料によれば、御湯のことを「湯花神事」と呼んでいたのである。
平成21年に大阪府教育委員会が発刊した『大阪府の民俗芸能-大阪府民俗芸能緊急調査報告書』に4月に行われる大阪府富田林市の佐備に鎮座する佐備神社の春の祭・神楽祭がある。
佐備の神事は午前に式神楽、扇四方拝、大山、胡蝶吾妻、悠久の舞。
午後は四條流包丁道、式神楽、早神楽、御神楽、大海の舞、豊栄の舞、浦安の舞に花湯がある。
この花湯が御湯であって、三輪恵比須神社の御湯の原型だと云われている。
佐備で行われる浪速神楽は、もともといくつかの流派による浪速神楽であったものを、神楽の整備と伝承を目的として大正九年ころに富永正千代氏によって関西雅楽松風会が組織されたそうだ。
富永流は正千代氏から受け継いだ故平炤・太平千代子両氏、さらに娘婿の佐備神社宮司の宮原幸夫氏に受け継がれてきたとされるが、「花湯」は湯を使わずに細かく刻んだ紙を挟んで撒き散らし、湯に見立てた作法である。
湯釜の寄進者に「大坂 宇田辰蔵」、「大坂 白羽善太郎」、「大坂 □村嘉安衛」の名があった。
もしかとすれば、であるが、大阪と何らかの関係があって大正十四年に寄進するとともに御湯の作法も伝えられたかもしれない。
そう思った御湯の神事である。
(H26. 2. 7 EOS40D撮影)
設えた八つの湯釜に雑木を寄せて火を点ける。
予め湯を沸かす焚きあげである。
湯釜には刻印が見られる。
「大正十四年七月吉辰 五井堂 鑄物元祖 津田三郎平 鑄之」とある。
八つの湯釜すべてにある刻印であることから一斉に寄進されたのであろうが、寄進者の名はそれぞれだ。
「三輪 檜垣嘉蔵」、「三輪 奥山周隆」、「三輪 岡田熊吉」、「三輪 今西秀三平」、「三輪 池田峯市郎」、「大坂 宇田辰蔵」、「大坂 白羽善太郎」、「大坂 □村嘉安衛」の名が判読できた。
この日に行われる桜井市の三輪恵比須神社の御湯神事。
実に11年ぶりである。
そのときの御湯の作法を撮らせてもらったが、気になっていた湯釜を詳しく知りたくて再訪したのである。
御湯の作法をされるのは巫女さんだが、数年おきに換わるようだ。
この年に作法された巫女さんは11年前に拝見したときとは年齢差がかなりある。
その後に若くなって、一人、一人の顔ぶれは年ごとに換わっていると思われる。
何隣におられた男性曰く、今宮戎神社でも見たと云う巫女さん。
三輪の女性だと思われるが聞き取りはできず仕舞いだった。
湯釜に刻印があった。
「大正十四年七月吉辰 五井堂 鑄物元祖 津田三郎平 鑄之」である。
刻印は八つの湯釜ともすべてが同じであった。
御湯の神事は幣鈴振りから始まった。
最初に座って幣を持つ。
なにやら祝詞のように感じたが、詞章ではなく、なにやら心の中で呟いているように思えた。
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次に、鈴も手にして幣とともに高く揚げて舞う。
いわゆる神楽舞である。
次は皿に盛った塩を湯釜に投入するかと思えば、そうではなく前方に向かってばらまいた。
その量といえばおっとろしいと思えるほどの量である。
頭の髪の毛、衣服どころか、カメラ、レンズが塩まみれになった作法である。
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次は洗い米だ。
それを湯釜に投入する。
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次はお酒だ。
瓶子からとくとくと注いでいく。
八つの湯釜それぞれに入れていく。
その順は前列左から2番目、1番目、3番目、4番目と続く。
後列に移って同じように左から2番目、1番目、3番目、4番目と続いた作法である。
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次は幣を湯釜に入れて右、左、前、後の釜に縁を打つように作法した瞬間に湯を飛ばした。
11年前に拝見したときの作法と同じであるのか、ここら辺りは記憶がない。
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次は柄杓と桶を持ちだして、それぞれの湯釜から湯を汲みあげる。
神前に供えるようだ。
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それからが二本の笹束を手にして湯をしゃばしゃばする。
もうもうと立ち上がる湯煙。
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神さんの勧請、祈りを捧げるような所作である。
そして湯飛ばしに移った。
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いきなり右方向へ、次に左方向へ飛ばしていく作法である。
前方に数回、右、左、・・・何度かして、またもや前方に数回した。
八つの釜をそれぞれ同じように湯飛ばしをされる。
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その回数・量は大和郡山市田中町の甲斐神社で行われた御湯の作法と同じようだと思ったが、「シトギ」はなかったように感じた。
3年前に三輪恵比須神社へ赴任された宮司は大和郡山市小泉町の小泉神社の璒美川勉宮司の兄の娘婿と聞いている。
璒美川宮司家と関係があった三輪恵比須神社。
小泉神社の璒美川家に嫁いだ花枝さん(明治三十二年生)は橿原市十市の出身である。
父方の叔母のなおが巫女として勤めていたのは大神神社(桜井市三輪町)であった。
その叔母が嫁入りした大和郡山市小泉町の藤井家の養女となって、同家から璒美川家に嫁入りしたのである。
叔母から習った御湯や神楽は、花枝さんは璒美川勉宮司婦人の清子さん・妹の明美さんが今尚伝えていたと鹿谷勲が書き記した『ソネッタンの御湯-大和の湯立神楽-』にある。
甲斐神社で行われている御湯の作法は明治・大正に亘って大神神社で行われていた三輪の作法を引き継いでいたのである。
「大正十四年七月吉辰」に寄進された湯釜から考えるに、理由は判らないが、大神神社から移って三輪恵比須神社で継がれたのでは、と推測されるのである。
田中町甲斐神社の御湯調査をしたときのことだ。
村の人が書き残した『氏子総代と年中行事』を拝見した。
その史料によれば、御湯のことを「湯花神事」と呼んでいたのである。
平成21年に大阪府教育委員会が発刊した『大阪府の民俗芸能-大阪府民俗芸能緊急調査報告書』に4月に行われる大阪府富田林市の佐備に鎮座する佐備神社の春の祭・神楽祭がある。
佐備の神事は午前に式神楽、扇四方拝、大山、胡蝶吾妻、悠久の舞。
午後は四條流包丁道、式神楽、早神楽、御神楽、大海の舞、豊栄の舞、浦安の舞に花湯がある。
この花湯が御湯であって、三輪恵比須神社の御湯の原型だと云われている。
佐備で行われる浪速神楽は、もともといくつかの流派による浪速神楽であったものを、神楽の整備と伝承を目的として大正九年ころに富永正千代氏によって関西雅楽松風会が組織されたそうだ。
富永流は正千代氏から受け継いだ故平炤・太平千代子両氏、さらに娘婿の佐備神社宮司の宮原幸夫氏に受け継がれてきたとされるが、「花湯」は湯を使わずに細かく刻んだ紙を挟んで撒き散らし、湯に見立てた作法である。
湯釜の寄進者に「大坂 宇田辰蔵」、「大坂 白羽善太郎」、「大坂 □村嘉安衛」の名があった。
もしかとすれば、であるが、大阪と何らかの関係があって大正十四年に寄進するとともに御湯の作法も伝えられたかもしれない。
そう思った御湯の神事である。
(H26. 2. 7 EOS40D撮影)